LOGIN京司の胸中に、にわかには信じがたい驚愕が走った。視線の先にいるのは、自身と齢も変わらぬとおぼしき、いかにも線の細い、世俗に埋没した一個の男に過ぎない。その“平凡”という仮面を剥ぎ取るように、男は静かに名乗った。「烏丸京司さんですね。はじめまして。六穣会会長の槇村駿です」――青年が口を開いた瞬間、そのあまりにも平穏な声が、室内の空気を張り詰めさせた。槇村から放たれた不意の一撃に、京司の内に一瞬の動揺が走る。しかし、それを見せることなど許されない。彼はすぐさま、張り詰めた空気を切り裂くように言葉を返した。「京都九条組若頭を務めさせていただいております。烏丸京司と申します。以後お見知りおきを」畳の上に端然と正座し、己の軸を正す。その姿は、一寸の乱れもない研ぎ澄まされた刃のようであった。京司は、静寂のなかで深く、丁寧に頭を垂れた。極道の矜持と礼節が、その一礼の軌跡に美しく宿っていた。「今日はわざわざ京都からお呼びだてしてすみません。どうぞお座りください」槇村の口から零れたのは、拍子抜けするほど穏やかな誘いの言葉だった。京司を促すその手つきにも、声音にも、一切の歪みがない。それは、よく馴染んだ隣人と朝の挨拶を交わすような、あまりにも無垢な日常の模倣。そのあまりの「普通」のなかに、京司は形容しがたい薄気味悪さを嗅ぎ取っていた。(この男が、六穣会のトップ……。おまけに、鈴華の父親やと?)激震が走った。京司が必死に繕おうとした仮面は、その一瞬の躊躇いによって容易くひび割れてしまう。「驚きました? 戸籍の上だけとはいえ、こんな若い父親がいるものかって。あるいは……こんな若造に、あの暴力団の会長が務まるのか…ってとこかな?」射抜くような視線が京司の動揺を正確に値踏みしている。喉の渇きを覚えながら、京司はあわてて首を振った。「い、いえ! 決してそのような……。滅相もないことです」「まあ実際、僕は貴方より少し年上なだけで、裏社会の経験も長い方ではありませんから」謙遜を装ったその台詞が終わるや否や、まるで計ったように襖が左右に引かれた。卓の上に並べられた懐石料理は、血の匂いのする世界とは無縁の、残酷なほど鮮烈な色彩を放っている。「まあ、食べながら話しましょうか? お酒はいかがですか?」槇村の声音には、相手の懐に滑り
夕暮れのの第二京阪道路。漆黒のセダンが、滑るように闇を切り裂いていく。ハンドルを握る京司の唇には、一本の煙草がくわえられていた。しかし、立ち上る煙のゆらぎさえ、今の彼の焦燥を隠しきれはしない。いつもなら氷のように研ぎ澄まされている彼の佇まいが、今日に限っては、ひどく脆く、落ち着きを欠いていた。無理もない。彼がこれから対峙するのは、六穣会の頂点に君臨する男・槇村なのだ。白日の下に決して姿を現さない…大阪の“顔のない支配者”。その見えない掌の上に、自分もまた転がされているのではないか――そんな予感が、京司の胸をざわつかせていた。都市の灯りを遠ざけ、車はさらに郊外の奥深くへ。導かれるように行き着いたのは、槇村が告げたこぢんまりとした邸宅だった。車を降りれば、庭の木々の向こうに、長い歳月を眠り続けてきたかのような古い建築がひっそりと息を潜めている。周囲はしんと静まり返り、人の気配はどこにもなかった。車のドアが閉まる鈍い音を、夜の静寂がたちまち飲み込んでいく。アスファルトに降り立った京司の前に、音もなく影が滑り込んできた。端正な和装に身を包んだ女性が、音を立てずに深く頭を垂れる。「烏丸様、ようこそお越しくださいました」京司は怪訝そうに眉をひそめ、あたりに視線を走らせた。漆黒の闇に浮かぶ瀟洒な門構え。しかし、そこに場所を誇示するような看板も、灯火の文字も見当たらない。「ここは……料亭か?」 「はい。本日は、槇村様の貸し切りとなっております」女性の静かな微笑みが、闇の奥へと京司を誘うようだった。誘われるままに門をまたぐ。途端に、息づく季節の植物たちが京司の視界を占めた。色とりどりの季節を宿した木々が、京司の訪れを待っていたかのようにざわめいる。館を包み隠すほどに見事な枝ぶりの大樹が、歴史の深さを物語っている。その厳かな佇まいの玄関口で、二人の護衛が佇んでいた。京司の歩みを受け止めた彼らは、無言のまま、規律正しく、深く頭を下げて敬意を表した。「失礼いたします。烏丸様がお見えになりました」襖の向こうから、そっと静寂を揺らすような声が届く。衣服の擦れる微かな音とともに、洗練された所作で襖が引かれた。音もなく開かれた視界の先、夜の闇に浮かび上がる庭園の灯りを、窓辺に佇む一人の男がじっと見つめていた。男の眼光に射
