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【2019年12月】東京都・港区 港区の小さなオフィスビルの一室。コピー機の音、キーボードの打ち込み音、コーヒーの匂い。そうした日常の喧騒の中で、キヨミは黙々と書類を整理し、メールを返信し、会議の議事録をまとめた。 キヨミは派遣先の会社で事務作業をこなしていた。周囲の正社員たちは「派遣さん」と彼女を呼び、特別な会話を交わすことはほとんどない。それでよかった。余計な人間関係は築かなくていい。いずれ必要になるときもあるかもしれないが、少なくとも今のこの場所ではない。 今はただ、人生に目的が生まれた。その目的のために淡々と日々のタスクをこなすだけだ。 就業間際、ギャルっぽい見た目の正社員の女性が、ふとキヨミに話しかけてきた。 「イチノセさん、良かったら今晩、食事にでも行かない? 先輩が奢ってくれるってヨ」 その傍らにいた男性の先輩社員は、ニヤニヤした笑みを浮かべている。営業チームでトップの売り上げを誇る社員だ。仕事はできるが、女癖は悪いと評判である。 キヨミは愛想よく笑みを浮かべながら、「いいえ、結構です。家に夕飯用意してますから」と軽く断った。二人の社員は、明らかに不満そうな表情だ。 「イチノセさんって、夜は何してンの? いつも定時で帰ってるッショ」と、なおも食い下がるように尋ねてくる女性社員。「もしかして……夜の仕事、だったり?」 キヨミは、だが堂々と答えた。「ええ、夜の仕事をしています」意外な答えに、社員の二人は驚いたような表情を浮かべたが、「小説を――官能小説を書いていますね」とキヨミは続けた。 「か、官能小説? へえ、意外……エッチなのとか興味あるンだ?」 と女性社員。キヨミは「まあ、大抵の方は誰だって興味あると思いますが……」と言いながら、「ただ私は、文学的で普遍的なエロスを求めていますから。一瞬の快楽のようなそれとは、今は距離を置いていますね」と、二人の下賤な社員を静かに、しかし明確に拒絶するような言葉を置いた。 スタスタとオフィスを後にするキヨミ。後に残された男性社員が、ボソッと女性社員に言う。 「俺らも、今夜は止めにするか……?」 「何スか先輩。派遣ちゃんと3Pしたいなんて言い出したの先輩ッショ? 交渉はしてやったんスから、その分は払ってもらうっスよ」 「はぁ? 成功報酬じゃないのかよ」 「何言ってん
キヨミはトモヨを、ゆっくりとカーペットの上に倒した。スカートをまくり上げ、ショーツに指をかけ、優しく脱がせる。トモヨの秘部はすでに湿り気を帯びていた。キヨミは指で優しく撫で、クリトリスを刺激する。「あっ……ん……キヨミ……」トモヨの声が甘く響く。キヨミは自分の服も脱ぎ捨て、トモヨの体に覆い被さった。二人は裸で抱き合い、互いの肌を擦り合わせる。キヨミの指がトモヨの膣内にゆっくりと沈み、優しく掻き回す。「はぁ……っ、あっ……」トモヨの腰が自然に動き、キヨミの指を迎え入れる。キヨミもトモヨの胸を揉みながら、唇を重ねた。二人の吐息が混ざり、部屋に甘い空気が満ちていく。しかし、それは激しい情事ではなかった。キヨミはトモヨを傷つけないよう、優しく、丁寧に触れ続けた。トモヨもキヨミの体を撫で、時折キスを返す。やがてトモヨの体がびくりと震え、小さな絶頂を迎えた。キヨミも彼女を抱きしめ、静かに体を重ねた。「あたしも、挿れていい……?」と、恍惚とした表情を浮かべながら言うトモヨ。頷くキヨミの秘部に、トモヨが恐る恐る指を挿れてくる。ぎこちない動き。だけど、ついさっきまではただの同級生だった者同士が「いけないこと」をしているような感覚で、キヨミも妙な興奮を覚えている。トモヨも、こんなことをするために家に呼んだのではないはずだ。料理を振舞って、キヨミが多少なりとも元気になれば、お開きになっていたかもしれない。何が起きているのか。偶然なのか、必然なのか。ただキヨミの膣内をかき回すトモヨの指は、徐々にキヨミの敏感なところを狙い始める。初めてのはずが、的確になっていく。「あっ……んっ……」キヨミがそんな吐息を漏らす度に、「キヨミがあたしで感じてくれてる……もっと気持ちよくなって」と、トモヨ自身も艶っぽい台詞を口にし始めた。「いく……トモヨ、私……っ」「いいよ……キヨミ、いって……あたしで、いって」トモヨのセリフ。あるいはそれは、何かが憑依しているようにも聞こえた。アズサなのか、それとも……ミチコか。「いく……いく、いくっ……あっ……!」ビクビクと、キヨミは体を震わせる。圧倒的な性の感覚と、生の実感が、キヨミの元に戻ってきた。生きている。生きているのだ、私は。「キヨミ……その顔、とても良いよ……ようやく戻ってきてくれたみたい。お帰り」そう
