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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 11 - Chapter 20

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1-11 「怖くないのか」

「知る必要があるか?」冬弥の眉間に薄く皺が寄る。「必要だと思っています」あやめはカップを手に取り、視線を落とす。白磁の縁に薄く残る口紅の跡。真っ白な中に異質な赤。(まるで私たちみたい)混ざりきらない存在。だからこそ――。「互いのことを知っていたほうが、コミュニケーションのストレスは減ると思います」「コミュニケーションは必要か?」「必要か、ですか……」小さく息をつく。(価値観が違うならすり合わせるしかない)これまでの経験から得た答えだった。「冬弥さんは、先ほど“足りないものがあれば言え”と仰いましたよね」「言ったな」「私は冬弥さんと違って命令するのが苦手なのです」あやめは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「冬弥さんの“言え”は、私にとって“お願い”になります」冬弥は黙って聞いている。「私はこれからずっと冬弥さんに“お願い”をしていくことになるのです」一度、言葉を切る。理解を待つための間。「そう、なのか?」理解できない。そんなことを気にする必要がない。そう聞こえる冬弥の声音にあやめは苦笑する。「人間性の違いです。良し悪しではなく、違うだけ」視線を上げる。「冬弥さんにとっては“できるかどうか”のようですが、私にできる・できないではなく、“そう”なのです」まっすぐに冬弥を見る。「私はろくに知らない人に“お願い”をすることがとても苦手です」静かに、だが逃げずに。「お願いには見返りが必要になりますから」その瞬間。冬弥がふっと笑った。それは温度のない笑みだった。「なるほど。それでコミュニケーションか」探るような視線があやめをなぞる。「俺は、“お願い”の見返りを求めるつもりはないが?」その言葉の裏にある意味は、あやめにも分かった。思わず笑みが零れた。(こういうところも他の人と変わらないわね)「あいにくですが、そのような見返りは求めておりませんわ」きっぱりと、しかし柔らかく。「それは、求める相手が他にいると?」「そういうことも含めて話し合うのが、コミュニケーションではありませんか?」にこやかに言いながらも、その言葉は冬弥の逃げ道を塞ぐ。冬弥は言葉を失った。沈黙。だが、先ほどまでの冷たい沈黙ではない。考えるための静けさ。やがて。「お前は、怖くないのか?」低く、わずかに揺らいだ声。あやめ
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-12 自分の痕跡

あやめの満足のいく形で夕食が済んだ。仕事に戻ると言う冬弥を見送った後、あやめは充てがわれた部屋へと戻ることにした。ダイニングに来たときは、空腹もあってどこにも寄らなかった。せっかくなので、食後の運動を兼ねてあやめは邸内を散策することにした。早苗に頼むと快く引き受けてくれた。一通り邸内を見て回り、戻ってきたダイニングの扉の前で早苗は立ち止まる。「以上が、本邸の構造になります」早苗の案内簡潔で、無駄がなかった。だから何に邪魔されることなく、あやめは部屋の配置とその役割を理解できた。「この屋敷は、正門から見て手前側が龍神会の本拠地となっております」あやめの背後、玄関のほうを早苗が指し示す。リビングと言うには無機質で、応接スペースと言ったほうがしっくりする部屋があったほう。あちら側は全て龍神会としての場所。神崎家の屋敷であるが、組のための公的な場所という位置づけ。「奥側、ここから先が組長とその御家族、神崎家のプライベートエリアになります」「ここ」と言われて、あやめは足元へ視線を落とした。境界を示すものは何もない。ただ、なんとなくだが空気が違う気がした。人の気配や、漂う緊張感の違いなのだろう。「明確な仕切りはございませんが、このダイニングルームが区切りとお考えください」ダイニングルームは神崎家の者が食事する日常的な場でもあり、組の者を呼んで会食めいたこともするという。あやめはあの長いテーブルを思い出して納得した。(だから、ここで空気が変わるのね)目で見えないのに、ここにあると感じる境界。踏み越える者を選ぶような。選ばれていない者は容赦なく弾き出すような。(これって)やんわりとしているが、線はきっちりと引く雰囲気がある。(冬弥さんみたいだわ)「組員の半分ほどは東側にある建物で生活しております」早苗が指し示した先。いくつもの灯りが点いている建物が見えた。「あの建物は組員の寮と認識してください」「なるほど」「私や鷹見のような年嵩の者は、幾人かこの建物内に部屋を頂戴しております」(思っていたよりも組員との距離は近い)柊家には邸内に使用人や警備員がいるが彼らは通いで、彼らの生活は柊家の外にあった。だが、龍神会の組員の生活は神崎家の内側にある。「早苗さんにお休みはないのですか?」ふと浮かんだ疑問を、あやめはその
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-13 柊謙一の娘

