LOGIN王太子との婚約破棄を宣告されたその日、エリカは悟る。――ここは前世で読んだ乙女ゲームの世界、そして自分は“悪役令嬢”だと。罪をでっち上げられ、家からも切り捨てられた彼女は、微笑み一つで裁きを受け入れる。「殿下の物語を汚さぬよう、私が退場いたします」――そう告げて追放された彼女を待っていたのは、誰も近づけぬ“精霊王の森”。そこで彼女だけが選ばれ、世界の理を覆す力と、真実の愛に出会う。脚本を壊す悪役令嬢の逆転譚、ここに開幕。
View More聖具庫は静かだった。金具は冷たく、紐は乾いている。割れた鈴は、鳴らないまま、低く脈を打つ。「高さ、このまま」リオンが紐を指の腹で支える。結び目は動かさない。棚の瓶の水面が、半拍遅れて落ち着く。ルシフェルは鈴片の接ぎ目を目だけで追った。胸に手は置かない。呼吸は一定だ。扉の内側で、二人の息がそろう。木目の温度が、指の腹に移る。「……保て」ルシフェルが短く言う。声を強くしない。喉の力を上げずに、場を支える。外の空気は薄い。輪の唸りは遠くに下がって、草の先で止まる。「聞こえる?」私は扉に額を寄せず、口形と息だけで落とす。舌先を湿らせて、音を乗せない。脈が、わずかに返事をした。耳ではなく、指先でわかるくらいの強さ。「……エリカ」内から私の名が落ちる。ためらいはない。息がぶつからない。「うん。ここにいるよ」私は小さく答える。声は立てない。それでも、届く。棚の瓶の皺が一つ消えた。逆鐘は鳴らずに、脈だけを刻む。「名で行こう」リオンが紐を持ち替え、顎で合図する。紐は引かない。支えるだけ。私は喉を使わず、唇の形だけで置く。「ルシフェル」扉の木目が、指先で温かい。間を半拍だけ置いて、内側の声が返る。「……ここに」壁の灯が一つ、白く点いた。小さく、一定。すぐ揺れをやめる。同時に、輪の縁の圧がひと目盛りだけ下がった。私は息を吸い直す。深くは吸わない。肩で止める。「もう一度」間を短くして促す。「エリカ」今度はまっすぐに来る。怖さは混じらない。輪の縁が薄くしぼみ、靴裏のぐらつきが消えた。前のめりの重心が、自然に後ろへ戻る。外の列で、肩が連鎖的に落ちる。柄から指が外れ、戻らない。「隊長、どうします」兵の声は上がらない。距離を崩さず、息だけ問う。「上げない。耳、休めて」ミレイユの声は柔らかい。顔は見せない。剣に手は行かない。「命令は進攻で」「だから、休めるうちに。倒れる前に下がるの」短く、そこで止める。列の重心が、わずかに後ろへ下がった。扉は静かに立っている。私は掌を木目から外さず、熱を確かめる。「前、見て。半拍、落として」内側からリオンの合図。紐はそのまま。圧は上げない。私は名をもう一度、口形で置く。「ルシフェル」「ここに」内側の呼気は乱れな
聖具庫の前はひんやりしていた。金具は指の腹で冷たい。紐は乾いていて、少しざらつく。割れた鈴は、口を閉じたまま黙っている。「ここで合わせよう」リオンが棚の奥から薄い紙を抜いた。角が擦れて、文字はところどころ薄い。“逆”の字だけが、はっきり残っていた。「鳴らすんじゃない」ルシフェルは目を細める。扉の向こうの息が整うのを待って、短く続けた。「黙ってるほうを……揺らす」「うん。じゃあ、俺が紐。君は欠片を」リオンが結び目を一度ほどき、指で撫でて柔らかさを戻す。紐のきしみが小さく逃げる。私は鈴の欠片をそっと持ち上げた。重さはあるのに、冷えは薄い。「待て」ルシフェルの指が私の手首に触れる。脈は乱れていない、という合図。私は顎だけで返す。回廊の灯は二つのまま。聖具庫の奥には古い布と瓶。赤い果実の匂いが、どこかにまだ残っている。「向き、合う?」リオンが言う。私は欠片の縁を、元の鈴の割れ目に並べる。ぴたり、とまではいかない。それでも、口が閉じた形に近づく。「今」ルシフェルの声は短い。三人の呼気が、同じ高さに落ちる。リオンが紐をわずかに引く。私は欠片を、重ねるだけで押さえない。鳴らない。ただ、耳の奥の圧が少しほどけた。棚の瓶の中で水が静かに落ち着く。金具の冷えが、痛くない。「来てる」リオンが低く言う。私はうなずかない。目で受け取る。