京司が吐き出した、飾りのない無骨な本音。それが鈴華の胸に触れた瞬間、彼女の内で抑えきれない歓喜が、静かに、けれど激しく湧き上がった。「その言葉だけで、私……充分です、京司さん」震える声で紡がれたその一言が、京司の理性を容易く焼き切る。「……っつ!」息を詰まらせた彼は、衝動のままに鈴華をその腕の中へと強く引き寄せた。壊れ物を扱うような優しさと、決して離さないという執着が混ざり合った、烈しい抱擁。鈴華は溢れる愛おしさに突き動かされるように、震える指先を彼の肩へと伸ばす。二人の距離が完全にゼロになろうとした、その刹那。静寂を切り裂くように、京司のスマートフォンが冷徹な電子音を響かせた。それは、重なり合おうとした二人の世界を無慈悲に引き剥がす、現実からの冷ややかな呼び鈴だった。受話器の向こうから、低く地を這うような声が響いた。「京司、儂や」紛れもない、組長・宇治宮の声であった。「――はい、オヤジ」京司はすっと背筋を伸ばし、声のトーンを落とした。その喉は微かにこわばっている。「オヤジから直々にお電話をいただくとは……何か、不測の事態でも?」「例のシノギの件やが……」宇治宮はそこで言葉を切り、短く煙草を吸い込むような気配を見せた。落とされた沈黙が、受話器を通じて京司の耳の奥へと染み込んでいく。「いや、それよりもお前――梨花さんとは、うまい事やってるんやろうな?」宇治宮の問いを、京司は適当な言葉ではぐらかした。「ええまあ……」「今のうちから可愛がってやらなあかんで」受話器から漏れる宇治宮の笑みには、卑俗な粘り気があった。その不快な音が神経を逆撫でする。京司は受話器を握る手に無意識に力を込め、込み上げる苛立ちを噛み殺した。宇治宮との会話を終えた京司は、すっと視線を落とし、それから静かに鈴華の方を向いた。「……薬と山城の件。オヤジと直接、腹割って話してくる」「危険すぎます、それでは……!」「大丈夫や。オヤジはまだ、俺を切る訳にはいかへん理由があるんやからな」その言葉が引き金となり、鈴華の脳裏に“梨花”の存在が鮮烈に浮かび上がる。押し寄せる焦燥感が鈴華を支配していた。「そう……ですね……」抗えない現実を前に、鈴華は小さく息を吐き出した。「でも、本当にお気をつけてください」「こないな無理を言える義理やな
鈴華から放たれる圧倒的な熱量に、京司の理性の輪郭が融けかけていた。溺れまいと必死に己を繋ぎ止め、彼はあえて氷のような声を絞り出す。「これは九条組の話や。部外者の君に出来る事はあらへん」その唇から零れ落ちたのは、関係を断ち切るための苦い毒。自らの胸を苛む痛みを隠すように、京司は煙草をくわえ、静かに火を灯した。揺れる小さな焔が、二人を一瞬だけ照らし出した。「そ、それなら……私が個人的に京都に滞在するのは、自由ですよね?」必死に気丈さを装う彼女の瞳を見つめた瞬間、京司の中で何かが千切れた。「あかん! 九条組が火種を抱えてる今、京都は危険や! そんな場所に君を置いとくことなんてできるわけないやろっ!」喉の奥から絞り出されたのは、いつも彼が身にまとっている大人の余裕など微塵もない、無防備なまでの本心だった。彼女を危険に晒したくないという祈りにも似た拒絶が、静かに、しかし決定的に、二人の間の境界線を踏み越えていく。「京司さん……貴方が私を心配してくださるように私もまた……貴方の事が心配なのです」鈴華の言葉は、まるで雪のように京司の胸に降り積もる。応える京司の指先で、紫煙がわずかに乱れた。「……もうじき他の女を妻に迎える男に、そんな言葉をかけて、一体どうしようというんや」突き放す言葉とは裏腹に、彼の心は裏腹な歓喜に震えていた。