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第76話

Auteur: るるね
last update Date de publication: 2026-05-12 23:50:23

 悠臣からの気遣うような言葉に、紗月は礼儀正しく応じた。返事はやはり少し遅れてから、控えめに返ってくる。

「……ありがとうございます」

「でもさ、紗月ちゃん。さっき言ったこと、本気だから。ちゃんと考えてから返事してくれよ? せっかくこうして再会できたんだし、俺は昔みたいに、またお紗月ちゃんと仲良くしたいって本気で思ってる。……どうせ慎一、紗月ちゃんのことなんて大して気にしてないんだろ?」

 慎一の前だからこそ、悠臣はわざと最後まで言葉を濁した。

 妙に含みを持たせた声音が、余計な想像を掻き立てる。

 どう返せばいいかわからなかったのか、しばらく間を置いてから、紗月は困ったように小さく笑った。

 電話越しの声からは、悠臣に対する特別な感情など感じ取れない。ただ突然再会した昔の知人へ向ける、ごく普通の社交辞令だった。

「ありがとうございます、御堂くん。まさか今日会うなんて思っていなかったので……少し驚きました。ご提案については……嬉しいです。でも――」

 紗月が続きを口にする前に、彼女が何を言おうとしているのか察した悠臣は、すぐにスマートフォンを手に取り、スピーカーを切った。

 そして、
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  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第152話

     紗月は眉を寄せ、目の前の慎一を見つめた。あまりにも理不尽だと思うのに、言い返す言葉は一つも見つからない。 結局、俯いたまま足早に歩き出したものの、急ぎすぎたせいで玄関先の段差に足を取られそうになった。「危ない」 再び慎一に腕を掴まれる。 今度はただ、紗月を転ばせまいと咄嗟に手を伸ばしただけだった。 彼女の身体をしっかりと支え、体勢が整ったのを確かめると、すぐにその手を離す。 先ほど手を引かれたときも、今こうして腕を支えられたときも、慎一の手は昔と変わらず力強かった。 離されたあとも、その温もりだけが肌の上にかすかに残り、まるで彼の存在を忘れることを許さないように紗月の意識へ静かに触れてくる。 紗月は数歩先まで歩いてから玄関の扉に手をかけ、振り返ることなく、小さな声でぽつりと告げた。「……ありがとう」「気にするな」 背を向けたままだったため、慎一がどんな表情を浮かべていたのかは分からない。 それでも、その声は先ほどまでよりどこか柔らかく聞こえた。何をそんなに嬉しく思っているのか、紗月にはまるで理解できない。 これ以上考える気にもなれず、紗月はすぐに扉を開けると、慎一より一足先に家の中へ入った。 昼寝から目を覚ましたばかりの祖父は、機嫌も悪くなさそうだった。 午後は散歩がてら少し身体を動かそうと思っていたらしく、突然姿を見せた紗月と慎一を目にした瞬間、嬉しそうに顔をほころばせた。「紗月ちゃん! じいちゃんに会いに来てくれたのかい? 何かあったんじゃないだろうね。ほら、こっちへおいで。ちょうど数日前、古い友人から手土産をもらったんだ。甘いお菓子だから、紗月ちゃんもきっと気に入るよ。今持ってきてあげよう」 その視線が慎一へ移った途端、祖父の表情は露骨に曇った。「お前までどうして来た。会社はそんなに暇なのか?」 二人が揃って訪ねてきたことに、このときの祖父はまだ深く考えてはいなかった。 それよりも、紗月が顔を見せてくれたことの嬉しさのほうがずっと勝っていたのだ。 ひとしきり喜んだあと、祖父は心配そうに紗月の顔を覗き込み、そのまま身体へ視線を移した。「紗月ちゃん、まだ身体は痛むのかい? 退院したらここで暮らしなさいって言ったのに、どうしても外で暮らすなんて言い張って……。まったく、この子は少しもじいちゃんを頼ろうとしないんだから」

