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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 1 - Chapter 10

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1-2 通達された結婚

(ずいぶんと……大胆な縁談だこと)政治と極道。表と裏。それを繋ぐ“楔”として、自分が置かれた。あやめはゆっくりと顔を上げ、改めて神崎冬弥を見た。(受け入れられる相手かどうか、ね)相手が自分を測るのなら、こちらも同じだ。冷たい目。感情の読めない表情。無駄のない立ち姿。どれも変化はないが、あやめの見る目が変わっていた。あやめも神崎冬弥を『対象』として見始めた。だから。(これの奥にあるものを見極めなければならない)危険な男か。利用価値のある男か。それとも。(共存できる相手なのか)あやめは静かに息を整えた。娘としても秘書としても、選択権はあやめにはない。ただ、どう思うかだけはあやめの自由。そしてそれは、一人の人間としての選択。その自覚だけが、胸の奥で確かに熱を帯びていた。.「あやめ」謙一の声に、あやめは反射的に冬弥に頭を下げた。一瞬でも遅れれば、それは礼を欠くことになる。そういう場で生きてきたあやめの、無意識のうちの身体の反応だった。「柊あやめ、です」簡潔に、過不足なく。あやめの名乗りの所作に無駄はない。でも、女としては可愛げはない。それは自覚していた。なぜなら――。「さくらの妹だ」謙一の言葉に、あやめはほんのわずか、表情筋に力を入れる。笑え、と自分に念じた。口角を意識的に持ち上げる。あやめには二歳上に姉がいる。名前は、さくら。さくらは亡き祖母に似て華やかな美しさがあり、社交界でとても人気がある。人を惹きつける明るさ。そして、その場を掌握する女性らしい柔らかさ。さくらは社交の場において自然と人の輪の中心に立つタイプだった。対して、あやめの容姿は謙一に似た。容姿を貶されたことはない。だが、どこか硬質で、近寄りがたい印象を与える容姿をしている。男性が望むものを持たないのか、足りないのか。どちらにせよ、賞賛されることはなかった。周囲はあやめを「あの柊さくらの妹」と認識している。残念そうに。ときには馬鹿にするように。「あのさくらさんの妹なのに」と言わる。望まれる姉。望まれない妹。それは、あやめ自身が一番よく分かっていた。あやめも女だ。女として足りないと言われることに対して、何も思わないことはない。幼い頃はいつも「柊謙一の娘たち」として並べられ、さくらと
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-3 「なぜ私なのですか」

あやめの目の前に置かれた紙には、【婚姻届書】と確かに書かれていた。字は読める。言葉の意味も理解できる。だが、あやめにはそれが現実のものには見えなかった。薄い白い紙。整然と並んだ記入欄。見慣れた役所の書式なのに、どこか現実感がない。まるでドラマの小道具のようだった。(……嘘だわ)いまこの瞬間。あやめは自分の人生ではない何かを、少し離れた場所から覗き込んでいるような奇妙な感覚に陥った。神崎冬弥。目の前に立つこの男が、自分の結婚相手として紹介されているのだということは、理解していた。最初から。神崎冬弥に挨拶するように言われる前から。それでも――「私ではない」と、あやめは思っていた。そう思えていた理由があやめにはあった。一つは政治家『柊謙一』の秘書であること。あやめは『柊謙一』の仕事を支える者としてこれまでやってきた。任されてきた仕事で積み上げた実績もある。政治の世界で役に立っている。その自負が、誇りが、あやめに『自分ではない』と思わせていた。なぜなら、神崎家に嫁ぐということは裏社会と無縁ではいられなくなるということだ。そうなれば政治の世界にはいられない。つまり、いまの立場をすべて手放すことを意味する。(秘書として役に立っているって……)そう信じていた。父にそう認められるよう努力もしてきた。だから否定してほしかった。その願いが、あやめに分からないふりを続けさせた。「これは……何かの、冗談、ですか?」あやめは静かに問いかけた。それに対して謙一の反応は『無』だった。呆れも、怒りも、なにもなく。「冗談でこんなものを用意しない」返ってきた声は冷たく、揺るぎがなかった。逃げ道を断つ声音。「あやめ、お前は神崎家に嫁にいくんだ」決定打だった。あやめの中に残っていた曖昧な余地が、音を立てて崩れた。「お父様っ!」思わず反論の声が上がった。神崎家がただの名家であれば、あやめにここまでの動揺はなかっただろう。神崎家でなければ、柊の姓はなくなっても政治の世界に関われる。神崎家は龍神会の総長家だ。その家に嫁ぐということは、もう政治の世界に立つことは許されない。実態は清濁併せ吞んでいる世界でも、表向きは清い水だけの場所でなければいけない。神崎家の嫁になるということは、これまでとはまったく別の場所へ引きずり込ま
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-4 まだ『柊』

