Mag-log in廊下に出た瞬間、あやめは小さく、しかし深く息を吐き出した。
胸の奥に溜まっていたものを少しでも外に逃がすように。
(冷房の設定温度が低すぎるのでは?)
議員会館の空気はよく管理されているはずなのに、先ほどまでいた部屋の冷気はやけに肌に刺さるものだった。
(クールビズはどこへ行ったのかしら)
軽口のように、わざと思考を転がしてみる。
けれど、そんな冗談めいた考えでは胸の奥に広がる冷えはまったく和らがなかった。
むしろ、笑えない自分を突きつけられるだけ。
「車を回してある」
落ちてきた冬弥の声は相変わらず温度を感じさせない。
(この冷え冷えとした感覚はこの人のせいかも)
何も言うことなく、あやめは小さく頷いた。
.
冬弥に続いて議員会館の裏口へ出る。
そこには黒塗りの車が静かに待機していた。
無駄な主張を一切しない、けれど見る者が見れば分かる類の高級車。
艶のあるボディに周囲の景色が歪んで映り込んでいた。
ジャリッ
冬弥の履いた革靴がアスファルトの上の砂利を踏んだ音がした。
それを合図のように、運転席にいた男が素早く降りてきて、無言で後部座席のドアを開けた。
男のその動きに一切の無駄がない。
(いつもこうなのね)
男はあやめに車へ乗るよう促した。
あやめが車内に乗り込むと、男はドアの脇で短く頭を下げた。
「鷹見と申します、以後お見知りおきを」
低く落ち着いた声。
名乗りもまた簡潔だった。
扉が外から閉められると同時に、あやめは腰を浮かせて運転席側に移動した。
そして、あやめが一息ついたとき――。
「え?」
すぐそばのドアが開く音がして、あやめは顔を上げる。
目の前に立っていたのは、当然ながら冬弥。
「なぜ、ここにいる?」
「車に乗るように言ったのではなかったのですか?」
自分の勘違いだったらしい。
そう思ったあやめは車から降りようと、体を浮かせて反対側に行こうとした。
あやめが席を空けたところで、乗り込んできた冬弥が「待て」と止める。
「そっちに座っていろ、という意味だ」
「え?」
「なぜ、わざわざ移動した」
無意識だ。
いつもの癖で運転席側へ移ろうとしていただけ。
何も考えずにした行動だった。
あやめは答えに困る。
冬弥がため息を吐く。
「これから、お前は常にそちらに座ってもらう」
短く、しかしはっきりとした指示。
「でも……」
言いかけて、あやめは口をつぐむ。
後部座席の助手席側は、父親の場所だった。
最も重要な警護対象者の座る場所。
それが守る側と守られる側の共通認識。
「言ったはずだ。キングはお前だと」
淡々とした言葉。
だがその一言で、あやめの中の常識が塗り替えられる。
自分が最も重要な警護対象者になったことに違和感しかない。
冬弥も違和感を感じていることには気づいているようだ。
だが、それ以上言葉を重ねなかった。
ただ視線だけであやめをその場所に留めた。
あやめは躊躇い――静かに皺の寄ったスカートの裾を整えて座り直した。
その動きを確認してから冬弥は背もたれに寄り掛かる。
冬弥側のドアも外側から閉められる。
ドアが閉まる音がやけに重く響いた。
鷹見が運転席に戻りエンジンがかかる。
振動がかすかに体へと伝わってくる。
やがて車は音もなく滑るように動き出した。
最初は見慣れた景色だった。
何度も往復した議員会館周辺の道路。
見覚えのある建物、交差点、街路樹。
それらが窓の外を流れていく。
けれど、しばらくすると――風景はゆっくりと変わり始めた。
見知らぬ道。
知らない街並み。
自分の生活圏から確実に遠ざかっていく感覚があった。
(……本当に、戻らないのね)
その実感が静かに胸へと沈んでいった。
「どこへ向かっているのですか?」
沈黙に耐えきれず、あやめは口を開いた。
「神崎の屋敷だ。今日からお前はそこで生活してもらう」
生活。
その言葉がひどく重く響く。
(よくよく考えてみれば……)
「私の荷物はすべて柊家にあります」
ほんのわずかな抵抗のつもりで言った言葉。
だが――。
「お前の荷物は、当面必要と思われるものは先に送ったと聞いている」
即座に返された答えに、あやめは目を見開いた。
(……いつの間に)
自分の知らないところですべてが整えられていた。
