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第9話

Auteur: 桐谷
彼の返事を待つことなく、私はその場を離れた。

近くのレストランに入り、ひとりで遅い昼食を取った。

ふとスマホを取り出し、部屋に設置してある室内カメラの映像を確認する。

画面の中では、洋一が台所のテーブルに座り、不格好な料理をたくさん並べて、ひたすら私を待っていた。

目の奥が、じわりと熱くなった。

昔の私も、いつもあんな風にして彼の帰りを待っていたのだ。

立場が完全に逆転してしまった今、あの頃の自分がひどく哀れに思えてならなかった。

食事を終え、ショッピングモールをあてもなくぶらついた。

夕暮れが深まり、すっかり夜になってから部屋へ帰った。

洋一の姿はもうなかった。

テーブルの上には、すっかり冷めきった料理だけが残されていた。

かなりの量だった。彼なりに、随分と手間をかけたのだろう。

でも私は一切手をつけなかった。家事代行の人を呼び、残さず全て片付けてもらった。

それ以来、洋一が私の前に姿を見せることはなくなった。

私の生活は少しずつ、本来の穏やかさを取り戻していった。

そんなある夕方のこと。突然、有菜が私の部屋を訪ねてきた。

見る影もなくやつれ果て、まる
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  • 春に別れて   第9話

    彼の返事を待つことなく、私はその場を離れた。近くのレストランに入り、ひとりで遅い昼食を取った。ふとスマホを取り出し、部屋に設置してある室内カメラの映像を確認する。画面の中では、洋一が台所のテーブルに座り、不格好な料理をたくさん並べて、ひたすら私を待っていた。目の奥が、じわりと熱くなった。昔の私も、いつもあんな風にして彼の帰りを待っていたのだ。立場が完全に逆転してしまった今、あの頃の自分がひどく哀れに思えてならなかった。食事を終え、ショッピングモールをあてもなくぶらついた。夕暮れが深まり、すっかり夜になってから部屋へ帰った。洋一の姿はもうなかった。テーブルの上には、すっかり冷めきった料理だけが残されていた。かなりの量だった。彼なりに、随分と手間をかけたのだろう。でも私は一切手をつけなかった。家事代行の人を呼び、残さず全て片付けてもらった。それ以来、洋一が私の前に姿を見せることはなくなった。私の生活は少しずつ、本来の穏やかさを取り戻していった。そんなある夕方のこと。突然、有菜が私の部屋を訪ねてきた。見る影もなくやつれ果て、まるで幽鬼のようだった。彼女はふらつきながら私に近づき、しゃがれた金切り声を上げた。「消えなさい!洋一に、二度と近づかないで!あの人は私のものだと言ったじゃない。なんであんたが奪うの!」私は深く眉をひそめた。まともに相手にするつもりなど毛頭なかった。彼女の体を押し返し、外へ出そうとする。「帰ってください」しかし、その冷たい態度が火に油を注いだのか、有菜は突然発作を起こしたように体を震わせた。そしてそのまま、獣のように私に向かって突進してきた。「返して!あの人は、私のものなの!愛してるって言ってくれた!私だけだって言ったわ!なんでも私に話してくれたじゃない。なんで、なんでまだあんたのことを好きでいられるの!」有菜は突然顔を上げ、私を睨みつけた。その目の焦点は、ぞっとするほど合っていなかった。そのまま、ガラスを引っ掻くような不気味な声で笑い出した。「あの人は、あんたより私のほうを何度も抱いたのよ。だから、私が隣にいるべきなのよ……!」私は強い力で彼女を突き放した。心の底で、どこか哀れみさえ感じながら。「あなた、正気なの?」でも、私の言

