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第四話社印の奥に

Author: 碧めいら
last update publish date: 2026-06-27 07:59:23

「それを承認したのは、俺じゃない」

玲二は動かなかった。戸口に立ったまま、両手をポケットに入れて、わたしの突きつけた紙を見ている。怒鳴りもしない。弁解を急ぎもしない。その落ち着きが、かえって不気味だった。

「社印が押されている」わたしは紙を離さなかった。「氷室グループの決裁印。父のアリバイを葬った文書に。これが、あなたが無関係だという証拠?」

「逆だ」玲二が一歩、室内に入った。「お前は弁護士だろう。なら読め。その印が何を意味するかじゃない。誰がその印を持っていたかだ」

わたしは紙を月明かりにかざした。決裁印の脇に、小さな決裁欄。承認者の名は、にじんで読めない。だが日付がある。七年前。そして役職欄に——「専務取締役」。

「七年前、氷室グループの社印を、専務の権限で押せた人間は」玲二が静かに言った。「俺じゃない。当時の俺は、ニューヨークにいた。経営から外され、兄に疎まれ、グループの中枢から最も遠い場所にいた」

「じゃあ、誰が」

「お前が今夜、世界でいちばん信じている人間だ」

第二話で告げられた名前が、頭の中でこだました。背筋が凍った。

「……嘘よ」

「俺がこのファイルをここに置いていた理由がわかるか」玲二はデスクに近づき、別のページを開いた。「お前に、自分の目で見つけさせるためだ。俺の口から名前を聞いても、お前は信じない。お前はそういう女だ。証拠を、自分の手で握らなければ動かない」彼はこちらを見た。「だから、握らせた」

わたしは、嵌められたのだ。彼の盤面の上で。先に動かされた。

——だが。彼の言っていることは、筋が通っていた。それが、いちばん怖かった。

その夜から、状況は加速した。

三日後。氷室グループの臨時取締役会。総帥・玲二の経営責任を問う動議が、突然、提出された。提出者は、グループの長老格——わたしが、この世でいちばん信じている、あの人だった。

そして玲二は、わたしを会議室に連れていった。「妻」としてではない。弁護人として。

「氷室玲二氏の七年前の海外資産運用には、重大な背任の疑いがある」長老が、書類を掲げた。「これを見れば、取締役諸君も——」

「失礼します」わたしは立ち上がった。会議室の全員が、見知らぬ女を振り返る。「氷室玲二の代理人、弁護士の朝霧——いえ、氷室澪です」

ざわめき。だがわたしは、もう震えていなかった。ここは法廷だ。わたしのフィールドだ。雨の中で婚約者に捨てられた女ではない。七年、この瞬間のために刃を研いできた女だ。

「その背任を裏づける資産記録の原本を、提示していただけますか」わたしは長老を見据えた。「コピーではなく、原本を。なぜなら——」一拍。「あなたが今お持ちのその書類には、七年前、別の人物のアリバイを握り潰すのに使われたのと、まったく同じ偽造の癖があるからです」

長老の顔から、表情が消えた。

たった一瞬。だが、わたしは見逃さなかった。法廷で千回、嘘をつく人間の"その一瞬"を見てきた。

動議は否決された。玲二は、わたしの隣で、初めてかすかに笑った。氷が、ほんの少しだけ溶けるような笑みだった。

「やるな」彼が低く言った。「妻」

「契約よ」わたしは目を逸らした。心臓がうるさいのは、勝利のせいだと思いたかった。

——その夜、ニュースが日本中を駆け巡った。

『氷室グループ前総帥・氷室玲一氏の死、"事故"から一転。実弟・玲二氏を殺人容疑で立件へ』

兄殺し。玲二が、実の兄を殺した容疑で、公然と告発された。

そして、その起訴に立つ検事の名が、画面に出た。

——九条颯太。

わたしを雨の中に捨てた、元婚約者だった。

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  • 7年越しの復讐契約   第十六話法廷の嵐

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  • 7年越しの復讐契約   第十五話実行犯

    公判前夜。わたしは桐生の手帳と父のデータを前に、玲二と二人で盤を組んでいた。二枚は揃った。九条嗣道が父を嵌め、玲一を消した——それを示す書類と、恩師の証言。だが父の声が釘を刺していた。『これだけでは足りない』。九条は自分の名が出る場所に、必ず代理を一枚噛ませる。状況証拠では、あの男は落ちない。落とすには、実行の現場を動かぬ事実で固めなければならない。玲一を崖から突き落とした、その一手を。「颯太だ」玲二が言った。氷の声に戻っていた。「兄を殺したのは、九条颯太。桐生がそう証言する」「証言だけじゃ弱い」わたしは首を振った。「颯太は検事よ。法廷で“桐生の私怨だ”と切り返せば、証言は揺らぐ。物証がいる。颯太があの夜、あの崖にいたという、本人にも消せない事実が」わたしは三年前の、玲一の“事故”の記録を引き寄せた。事故として処理された案件は、捜査が浅い。浅いから、隠し損ねた糸が残る。見つけたのは、一枚の高速道路の通行記録だった。事故当夜、深夜二時。玲一の別荘へ続く唯一のインターを、一台の公用車が通過していた。配車記録上は「九条颯太検事・別件聞き込みのため」。聞き込み先は、現場から車で十分の無人の漁港。深夜二時に、誰に聞き込む。「アリバイの作りすぎね」わたしは呟いた。「颯太は自分が現場の近くにいた事実を、公用の理由で上書きした。七年前、父のアリバイを潰したのと同じ発想で。——でも、上書きは消去じゃない。記録は残ってる」颯太は自分の手口に殺される。父を嵌めたその手口に。「これで三枚」玲二がわたしを見た。「父君のデータ。桐生の手帳。颯太の通行記録。明日、お前は九条家を、親子ごと法廷に引きずり出す」わたしは頷いた。胸の奥が静かに燃えていた。これはもう復讐じゃない。父が果たせなかった、たった一つの仕事だ。その夜、わたしは“保険”をかけた。三枚の証拠の複製を、九条の影響が及ばない場所へ——全国紙三社、日弁連、地方検察庁三箇所へ、時限付きで分散した。わたしが一時間ごとに送る合図が途切れれば、すべてが自動で公開される。法廷でわたしの身に何が起きても、もう止まらない仕組み。完璧だと思った。——朝、わたしのスマホに、一通の通知が届くまでは。『東京弁護士会・綱紀委員会より。弁護士・氷室澪。証拠偽造及び偽証教唆の疑いにつき、本日付で調査を開始する。あわせて、本日の氷室玲二公

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