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第151話

     慎一の声は低く、電話越しだからなのか、その問いかけにはどこかためらいと遠慮が滲んでいた。 けれど今の紗月には、そんな慎一の微かな変化に気づく余裕などなかった。 頭の中は祖父のことでいっぱいだった。「おじいさまに何かあったんですか?」「……」 慎一は答えない。 返ってきたのは沈黙だけだった。その静けさがかえって不安を募らせ、紗月の顔からみるみる血の気が引いていく。「私、今すぐ向かいます」「俺が迎えに行く」「大丈夫です。タクシーで向かいますから」 紗月はそう言ってエレベーターの下行きボタンを押し、到着を待ちながら通話を切ろうとする。 数秒の沈黙のあと、慎一が静かに告げた。「もう下にいる。俺が連れて行ったほうが早い」「え……?」 そう言い残すと、慎一は返事を待つことなく電話を切ってしまった。 紗月は呆然とスマートフォンを見つめる。 オーディション会場へ入る前に見かけた、あの黒い車。ただよく似た車だと思っていた。 それが本当に慎一の車だったなんて。 どうして慎一がここにいるのだろう。 最初から、自分がここでオーディションを受けることを知っていたのだろうか。 次々と疑問が胸に浮かび、オーディションの準備に没頭することでようやく落ち着きを取り戻していた心が、再び静かに揺れ始める。 答えを求める思いばかりが募っていった。 それでも車の前まで来る頃には、その感情を胸の奥へ押し込み、紗月はいつものように冷静さを取り戻していた。 久我はすでに車の外で待っていた。 紗月の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべて後部座席のドアを開く。「奥様、どうぞ」 慎一が相手なら断ることもできた。 けれど、昔から何かと気にかけてくれていた久我にそう言われると、無下にすることはできない。 紗月は困ったように久我を見つめ、小さく息をついて後部座席へ乗り込んだ。 車内へ足を踏み入れた瞬間、慎一と視線が重なる。 慎一はどこかぎこちない表情のまま小さく頷き、すぐに視線を逸らした。 その横顔は、どこか落ち着かない様子にも見えた。「おじいさまは、どうされたんですか」 紗月が尋ねると、慎一は一瞬言葉に詰まり、小さく息をついた。「……着けば分かる」 それ以上は何も語らない。 車は静かに走り出した。 窓の外では見慣れた街並みが一定の速さで流れていく

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  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第147話

     離婚にあたり、慎一が紗月へ渡した財産は、あまりにも多かった。 この先、一生働かなくても何不自由なく暮らしていけるほどの額だった。 紗月は思わず苦笑する。 三年間の結婚生活で、愛情も、望んでいた幸せも、何一つ手にすることはできなかった。 それなのに、離婚した途端、皮肉にも経済的な自由だけは手に入れてしまったのだから。 離婚協議書の内容は、祖父が自ら細かく確認していた。 最初に慎一がどのような条件を提示していたのか、紗月は知らない。 だが祖父はその内容に納得せず、朝倉グループの株式や複数の不動産まで財産分与へ加えるよう求めた。 慎一も異を唱えることはなく、祖父の言葉どおり、弁護士へすべてを書き加えさせていた。 その迷いのない態度を見ても、紗月はそこに愛情や未練を見いだすことはできなかった。 きっとこれは、慎一なりの償いなのだろう。  けれど、その気持ちも時が経てば少しずつ薄れていく。 いつか何も感じなくなれば、慎一はまた昔のように、自分を疎ましく思うようになるだけだ――紗月はそう思っていた。  離婚が成立する前日、紗月は一日かけて荷物をまとめ、家を出た。 新しく暮らすことにしたのは、財産分与で譲り受けた別のマンションだった。 結婚後に暮らしていた家も、そのまま紗月の名義になっている。 あの家には二人で過ごした時間の痕跡が、あまりにも多く残っていた。 慎一が帰ってくることはほとんどなかった。 それでも、家具も、食器も、何気ない景色も、そのすべてが慎一を思い出させた。 もうこれから先の人生で、彼を思い出すきっかけなど、一つも残したくなかった。 そう思った紗月は、迷うことなく引っ越しを選んだ。 引っ越しの日、慎一も家にいた。 梱包された段ボールが次々と運び出されていく様子を黙って見つめながら、長い沈黙の末、慎一はようやく小さく口を開いた。「……無理に引っ越さなくてもいい。この家に住み続けても構わない。お前が嫌なら、俺はもうここへ帰らない」 紗月は一瞬だけ手を止めた。 振り返ることはせず、荷物を整理する手を動かしたまま、静かに首を横へ振る。「大丈夫です。この家は広すぎますし、一人で住むにはもったいないので。……この三年間、私のせいであなたはずっとホテル暮らしでした。これからは、ちゃんと家へ帰ってください。そのほうが、お互

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第3話

     距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第2話

     電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第1話

     朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第7話

     家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。  目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好

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