Home / 恋愛 / 氷龍の檻姫 / 1-3 「なぜ私なのですか」

Share

1-3 「なぜ私なのですか」

Author: 酔夫人
last update publish date: 2026-01-28 08:47:03

あやめの目の前に置かれた紙には、【婚姻届書】と確かに書かれていた。

字は読める。

言葉の意味も理解できる。

だが、あやめにはそれが現実のものには見えなかった。

薄い白い紙。

整然と並んだ記入欄。

見慣れた役所の書式なのに、どこか現実感がない。

まるでドラマの小道具のようだった。

(……嘘だわ)

いまこの瞬間。

あやめは自分の人生ではない何かを、少し離れた場所から覗き込んでいるような奇妙な感覚に陥った。

神崎冬弥。

目の前に立つこの男が、自分の結婚相手として紹介されているのだということは、理解していた。

最初から。

神崎冬弥に挨拶するように言われる前から。

それでも――「私ではない」と、あやめは思っていた。

そう思えていた理由があやめにはあった。

一つは政治家『柊謙一』の秘書であること。

あやめは『柊謙一』の仕事を支える者としてこれまでやってきた。

任されてきた仕事で積み上げた実績もある。

政治の世界で役に立っている。

その自負が、誇りが、あやめに『自分ではない』と思わせていた。

なぜなら、神崎家に嫁ぐということは裏社会と無縁ではいられなくなるということだ。

そうなれば政治の世界にはいられない。

つまり、いまの立場をすべて手放すことを意味する。

(秘書として役に立っているって……)

そう信じていた。

父にそう認められるよう努力もしてきた。

だから否定してほしかった。

その願いが、あやめに分からないふりを続けさせた。

「これは……何かの、冗談、ですか?」

あやめは静かに問いかけた。

それに対して謙一の反応は『無』だった。

呆れも、怒りも、なにもなく。

「冗談でこんなものを用意しない」

返ってきた声は冷たく、揺るぎがなかった。

逃げ道を断つ声音。

「あやめ、お前は神崎家に嫁にいくんだ」

決定打だった。

あやめの中に残っていた曖昧な余地が、音を立てて崩れた。

「お父様っ!」

思わず反論の声が上がった。

神崎家がただの名家であれば、あやめにここまでの動揺はなかっただろう。

神崎家でなければ、柊の姓はなくなっても政治の世界に関われる。

神崎家は龍神会の総長家だ。

その家に嫁ぐということは、もう政治の世界に立つことは許されない。

実態は清濁併せ吞んでいる世界でも、表向きは清い水だけの場所でなければいけない。

神崎家の嫁になるということは、これまでとはまったく別の場所へ引きずり込まれることを意味していた。

(全部、なくなる)

これまで築いてきたものも。

自分の役割も。

そして、自分という存在の意味さえも。

(……結婚すること自体は、覚悟していた)

いつかは柊家のため、父親のため、役に立つ結婚をする。

それが時代錯誤な考えだと理解しつつも、これが自分の役割だとあやめは理解していた。

相手が誰であろうと構わなかった。

そこに夢も理想も求めていなかった。

その覚悟を持てたのは、柊謙一にはあやめから見て愛すべき美点があったからだ。

それは妻、亡くなったあやめたち母親への愛情。

彼はいまなお亡き妻を想い続けている。

母親の死後、再婚を勧められても謙一は一度も首を縦に振らなかった。

その姿を、あやめは幼い頃からずっと見てきた。

だから。

母への愛情と同じでなくても、父は自分のことも大切に思ってくれている。

あやめは、そう信じて生きてきた。

だからこそ、謙一の決めたことならば受け入れるつもりでいた。

それが、あやめがここまで歩いてきた理由だった。

――なのに。

(これは、“私”である必要はないでしょう)

胸の奥で抑えきれない思いが滲んだ。

この結婚は柊家と神崎家を繋ぐためのもの。

いわば象徴だ。

ならば、柊家の娘であればいい。

それならば。

(お姉様のほうがずっと適任だわ)