トモヨの胸に顔を埋めたまま、キヨミは長い間、動けなかった。 アズサの死という深い喪失が、まだ胸の奥で疼いている。トモヨはただ、キヨミの背中を優しく撫で続けていた。言葉はいらなかった。二人は抱き合ったまま、時間が止まったかのように静かに過ごした。 やがてトモヨが小さく息を吐いた。 「キヨミ……話したくなかったら何も言わなくて大丈夫だけど、何か辛いことがあったんだね」 トモヨの声は優しかった。キヨミは彼女の胸に顔を押しつけ、静かに息を吐いた。トモヨの心臓の音が、規則正しく聞こえる。その音に耳を澄ませていると、キヨミの体が自然と熱を帯びてきた。 “何も言わなくて大丈夫”――そう言われても、流石に黙ったままではいられない。むしろ伝えたかった。ちゃんと彼女に、今の自分の気持ちを知って欲しかった。 「実は、高校生の頃に交友のあった大事な人が入院することになって。ずっと病院にお見舞いに行ってたんだけど、その最期を看取ることになっちゃった」 「それって、フカミアズサ先輩でしょ」 トモヨの口からその名が出て、驚く。知っていたのか。 「キヨミ……侮らないでよ。あたしだって覚えてるよ。あたしから大切な親友を奪ったあの人のこと。あたしはすっごく苦手だった。正直、死んじゃえば良いのにって思ったこともある。だけど本当に死んでほしいわけはなかった」 やはりトモヨは恨んでいたのだ。だがその気持ちを分かち合うことも、今の二人にとっては必要な工程であることにも気づいた。 「ニュースになってたのも見てた。ただの同姓同名かとも思ったけど、やっぱり間違いないんだね。きっとキヨミも驚いてるとは思ったけど、そうか……最期を、看取ることができたんだね」 トモヨの言葉は温かかった。“看取ることができた”。そんなニュアンスで伝えられるなら、何だかとても尊いことのようにも思える。 キヨミが風俗で働き始めたりなんかしなければ。ユキとして彼女と再会しなければ、知らないうちに亡くなっていたということだってありえる。哀しい結末になりはしたが、再会できたことで、彼女の最期までの短い時間を共に過ごすことができた。 アズサにとってそれは、幸せな時間だったのではないか。東京に出て、男性からの酷い性暴力に遭い、愛する人の子も産めずに、彼が堕ちていく姿を見ながら、やがて彼自身
東京都・渋谷区 メッセンジャーでトモヨから送られてきた住所に向かう。渋谷の奥まった路地に立つ古びたアパート。築50年は経っていそうなレトロな建物で、外壁の塗装はところどころ剥がれ、鉄製の階段が錆びている。 時刻は夕方の5時。初冬の夕日はとうに落ち、辺りは徐々に夜の暗さと静けさに包まれ始めている。キヨミは指定された番号の部屋の前に立ち、息を整えて玄関のベルを押した。 「はーい」 中から明るい声が聞こえ、扉が開くと、エプロン姿で赤い縁の眼鏡をかけたトモヨが顔をのぞかせた。緩く結んだ短めの髪と、チェックのエプロンが可愛らしい。 「あ、キヨミ。早かったじゃん。いま夕飯作ってるところだったよ。入って入って」 一度目の再会で共に外食はしたが、二度目でいきなり部屋に呼ばれることになるとは思わなかった。キヨミは恐る恐る部屋の中に入る。 「狭いアパートでごめんね」 トモヨは笑いながら言ったが、1DKの間取りは女性一人で暮らすには十分な広さだった。リビングはシンプルで、中央には低くて白いテーブルと座布団が2つ置かれており、隅にある本棚には詩集や小説がぎっしり詰まっている。部屋は程よく暖房が効き、キッチンからは美味しそうな匂いが漂ってきた。 