 コンコン。控えめなノックの音。あやめは本から顔を上げた。「どうぞ」あやめの声に応えて扉が静かに開く。早苗だと思っていた。しかし。「失礼する」意外なことに、入ってきたのは冬弥だった。まだスーツ姿だった。ネクタイは外しているが隙のなさは夕食のときと変わらない。風呂に入った自分は浴衣姿で、ラフな格好に居心地の悪さを感じた。「不便はないか?」「ありません」「そうか」短い会話。それで終わるはずだった。だが、冬弥はまだその場に立ったままだ。(まだ、何かあるのかしら?)あやめは小さく首を傾げる。「何か、他に?」沈黙。冬弥からは何か言おうとする気配を感じていた。しばらく待つと。「この部屋は――俺の母親が使っていた部屋だ」冬弥が口にしたのは予想外の言葉だった。あやめは思わず目を見開く。母親。「そう、なのですね」冬弥が何のためにそれを教えたのか分からないため、何を言うべきか分からなかった。だが、沈黙は不自然で、曖昧な相槌になってしまった。「母は俺が十歳のときに死んだ」淡々とした口調。感情はほとんど乗っていない。「それからこの部屋は誰も使っていない」事実を提示する静かな口調。「どうしてこの部屋を私に?」(この部屋に、何か問題があるということ……?)「部屋を変えたほうがよければ――」「いや」冬弥があやめの言葉を遮る。「この部屋を使うように指示したのは俺だ」はっきりと言った。「この部屋は母が使っていたが、ここは……」言葉が途切れた。母親が使っていた部屋。冬弥は、二度そう言った。冬弥はここを『母親の部屋』として語っていない。(つまり……)冬弥の言葉の続きがあやめには予想できた。「檻として作られた部屋、ということですか?」冬弥がパッと顔を上げた。驚きが表情に出ている。いつもの無表情ではない。年相応の、いや、年齢よりも若くみえる表情だった。「どうして分かる」悪戯が成功したような、心が浮き立つ感覚があった。「なんとなくです」あやめは肩をすくめる。確信はなかった。ただ、なんとなく。「この部屋の場所が、ダンジョンの最奥にあるように感じました」軽い感じで言う。「ラスボスの部屋、のような?」沈黙。しばらくすると。「ラスボスの部屋、か」冬弥が小さく呟く。「攻略するのは大変そ
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-14 神崎あやめとして