行ってはならない、求めてはならない。そう自戒するほどに、鈴華が向けてくれる情愛が、愛おしくてならなかった。「……言ったはずです。あなたが誰と生きようが、誰に心を奪われようが、私の気持ちは変わらない。京司さん、あなたを愛し続ける、と」鈴華の口調は、凪いだ海のように静かだった。その顔は慈愛に満ちて、ひどく純粋な微笑みが浮かんでいた。鈴華の一言一言が、京司の胸に鋭い楔をを打ち込んでいく。指先からこぼれ落ちる灰の行方にも目もくれず、彼はただ、目の前の存在だけを視界に焼き付けようとしていた。「他の誰かに心を奪われる……やて?」絞り出すような声が、僅かに、しかし確実に震えた。「そんな真似、できるはずがないやろ!俺の人生に、君以外の選択肢なんて最初から用意されていないんやから」
槇村からの報せを受け、京司は大阪へと車を走らせていた。夜の闇を切り裂くヘッドライトの光跡が、そのまま彼の思考の迷路を照らし出す。(鈴華……)ふいに、その名が胸の奥底からせり上がってきた。あの日、彼女と交わした最後の夜の記憶。それは、彼の乾いた日常に深く突き刺さったまま、今も鈍い痛みを放ち続けている。引き波のように遠ざかる景色の中で、京司が彼女の面影を思い返さない日は、ただの一日としてなかった。「……山城の事は感謝する。君は……早く大阪に戻るんや」「……はい」紡がれた言葉は、感謝の形をした拒絶だった。京司の突き放すような声が、鈴華の凍てついた心に鋭い氷となって突き刺さる。胸を去来する痛みに、彼女はただ、行き場のない拒絶を受け入れるしかなかった。「俺とおるとこ見られたら、君まで巻き込まれんで。……君に何かあったら、俺はもうどうしようもあらへんのや」京司の絞り出すような声が、冷えた空気に溶けていく。それは、彼が初めて見せた弱音であり、紛れもない執着だった。不意に突きつけられた彼の本心が、鈴華の心の閾値を一瞬で超えていく。途端に、心臓が痛いほどの脈動を刻み始めた。体温が急上昇していくのを感じながら、鈴華はただ、自分の内側から湧き上がる衝動に呑まれないよう、呼吸を整えるのが精一杯だった。己の胸の内に渦巻く、名もなき熱情。(私は……一体、何を期待しているというの?)それは、叩いても決して響かぬ冷ややかな壁に向かって、か細い声を張り上げるような虚しさだった。この人には、すでに約束された未来がある。しかるべき人がいて、もうじきその手を取り、終生を共に歩んでゆくというのに。叶わぬと知りながらも、断ち切れぬ未練の糸が心を引き絞る。そんな、引き裂かれそうな葛藤の最中——不意に、早緑の言葉が脳裏をよぎった。“お嬢は、もっと欲深く生きてええんやで?”「……嫌です」鈴華の唇から漏れた確かな拒絶に、京司の視界が微かに揺れた。驚きに目を見張る彼へ、彼女は言葉を重ねる。「京司さんに危険が及ぶかもしれないのに、私だけがのうのうと大阪へ戻るなんて……そんなこと、絶対にできません」「鈴華……」「私が、あなたを守りますから」その瞳に灯ったのは、いっそ悲壮なほどの強い意志だった。射すくめられた京司は、彼女の瞳の奥にある底
暗い底を這うような日々の中で、その着信音は冷たい雨のように京司の耳へと滑り落ちてきた。見知らぬ番号からの着信。その番号が放つ、どこか不穏で、それでいて拒みがたい引力。胸の奥で小さな警鐘が鳴り響くのを感じながらも、静かに受話器を耳へとあてた。「……はい」「烏丸京司さん……ですね?」「……誰や」押し殺した京司の声には、鋭い刃のような警戒が仕込まれていた。しかし、回線を超えて響いたのは、あまりにも不敵で静かな名乗りだった。「はじめまして。六穣会会長の槇村駿です」「――っ、槇村……!」その名が鼓膜を震わせた瞬間、京司の思考は停止した。喉の奥で息が引き攣る。端末を握りしめる指先から血の気が引き、代わりにじわりと嫌な汗が沸き上がってくる。その冷たさが、彼に現実の恐怖を突きつけていた。「なぜ、この番号を……」縺れる舌でどうにか紡ぎ出した京司の問いは、ひどく場違いで、ひどく無防備だった。