تسجيل الدخول──「坊ちゃん。〝お父様〟からのプレゼントですよ」
──「父上からの、プレゼント……?」 行商人の男から差し出された美しい銀色の鳥籠の中に、自分の身長の半分を超える大きな隼が居て、その大きな金色の瞳に、幼い少年の自分の顔が映りこんでいた。 それが、アーサーと愛鳥の隼『ノヴァ』との出会いだった。父であるクロムウェル伯爵の命令で、アーサーが母エレインとペンストレイト領アッシュワース村にある聖ヒュー教会に来て二年ほど経った頃。
年季の入ったハーフティンバー方式で建てられた司祭館の門をくぐり、アーサーはエレインの隣を歩き出した。 数百人が暮らすこの荘園において、広場へ向かう道すがら、野良仕事へ向かう村人とすれ違うのは日常の光景だ。村人たちは、司祭館の「使用人」であるエレインと、その傍らを歩くアーサーに会釈をしたり、あるいは遠巻きに眺めたりしながら通り過ぎていく。 ピーターが二人の斜め後ろを、護衛というよりは付き添いの下働きとして、落ち着いた足取りで続いている。 広場の中央、大きなオークの木の下には、すでに行商人が荷を解いていた。 三、四人の農家の子供たちが荷を覗き込んでは騒がしく声を上げ、泥だらけの服で走り回る彼らの声が、広場にありふれた賑わいをもたらしていた。 その賑やかさから数メートル離れた場所に、代官トーマスが立っている。 彼は村人や子供たちの動きを検分するように眺めているが、こちらへ歩いてくるエレインとアーサーに気づいても、特に歩み寄るようなことはしない。 表向き、エレインはアーサーの養い親ということにされている。 貴族の私生児という存在は、それ自体が父である伯爵家への侮辱であり、未婚の母となることはふしだらな罪とされるからだ。 だが、二人が実の親子であることは村の公然の秘密だった。 トーマスもそれを知った上で、親子のように寄り添う二人の姿を、あえて咎めるまでもない日常の一幕として見逃しているに過ぎない。 ただし、もし二人が開き直って実の親子であることを喧伝し、伯爵の名誉を傷つけるような真似をすれば、代官としての彼の対応は一変するだろう。 二人は常に、風紀を乱す存在として領地の人間の監視下に置かれていた。 そんな大人たちの事情など知らない振りをしながら、アーサーは楽しげに騒ぎ立てる子供たちを横目に、エレインの歩調に合わせてゆっくりと歩を進めた。 司祭館の私生児という、周囲と一線を画す静かな立ち振る舞いを保ったまま、三人は行商人の前へと辿り着いた。 商品を置くために広げた布の周りには、すでに村の主婦たちが数人集まっていた。 「あら、エレインじゃない。今日は早いのね」 真っ先に声をかけてきたのは、村の上役である粉挽きのサイモン・ミルナーの妻であるエディス夫人だった。彼女は手に取っていた粗末な麻の束を一度置き、親しげな、それでいてどこか「司祭館の者」に対する敬意の混じった笑みを浮かべる。 彼女は村人から厳しい目を向けられている外様の母子に対し、常に優しく気をかけてくれる貴重な存在で、彼女のおかげで一部の村の女たちもエレインに対し友好的だった。 エレインとエディスが親し気に会話していると、周囲の主婦たちは、エレインとアーサーの姿を見て、作業の手を止めて会釈を返したり、小さく囁き合ったりした。 「坊ちゃんも、今日は珍しいものを見に来られたのね」 別の主婦が、アーサーの顔を覗き込んで目を細める。 「っ……」 アーサーは、エレインの腰のあたりにそっと手を添え、少しはにかんだような、年相応の子供らしい笑みを浮かべて会釈をした。 数メートル先で腕を組むトーマスの視線が、一瞬こちらを掠めた。 今のところ彼は引き続き、主婦たちが交わす他愛のない挨拶や、エレインの袖を引くアーサーの仕草を、何の変哲もない「荘園の日常」として受け流している。 「さあさあ、奥様方! 