「今、煮込みハンバーグ作ってるの。サラダと味噌汁もつけて、簡単な和洋折衷だけど。キヨミ、お肉は食べれそう?」 座布団を勧めながらトモヨが言う 「うん、食欲はある。ありがとう」 キヨミはぼんやりと答えた。脱いだコートを膝に抱え、生気を失ったような顔でただ座っている。トモヨはそんなキヨミの顔を見、小さく息を吐いた。 「なんて顔してるの。ミチコが見たら哀しむよ」 「ミチコ……うん、そうかも」 交通事故で亡くなった親友。アズサとの交際の中で忘れていた存在だ。トモヨは少し寂しげに微笑む。 「……少しは、思い出してくれた?」 キヨミはうなずく。正直なところ、まだ少しだけ霞がかったような感じはあるが。 トモヨがキッチンに戻り、料理が出来上がるまでの間、キヨミは再び追憶に浸った。 盲腸で入院していたトモヨのお見舞いをきっかけに三人での交友が始まったこと。三人で行ったファミレスで、将来の夢について談義したこと。そしてミチコの葬儀の後、二人が交わした約束のこと。 約束――そう、何か約束をしたはずだ。それが何だったのか
【2019年11月】東京都・世田谷区 アズサの葬儀に、キヨミが呼ばれることはなかった。 そもそもアズサの親とは病院ですれ違ったっきりだ。自分の連絡先も伝えていなかったばかりか、向こうは面識すらないという印象かもしれない。わざわざ呼ぼうとも思わないだろうし、仮に呼ばれたとしても、キヨミは断っていたかもしれない。 アズサの実家がある静岡県三島市は、キヨミの地元でもある。里帰りしている心の余裕は、今のキヨミにはなかった。 事件から1ヶ月が過ぎ、11月に入っていた。 キヨミは千歳烏山のアパートで、ただベッドに横たわり、天井を見つめ続けていた。部屋は薄暗く、カーテンを閉め切ったまま、時間の流れすら曖昧になっていた。冷蔵庫の中身もほとんど空になっている。 勤めていた風俗店の方はまだ休業中だった。暴行を受けたホステスが亡くなったのだ。もう再開は難しいかもしれない。 同じ店舗で働いていたホステス仲間は、すでに元の店舗を見限って、他の店舗に移籍したようだ。何気なく歌舞伎町の別の店舗や、吉原、五反田といった別エリアの都内風俗サイトを覗いていたら、彼女たちの宣材写真が載っているのを見つけた。 顔は隠れているし名前も違うが、プロフィールから大体想像できた。中にはまるっきり同じ宣材写真を使っているホステスもいた。固定客を手放したくないのだろう。プロモーションとしてはグレーと言うかアウトに近いが、彼女たちも生きるのに必死なのだ。 キヨミはと言えば、ポスティングの仕事もほとんど手につかなくなっていた。チラシを配る手が重く、道を歩く足取りもふらつく。会社から「最近、配布数が少ない」と注意の電話が来たが、キヨミはただ「すみません」とだけ答えて電話を切った。配るべきチラシの山は、今、部屋の端で積まれたまま埃を被っている。 都会で高額の生活費を払いながら、ほぼ稼ぎのない生活。このままの暮らしが続けば貯金もどんどんなくなっていくだろうが、それがどうしたというのだ。 何のために金を稼ぐのか、何のために生きるのか。アズサ(=ユキ)が死んでしまう前と後で、世界は一変してしまった。 朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、簡単な食事を摂る。それだけのことが、なぜこんなに重いのだろう。鏡に映る自分の顔は、以前よりやつれ、目は虚ろだった。笑おうとしても、唇が引きつるだけ。涙はもう出なくなっていた。た