「君の番号を調べるくらい、どうとでもなりますよ」応じる槇村の声音には、微かな刺さえ混じっていなかった。あまりに平易で、あまりに無感動。それはまるで、昨日の天候について旧友と言葉を交わすような、恐ろしいほどの気安さを孕んでいた。槇村駿大阪の指定暴力団『六穣会』会長。そして、あの槇村宏一と鈴華の――血の繋がりはなくとも、書類上に厳然と刻まれた“父親”。関西の裏社会を文字通り牛耳る巨頭の名が、なぜ今、自分の携帯に連絡をよこしたのか。(なぜ、俺に……?)京司の脳内で、いくつもの思考が火花を散らし、急速に迷走を始める。鈴華との件、あるいは義理事での宏一との揉め事か……宏一や鈴華を通じて、自分の存在が向こうに割れたのか?それとも、六穣会の逆鱗に触れたのか?あるいは――いや、考えてもキリがない。「……六穣会の会長ともあろうお方が、私のような者になんの御用でしょうか」努めて冷静さを保とうとする京司の声は、しかし、静まり返った室内の空気を硬く弾けさせるに十分な緊張を孕んでいた。「京都では、鈴華が随分と世話になったそうでね」受話器から漏れ聞こえる槇村の声は、酷く穏やかで、まるで旧友にでも話しかけるような親密ささえ帯びていた。だが、言葉の裏に潜む温度のなさに、京司の皮膚が粟立つ。「――その件で、君と一度、膝を突き合わせて話がした
幾重にも折れ曲がる細路地の最果て、朽ちゆく廃屋の群れに紛れるようにして、 その店は息を潜めていた。時の流れに取り残されたかのようなその佇まいに人の気配は感じられない。外界との繋がりを断ったその店は、ただひっそりとそこに存在するだけの ものとなっていた。指先をかけた古びた扉が開く事はなく、ため息を吐くような重みで 沈黙を守っているだけだった。 「ガサが入ってからけっこうな時間がたってるさかいなぁ。パクられたか体をかわしたか…」 ※パクられ…逮捕される 体をかわす…逃亡する 揺らめく煙が彼の輪郭を曖昧にぼかす。彼は指先の火影を見つめたまま、断続的な言葉を夜の闇へ放り投げた。
「特別な意図などありません。ただ久々に友人に会いたかったという、私的な逍遥に過ぎません」「ほう、、、六穣会は関係ないと?」腑に落ちぬ表情を隠そうともせず、彼はあからさまな不快を滲ませた。 しかし、それ以上の追究が空隙を埋めることはないと悟ったのか、 やがて重い口を閉ざし、言葉の礫を投げるのを止めた。「・・・で、君をどこに送ったらええんや?」答えを拒むかのように、鈴華の視線がわずかに彷徨う。 喉元まで出かかった言葉を一度飲み込み、彼女は覚悟を決めたように、彼に向かって目的地を口にした。「西木屋町にあるスナックです」「西木屋町、、、うちのシマやな。なんて名前の店や?」「…ヨ
彼女は呼吸ひとつ分の沈黙を経て、『はい』とだけ告げた。彼女の沈黙という深淵に、どのような想像が沈んでいるのか。彼は一瞬その淵を覗き込もうとしたが、すぐにそれを止めた。ただ静かに言葉を紡ぎ、その静寂を破る。「そういうたら、まだ名前をきいてへんかったなぁ。君なんて名前?」「鈴華、、、槇村鈴華です」「鈴華、、、ええ名前やな。、、、で、君何者やの?カタギの娘が血生臭い九条組の『顔』に辿り着くはずがあらへん」「私はしがない小娘にすぎません。ただ、父が六穣会という場所に身を置いておりますので、普通の方なら知り得ないようなことが、自然と耳に届いてしまうのです」「六穣会の槇村やと⁉」溢
車内に乗り込んだ彼女を確認し、ほっとした表情を一瞬浮かべ、エンジンをかける。静かに走り出した窓越しの街灯が彼女の長い黒髪を柔らかく照らしている。 「君みたいなお嬢さんが一人歩きするのは、やっぱり心配やからな」 「九条のシマで問題は起こしません」※シマ…組の縄張り。管理地域。 煙草の煙を指先で弄りながら薄くほほ笑む。車内の照明が彼の彫り込まれた眉間に影を作る。 「そうやろうなぁ。こないな綺麗な娘さんが問題を起こすとは思えへんけど、用心に越したことはあらへん」 会話の途切れ目だった。ふいに、彼女が車のシートから身を乗り出し、囁くような声とともに、彼女の顔が彼の口元へと寄せられた