拒否も、選択も、あやめが介在する余地がない。
「足りないものがあれば家政婦頭に言え。用意させる」
何でも揃う。
何でも与えられる。
ただし――そこから出る自由だけは与えられない。
「それは至れり尽くせりですね」
皮肉を込めたつもりだった。
けれど、その言葉は車内に落ちたまま拾われることはなかった。
冬弥は何も言わない。
ただ窓の外へと視線を向けたまま。
その横顔はやはりどこまでも無機質で遠い。
沈黙がゆっくりと車内を満たしていく。
エンジンの低い振動音とエアコンの風が回る規則的な音だけが空間を支配する。
外界と切り離された密室のようだった。
(この状況からすでに檻なのだけれど)
ふと先ほどの言葉が脳裏をよぎる。
閉ざされた空間。
ここは広くもなく、息苦しいほどの沈黙で快適ではない。
まさに檻だった。
走り続ける車の中であやめは窓の外へと目を向けた。
流れていく景色は、どこまでも自由に広がっているのに――自分だけが、その外へ出られないような気がした。
【過去回想】記者会見を終えると結婚した実感がわき、その夜は早めに仕事を終えた。いつもならシャワーで済ませる入浴も、湯船に湯をはり、ゆっくりと浸かった。体が解れたところで風呂を終え、軽く体をふいてタオルを腰に巻く。このまま湯上りのビールを楽しもうと思ったところで手が止まった。しばし考え、脱衣所に用意されていた藍色の浴衣に手を伸ばすと羽織り、帯を締める。そして部屋の窓から、置いてあった煙草一式を手に持ち、庭に出る。火照った体に夜風が気持ちよかった。でも、風呂上がりのビールほどではない。それならなぜ。そう思いながら煙草に火を点ける。思い切り煙を吐き出す。気持ちはいいが、やはり風呂上りのビールほどではない。(それでも……)微かに聞こえた玉砂利を踏む音に、冬弥の口持ちが緩んだ。でも顔は向けない。気づかれたと逃げていく。猫耳を生やしたあやめの姿が想像できた。離れたところで足音が止まる。隣ではない。でも、逃げる気がないのは分かる。こちらが気づいていることに、あやめも気づいている。それに。「なんだ?」あやめの視線で頬が焦げてしまいそうだった。「眠れないんですか?」冬弥はあやめに顔を向けた。冬弥が自分が座っている縁側の隣を指さす。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」あやめが迷うのを感じ取ったが、黙っていると隣に腰を下ろした。体の火照りが冷めれば、梅雨の夜らしく湿気た空気がまとわりついてくる。でも吹いてくる夜風は気持ちいい。風呂で大分アドレナリンは落ち着いたが、この瞬間、完全に収まったのを感じた。隣を見ると、あやめが煙草の煙を見ていた。「悪い、煙たいな」「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」「意外とって」
【過去回想】(なぜ、こんな顔をする?)冬弥には分からなかった。「期待を裏切りましたか?」そう言われて、よけい分からなくなった。(期待を、裏切る?)あの早苗に「大物」と評価されるほどなのに。「お前は、柊謙一の娘なんだなと思っただけだ」そう言うと、あやめの顔に表情が戻ってきた。意表を突かれたような表情だったが。「お父様の娘、ですか……?」(なぜ戸惑う?)「違うのか?」「違いませんが……そう言われたことが、あまり、なくて」(あまり社交場には出てこないと言っていたな)言われる機会もなかっただろう。社交界で聞くのは柊さくらの名前ばかりだった。柊あやめと言えば「柊さくらの妹」と姉の付属品のようになっていた。周囲は柊さくらを熱心に進めてきた。社交界の花と言われるほど華やかな存在で、周囲からも“柊家の娘”として認識されている。彼女を妻とすることで柊家の後ろ盾がよく分かる。余りに熱心に進めるから先日柊さくらが参加する会に出席したが、実際に見た瞬間に無理だと分かった。周囲の称賛が必要な女。この女は檻に耐えられないと思った。冬弥が求めていたのは役割を理解し、愚直なほどそれを全うする人物。あの柊謙一のように。「よく似ているのにな」あやめは父親によく似ている。役割を理解し、それを全うしようという意志が言動から見てとれる。「似ていますか?」(ただ、本人は気づいていないようだな)恐らく周囲も。もし自分が柊謙一の後援会の者なら、後継者にはあやめを推す。(柊謙一しか気づいていない、彼の娘)「父子そろって、化かすのに長けている」柊謙一はいつあやめを冬弥のもとに送るつもりだったのか。政治家の信念を継ぐ者がすでに用意されているところを
