LOGIN【過去回想】結婚して神崎姓になっても、それは冬弥の妻になったというだけのこと。神崎の女。龍神会の姐御。そんな存在になるのには、それだけでは足りない。一族や組員の者にその力を認めさせなければいけない。冬弥がそれをあやめに説明したことはない。だが、あやめ自身はそれを感じ取って理解しているようだった。(そして、特に気にしてもいないようだ)自分が「奥様」と呼ばれることを気にしない。自分は冬弥の妻なのだから、それで当然という顔をしている。逆に「姐さん」と呼ばれたときのほうが驚く。「映画の中みたい」と呟く姿に、この世界の女じゃないことを理解する。だが、世界は違えど、似た世界の女だったとすぐに分かった。.神崎芸能に所属している狩野智和が女性トラブルを起こした。神崎芸能が力を入れて売り出している若手俳優で、清潔感と爽やかさが売りだった。ブランド戦略はうまくいき、ゴールデン帯の主演ドラマも決まった。大企業がドラマのスポンサーについた。なぜこの時期にトラブルを起こすのかと苛立った。証拠もある。どうにかできないかと思っていたら、あやめがその証拠を見ていた。男性経験も乏しいであろう深窓のお嬢さんに見せるものではない。だが、あやめはあっさりとしていた。それどころか淡々と状況を確認し、本来なら被害者である女性を加害者として見せる形で解決させようとした。「それはそれ、これはこれ」朱雀会のことがある以上、龍神会の資金源である神崎芸能を弱体化できない。だから、なかったことにする。さらにあやめは、狩野智和の有効な使い道について提案してきた。具体的なことは冬弥に丸投げだったが、そういう手を示唆したのはあやめだった。お嬢さんだと思っていた女が、その綺麗な手をどす黒い泥濘へ躊躇なく浸す。その姿に、背筋がぞくりとした。欲情した。「俺は相当怖い嫁を迎えたらしい」女として強く意識してしまったことを誤魔化すため、冗談めかした声音で言った。「光栄です」そう言って微笑む姿は上品だが凄味があり、自分が理想とする『女』そのものだった。 ◇◇◇「冬弥さん」あやめの声に、冬弥は現実に戻った。「お帰りなさい」「ただいま」いつの間にか、この挨拶が当たり前になっていた。「……あやめ?」あやめの顔が横を向いたとき、表情に陰りがあることに気づいた。
【過去回想】記者会見を終えると結婚した実感がわき、その夜は早めに仕事を終えた。いつもならシャワーで済ませる入浴も、湯船に湯をはり、ゆっくりと浸かった。体が解れたところで風呂を終え、軽く体をふいてタオルを腰に巻く。このまま湯上りのビールを楽しもうと思ったところで手が止まった。しばし考え、脱衣所に用意されていた藍色の浴衣に手を伸ばすと羽織り、帯を締める。そして部屋の窓から、置いてあった煙草一式を手に持ち、庭に出る。火照った体に夜風が気持ちよかった。でも、風呂上がりのビールほどではない。それならなぜ。そう思いながら煙草に火を点ける。思い切り煙を吐き出す。気持ちはいいが、やはり風呂上りのビールほどではない。(それでも……)微かに聞こえた玉砂利を踏む音に、冬弥の口持ちが緩んだ。でも顔は向けない。気づかれたと逃げていく。猫耳を生やしたあやめの姿が想像できた。離れたところで足音が止まる。隣ではない。でも、逃げる気がないのは分かる。こちらが気づいていることに、あやめも気づいている。それに。「なんだ?」あやめの視線で頬が焦げてしまいそうだった。「眠れないんですか?」冬弥はあやめに顔を向けた。冬弥が自分が座っている縁側の隣を指さす。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」あやめが迷うのを感じ取ったが、黙っていると隣に腰を下ろした。体の火照りが冷めれば、梅雨の夜らしく湿気た空気がまとわりついてくる。でも吹いてくる夜風は気持ちいい。風呂で大分アドレナリンは落ち着いたが、この瞬間、完全に収まったのを感じた。隣を見ると、あやめが煙草の煙を見ていた。「悪い、煙たいな」「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」「意外とって」