「俺も、望んでいるわけじゃない」不意に低い声が割り込んできた。あやめが視線を向けると、神崎冬弥が初めて口を開いていた。「随分と俺との結婚を嫌がっているようだが――これは両家にとって必要な結婚だ。俺の意思で決めたことでもない」淡々とした声音。感情を抑えた、事実だけを告げる言い方。それはまるで、聞き分けのない子どもを諭すような口調だった。あやめの頬が、かっと熱くなる。反論しようとしたけれど言葉が出ず、悔しくもそのまま口をつぐんだ。「俺の名誉のために言わせてもらうが、俺と結婚するからと言って死ぬわけではない」「それは……」「あやめ」謙一の声が、あやめの言葉を遮った。「この結婚は柊家と神崎家、両家のためだけのものではない」(どういう、こと……?)あやめは政治家ではない。官僚でもない。ましてやスポーツや芸術の世界で名を成した人間でもない。あやめには柊家に付随するブランドしかない。思考が追いつかない。あやめは謙一の言葉の続きを待った。「二人の結婚は、日本の安全のために必要な結婚なんだ」日本の安全。あまりにも大きすぎる言葉に、あやめの思考が止まる。あやめは謙一の顔を見た。そこにあったのは完全に『政治家』の顔だった。情も迷いもない。ただ、目的のために手段を選ぶ目。「朱雀会が動いている」その一言であやめは理解した。朱雀会。関西を拠点とする新興勢力。既存の秩序を無視し、急速に拡大している表でも裏でも異質な存在。「龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」あやめは、言葉を失った。それは、龍神会と朱雀会の間で起きる『抗争』への準備。遠いはずの世界が急速に現実味を帯びて迫ってきた。音もなく、黒い口を開けて。(私は……)東京の裏と表を一枚岩にするための存在。つまり、龍神会と朱雀会の抗争の中心に立たされることになる。(それに、これはもう『決定』している)それならば、逃げ場はもうどこにもない。.謙一に差し出された婚姻届に冬弥が静かにペンを走らせていく。さらさらと、紙の上を滑るインクの音だけが部屋に響いていた。少し右上がりの癖はあるが整った筆致。無駄のない、迷いのない文字。裏社会の頂点に立つ男とは思えないほど端正で――どこか几帳面さすら感じさせた。その
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-5 物騒なプロポーズ

「朱雀会はルール無視で戦争をしかけてくる。ルールの範囲内で動いて対抗するのはもう限界だ」婚姻届を書いている途中。冬弥の声が頭上から落ちてくる。「だから結婚する。この盤上で龍神会の駒が自由に動くためには、柊謙一の娘であるお前が必要だからだ」とん、と冬弥の指が婚姻届に書かれた【柊】の文字を軽く叩いた。その一文字がまるで重石のように感じられる。「お前がこちらにいる限り、俺たちは自由に戦える。お前がいなければ多くの駒が討ち取られるだろう」駒。さらりと口にされるその言葉の裏にどれほどの命が含まれているのか。想像した瞬間、あやめのは喉の奥がひりつくのを感じた。(……私も、自分のことを“駒”だなんて言っていたくせに)これまで軽い覚悟で口にしていたのだと思い知らされる。この男は本気でそれを理解した上で言っている。逃げ場など最初からない場所に立っている人間の言葉。急に、駒という言葉が重みを持って胸に沈んできた。「私が、クイーンの役目を果たすのですか」かすかに皮肉を込めた問い。だが―――。「違う。お前はキングだ」あやめは驚いた。「キングは、あなたなのでは?」「お前が取られたら、俺たちの負けだって言っただろう?」あまりにも合理的で、冷酷な説明。「負け、たら……」「龍神会が消える。関東の均衡も崩れる。裏だけじゃない。政治も経済も巻き込んで、朱雀会が暴れるだろう」静かな声のまま冬弥は続ける。「日本の安全のため。この結婚の意味は、そういうことだ」あやめは、ゆっくりと顔を上げた。冬弥の目を見る。底の見えない、冷たい黒。だがそこには、揺るぎない現実があった。「……危ない、のですよね?」あやめは、掠れた声で尋ねた。キング。それは最も守るべき存在であり、同時に最も狙われる存在。「ああ、危ない」否定はなかった。一瞬の迷いもなく、肯定された。「お前のことは龍神会が、俺たちが、最大限の力をもってして守るつもりだ」(……正直な人だ)“守る”とは言わないのは、言えないからだ。約束できないことは、決して口にしない。けれど――「守るつもりだ」と意思だけは示してくれた。その不完全さが現実的で、あやめは妙に信じられる気がした。あやめは体から力が抜けるのを感じた。「私がとられたら、龍神会も終わりですものね」思ったよりも軽く
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-6 永久就職