タナベは複数の看護師を伴って病室に戻るや否や、すぐにアズサの容態を確認した。心拍が急激に低下し、呼吸もほとんど止まっていた。 「心拍停止! 心臓マッサージ開始!」 即座に言い、自らアズサの胸に手を当て、力強く圧迫を始めた。病室は一瞬で緊迫した空気に包まれた。キヨミは壁際に立ち尽くし、息を飲んでその光景を見つめていた。タナベの腕が上下するたび、アズサの体がわずかに揺れる。モニターの警告音が容赦なく部屋に響き渡る。 「アズサ……逝かないで……お願い……」 キヨミはアズサの耳元で、繰り返し呼びかけた。声が震える。タナベは汗を浮かべながらも、必死に心臓マッサージを続けていた。 「フカミさん、頑張って! 戻ってきて!」 しかしアズサの心拍は一向に回復しない。モニターの波形が平坦になり、警告音は高く、鋭く鳴り続ける。 午前2時半をわずかに過ぎたころ。 タナベ医師はゆっくりと手を止め、静かに息を吐いた。 「……死亡を確認します。午前2時32分」 病室に重い沈黙が落ちた。 キヨミは膝から崩れ落ち、ベッドの横にうずくまった。哀しいのに涙が出ない。サイボーグだからか? と考える。やはり感情が欠落しているのかもしれない。あるいは深い絶望の中で、何も考えられなくなっているのか。 ただ、どうしても言わずにはいられないことがあり、キヨミは口を開いた。 「私のせいかもしれません」 「どうしてそう思うんですか?」 点滴などの処理は看護師らに任せながら、タナベが尋ねる。怒る風でも、慰める風でもなく、ただの質問だった。キヨミは震える声で返した。 「実は彼女、12時を過ぎたあたりに一度だけ意識が戻ったんです……そのとき私が、ナースコールを押さなかったから」 タナベは神妙な顔でうなずいた後、静かに説明する。 「なるほど……重体の患者様が亡くなる直前で一時的に回復されるということは、時々あります。きっとフカミさんは、大切なあなたにお別れを伝えたかったのでしょう」 キヨミの目を見つめ、穏やかだがはっきりとした声で続けた。 「脳の腫れが悪化し、脳圧が上昇した結果、呼吸中枢が機能しなくなっていました。そのまま意識が戻ることなく亡くなっていた可能性の方が高いのに、最期にあなたとお話しできたことは奇跡です」 タナベもプロの医師だ。下手に慰めようとして根拠のないことを言ったわ
キヨミの目が見開かれる。頭の中が真っ白になる。アズサはゆっくり顔を離し、キヨミの瞳をまっすぐ見つめた。その瞳は宝石のように輝いていた。 「私たち、恋人同士にならない?」映画のストーリー以上にわけのわからない展開に、キヨミは何も答えられない。ただ熱く残る唇の感触を、どう受け止めれば良いのかわからない。アズサは満足げに微笑むと、再びキヨミの肩を引き寄せ、もう一度、深く長いキスをする。アズサの舌が口の中に侵入し、キヨミの舌に絡んでくる。大人のキスだ。経験したことがないわけではない。ただ、その日初めて会話を交わした者同士でやってよい行為なのか。とっさにキヨミはアズサの体を押しのけた。唇が離
【2010年7月】静岡県・三島市 アズサは、キヨミの前に唐突に現れたわけではない。 むしろ一つ年上のその先輩の存在感は、キヨミが高校に入学したときから常にそこにあった、と言った方が正しいだろうか。 2009年、キヨミがこの市立高校に入学した年、アズサは生徒会長を務めていた。弁論大会では県大会を制し、全国大会でも優勝。さらにその年の秋、とある文芸雑誌の新人賞を高校生ながら獲得し、全国的にその名を轟かせた。 校内放送で名前が呼ばれるたび、廊下ですれ違うだけで後輩たちが息をひそめるほどの存在。学校内で彼女を知らない者はいない、と言えるほどの有名人だった。 そんなアズサが、キヨミに初めて声を
大丈夫、書くと言っても、まったくゼロから始めるわけではない。取材はすでに済ませてあり、ライターが書いた一次原稿も上がっている。キヨミの仕事は、それを「読んで気持ちよくなる記事」に整えることだ。他人の文章を直すのは、簡単だった。
【2019年1月】東京都・港区キヨミが自分自身を、おそろしく醜悪な存在であると認め始めたのはいつからだろう。まだ純な乙女であるべき中学時代、とある留学生の男子と情事を重ねてからか。その恋は彼の帰国と共に終わりを迎え、深い喪失を味わった。あるいはそれより前、無垢な童女でいた小学生のころ、友達だと思っていた女の子に、アパートの屋上から突き落とされたときからか。藪に落ちたおかげで、奇跡的に大怪我は免れた。原因そのものは、幼少期にありがちな些細な気持ちのズレだった。物事の始まりを思い返してみてもキリがないことは、キヨミ自身もわかっている。ある宗教でも“人間は生まれながらに罪な存在である”と言っ