  • 春に別れて   第8話

    息が詰まるような長い沈黙が続いた。このまま膠着状態が続くのかと思い始めた、その時。彼は突然、車のロックを解除した。私はドアを開け、外の空気を吸い込んだ。「今日はありがとう。今度、ご飯でも奢るわ」スーツケースを引き寄せ、私は振り返ることなく静かに自分の部屋へと上がった。シャワーを浴びて、髪を乾かし、ふとベランダから下を見下ろした。彼は、まだそこにいた。車の窓を少しだけ開け、煙草を挟んだ指先を、わずかに開いた窓から出している。しばらくの間、その姿は彫像のように動かなかった。私は見なかったことにして、カーテンを引いた。翌日、私は昼過ぎまで深い眠りに落ちていた。午後になり、ゴミを捨てにマンションの下へ降りると、洋一がそこに立っていた。ひどくやつれ、憔悴しきった様子で、両手には食材の入った袋を提げていた。きっと、朝からずっとあそこで待っていたのだろう。私が驚いて立ち尽くしていると、彼が先に口を開いた。「あっ、食材を買ってきたんだ。料理を作ろうと思ってさ。ずっと一緒にやりたいって言ってたこと、これから俺が全部叶えるから」私はその場から動かなかった。「仕事は?」彼は気まずそうに目を逸らした。「その、仕事は……急がないし、俺も……暇だから」私は、自嘲するように薄く笑った。昔、私は泣きながら彼に頼んだ。少しでも一緒にいてほしいと、すがりついて訴えた。でもその度に、「子どもっぽい」「重い」と突き放された。それが今になって、こうして私の後を追いかけてきている。仕事よりも大切なものがあることに、ようやく気づいたのだろうか。遅すぎた。あまりにも。私は顔を上げ、静かに告げた。「いいの。あなたにとっては、仕事の方が大事でしょう。早く戻って」彼は視線の置き場を失い、悔しそうに唇を噛んだ。「違う……ただ、お前のそばにいたいんだ」私が彼を愛してやまなかった頃は、何もかもが私より優先されていた。今更こんな甘い言葉を聞かされても、胸の中にはただ虚無感だけが広がっていく。私が何も言わずにいると、彼は勝手に私の部屋の台所へ入り、かつての私がそうしていたように、不器用な手つきで料理を始めた。手際は決して良くはなかった。ぎこちなく食材を刻みながら、彼は背中越しに続けた。「

  • 春に別れて   第7話

    洋一のもとを去った後、私は遠く離れた街へと向かった。そこでしばらくの間入院し、退院してからは周辺の街を転々と旅して回った。ある日、駅を出た途端にスーツケースのキャスターが壊れてしまった。折れた肋骨がようやく治ったばかりで、重い荷物を持ち上げることはまだできなかった。誰かに助けを求めようかと迷っていると、ふいにスーツケースの重さが消えた。ほっとして、横を向く。「あ、ありがとうございますっ」しかし、相手の顔を確認した瞬間、私の言葉は完全に凍りついた。そこにいたのは、何ヶ月ぶりかに見る洋一だった。彼は片手で私のスーツケースを持ち上げながら、かすかに震える声で言った。「……どう、いたしまして」私は少し間を置いて、激しく波打つ動悸を無理やりねじ伏せた。タクシーを呼ぼうとスマホを取り出し、画面を操作し始める。すると洋一が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。縋るような、弱々しい声で問いかけてくる。「俺を見て……言うことは、何もないのか」私は静かに首を振り、再びスマホへ目を落とした。彼はあわてたように私の前に立ち塞がり、スマホの画面を手で塞いだ。そして、もう一方の手でスーツケースをしっかりと持ち上げる。「どこへ帰るんだ?すぐそこに車を停めてある。俺が送っていく」焦りを滲ませたような、それでいて昔と変わらない広い背中を見つめ、私は小さくため息をついて彼の後を追った。車のそばに立ち、少しだけためらってから後部座席のドアノブに手をかけた。開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに洋一の視線とぶつかった。私はドアノブを指差した。「開かないんだけど」彼の暗い瞳の奥には、数え切れないほどの感情がどす黒い泥水のように渦巻いていた。しばらくじっと私を見つめた後、ようやくロックを解除するカチッという音が響いた。車の中に入ると、彼はもう私を見ようとはしなかった。ただ、静かな声でぽつりと言った。「薫、助手席にはまだ、お前の好きなキャラのシールが貼ってあるんだ」ちらりと視線を向けると、ダッシュボードの隅に少し色褪せたシールが残っていた。几帳面な彼が、例外として許してくれた、私たちのささやかな思い出の一つだった。でも、私は何も言わなかった。ただ今の住所を短く告げて、窓の外の景色へと目を向けた。