柊さくら。

華やかで、社交界に馴染み、周囲からも“柊家の娘”として認識されている存在。

後援会も姉に期待を寄せている。

柊家はさくらが婿をとり、長女夫婦が継いでいくとされてきた。

さくらの婿となる男は謙一の第一秘書になり、その後は謙一の地盤を継ぐ。

こうして政治家・柊謙一の意志はこれからも政界に維持される。

誰もがそうだと思っていた。

実際には、あやめが謙一の秘書として政務を支えているというのに。

あやめは第一ではなくただの秘書。

第一秘書の座は、まだ影も形もない『柊さくらの夫』のものだった。

第一秘書の座を空けておくことにも、あやめは文句を言わなかった。

自分は裏方でいい。

表はさくらに任せる。

それが適材適所。

最も合理的な体制だったから。

だから。

「神崎様の家に嫁ぐのは、私でなければいけませんか?」

言葉を選びながら、あやめは問いかけた。

覚えている限り、初めての反論。

緊張で、手のひらに汗がにじんだ。

「私ではなく、お姉様のほうが――」

「だめだ」

即答だった。

一切の間もない拒絶。

「……なぜ?」

断固とした拒絶。

問い返したあやめの声は強張っていた。

「危ないからだ」

危ない。

その一言があやめの胸の奥に静かに沈んだ。

(……それは)

理解できる。

悔しいことに、理解できてしまう理由だった。

だからこそ。

(私なら、危なくてもいいの?)

言葉にはできない問い。

聞けないことが、あやめの胸の奥で燻った。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 氷龍の檻姫   外伝2-11

    【過去回想】記者会見を終えると結婚した実感がわき、その夜は早めに仕事を終えた。いつもならシャワーで済ませる入浴も、湯船に湯をはり、ゆっくりと浸かった。体が解れたところで風呂を終え、軽く体をふいてタオルを腰に巻く。このまま湯上りのビールを楽しもうと思ったところで手が止まった。しばし考え、脱衣所に用意されていた藍色の浴衣に手を伸ばすと羽織り、帯を締める。そして部屋の窓から、置いてあった煙草一式を手に持ち、庭に出る。火照った体に夜風が気持ちよかった。でも、風呂上がりのビールほどではない。それならなぜ。そう思いながら煙草に火を点ける。思い切り煙を吐き出す。気持ちはいいが、やはり風呂上りのビールほどではない。(それでも……)微かに聞こえた玉砂利を踏む音に、冬弥の口持ちが緩んだ。でも顔は向けない。気づかれたと逃げていく。猫耳を生やしたあやめの姿が想像できた。離れたところで足音が止まる。隣ではない。でも、逃げる気がないのは分かる。こちらが気づいていることに、あやめも気づいている。それに。「なんだ?」あやめの視線で頬が焦げてしまいそうだった。「眠れないんですか?」冬弥はあやめに顔を向けた。冬弥が自分が座っている縁側の隣を指さす。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」あやめが迷うのを感じ取ったが、黙っていると隣に腰を下ろした。体の火照りが冷めれば、梅雨の夜らしく湿気た空気がまとわりついてくる。でも吹いてくる夜風は気持ちいい。風呂で大分アドレナリンは落ち着いたが、この瞬間、完全に収まったのを感じた。隣を見ると、あやめが煙草の煙を見ていた。「悪い、煙たいな」「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」「意外とって」

  • 氷龍の檻姫   外伝2-10

    【過去回想】(なぜ、こんな顔をする?)冬弥には分からなかった。「期待を裏切りましたか?」そう言われて、よけい分からなくなった。(期待を、裏切る?)あの早苗に「大物」と評価されるほどなのに。「お前は、柊謙一の娘なんだなと思っただけだ」そう言うと、あやめの顔に表情が戻ってきた。意表を突かれたような表情だったが。「お父様の娘、ですか……?」(なぜ戸惑う?)「違うのか?」「違いませんが……そう言われたことが、あまり、なくて」(あまり社交場には出てこないと言っていたな)言われる機会もなかっただろう。社交界で聞くのは柊さくらの名前ばかりだった。柊あやめと言えば「柊さくらの妹」と姉の付属品のようになっていた。周囲は柊さくらを熱心に進めてきた。社交界の花と言われるほど華やかな存在で、周囲からも“柊家の娘”として認識されている。彼女を妻とすることで柊家の後ろ盾がよく分かる。余りに熱心に進めるから先日柊さくらが参加する会に出席したが、実際に見た瞬間に無理だと分かった。周囲の称賛が必要な女。この女は檻に耐えられないと思った。冬弥が求めていたのは役割を理解し、愚直なほどそれを全うする人物。あの柊謙一のように。「よく似ているのにな」あやめは父親によく似ている。役割を理解し、それを全うしようという意志が言動から見てとれる。「似ていますか?」(ただ、本人は気づいていないようだな)恐らく周囲も。もし自分が柊謙一の後援会の者なら、後継者にはあやめを推す。(柊謙一しか気づいていない、彼の娘)「父子そろって、化かすのに長けている」柊謙一はいつあやめを冬弥のもとに送るつもりだったのか。政治家の信念を継ぐ者がすでに用意されているところを