ルシフェルは鈴から視線を外さず、呼気を浅く切り替えた。「もう一度、合わせる」リオンが合図する。私は欠片の角をほんの少しだけずらす。紐は引かない。維持する。保ったまま、次の呼気まで耐える。空気が一枚、軽くなった。輪の縁に目に見えない段差ができ、息がそこをまたいで流れた。誰も声を出さない。それでも、聖堂全体が小さく息を返した気配だけがある。「道、できた」ルシフェルの目が細くなる。痛みは来ない。彼の肩が、半分だけ落ちる。扉のほうで、木目が静かに温かい。叩かない扉は、そのまま立っている。リオンは掌を一度だけ開閉して、指先の血の通いを確かめた。外は輪の唸り。押し出す音はないのに、言葉は剥がされていく。それでも、今はわずかに通り道がある。「ねえ」私は扉へ近づかず、呼気だけ揃える。「大きな声はいらないよ。ここで、息を合わせよう」外にいる私は、唇を
扉は叩かない。木目は静かに温かい。金具は指先で冷たい。「無事……で、よかった」リオンが低く言う。息は短く区切られている。「そっちこそ。鎧、重くない?」私は笑いに寄せる。声を上げすぎない。ルシフェルは扉の縁に目を置いたまま、私の手首へ指を乗せる。脈は落ち着いている。彼は視線だけで合図した。「離れるな」「離れない。……今は」一瞬だけ、肩が触れた。抱きしめるほどではない。それでも体温は渡る。外気がわずかに揺れて、草の先が伏せた。封声の輪は門の前で薄く唸り、音を剥いでいく。息の音さえ、すぐに浅くなる。「輪を、半歩だけ下げて」リオンが顎で示す。兵の肩が一段下がる。輪は土の上で小さく軋み、位置を譲った。場が整う。誰も座らないのに、席ができた。扉は真ん中に、息の通り道のように立っている。「ねえ……誰も傷つけないで」私は扉の木目を見たまま言う。言い切らずに止める。「私が出るから。……静かに来て」輪の縁から、柔らかい声が届く。姿は見えない。距離は守られている。「声は止めるだけ。痛くしない」女の声だ。落ち着いていて、急がない。「それが一番、痛い時もある」リオンが低く返す。目は前だけを見ている。ルシフェルの指が脈を一度押す。軽い強さだ。止めというより、合図。「待て」私はうなずかない。目で答える。胸の奥で息を折りたたむ。輪の内側で、兵の誰かが柄へ指をかけた。金具がかすかに鳴る。前へ出る筋肉の動きが、空気に混じった。リオンが顎をわずかに落とし、視線だけで前を切る。半拍、落ちる。指が柄から離れる。肩の力が流れた。足音は生まれない。土は柔らかく受ける準備だけをしている。「叩かなくていいよ」私は扉に額を寄せないまま言う。「ここで、呼吸を合わせよう」「壊す前に、読む」輪の向こうで女が小さく言った。紙片を揃えるような、平らな音が一つだけ続く。剣に手は行かない。赤い果実の匂いが、扉の陰でまだ薄く残っている。昨日の灯が、空気の奥で冷めないまま座っている感じ。私は舌の奥で甘さを探さない。「私が行く。……すぐ戻る」「約束」ルシフェルが目を逸らさず言う。手首の脈に触れた指は離れない。「うん。嘘じゃない」扉の木目は温かいまま。輪は半歩後ろで薄く唸り、息を剥いでいる。空
井戸の縁まで戻った。冷えは薄い。手のひらの温度で、石が静かに落ち着く。「言葉、置いていくね。……願いだけ」私が囁くと、ルシフェルは頷き、脈に触れた。指先が軽い。落ち着いてる、という合図だけが伝わる。小さな机から赤い果実を一つとる。爪で浅く入れて、半分に割る。においは甘いのに、喉は乾かない。「半分だけ、落とす」「待て。戻れない感触が来たら、すぐ手を」「うん」片割れを、井戸の面にそっと触れさせる。落ちる音はしない。吸われる。面が、息をひとつだけしたみたいに薄く動いた。赤が灯に変わる。井戸の底から、細い帯が立ち上がる。天の穴へ向かって伸びる。音はないのに、胸の奥が少しあたたかい。「……行った、と思う」「脈、問題ない。ここで止める」彼は果実のもう半分を私の手の中に戻させ、井戸から半歩離した。帯は途切れない。薄く、上へだけ進む。床のひびが静かに呼吸している。私は深く吸わない。肩の高さで止める。