  • 春に別れて   第6話

    洋一はそのまま、玄関に立ち尽くしていた。どれだけの時間が過ぎたのかわからなかった。全身が鉛のように固まった。ふと、耳がわずかな音に反応した。廊下の向こうから、軽い足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。息を潜めると、自分の心臓だけが耳障りなほど激しく打っている。振り返りざまに、縋るような声が出た。「薫、戻ったのか。ずっと探して……」しかし、言葉は喉の奥で無様に詰まった。目の前に立つ人物の顔を確認した瞬間、彼の表情が一気に底冷えするような暗さへと沈んだ。「……なんでお前なんだ。ここに何しに来た」有菜は満面の笑みを浮かべながら小走りで近づき、洋一の腕にべったりと絡みついた。「だって、会いたくなっちゃいましたよぉ。私のこと、いつでも来ていいって言ってくれたじゃないですか」洋一は全身を強張らせ、さりげなく腕を引き抜いた。彼女の方へ視線すら向けなかった。「今はまだ、勤務時間中だろう」有菜はあからさまに口を尖らせ、さらにぴったりと彼の肩に寄り添ってきた。その声には、はっきりとした不満がにじんでいる。「えー、いつでも休んでいいって言ったの、社長ですよね?昼も夜も働くなんて、絶対に御免です」そう不平をこぼしながら、有菜は上目遣いで洋一だけを見つめ、わざとらしく自分が穿いているスカートの裾を揺らし、彼の脚に軽く触れさせた。「ねえ社長、このスカート、私に似合いそうじゃないですか?着たら絶対かわいいと思いません?」洋一が疎ましげに視線を上げた瞬間、その表情が完全に凍りついた。彼は有菜の手首を、折れんばかりの力で強く掴み上げた。「誰がそれを着ていいと言った!それは……薫のために買ったものだと、わからないのか!」有菜が痛みに顔を歪め、甘えた声で小さく悲鳴を上げた。「痛っ……社長、痛いです……!奥さんの代わりに、私が試着してみたかっただけなのに……」彼女は力いっぱい振りほどき、手首を押さえた。洋一は数歩後ずさり、その顔をじっと睨みつけた。彼女の存在そのものに、ただひたすらうんざりしていた。有菜はまるで気づいていない様子で、ふと顔を上げると、そばにあったウェディングフォトに目を留め、嬉しそうに歩み寄った。そして写真を手に取り、自分に重ねるようにしてはしゃいでいた。「あ、社長、私たち