  • 氷龍の檻姫   外伝2-9

    【過去回想】  『怖くないのか?』言った瞬間、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。冬弥にとって『武力』は必要なもので、必要だから使うもの。暴力ではない。必要でなければ使うことはない。でも、自分の欲や感情の赴くままに暴力を振るうと思われていることも理解している。実際にそういう者もいるから否定できない。「怖いとは、命を狙われることですか? それは怖いですよ。当然です」(……何か違う)勘違いされたなら、そのまま勘違いさせておけばよかった。でも、また気づいたら「そうではない」と否定していた。目の前のあやめは『何を言いたいのか』という顔をしている。冬弥自身も分からなかった。「俺が」何でこんなことを言いたいのか。「極道は怖がられるものだからな」そう言ったら、なぜかあやめは笑った。「怖がられると思っているなら」あやめの目に、愉快がっているような光がちらついたことに冬弥は気づいた。「怖がらせないでください」そう言った。怖がらせるな。快適な檻を用意するといったのはそっちだろう。あやめはそう言ってのけた。「あなたたちを怖がりながら一生を過ごせと言うのですか?」面白がるような余裕も見せて。(一生……か)先ほど自分はこの生活がずっと続くのかと聞いてきたあやめに「死が分かつまで」と答えた。あのときの揶揄うような気持ちが、ブーメランのように自分に返ってきた気がした。それがどこか悔しくて。「お前、変わってるな」そう言うとあやめは首を傾げた。「あなたにとって私は“そう”なのでしょうね」だからコミュニケーションが必要なんだ。そう叱られた気がした。それに気づいて、これがコミュニケーションかと実感したのは仕事に戻ってからだった。

  • 氷龍の檻姫   外伝2-8

    「夕食の準備が整いました」そう言われてきたダイニングには誰もいなかった。「楓様はお風呂で汚れを落としてから来られます。奥様はお客様をお見送りしてからになりますので、少々お時間をいただくかと」「そうか」楓の顔に付着していた絵の具を思い出して冬弥は納得する。あれは着替えだけでは済まない。風呂に放り込まなければ、全力で遊んだ汚れは落ちないだろう。席について室内を見る。広々とした空間。磨き上げられた床。柔らかな照明。そして目の前に鎮座する大きなダイニングテーブル。十人以上が座れる特注品で、来客の多い神崎家には必要な家具だ。合理的に考えれば何も問題はないが、今この瞬間だけは違った。誰も座っていない長い机がやけに空虚に見える。「……テーブルを買い替えるか」言葉にした瞬間、自分で苦笑した。昔も同じことを考えたことがあったからだ。あれは結婚する前日、あやめを連れてきた最初の夕食の席。向かい合わせに座る二人の間にはこの大きなテーブルがあった。◇◇◇ 過去回想 ◇◇◇「私は、この距離感に苦痛を感じます」食事をしている最中、突然そう言われた。冬弥は視線を上げる。そしてテーブルを見た。「テーブルを、もう少し小さいものにするか?」当然の提案だった。距離が問題なら距離を縮めればいい。単純な話だが、あやめは驚いた顔をした。どこか呆れたような、まるで冬弥が何か根本的な勘違いをしているような。数秒後、その表情は諦めたようなものへ変わる。肩から力が抜けたのが見ていて分かった。「冬弥さん、とお呼びしてもよろしいですか?」その言葉に、冬弥は少しだけ目を見開いた。名前を久しく呼ばれていなかった。組では若だし、神崎様や社長が一