【過去回想】(なぜ、こんな顔をする?)冬弥には分からなかった。「期待を裏切りましたか?」そう言われて、よけい分からなくなった。(期待を、裏切る?)あの早苗に「大物」と評価されるほどなのに。「お前は、柊謙一の娘なんだなと思っただけだ」そう言うと、あやめの顔に表情が戻ってきた。意表を突かれたような表情だったが。「お父様の娘、ですか……?」(なぜ戸惑う?)「違うのか?」「違いませんが……そう言われたことが、あまり、なくて」(あまり社交場には出てこないと言っていたな)言われる機会もなかっただろう。社交界で聞くのは柊さくらの名前ばかりだった。柊あやめと言えば「柊さくらの妹」と姉の付属品のようになっていた。周囲は柊さくらを熱心に進めてきた。社交界の花と言われるほど華やかな存在で、周囲からも“柊家の娘”として認識されている。彼女を妻とすることで柊家の後ろ盾がよく分かる。余りに熱心に進めるから先日柊さくらが参加する会に出席したが、実際に見た瞬間に無理だと分かった。周囲の称賛が必要な女。この女は檻に耐えられないと思った。冬弥が求めていたのは役割を理解し、愚直なほどそれを全うする人物。あの柊謙一のように。「よく似ているのにな」あやめは父親によく似ている。役割を理解し、それを全うしようという意志が言動から見てとれる。「似ていますか?」(ただ、本人は気づいていないようだな)恐らく周囲も。もし自分が柊謙一の後援会の者なら、後継者にはあやめを推す。(柊謙一しか気づいていない、彼の娘)「父子そろって、化かすのに長けている」柊謙一はいつあやめを冬弥のもとに送るつもりだったのか。政治家の信念を継ぐ者がすでに用意されているところを
【過去回想】 『怖くないのか?』言った瞬間、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。冬弥にとって『武力』は必要なもので、必要だから使うもの。暴力ではない。必要でなければ使うことはない。でも、自分の欲や感情の赴くままに暴力を振るうと思われていることも理解している。実際にそういう者もいるから否定できない。「怖いとは、命を狙われることですか? それは怖いですよ。当然です」(……何か違う)勘違いされたなら、そのまま勘違いさせておけばよかった。でも、また気づいたら「そうではない」と否定していた。目の前のあやめは『何を言いたいのか』という顔をしている。冬弥自身も分からなかった。「俺が」何でこんなことを言いたいのか。「極道は怖がられるものだからな」そう言ったら、なぜかあやめは笑った。「怖がられると思っているなら」あやめの目に、愉快がっているような光がちらついたことに冬弥は気づいた。「怖がらせないでください」そう言った。怖がらせるな。快適な檻を用意するといったのはそっちだろう。あやめはそう言ってのけた。「あなたたちを怖がりながら一生を過ごせと言うのですか?」面白がるような余裕も見せて。(一生……か)先ほど自分はこの生活がずっと続くのかと聞いてきたあやめに「死が分かつまで」と答えた。あのときの揶揄うような気持ちが、ブーメランのように自分に返ってきた気がした。それがどこか悔しくて。「お前、変わってるな」そう言うとあやめは首を傾げた。「あなたにとって私は“そう”なのでしょうね」だからコミュニケーションが必要なんだ。そう叱られた気がした。それに気づいて、これがコミュニケーションかと実感したのは仕事に戻ってからだった。