【過去回想】 『怖くないのか?』言った瞬間、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。冬弥にとって『武力』は必要なもので、必要だから使うもの。暴力ではない。必要でなければ使うことはない。でも、自分の欲や感情の赴くままに暴力を振るうと思われていることも理解している。実際にそういう者もいるから否定できない。「怖いとは、命を狙われることですか? それは怖いですよ。当然です」(……何か違う)勘違いされたなら、そのまま勘違いさせておけばよかった。でも、また気づいたら「そうではない」と否定していた。目の前のあやめは『何を言いたいのか』という顔をしている。冬弥自身も分からなかった。「俺が」何でこんなことを言いたいのか。「極道は怖がられるものだからな」そう言ったら、なぜかあやめは笑った。「怖がられると思っているなら」あやめの目に、愉快がっているような光がちらついたことに冬弥は気づいた。「怖がらせないでください」そう言った。怖がらせるな。快適な檻を用意するといったのはそっちだろう。あやめはそう言ってのけた。「あなたたちを怖がりながら一生を過ごせと言うのですか?」面白がるような余裕も見せて。(一生……か)先ほど自分はこの生活がずっと続くのかと聞いてきたあやめに「死が分かつまで」と答えた。あのときの揶揄うような気持ちが、ブーメランのように自分に返ってきた気がした。それがどこか悔しくて。「お前、変わってるな」そう言うとあやめは首を傾げた。「あなたにとって私は“そう”なのでしょうね」だからコミュニケーションが必要なんだ。そう叱られた気がした。それに気づいて、これがコミュニケーションかと実感したのは仕事に戻ってからだった。
「夕食の準備が整いました」そう言われてきたダイニングには誰もいなかった。「楓様はお風呂で汚れを落としてから来られます。奥様はお客様をお見送りしてからになりますので、少々お時間をいただくかと」「そうか」楓の顔に付着していた絵の具を思い出して冬弥は納得する。あれは着替えだけでは済まない。風呂に放り込まなければ、全力で遊んだ汚れは落ちないだろう。席について室内を見る。広々とした空間。磨き上げられた床。柔らかな照明。そして目の前に鎮座する大きなダイニングテーブル。十人以上が座れる特注品で、来客の多い神崎家には必要な家具だ。合理的に考えれば何も問題はないが、今この瞬間だけは違った。誰も座っていない長い机がやけに空虚に見える。「……テーブルを買い替えるか」言葉にした瞬間、自分で苦笑した。昔も同じことを考えたことがあったからだ。あれは結婚する前日、あやめを連れてきた最初の夕食の席。向かい合わせに座る二人の間にはこの大きなテーブルがあった。◇◇◇ 過去回想 ◇◇◇「私は、この距離感に苦痛を感じます」食事をしている最中、突然そう言われた。冬弥は視線を上げる。そしてテーブルを見た。「テーブルを、もう少し小さいものにするか?」当然の提案だった。距離が問題なら距離を縮めればいい。単純な話だが、あやめは驚いた顔をした。どこか呆れたような、まるで冬弥が何か根本的な勘違いをしているような。数秒後、その表情は諦めたようなものへ変わる。肩から力が抜けたのが見ていて分かった。「冬弥さん、とお呼びしてもよろしいですか?」その言葉に、冬弥は少しだけ目を見開いた。名前を久しく呼ばれていなかった。組では若だし、神崎様や社長が一