北の街から仕入れたばかりの、上質な針も糸もありますよ」 行商人は、集まった主婦たちに威勢よく声を張り上げ、布の上の品物を手際よく並べ替えた。主婦たちが「先週の物より高いじゃない」と野次を飛ばすと、彼は「滅相もない! 質が違いますよ」と大げさに肩をすくめて笑いを取る。 そんな喧騒の中、行商人の目は、主婦たちの輪の中に加わったエレインとアーサーの姿を捉えた。 泥だらけの服で騒ぐ子供たちとは明らかに違う、整った身なりのアーサー。そして、主婦たちが自然に道を譲り、どこか敬意を持って接しているエレインの佇まい。 行商人は、この二人がこの荘園において「格上の家」に仕える、あるいは繋がりのある者だと即座に察したようで、それまでの威勢のいい口調に、少しばかりの丁寧さを混ぜた。 「……そちらの奥様、そして坊ちゃん。お目が高い。これなどは、そんじょそこらの木切れとは訳が違いますよ」 行商人は、大切そうに包みから白い独楽を取り出した。 「わ……」 珍しいオモチャを前に、アーサーの瞳が輝き、行商人の眼光が強まる。 「動物の骨を削り出して磨いた独楽です。重心がしっかりしているから、この踏み固められた土でも、まるで鏡の上を滑るように長く回りますよ。坊ちゃん、一度手に取ってみてください。この滑らかさは、実際に触れてみないと分かりません」 それをアーサーは受け取り、楽しそうにいじり始めた。 アーサーは一目でこの独楽が気に入り、欲しくなったが、その選択権は持ち合わせていなかった。 言葉でねだる前に周囲を見渡し、母のエレインと教育係のピーターに視線で訴えかけるが、二人共小さく首を横に振った。 それで分を弁えたアーサーは渋々独楽を行商人に返した。 「そうかい、やめるのかい。じゃあ、これとかどうだい?」 経験豊かな行商人はそれでアーサーの出自を察し、勧めるおもちゃを変えた。 新たに出されたのは、錫めいた小さな騎士像、真鍮の金色の指輪やボタン、磨かれた石のビー玉、小刀だ。 「すごいよ、お母さん」 アーサーは独楽こそ許されなかったが、新しく出された物も十分幼い好奇心を刺激するものだった。 「どれも素敵ね、アーサー。どれか欲しい?」 エレインはそう言いながらピーターに視線で予算を確認する。 「アーサー様。この小刀などはいかがでしょう。自分で何でも作れますよ」 「そうなの?」 「ええ、ちゃんと練習すればですが」 「じゃあ、ほしい! あとこのピカピカの石と、きれいなの!」 ピーターは頷くと、小刀とビー玉と真鍮の飾りボタンをいくつかを行商人に求めた。 行商人はお礼を言いつつ、商品を粗末な麻布の切れ端で手際よく包み、アーサーに渡した。 代金を支払うピーターの様子を伺いながら、行商人はふと、差し出した商品を受け取るアーサーの手元と、その顔をじっと覗き込んだ。 何かを値踏みするようなその視線に、エレインがわずかに身を強張らせる。 行商人はにこやかな笑みを崩さないまま、世間話のついでといった体で、しかし探るような低い声で訊ねた。 「……ところで、これほど賢明な買い物をされるお方は、この荘園でも滅多にいらっしゃらない。失礼ながら坊ちゃん、お名前を伺っても?」 その問いに、アーサーは胸を張り、後日、執事に贈り物の確認をしたトーマスから「やはり何の連絡も来ていないと聞いた!」と苦情を言われたのは言うまでもない。
それに対し、クロムウェル伯爵側からの返答は「必要な書状は行商人に持たせてあったはずで、執事の居るペンストレイト領のマナーハウスに直接行くはずだったのを届け忘れた」との返答が返って来たのだった。 ともあれ、伯爵に捨て置かれていると思っていたアーサーは、この最初で最後のプレゼントをこの先ずっと心の支えにしてゆくことになったのだ。■14世紀のカソリック聖職者の衣装について Ⅰ.儀式用の服(祭服) 14世紀イングランドで主流だった「サラム典礼」に基づく構成です。 チェジブル(上祭服):最上位の服。袖のないマント型。 