「夕食の準備が整いました」そう言われてきたダイニングには誰もいなかった。「楓様はお風呂で汚れを落としてから来られます。奥様はお客様をお見送りしてからになりますので、少々お時間をいただくかと」「そうか」楓の顔に付着していた絵の具を思い出して冬弥は納得する。あれは着替えだけでは済まない。風呂に放り込まなければ、全力で遊んだ汚れは落ちないだろう。席について室内を見る。広々とした空間。磨き上げられた床。柔らかな照明。そして目の前に鎮座する大きなダイニングテーブル。十人以上が座れる特注品で、来客の多い神崎家には必要な家具だ。合理的に考えれば何も問題はないが、今この瞬間だけは違った。誰も座っていない長い机がやけに空虚に見える。「……テーブルを買い替えるか」言葉にした瞬間、自分で苦笑した。昔も同じことを考えたことがあったからだ。あれは結婚する前日、あやめを連れてきた最初の夕食の席。向かい合わせに座る二人の間にはこの大きなテーブルがあった。◇◇◇ 過去回想 ◇◇◇「私は、この距離感に苦痛を感じます」食事をしている最中、突然そう言われた。冬弥は視線を上げる。そしてテーブルを見た。「テーブルを、もう少し小さいものにするか?」当然の提案だった。距離が問題なら距離を縮めればいい。単純な話だが、あやめは驚いた顔をした。どこか呆れたような、まるで冬弥が何か根本的な勘違いをしているような。数秒後、その表情は諦めたようなものへ変わる。肩から力が抜けたのが見ていて分かった。「冬弥さん、とお呼びしてもよろしいですか?」その言葉に、冬弥は少しだけ目を見開いた。名前を久しく呼ばれていなかった。組では若だし、神崎様や社長が一
屋敷へ戻ると早苗が冬弥を出迎えた。「お帰りなさいませ」「ああ」上着を脱ぎながら冬弥は廊下の奥を見た。普段なら帰宅の気配を聞きつけたあやめが顔を出すことも多いが、今日は姿も気配もない。「あやめは?」「奥様はまだ来客対応中でございます」「まだ女子会中か」「大変盛り上がっておられます」冬弥は小さく息を吐く。龍神会にとって宝であるあやめがいるこの屋敷は、保安上の関係で来ることができる者を限っている。そしてその限られた者たちの中に冬弥の愛人たちがいる。あやめを屋敷の奥に置いておくため、公の場で冬弥の隣に立つのはその愛人たち。だが冬弥の愛人というのはあくまでも名目、実際はあやめが冬弥に貸し与えている彼女の手足である。だからこそ夫の愛人たちとの女子会で盛り上がれる。名目とはいえ【愛人】なので冬弥としては少々複雑であるが、悪いことではないと思っている。むしろ歓迎すべきことだとも思っている。神崎家へ嫁いだ女性たちが最初に失うものの一つが友人関係だからだ。「楓は?」「雪兎と一緒に遊んでいらっしゃいます」「そうか」ならば先に息子たちの顔を見ることにしよう。そう決めて、冬弥は廊下を歩き始めた。屋敷の奥へ向かうにつれ、静かな空気が少しずつ変わっていく。やがて聞こえてきたのは子どもたちの声。「待てー!」「やだー!」楽し気な笑い声。ドタドタと走り回る足音。何かが転がる音。それら音を聞いた瞬間、冬弥は自然と足を緩めた。向かっているのは子ども部屋、正確には遊戯室だが、屋敷の最奥にあるこの大部屋はかつては冬弥の母親の部屋だった。冬弥にとっては長いあいだ決して近づきたい場所ではなかった。子どもの頃の記憶が今も残っている。閉ざされた扉。中から聞こえる女の笑い声と男の囁く声。冬弥は母親に育てられたという経験はない。冬弥の記憶にある限り、母親は常に愛人を部屋に連れ込み、昼も夜も享楽に耽っていた。幼い冬弥はその部屋の前に立ち、扉の向こうにいる母親を待ったことがある。「ちょっと待っていなさい」と言われたから。だが結局は呼ばれることはなかった。母親は男の名前を呼ぶばかりで、冬弥を呼ぶことはなかった。だから冬弥にとって、母親と紐づくこの部屋は軽蔑の象徴だった。(だが――)冬弥は静かに苦笑する。人間というのは勝手なものだ。以前な