  • 氷龍の檻姫   外伝2-7

    屋敷へ戻ると早苗が冬弥を出迎えた。「お帰りなさいませ」「ああ」上着を脱ぎながら冬弥は廊下の奥を見た。普段なら帰宅の気配を聞きつけたあやめが顔を出すことも多いが、今日は姿も気配もない。「あやめは?」「奥様はまだ来客対応中でございます」「まだ女子会中か」「大変盛り上がっておられます」冬弥は小さく息を吐く。龍神会にとって宝であるあやめがいるこの屋敷は、保安上の関係で来ることができる者を限っている。そしてその限られた者たちの中に冬弥の愛人たちがいる。あやめを屋敷の奥に置いておくため、公の場で冬弥の隣に立つのはその愛人たち。だが冬弥の愛人というのはあくまでも名目、実際はあやめが冬弥に貸し与えている彼女の手足である。だからこそ夫の愛人たちとの女子会で盛り上がれる。名目とはいえ【愛人】なので冬弥としては少々複雑であるが、悪いことではないと思っている。むしろ歓迎すべきことだとも思っている。神崎家へ嫁いだ女性たちが最初に失うものの一つが友人関係だからだ。「楓は?」「雪兎と一緒に遊んでいらっしゃいます」「そうか」ならば先に息子たちの顔を見ることにしよう。そう決めて、冬弥は廊下を歩き始めた。屋敷の奥へ向かうにつれ、静かな空気が少しずつ変わっていく。やがて聞こえてきたのは子どもたちの声。「待てー!」「やだー!」楽し気な笑い声。ドタドタと走り回る足音。何かが転がる音。それら音を聞いた瞬間、冬弥は自然と足を緩めた。向かっているのは子ども部屋、正確には遊戯室だが、屋敷の最奥にあるこの大部屋はかつては冬弥の母親の部屋だった。冬弥にとっては長いあいだ決して近づきたい場所ではなかった。子どもの頃の記憶が今も残っている。閉ざされた扉。中から聞こえる女の笑い声と男の囁く声。冬弥は母親に育てられたという経験はない。冬弥の記憶にある限り、母親は常に愛人を部屋に連れ込み、昼も夜も享楽に耽っていた。幼い冬弥はその部屋の前に立ち、扉の向こうにいる母親を待ったことがある。「ちょっと待っていなさい」と言われたから。だが結局は呼ばれることはなかった。母親は男の名前を呼ぶばかりで、冬弥を呼ぶことはなかった。だから冬弥にとって、母親と紐づくこの部屋は軽蔑の象徴だった。(だが――)冬弥は静かに苦笑する。人間というのは勝手なものだ。以前な

  • 氷龍の檻姫   外伝2-6

    そんなことを話しながら駐車場に出て、冬弥は車が変わっていることに気づいた。足を止めて警戒の視線を向けると運転席から鷹見が出てくる。「あやめはどうした?」「今日は女子会だから早苗に交代しろと、若の迎えにいくようにと屋敷を追い出されました」「札束ではち切れそうな財布では危険だからな」冬弥は肩を竦めて応えてみせたが、鷹見が乗ってくることはなかった。再び緊張が走る。「いつもの帰り道に『障り』があるそうです」「……どこの者だ?」「大迫が若にメッセージを送ると」「……メッセージ?」遠回りなやり方に冬弥は眉間にしわを寄せつつもスマートフォンを確認する。「……至れり尽くせりだな」届いたメッセージ添付されていたのは【安全な帰宅ルート】。今だけが安全なだけでなく、今後の安全も考慮して『鉄砲玉』である実行犯を捕らえる方法から、主犯を追い詰める手はずまで懇切丁寧に書かれている。「大迫に連絡して愛人たちに礼を届けるように言っておけ」「樹、組員にこの資料を送れ。鉄砲玉は捕らえて……西にいる主犯については赤羽組に任せる」了承したように鷹見は頭を下げると、冬弥が乗るために車の扉を開けた。「……鷹見に扉を開けられるのは随分と久しぶりだな」「若が結婚された日から、私は姐さんの専属でしたからね」そうだったと思いながら車へ乗り込もうとして、冬弥はふっと笑いを漏らした。「……若?」怪訝そうに樹が見る。「あのときは、ただの箱入りのお嬢さんだと思ったんだけどな」◇◇◇【過去回想】議員会館を歩きながら、冬弥は自分の手を見ていた。先ほど婚姻届に記入をしたものの結婚した実感は何もなく、何かの変化を求めるように冬弥は手を握ったり開いたりしてみた。(俺でこうなのだから、この女は……)父親の仕事部屋に呼び出されて、結婚相手として初対面の男を紹介される。そして婚姻届を書けと迫られ、提出は明日すると聞かされた上に、今夜から嫁ぎ先で暮らせと言えヲ追い出される。(まともな女なら泣き叫んでもおかしくない状況だよな)だが、あやめは泣かなかった。女の涙など面倒でしかない冬弥にとってはいいことだが、冬弥の半歩後ろを遅れることなくついてくるあやめは静か過ぎた。ヒールをはいた足音すら静かだった。(よくグレなかったな、この女)そんな感想が冬弥の脳裏に浮かぶ。龍神会には神

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status