14世紀イングランドでは、色よりも「布の豪華さ」が優先され、祝日には「その教会で一番良い服」を着ました。また、四旬節には紫ではなく「灰色のリネン」を用いるのが一般的でした。 ストラ(帯状の布):首から垂らす細長い帯。司祭の権威の象徴。 マニプル(腕帯):左手首にかける短い帯。 アルバ(長白衣):足首まである白いリネンの長袖チュニック。 【特徴】 14世紀には、アルバの裾や袖口に「アパレル」と呼ばれる刺繍を施した布を縫い付けるのが流行していました。 アミス(肩衣):首回りに巻く白い布。Ⅱ.日常生活の服(平服):村の司祭の実態 アーサーが普段村で着ている、より現実的な服装です。 カソック(長法衣):足首までの丈がある長袖の服。 当時のカソックは現代のような真っ黒ではありません。14世紀の村の司祭は、未染色の羊毛(褐色や灰色)、あるいは濃紺や暗い茶色のウールを着ていました。 現代のようなボタンが並んだタイトな形ではなく、もっとゆったりとした「ガウン」や「チュニック」に近い形状で、上から被るか、紐で結ぶタイプが主流でした。 クローク(外套):寒冷なイングランドで屋外に出る際に羽織るウールのマント。フード付きが多く、雨風をしのぐための必需品です。 Ⅲ.下級聖職者(教区書記など)の服装 衣服: 司祭と同様のカソック(長法衣)を着ますが、アルバやチェジブルを着てミサを執り行う権限はありません。 トンスラ(髪型):規則では頭頂部を剃ることになっていましたが、多くの聖職者が不精をして髪を伸ばし放しにしている事が多く、司教が来る時だけ慌てて剃るという実態が当時の文献で皮肉られています。 ◎アーサーとトンスラ ちなみにアーサーはトンスラをしていません。 キリスト教に帰依してはいても、トンスラはあまり好まなかったようです。 大学時代など、人目のある場所ではしてい
ルーシーには、自分が無実である確信があった。 患者の症状から、ジキタリスと間違えてドクニンジンが混入された薬を摂取したのは明白だった。 だが、ルーシーは最近ジキタリスを採取していない。ましてやドクニンジンが生えているような水辺での作業など、ここ最近は一切行っていなかった。 つまりこれは、完全な言いがかりだ。 犯人ではない以上、いわれなき冤罪を受け入れるわけにはいかない。 ここで認めたら最後。親が無く、荘園の民として相互保証の後ろ盾のないルーシーは即座に死刑が決定してしまう。 毒殺は、相手が防御できない「不意打ち」であり、かつ「食事を共にする」という信頼を裏切る重罪──ましてや身寄りのない下層民が村人に毒を盛ったと確定すれば、慈悲の余地など欠片も望めない。 (私、死んじゃうの?) 何度か罪人が首吊りになる光景を見たことがあり、怖くて眠れなかった。今度は自分があそこに吊られるというのだろうか。もしかしたら魔女として火あぶりにされる可能性もある──そんな事、あってはならない。 だからこそルーシーは必死に抗っているし、おかげで村はこの大騒ぎになっているのだ。 濡れ衣を拒む理由は、他にもあった。 今まで懸命に働いて積み上げた信頼を失いたくないし──何より、アーサーにこの騒ぎを知られて、失望されたくなかった。 こうなったら駄目で元々。徹底的に抵抗してやろう。 それで殺される前に裁判にでも持ち込んで、アーサー兄さんとアリス姉さんだけでも自分の潔白を信じてくれるなら、ルーシーも諦めがつくかもしれない。 いや、きっと二人は信じてくれるし、命を救おうと尽力してくれるだろう。 彼らさえ味方でいてくれるなら、死刑になっても構わない。 けれど、誰かの嘘によって、アーサーに失望されることだけは……それだけは、何としてでも避けたかった。 ルーシーはその一心で、厳しい尋問に耐え続けた。 視界の端では、トーマスが相変わらず冷静に成り行きを見守っている。 いつの間にか彼の側にはアッシュワースの村長バーソロミューも立っており、