翌朝。あやめはセットしたアラームが鳴るより先に目を覚ました。眠ったという気がしない。最初に感じたのは、宙に浮いたような現実感のなさだった。(……どのくらい眠れたのかしら)身体は横になっていた。でも、夜の間ずっと意識は浅いところにあって、眠りに沈まなかった気がする。夢を見たような気はする。しかし、その夢の輪郭はすでに消え、指の間から水がこぼれ落ちるように欠片ひとつも掬えない。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んできている。太陽の光は白々しいほどに明るく、容赦なくあやめを現実に連れていく。「んっ」あやめは横になった状態で身体を伸ばしたあと、ゆっくりとした動作で身体を起こした。その動きに合わせるように、昨日の記憶が頭を巡る。父に呼び出されたこと。結婚したこと。この屋敷にきたこと。あの食卓での会話。そして、眠る前の一幕。「私は今日、“神崎あやめ”として人前に立つ」小さく呟く。その言葉は宣言のようであり、自分への確認でもあった。.ダイニングに行こうと、着替えて部屋を出るとそこに早苗がいた。「おはようございます。さあ、こちらへ」挨拶を返す間もなく、あやめは早苗にある部屋へと引っ張っていかれた。部屋に入って驚いた。今日の晴れ舞台に必要なものが揃ってあやめを待っていた。朝食もそこに用意されていた。おにぎりを頬張るあやめを、美容に精通していると紹介された者たちの手が整えていく。髪を梳かして巻き、品よく結い上げて形を作っていく。食事を終えると、それを待ったように肌に触れられる。色を選ぶ彼女たちの目は真剣だ。『神崎あやめ』という役を仕上げることに使命感を感じているようだ。色が決まると、手際よく肌に色が乗せられていく。あやめが自分でやるよりも濃く、しっかりと付けられた陰影が目を印象的に見せる。(舞台の準備みたい)鏡を介して、視線を後ろに向ける。トルソーにかかっているのはフォーマルなデイドレス。白地に繊細な金糸が織り込まれ、品よい豪華さは花嫁衣装のようにも見える。主張しすぎない華やかさ。それでいて確かな存在感を放つ意匠は、正確に格を示している。(これを、冬弥さんが)選んではいないが、似合うと思うと言ったのだから確認くらいはしただろう。あやめの背筋がすっと伸びた。.すべてを整えられ、鏡の前に立ってあやめ
last updateLast Updated : 2026-01-26
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1-15 自由ではなかった

記者会見は滞りなく終わった。冬弥のエスコートで控室に入る。扉が閉まった瞬間、あやめは大きく息を吐いた。記者会見で抱え込んだ熱気を全て吐き出すように。深く、肺が痛いと感じるまで吐き出す。隣で冬弥も同じように息を吐いていることに気づいた。(……同じタイミング)それだけで、あやめの気持ちが少しだけ緩んだ。気が緩むと、今度は疲れが圧しかかってきた。「疲れましたね」「ああ」一拍。「よくやったな」これまで聞いた中で最も柔らかく聞こえる冬弥の声。でも、まるで部下を褒めるような口調。「あなたも」一方的に労われる関係ではない。夫婦なのだから対等だ。「そうだな」冬弥の口角が上がった気がした。そわつく心。男性免疫が低いのだから仕方がないと言い聞かせる。こんな美丈夫ならなおさらだ、と。「え、演技が上手で驚きました」「お前もな」ふたりの視線が合う。そして、同時にふっと笑う。初めて、同じ温度で。同じ重さで、笑った。同時に二人の肩から力が抜けた。◇◇◇夜。神崎邸の廊下は、静まり返っていた。人の気配はある。遠くから、かすかに声が聞こえる。だが、それは抑えられた音で、むしろ静けさを際立たせていた。あやめは一人で屋敷の中を歩いていた。足音を殺しながら。普段なら曲がらない角をあえて曲がる。(……眠れない)瞼を閉じても、頭にまだ残っている記者会見会場の熱気が眠るのを邪魔する。絶え間ない光。押し寄せてくる熱量。囲い込む視線。全てがまだあやめの身体に残り、高ぶった神経が静まらなかった。長い廊下。等間隔の窓と襖。終わりが見えない光景。「檻……自由、か」あやめの呟きが、その先に広がる闇に溶ける。ずっと予感がしている。この結婚で、あやめの何かが奪われる。それは自由だと、あやめはそう思っていた。だが――。(違う。私がそう思いたかった、それだけ)奪われるのは自由ではない。なぜなら、もともと自由はあやめの中にない。身体的に拘束されていたわけではない。それはこれからも同じだろう。ただ、あやめ一人で選べる選択肢がなかった。必ず父親の意向があった。そして、それはこれからも同じ。これからは父親ではなく冬弥の意向になるだけ。それなら何が奪われるのか。冬弥はあやめの何を奪っていくのか。思考があちこちに向か
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-16 自由とは