広くて快適な檻を用意する。檻の中でなら自由にしていい。耳触りのいい部分だけを拾えば穏やかなものだった。実際は『そこから出るな』と、逃げ道を完全に塞ぐ宣告に他ならない。(やはり物騒ね)あやめは内心で小さく息をついた。『柊謙一の娘』というだけでも、十分に狙われる立場だ。そこへ『神崎冬弥の妻』という肩書きが重なる。危険は足し算ではなく、掛け算で膨れ上がる。(できるものなら、ごめん願いたい状況だけれど……)それが叶わないことも、もう分かっている。婚姻届も書いた。逃げ場はない。あやめを逃がす気が、誰にもない。「私に選択肢はないのですよね」問いかけた先は冬弥だった。けれど、答えたのは謙一だった。「そうだ」一切の間を置かない即答。あやめは軽く肩を竦めた。謙一の声音には、迷いも、逡巡も、情もない。すでに答えが決まっている設問に対する確認のような声音だった。(私はこれから戦地に向かうようなものだというのに)それなのに謙一は「行け」と迷わず言う。それが彼が一番に思う日本のためだからだ。(『柊謙一』という政治家はいつだってこうだわ)あらゆる選択を『損得』と『合理』で裁断する。そこに感情が入り込む余地はない。そして一度出した答えは決して揺らぐことはない。(だからこそ優秀なのだろうけれど)父親としては。その言葉は胸の奥に沈んだまま、口には出さなかった。.「婚姻届は明日に提出する。記者会見は明後日だ。準備しておきなさい」あやめが何かを感じ取る前に、話はもう次の段階へと進んでいた。通常業務の延長のようなやりとりだった。「分かりました。それでは予定の調整を――」反射的に口をついて出た言葉。謙一はその続きを手で制して止めた。「それはもうお前の仕事ではない」いままでの行動を躊躇いなく遮られたことに、あやめはを口を噤んだ。「お前には今日から神崎家に行ってもらう。いまこの瞬間から神崎家の人間として振る舞うんだ」いまこの瞬間から。その言葉が静かに、しかし確実に、あやめの人生を切り替えた。「……承知、しました」入籍は明日。でも今この瞬間、あやめは神崎家の人間になった。(お嫁入り……)ほんの一時間前までは影も形もなかった未来だった。あやめの胸の奥で何かがせり上がる。言葉にすれば崩れてしまいそうな様々な感情。悔し
last updateLast Updated : 2026-01-25
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1-7 キングの場所