その日の夕暮れ、一日の農作業を終えた男は、重い足取りで診療所に立ち寄った。 「……これを。寝る前に煎じて飲んでくださいね。楽になりますから」 薄暗い診療所の軒先で、手伝いの女性から薬草の包みを受け取ると、男は軽く会釈をして家路を急いだ。 家では、質素ながらも温かい家族との食事が待っていた。 食後、妻が薪の火で丁寧に煎じてくれた薬を、男は何の疑いもなく飲み干した。 「ふぅ、これで明日には少しは身体が軽くなればいいんだが……」 そう言って一息つこうとした、その直後だった。 男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。 「……あ、がっ、う、ううぅ……!」 突如として胃を掴まれたような激痛に襲われ、男は自分の腹を抱えたまま、椅子をなぎ倒して床に崩れ落ちた。 「あなた!? ちょっと、どうしたの!」 妻が悲鳴を上げ、駆け寄る。 男は全身から嫌な汗を噴き出し、喉をかき鳴らしながら、脂汗を浮かべて畳みかけるような苦しみにのたうち回った。 「お父ちゃん! お父ちゃん!」 子供たちの泣き叫ぶ声と、狂ったように助けを呼ぶ妻の叫びが、静まり返った夜の村に響き渡った。 戸を叩く音、駆けつける隣人たちの足音。 倒れた男を囲んで「毒だ!」「診療所の薬を飲んだせいだ!」と叫ぶ野次馬たちの怒号が重なり、アッシュワース村は一晩にして、逃げ場のない不穏な熱狂に包まれていった。 ルーシーが村人に毒を盛った――その報せを聞いた瞬間、アーサーは診療所前の広場へと飛び出していた。 だが、そこまでだった。 「──……ッ!」 野次馬の怒号を掻き分け、中心で震えるルーシーに駆け寄ろうとしたアーサーの足が、凍りついたように止まる。 人垣の向こう、代官トーマスの冷徹な視線がアーサーを射抜いたのだ。 ――(余計な真似をするな、坊ちゃん)
3. 教会 ・アーサー(司祭): 精神的な指導者ですが、経済的には村人から**十分の一税(Tithes)**を徴収する立場でもあります。■人々の生活に欠かせないミサについてまとめました。 ◎朝のミサ 14世紀のイングランドにおける平日の朝ミサ(Low Mass / 低ミサ)は、日曜日の盛大なミサとは異なり、非常に静かで、司祭の「個人的な献身」に近い形で行われていました。 アーサーが毎朝、夜明け頃に行うミサの具体的な進行を解説します。 ◎ 朝ミサ(低ミサ)の特徴 言語: すべてラテン語です。 音楽: 原則としてありません(無言、または司祭が唱えるのみ)。 補助者: 侍者(ピーターのような雑務係)が一人つけば十分です。 位置: 司祭は常に**祭壇に向かって(信徒に背を向けて)**執式します。 ◎ 朝ミサの進行スケジュール(所要時間:約30分) 1. 準備と入祭 身支度: アーサーはサクリスティ(祭具室)で、日常着のキャソックの上に、アリスが整えたかもしれない白いアルバと、その日の典礼色のカズラを重ね着します。 入祭: 聖杯(カルリス)を手に持ち、侍者を連れて静かに祭壇へ進みます。 祭壇下での祈り: 祭壇の階段の下で、自分の罪を告白する祈り(コンフィテオル)を低く唱えます。2. 言葉の典礼(教えの時間) キリエ・エレイソン: 「主よ、憐れんでください」と9回唱えます。 集会祈願: その日のための短い祈りを唱えます。 書簡と福音: 聖書の特定の箇所を音読します。平日なので説教(村人への話)は省略されることが多く、アーサーはただ淡々とラテン語の聖句を読み上げます。 3. 感謝の祭儀(ミサの核心) 奉納: パンとワインを神に捧げます。 聖変化(コンセクラティオ): ミサの中で最も神聖な瞬間です。 アーサーが「Hoc est enim corpus meum(これはわたしの体である)」と唱え、パン(ホスチア)を高く掲げます。 鐘(サンクタス・ベル): 侍者が小さな手持ちの鐘を鳴らし、近くにいる村人に「今、パンがキリストの体に変