(……やっぱり)あやめの予想通り、四阿の中にいたのは冬弥だった。眠る前だったのだろうか。藍色の浴衣を着流して、ベンチに腰を下ろして煙草をくゆらせている。「なんだ?」あやめの気配を感じていたのだろう。離れてはいるけれど、拒絶ほどではないところで声をかけられた。あやめは足を止める。「眠れないんですか?」あやめの声に、冬弥はあやめに顔を向けた。聞かれることを予想していたようで、冬弥に驚いた様子はなかった。驚いたのはあやめのほう。冬弥が自分の隣を指さしたからだ。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」それは思いのほか気安い誘いだった。あやめは少し迷ってから冬弥の隣に腰を下ろした。梅雨の夜らしく空気は湿り気を帯びていたが、吹いてくる夜風は冬弥の言う通り気持ちよかった。昼間から張り詰めていたものが少しだけほどけた気がした。ふわりと漂う煙草の香りに気づいた。煙草は未知のものではないが、お嬢様高校から名門女子大へと進んだあやめにとって馴染みのないものだった。いまの日本で煙草は好まれない。でも、個人の嗜好は別だ。政治の世界にいたため公の場では喫煙を好まない立場を取っていたけれど、マナーを守って吸うならば構わないとあやめは思っている。(吸おうとは思わないけれど、この匂いは嫌いではないわ)「悪い。煙たいな」あやめが匂いを嗅ごうと鼻を鳴らしたのを、冬弥は誤解したようだった。「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」確かに昔の映像みたいに狭い会議室に煙が立ち込めるほど煙草を吸うのは嫌だけど、とあやめは心の中でつけたす。そんなあやめを、冬弥はやや呆れた目で見た。「意外とって……まあ、政治家のお嬢さんだからな。周りに喫煙者なんていないか」冬弥の口ぶりだと、冬弥の周りにはゴロゴロと喫煙者がいるように聞こえる。しかし、冬弥の手には携帯灰皿。ここに常設されている灰皿はないらしい。(それにしても、律儀で几帳面だわ)冬弥と携帯灰皿。思いがけない組み合わせに、あやめは煙草をまじまじと見てしまった。「お前、変なところで箱入り娘なんだな」「変なところって……」「朱雀会の奴らに、飴玉やるって言われてもついていくなよ」「ついていきませんよ」冬弥はクッと笑う。煙草を口に咥えて、大きく息を吸った。空に向かって紫煙を吐き出す。冬弥は背
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-17 英雄

自由とは。あやめには自分なりの答えがあった。夜の庭を見つめながら口を開く。「自由とは『選べること』だと私は思います」「選べる?」「はい。選択肢があることと、それを自分で選べること」あやめは自分の指先を軽く見た。「でも、その選択肢が誰かに用意されたなら、それは本当に自由なのか……と、思います」冬弥は何も言わない。ただ、静かにあやめの横顔を見ていた。「だから私は、せめて“選ぶ”ことだけは自分でやろうと思っています」あやめは微笑んだ。「この結婚も、その中のひとつです。選択肢はお父様が用意しました。でも、結婚すると決めたのは私だと思うことにしています」「変な女だな」冬弥は呟く。けれどその声には安堵のようなものが混じっていた。「そう言う冬弥さんは?」冬弥は少し考えて、短く答えた。「俺は……選べる立場じゃない」その言葉は軽く言ったようでいて、重かった。「だから、せめて――」冬弥はそこで言葉を切る。そして、あやめから視線を外した。「なんでもない」言いかけたことにあやめは気づいたが、あえて追わなかった。まだ踏み込む距離にいない。あやめは小さく息を吸った。「それでも後悔しているのは、最善を尽くしきれていないと思っているからではありませんか?」「最善は、尽くしている」「それでも後悔しているのは、最善を尽くしきれていないからです。やるだけやって無理なら仕方がないって思えますもの。やるだけやった自分に失礼ですから、後悔なんてできません」冬弥があやめをまじまじと見る。「選べないなら、冬弥さんが選びやすい選択肢を用意できるように私もお手伝いします」「手伝い?」「あなたと、どう生きるか……私たちは一蓮托生ですから、あなたに暗い顔をされるのは困るのです」家の雰囲気が暗くなるでしょう、と笑うあやめに冬弥は目を見開く。「あなたが選べないなら――」一拍。「私が選びます」あやめは穏やかな声で言い切った。「その代わり、途中で逃げないでくださいね」「……それは、命令か?」「お願い、です」冬弥は一瞬だけ目を細め――そして、ふっと息を吐いた。「厄介な“お願い”だな」「断りますか?」「断れると思うか?」短いやり取り。でも、そこには昼間にはなかった“温度”があった。「……分かったよ」冬弥は小さく呟いた。それが了承なのか
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-18 神崎の女