「ことば、いらなかったね」「今は、そのほうがいい」天窓の向こうで、細い光が一度だけ瞬(まばた)きをした。街の夕方は、ちょうど灯が入るころだった。露店の上の角灯が揃って、ごく短く明滅する。誰も理由を言わない。けれど、顔が上がる。「今、光……」子どもの声に、親の手が止まる。「風かも。……でも、きれい」笑い声が小さくこぼれて、すぐ戻る。通りはいつもどおりなのに、目の奥だけが明るい。森の縁では、封声の輪の下で列が息を合わせていた。輪は音を剥がし続けている。それでも、空のほうから細い帯が降りてきて、重なりの間に狭い道を作る。「前を見て。半拍、落として」リオンは顎で合図し、目で数える。先頭の兵の足が石に噛んで、膝がわずかに揺れた。握っていた柄が、すべり落ちる。肩の力が抜ける。「今なら……」看視役の騎士が、誰にも聞こえないくらいの声で言う。リオンは目だけで返す。「借りる。戻す時は静かに」輪の内側で、光の細い帯が道になる。音のない道。誰も喋らないのに、進む場所だけがはっきりする。廃聖堂の井戸は、まだ薄く灯っていた。赤い帯は、呼吸に合わせてわずかにゆれるだけで、荒れない。「もう一度は、しない」「うん。半分で十分」果実の片割れは机に戻した。皿が小さく鳴る。私は手のひらを見た。果汁はすでに乾き始めていて、匂いだけが
朝の鐘が、王都ルクシアの屋根をまたいで転がっていく。市場の露店では、パンの湯気と塩魚の匂いのあいだを、噂が駆けた。「見たか、北の空の光柱を」「禁域の森だってよ」「燃えなかったんだ、火なのに」「聖女様が現れたんだ」「いや、魔だ。あんなもの、神のものじゃない」白い石畳を渡って、大聖堂の扉が開く。灰金の髪を背で束ねた司祭セレノが、静かに回廊を進んだ。笑みは薄い、瞳は冷ややかだ。「報告を」侍者が膝をつく。「北の禁域上に光柱。炎は人を焼かず、盗賊を退け、親子を救ったとのことです」セレノはひとつ瞬きし、祭壇の燭台へ視線を移した。「禁域は神の領域。人が踏み入れば、それだけで罪。まして“女
霧の白が、足元でほどけては結び直される。光の粒で描かれた道は、畑の終わりで途切れず、そのまま林へ溶け込んでいた。一本、二本――並木を越えるたび、空気の味が変わる。冷たかったはずの風が、喉の奥で甘い。(ここは……“生きている”)葉は夜露を払い、青銀に光る。触れてもいないのに、枝がするりと避け、私の肩に当たらない。花弁は足音に合わせて開き、音もなく閉じる。雨雲の切れ間から差す光が、霧の中で屈折し、空がわずかに歪んで見えた。からん――鈴の音が、背中ではなく前から聞こえた。歩を止めると、足元を小さな光が走り抜ける。砂粒ほどの輝きがいくつも生まれ、輪を描いて私の周囲を回り始めた。数が増える
夜が明けきらない空の下、王都の外れに馬車だけが置き去りにされていた。御者台には誰もいない。戸板は開いたまま、冷たい風が布張りの座席を撫でていく。石の街道に靴底を下ろすと、薄霧が足首のあたりでほどけた。(ゲームでは、ここで“死亡エンド”だった。 けれど私は、終わらせない)門の方を振り返らない。振り返れば、きっと弱くなる。街道は北へ延び、畑はまだ眠っている。鳥の声はなく、遠くで誰かが薪を割る音が一度だけした。私はフードをかぶり、歩き出す。靴音だけが、世界の音になった。やがて、雨が落ちてきた。最初の一滴は不意打ちだったが、すぐに粒が増え、薄墨色の朝を細かく刺す。私は並木の一本、太い根の
――本日、王太子殿下は婚約の破棄を宣言される。高らかな宣告が、王城の大広間に反響した。磨かれた大理石は冷え、天窓からの光は聖堂じみて白かった。けれど、その光は鎖のように重く、私の足首に絡みつく。(知っている。この光景は、前世で読んだ乙女ゲームの断罪イベント―― そして私は、悪役令嬢の役名でここに立っている)「エリカ・ヴァレンティーナ公爵令嬢」玉座前の壇上に立つレオンハルト殿下が、よく通る声で私の名を切り取った。金の髪が揺れ、勝者の微笑みが群衆の期待を照らす。「王家婚約条章・第十二条に基づき、汝は王家の威信を損ね、国益に疑義を生じさせた。ゆえに、ここに婚約を破棄する」ざわ、という