行商人が持ってきた商品の参考価格を調べてきました。 チャッピー調べなので参考程度にどうぞ。★中世イングランドの単位 £ = pound/ポンド s = shilling/シリング d = penny/ペニー、複数 pence/ペンス1 farthing(ファージング)= 1/4d 4 farthings = 1 penny 48 farthings = 1 shilling 960 farthings = 1 pound■骨を削った独楽 0.5〜1ペンス程度 生活価値換算:約2,500〜10,000円 備考:下層の子には贅沢。買える家なら買える小物■小刀:2〜5ペンス程度 生活価値換算:約10,000〜50,000円 備考:労働者の1〜数日分。子ども用でも普通に高い■磨いた石のビー玉 1個1〜2ファージング程度、数個で1〜2ペンス 生活価値換算 1個:約1,250〜5,000円 数個:約5,000〜20,000円 備考:小さな贅沢品■真鍮の飾りボタン数個 合計1〜3ペンス程度 生活価値換算:約5,000〜30,000円 備考:実用品兼飾り。庶民には気軽ではない■真鍮の指輪:1〜4ペンス程度 生活価値換算:約5,000〜40,000円 安物なら買えるが、子どもの衝動買いには高い■錫・ピューターの騎士人形 1体なら1〜3ペンス 数体セットなら4〜12ペンス程度 生活価値換算 1体:約5,000〜30,000円 セット:約20,000〜120,000円 備考:かなり贅沢。村の子向けではなく裕福層向け★おまけ。アーサーの隼セット ■鳥籠:鉄・木・白っぽい金属なら1〜3シリング程度 生活価値換算:約60,000〜360,000円 備考:かなり上等な付
ため息交じりにぼんやりと作業を続けるルーシーを、ウルフが最初に見つけた時、彼は――なぜこの娘が収穫で忙しいはずの夏に、たった一人でこんな場所にいるのだろうと不思議に思った。 だが、それ以上の興味は湧かなかった。 この森において、最大の異分子は自分の方なのだという自覚があったからだ。 ウェールズの辺境伯フィッツアランのもとを逃げ出したウルフには、身分証もなければ領主発行の通行証も一枚とてない。公道を歩けば即座に捕縛される身の上だ。今はひとまず、追手を撒くためにこの森に潜伏しているに過ぎない。 本来、ウルフのようなならず者がいれば、村の警備兵に早々に叩き出されるはずだった。 しかし、今のところ誰も近づいてくる気配はない。ウルフは拍子抜けするほどマイペースな日々を過ごしていた。 幸い、季節は夏。食べられる木の実こそ少ないが森はそれなりに豊かだし、川には魚が泳いでいる。 生きるための食料を得るのに、そう苦労はしなかった。 ウルフは自分が食べる分だけを適当に獲っては、木陰で泥のように眠る。皮肉にも、逃亡生活の中で彼は「スローライフ」を満喫していた。 辺境伯の兵士として明けても暮れても戦い続け、拳を人の血で染め抜いていた日々に比べれば、ここは天国も同然だった。 (……あとは、自由都市にでも逃げ込んで市民権を得れば、あいつの手から完全に逃げ切れるわけだが) 正式な市民権を得るためには、自由都市に逃げ込んで『一年と一日』を無事に過ごさなければならない。今滞在しているアッシュワースから最寄りの都市はブリストルだが、そこは海峡を挟んでフィッツアラン領の目と鼻の先だ。 敵の喉元で一年もやり過ごすのは、現実的ではないだろう。たとえ無事にやり過ごしても、迎えが来た時に後ろ盾がなければ連れて行かれ可能性の方が高いし……。 何より、この白い髪と赤い瞳は目立ちすぎる。追手に「見つけてくれ」と言っているようなものだ。 ならば、ロンドンのような大都市を目指すのも手だが、あそこまで行くには数週間の旅路を要する。移動の面倒臭さを考えると、どうにも腰が重かった。