あやめと冬弥から運転免許証を受け取った鷹見は、婚姻届にそれらを添えて窓口に提出した。(運転免許、持っていたのね)この人も教習所に通ったのかと思いながらあやめが冬弥を見ると、冬弥も自分を見ていることに気づいた。(同じことを考えていそう)そう思いながら、あやめは視線を前に戻す。窓口の職員は、仰々しい様子に怯みつつ受け取る。「えー……」困った様子の職員だったが。「問題は……ありません」第三者による提出ではあったが、夫と妻の両名が同席しているから問題ないと判断したようだ。確認をした書類には受理印が押された。何度か頷いているのは自分を納得させるためかもしれない。「ご結婚、おめでとうございます」この瞬間、あやめは「神崎あやめ」へと変わった。(不思議なくらい実感がないわ)あまりの実感のなさに苦笑してしまった。「おめでとうございます、奥様」立会人として同行してくれた早苗が丁寧に寿いでくれた。祝いごとなので早苗の言葉は正しいのだろう。でも、自分の人生なのに他人の人生を遠くから眺めているような感覚が拭えない。あやめに”おめでとう”の実感はなかった。実感のなさを、戸惑いと感じたのだろう。あら、と早苗が楽しそうに首を傾げる。「やはり、『姐さん』のほうがよかったですか?」早苗の問い掛けは予想外で、あやめは意味を理解し損ねた。遅れて理解をして驚く。「“姐さん”とは、私のことですか?」「はい」早苗があやめを見る。「神崎冬弥の女は、龍神会の『姐さん』しかいらっしゃいません」「姐、さん」あやめは苦笑した。極道の世界では当たり前の言葉だろうが、今までのあやめには縁のなかった言葉。自分が“姐さん”と呼ばれる日が来るとは思っていなかった。だが、ここではそれが“役割”なのだと理解する。そしてそれは――。「お好きなように呼んでください」「分かりました、奥様」あっさりとした返答だった。やはり、これが正解だったらしい。極道の世界はあやめが想像していたものと違った。体育会系のクラブのように上下関係がしっかり決まっていて、下は上に逆らうことはない。だが、上は上に立つ者としてふさわしい態度をみせなければいけない。暴力や金ではなく、風格で人を従わせる。庭番と呼ばれる庭を警備している若い組員たちは冬弥を兄のように慕っていた。冬弥は鷹見
last updateLast Updated : 2026-01-26
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1-19 「俺の妻だ」