廊下に出た瞬間、あやめは小さく、しかし深く息を吐き出した。胸の奥に溜まっていたものを少しでも外に逃がすように。(冷房の設定温度が低すぎるのでは?)議員会館の空気はよく管理されているはずなのに、先ほどまでいた部屋の冷気はやけに肌に刺さるものだった。(クールビズはどこへ行ったのかしら)軽口のように、わざと思考を転がしてみる。けれど、そんな冗談めいた考えでは胸の奥に広がる冷えはまったく和らがなかった。むしろ、笑えない自分を突きつけられるだけ。「車を回してある」落ちてきた冬弥の声は相変わらず温度を感じさせない。(この冷え冷えとした感覚はこの人のせいかも)何も言うことなく、あやめは小さく頷いた。.冬弥に続いて議員会館の裏口へ出る。そこには黒塗りの車が静かに待機していた。無駄な主張を一切しない、けれど見る者が見れば分かる類の高級車。艶のあるボディに周囲の景色が歪んで映り込んでいた。 ジャリッ冬弥の履いた革靴がアスファルトの上の砂利を踏んだ音がした。それを合図のように、運転席にいた男が素早く降りてきて、無言で後部座席のドアを開けた。男のその動きに一切の無駄がない。(いつもこうなのね)男はあやめに車へ乗るよう促した。あやめが車内に乗り込むと、男はドアの脇で短く頭を下げた。「鷹見と申します、以後お見知りおきを」低く落ち着いた声。名乗りもまた簡潔だった。扉が外から閉められると同時に、あやめは腰を浮かせて運転席側に移動した。そして、あやめが一息ついたとき――。「え?」すぐそばのドアが開く音がして、あやめは顔を上げる。目の前に立っていたのは、当然ながら冬弥。「なぜ、ここにいる?」「車に乗るように言ったのではなかったのですか?」自分の勘違いだったらしい。そう思ったあやめは車から降りようと、体を浮かせて反対側に行こうとした。あやめが席を空けたところで、乗り込んできた冬弥が「待て」と止める。「そっちに座っていろ、という意味だ」「え?」「なぜ、わざわざ移動した」無意識だ。いつもの癖で運転席側へ移ろうとしていただけ。何も考えずにした行動だった。あやめは答えに困る。冬弥がため息を吐く。「これから、お前は常にそちらに座ってもらう」短く、しかしはっきりとした指示。「でも……」言いかけて、あやめは口をつぐむ。後
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-8 檻の番人

やがて車は都心から少し離れた高台の住宅街へと入り、その奥へと進んでいった。人の気配が次第に遠のく。窓の外からは生活のざわめきが消えていく。整然と並んでいた家々もいつの間にか間隔を広げていた。.「ここだ」高級住宅街の突き当たり。それ以上先へは進ませないとでも言うように道は途切れ、視界を塞ぐように塀が建っている。奥に見える建物の裏手は崖。逃げ道を断ち切るように切り立ったその地形。崖に閉じられた場所に神崎邸はあった。果てが見えない高い塀。空を切り取るように聳え、外界との境界を明確に拒絶している。監視カメラが各所にある。無機質な黒いレンズが、瞬きひとつせずこちらを見下ろしている。その視線に歓迎の色はない。測り、値踏みし、決して逃がさない。鉄の門は重厚だった。黒く鈍い光を放つその表面は、長い年月を経てなお傷ひとつ許さぬ硬質さを湛えている。触れれば体温さえ奪われそうな冷たさを想像させた。その瞬間、あやめは『檻』という言葉を理解した。胸の奥が冷えた。ここに一度入れば自分の意思では外へ出られない。そんな確信にも似た感覚が理由もなく込み上げた。「見慣れた家だが、改めて見るとまさしく“檻”だな」あやめの隣に座る冬弥がそう呟いた。その自嘲めいた声音に、あやめは思わず冬弥の顔を見る。冬弥の横顔にはかすかな皮肉が浮かんでいた。それは、笑い飛ばすような軽さはない。長くそこに囚われてきた者だけが持つ、乾いた諦観の色を帯びていた。. ギッ。重さを感じさせる音を立てながら鉄門がゆっくりと動き始めた。軋む音は低く鈍く、耳の奥に残る。まるで巨大な何かが目を覚まし、口を開くようだった。屋敷の口は動き出してしまえば早く、滑らかに開いていった。逃げ場を与えぬまま、ただ獲物を飲み込むように。完全に開いたところで車は中へと進んでいった。門をくぐった瞬間、外の空気が切り離された気がした。背後で門が閉じる。隔離された。そんな錯覚にあやめは無意識に息を詰めた。.車が進む横は広い庭だった。計算され、きれいに整えられた植栽。一分の隙もなく整えられたその美しさからは自然の息遣いを感じられない。人の手によって矯正された秩序を感じさせる。進んだ先にあったのは、歴史を感じるのに古びたところが一切ない大きな建物。時間すら統制されているのか
last updateLast Updated : 2026-01-25
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1-9 誰かのための部屋