屋敷へ戻ると早苗が冬弥を出迎えた。「お帰りなさいませ」「ああ」上着を脱ぎながら冬弥は廊下の奥を見た。普段なら帰宅の気配を聞きつけたあやめが顔を出すことも多いが、今日は姿も気配もない。「あやめは?」「奥様はまだ来客対応中でございます」「まだ女子会中か」「大変盛り上がっておられます」冬弥は小さく息を吐く。龍神会にとって宝であるあやめがいるこの屋敷は、保安上の関係で来ることができる者を限っている。そしてその限られた者たちの中に冬弥の愛人たちがいる。あやめを屋敷の奥に置いておくため、公の場で冬弥の隣に立つのはその愛人たち。だが冬弥の愛人というのはあくまでも名目、実際はあやめが冬弥に貸し与えている彼女の手足である。だからこそ夫の愛人たちとの女子会で盛り上がれる。名目とはいえ【愛人】なので冬弥としては少々複雑であるが、悪いことではないと思っている。むしろ歓迎すべきことだとも思っている。神崎家へ嫁いだ女性たちが最初に失うものの一つが友人関係だからだ。「楓は?」「雪兎と一緒に遊んでいらっしゃいます」「そうか」ならば先に息子たちの顔を見ることにしよう。そう決めて、冬弥は廊下を歩き始めた。屋敷の奥へ向かうにつれ、静かな空気が少しずつ変わっていく。やがて聞こえてきたのは子どもたちの声。「待てー!」「やだー!」楽し気な笑い声。ドタドタと走り回る足音。何かが転がる音。それら音を聞いた瞬間、冬弥は自然と足を緩めた。向かっているのは子ども部屋、正確には遊戯室だが、屋敷の最奥にあるこの大部屋はかつては冬弥の母親の部屋だった。冬弥にとっては長いあいだ決して近づきたい場所ではなかった。子どもの頃の記憶が今も残っている。閉ざされた扉。中から聞こえる女の笑い声と男の囁く声。冬弥は母親に育てられたという経験はない。冬弥の記憶にある限り、母親は常に愛人を部屋に連れ込み、昼も夜も享楽に耽っていた。幼い冬弥はその部屋の前に立ち、扉の向こうにいる母親を待ったことがある。「ちょっと待っていなさい」と言われたから。だが結局は呼ばれることはなかった。母親は男の名前を呼ぶばかりで、冬弥を呼ぶことはなかった。だから冬弥にとって、母親と紐づくこの部屋は軽蔑の象徴だった。(だが――)冬弥は静かに苦笑する。人間というのは勝手なものだ。以前な
そんなことを話しながら駐車場に出て、冬弥は車が変わっていることに気づいた。足を止めて警戒の視線を向けると運転席から鷹見が出てくる。「あやめはどうした?」「今日は女子会だから早苗に交代しろと、若の迎えにいくようにと屋敷を追い出されました」「札束ではち切れそうな財布では危険だからな」冬弥は肩を竦めて応えてみせたが、鷹見が乗ってくることはなかった。再び緊張が走る。「いつもの帰り道に『障り』があるそうです」「……どこの者だ?」「大迫が若にメッセージを送ると」「……メッセージ?」遠回りなやり方に冬弥は眉間にしわを寄せつつもスマートフォンを確認する。「……至れり尽くせりだな」届いたメッセージ添付されていたのは【安全な帰宅ルート】。今だけが安全なだけでなく、今後の安全も考慮して『鉄砲玉』である実行犯を捕らえる方法から、主犯を追い詰める手はずまで懇切丁寧に書かれている。「大迫に連絡して愛人たちに礼を届けるように言っておけ」「樹、組員にこの資料を送れ。鉄砲玉は捕らえて……西にいる主犯については赤羽組に任せる」了承したように鷹見は頭を下げると、冬弥が乗るために車の扉を開けた。「……鷹見に扉を開けられるのは随分と久しぶりだな」「若が結婚された日から、私は姐さんの専属でしたからね」そうだったと思いながら車へ乗り込もうとして、冬弥はふっと笑いを漏らした。「……若?」怪訝そうに樹が見る。「あのときは、ただの箱入りのお嬢さんだと思ったんだけどな」◇◇◇【過去回想】議員会館を歩きながら、冬弥は自分の手を見ていた。先ほど婚姻届に記入をしたものの結婚した実感は何もなく、何かの変化を求めるように冬弥は手を握ったり開いたりしてみた。(俺でこうなのだから、この女は……)父親の仕事部屋に呼び出されて、結婚相手として初対面の男を紹介される。そして婚姻届を書けと迫られ、提出は明日すると聞かされた上に、今夜から嫁ぎ先で暮らせと言えヲ追い出される。(まともな女なら泣き叫んでもおかしくない状況だよな)だが、あやめは泣かなかった。女の涙など面倒でしかない冬弥にとってはいいことだが、冬弥の半歩後ろを遅れることなくついてくるあやめは静か過ぎた。ヒールをはいた足音すら静かだった。(よくグレなかったな、この女)そんな感想が冬弥の脳裏に浮かぶ。龍神会には神