ある日の午後、冬弥はあやめを神崎芸能の本社ビルに連れていった。あやめの隣に立つ冬弥は、体に合ったスーツを着ている。高級すぎない品のいい時計が、その太い手首に収まっていた。一流企業の若きCEOの理想像を具現化したような姿だった。ここは龍神会の「表」の顔である大手芸能事務所。裏では龍神会の資金と情報の中枢を担う拠点でもあるらしい。その裏側を見たわけではないから実感はない。でも、あやめは初めて“神崎の女”として立つ場所だと感じていた。.自動ドアが開いた瞬間、空気が変わった。清潔で、整えられた、計算された空間。エントランスには季節の花が飾られ、受付の女性たちは揃いの制服で背筋を伸ばしている。「お疲れ様です」冬弥が一歩踏み出すと、受付の女性たちが一斉に頭を下げた。その動きは、訓練されたもののように無駄がない。視線が集まる。そのほとんどが冬弥に向けられていたが――ほんの一瞬遅れてあやめへと移ってくる。(見られている)早苗のように観察する目ではない。値踏みするような視線だった。あやめが冬弥に相応しいのか測る視線には女の色がある。(モテるのでしょうね)肩書きだけでなく、冬弥は容姿も優れている。冬弥がどれほど人気なのかを、あやめは肌で感じた。.「こちらです」エレベーターへと案内される。専用のカードキーがなければ入れない上層階。静かに扉が閉まると、外の視線が遮断された。「緊張しているか?」冬弥に聞かれた。「少しだけ」あやめは正直に答えた。「でも、嫌な緊張ではありません」不安ではない。身の引き締まるような緊張感だ。「そうか」短い返事。けれど、その声音にはどこか安堵が滲んでいた。エレベーターが静かに上昇する。パネルに表示される数字が一つずつ増えていく。 「ここはうちの表側だ」冬弥が言った。「龍神会の中で一番“普通”に見える場所だな」「普通、ですか」あやめは小さく繰り返した。「だが――」冬弥は一瞬だけ言葉を切る。「ここにいる連中も、全員が龍神会の人間だ」柔らかい空間の裏にあるもの。それをあやめに隠す気はないらしい。(試されているのね) あやめはそう感じた。怖がるか。引くか。それとも――。「ちょうどいいですね」あやめは微笑んだ。「何がだ」「なんとなく、そう感じました」あやめは
last updateLast Updated : 2026-04-02
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1-20 檻の中の一歩

「一つ言っておく」役員専用のエレベーターが静かな振動とともに動き出す。外界と切り離されたような密閉空間の中で冬弥が低く口を開いた。「お前を必要以上に表に出す気はない」一拍。「秘書で済むことは、秘書にやらせる」短く、だが有無を言わせない声音だった。あやめは一拍だけ間を置いてから、にこりと笑って頷く。「はい。私は檻で大人しくしておりますわ」その言い方に冬弥の口元がわずかに緩んだ。「檻には入れる。だが、そこで大人しくしているとは思わないでおこう」「あら」あやめは小さく首を傾げる。「大人しくしていろ、とは言わないのですか?」問いかけは軽やかだが、その奥には冬弥の真意を確かめるような色があった。冬弥は視線を外さず、少しだけ考える。そして、静かに言った。「無理はしないでほしい」意外な冬弥の言葉にあやめは素直に驚く。「これは命令ではない。これは、俺からのお願いだ」冬弥の立場からすれば、あまりにも不釣り合いの言葉だった。命じることに慣れている男が“お願い”という曖昧で柔らかい形を選んだ。その事実にあやめの瞳がわずかに揺れた。守ろうとしている。閉じ込めるためではなく、守れる範囲を定めようとしている。それが、あやめにははっきりと伝わった。――だからこそ。「承知しました」あえてそれ以上は踏み込まず、微笑みで応えた。.エレベーターが目的の階に着いた。静かに扉が開く。そこに広がっていたのは、あまりにも整いすぎた光景だった。一直線に並ぶ男たち。隙のないスーツ、鋭い視線、微動だにしない姿勢。どこかの映画で見たような――否、それよりもずっと現実味のある圧。ここは芸能会社のはずなのに、張りつめた空気は異質だと感じた。神崎芸能。その看板の向こう側に龍神会がある。ここはその二つが交わる場所だった。あやめは息を呑んだが、すぐに背筋を伸ばした。視線を正面に据え、柔らかく、しかし揺るがない微笑を浮かべる。“神崎の女”としてここに立つために。◇◇◇顔合わせは滞りなく進んでいた。あやめの紹介と、結婚の報告。その間、あやめは冬弥の隣で微笑むだけ。それがあやめに与えられた役割。余計なことはしない。余計なことはさせない。それが冬弥の意図であることは理解している。だが――。「社長、すみません」空気がわずかに変わった。
last updateLast Updated : 2026-04-03
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