「奥様のお部屋は、こちらです」早苗の声は柔らかかった。だが、そのよく通る声音には命令に慣れた者特有の響きがあった。その後ろ姿を追っていたあやめは、不意に隣の気配が消えたことに気づいて足を止めた。振り返る。「奥様?」あやめの視線の先には、少し離れたところで立つ冬弥。冬弥は何も言わない。「奥様?」不思議そうに声をかけたのは早苗だった。あやめは冬弥の視線を受け止める。行っていいのか、目でその許可を求める。冬弥は小さく頷いた。それだけで十分だった。「ごめんなさい。案内を続けてもらえますか?」あやめは再び前を向くと早苗の後を追った。.(なるほど檻の中では、自由にしていいということね)柊謙一の執務室を出てからここに至るまで、冬弥は一度もあやめの傍を離れなかった。まるで監視するように。あるいは守るように。この屋敷の奥に足を踏み入れた途端、冬弥はあっさりとあやめから距離を取った。ここが“檻の中”だからだ。そう考えれば妙に納得がいく。逃げ場のない場所では見張る必要すらない。そう結論づけたあやめは、背後から静かに、しかし途切れることなく注がれていた冬弥の視線に気づかなかった。.長い廊下だとあやめは感じた。磨き上げられた床板は足音をほとんど立てない。壁に掛けられた掛け軸や調度品はどれも品がよく、主張しすぎないのに確かな価値を感じさせる。曲がり角をいくつも越え、いくつも襖を通り過ぎて――早苗が足を止めた。「こちらです」あやめは来た道を振り返る。(玄関からずいぶん遠いわね)来客を迎えるには不便な場所だと一瞬思い――あやめは思い出す。キング、その意味を。(なるほど)チェスの盤上でキングは奥深く守られる。そう考えれば、これは適切な配置なのだ。.「お入りください」そう言って早苗が襖を開ける。あやめは一歩、部屋の中に足を踏み入れる。――その瞬間。「……っ」あやめの足が、わずかに止まった。畳ではない。足裏に伝わったのはひんやりとした木の感触。(洋間?)意外だった。外観は典型的な日本家屋だったから、部屋は全て和様式だと思っていた。(これは……)部屋の中はまるで別世界だった。広々とした室内。白を基調としたインテリア。整えられたベッド。窓には障子ではなく、淡い藤色のカーテンが柔らかく揺れていた。
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-10 距離感

夕食だと告げられ、早苗によってあやめはダイニングへと案内された。重厚な扉をくぐった先に広がっていたのは、想像以上に広い空間だった。天井は高く、間接照明が柔らかく落ちている。中央に据えられたダイニングテーブルは長く――あまりに長い。食事のための家具というよりも仕事のための机。適度な距離を保ち、身の安全を測る、そのための長さだと感じさせられる。そして、その長いテーブルに用意されていたのは――。「二人分?」ぽつりと、あやめは呟く。二人分だということは、これまでの流れから冬弥との夕食になる。(意外だわ)今日会ったばかりであることを考えれば、和気藹々とした食事風景にはならない。そもそも政略結婚。和気藹々とした時間はもちろん、食事を共にする義理すらない。.「こちらへ」早苗以外の使用人の声に、他にも使用人がいることに気づく。礼儀正しいが、どこか張り詰めた雰囲気がある。にじみ出る極道の雰囲気だが、あやめは気にしなかった。極道であることは分かっていたのだ。むしろ、思ったよりも普通だと思っていた。「ありがとうございます」あやめの礼に使用人は一瞬戸惑いつつも、あやめを席に案内する。扉から遠い上座の席だった。.「遅れてすまない」しばらくすると冬弥がやってきて、あやめの向かい側に座った。自然に視線を交わすには遠く、声を交わすにも微妙な距離があった。(まるで外交会談ね)不本意な言葉を言質として取られないようにするような警戒感を感じ、あやめは内心で苦笑する。夫婦の食卓にしては少々息苦しい。和気藹々は自分も得意ではない。冬弥も得意そうではない。食事が始まる。だが。(食事をした気がしないわ)あやめは食べることが好きだった。忙しい日々の中で唯一気が抜ける瞬間だから。唯一自分らしい時間だから。それが食事の時間であり、食べることはあやめにとって趣味だった。その点、神崎邸の食事に文句は一切ない。運ばれてくる料理はどれも美しく、そして贅沢だった。素材も、盛り付けも、申し分ない。けれど――。(息が詰まるわ)息苦しさのせいか、料理の味付けにまで違和感を覚え始める。不味いわけではない。ほんの僅かな違和感。柊家で慣れ親しんだ味付けとは、方向性が異なる味付けというだけ。濃すぎるわけでも、薄すぎるわけでもない。文句ではない
last updateLast Updated : 2026-01-26
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