  • 春に別れて   第5話

    洋一は病室に飛び込み、室内を見回した。得体の知れない不安が胸に広がる。すぐに踵を返し、廊下を走ってナースステーションの看護師に詰め寄った。声が、自分でも止められないほど震えていた。「この病室の患者は、どこに行ったんですか!」看護師は彼の剣幕に顔を引きつらせて、思わず後ずさった。「お、落ち着いてください」彼女はパソコンの記録をちらりと確認し、続けた。「こちらの患者様はご自分で退院手続きを済まされて、朝一番で退院されましたよ」洋一は息を呑み、掴んでいた手の力をゆっくりと抜いた。全身の血が、一瞬にして凍りついていくようだった。「退院した……あんな体で、どうやって……それに、どこへ……」看護師もひどく困惑しているようだった。「私たちも全力で止めようとしたんです。でも、まったく聞く耳を持っていただけなくて。絶対に行くと言って譲らず、医師でも止められませんでした」洋一は喉を鳴らし、ひきつるように深く息を吸い込んだ。鉛のように重くなった足を引きずるようにして、再び病室に戻る。小刻みに震える手で、ベッドの上に残された離婚届を掴み上げた。目の中から、一切の光が消えていく。なぜ、彼女が去るんだ。なぜ、俺を置いて去ることができるんだ……!拳を握りしめる腕に、青筋が浮き上がった。離婚届を、力任せにぐしゃぐしゃに握り潰す。心の底から湧き上がる乱れを無理やり押さえつけ、彼はすぐに踵を返した。家へ駆け戻り、勢いよく玄関の扉を開け放つ。家の中は、不気味なほど静まり返っていた。彼女の服、彼女の靴、彼女の匂い――薫に関わるものが、家の中から何もかも消え失せていた。まるで最初から、この家に存在しなかったかのように。ただひとつ、リビングの壁には、自分と有菜が写ったあのウェディングフォトだけが、やけに鮮明に残されていた。息が詰まった。洋一はうめき声を上げ、壁からその写真を引き剥がした。空白になった壁を見つめて、彼は初めて気づいた。「ここには……薫と一緒に撮った写真があったのに」薫はいつも、あの場所に飾ってあった写真を大切にしていた。意味などないものだったかもしれないのに、彼女は定期的に埃を払い、それを見つめては満足そうに微笑んでいたのだ。洋一は立ち上がり、取り憑かれたように家の中を隅か

  • 春に別れて   第4話

    電話の向こうに落ちた沈黙のなかで、洋一もようやく異変に気づいたようだった。「どうした?」私は、壁に飾られたウェディングフォトをスマホで撮り、彼に送信した。「ちゃんと見て」再び沈黙が落ちる。やがて、深いため息が聞こえた。「送り先を間違えたんだろう」「間違いですって?じゃあ、有菜とウェディングフォトを撮ったのも間違いだと言うの?」洋一の口調は、少し困ったようだった。「会社に来い。説明する」通話が切れる。私はバッグを掴み、ふらつく足取りで家を出た。胸の奥が、きつく締め付けられた。公私のけじめだと言って、洋一はこれまで、私を絶対に会社へ来させなかった。まさか、その唯一の例外がこんな理由になるなんて、思いもしなかった。エレベーターに乗ろうとしたところで、見知らぬ社員に呼び止められた。「申し訳ありません、外部の方はオフィスに入れません。応接室でお待ちください」私が口を開きかけたその時、有菜が突然姿を現した。彼女は私の腕を引き、強引に中へ連れ込んだ。「大丈夫ですよ、私の知り合いですから」彼女はまるで自分がここの主であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。連れ込まれた部屋で、有菜はグラスに水を注ぎ、私に差し出してきた。「社長は今、会議中です。少しお待ちくださいね」私はそれを受け取ることなく、ゆっくりと部屋の中を見渡した。ソファにはペアのパジャマが無造作に置かれていた。洋一のマグカップも、いつの間にかペアのものに変わっている。デスクの上には、ふたりで手作りしたと思われる小物が並んでいた。思わず、自嘲の笑みが口元を歪めた。結婚してから、私もずっと「一緒に何かを作りたい」と彼に言い続けていた。でも洋一はいつも気乗りしない顔をして、「時間がない」「また今度にしよう」と躱すばかりだった。結局、その願いが叶うことはなかった。今になって、ようやくわかった。彼はただ、「私とは」一緒に何かを作りたくなかっただけなのだ。有菜は私の視線に気づかないふりをして、笑いながら自分の荷物をまとめていた。「誤解しないでくださいね。私と社長は、何でもないんですから。奥さんが傷つくのもわかります。夫婦の時間も少なくて、寂しいんですよね。あとでちゃんと、社長に話しておきますから。でも、社長は体力がありま

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