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第6話

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大輔は若い女の体をそっと支えながら、産婦人科の診察室から出てきた。二人とも満面の笑みで、幸せがそのまま顔に浮かんでいる。

楓は一瞬で気づいた。――あの写真の女だ。

そのとき、先に楓の存在に気づいたのは女のほうだった。廊下に立ち尽くす楓を見るなり、驚き……そして、楽しげな悪意を瞳に灯らせた。

「まあ!桜井夫人じゃないですか?」

わざとらしく声を張り上げる。

「病院で会うなんて、すごい偶然ですね」

その声に、大輔が顔を上げた。視線が楓とぶつかった瞬間、彼の全身が固まる。

慌てて女の腕から手を離し、動揺が隠せない。

「楓!」

大輔は駆け寄ってきた。声が上ずっている。

「どうしてここに?部屋で休んでなきゃいけないだろ」

そして、矢継ぎ早に言い訳を重ねる。

「薬を取りに下に行ったら、たまたま智美に会ったんだ。新しい秘書で、妊娠してて……転びそうだったから、ちょっと支えただけだ」

空調の効いた廊下なのに、額にはうっすら汗がにじんでいた。

楓の視線は、智美のわずかにふくらんだ腹へ向かう。息が浅くなる。胸がきつい。それでも、表情だけは崩さなかった。

「智美さん」

楓は静かに言った。

「いつ妊娠されたんですか?お父さんは?こんな大事な検診、普通は一緒に来ませんか」

智美は誇らしげにお腹を撫で、甘い笑みを浮かべた。

「まだ二か月なんです」

嬉しそうに頷く。

「この子の父親は忙しくて来られなかったんですけど、伝えたらすごく喜んでくれて」

顔がぱっと明るくなる。

「私と赤ちゃんに、最高の生活をさせたいって。もう都心に素敵なマンションも買ってくれましたし、出産したらちゃんと籍を入れるって約束してくれてます」

一言一言が、楓の胸をじわじわと抉った。

智美はさらに、わざとらしく続ける。

「桜井夫人って、本当に幸せですよね。こんなに素敵なご主人がいらして」

小首を傾げ、無邪気を装ったまま。

「でも私の彼も負けてません。妊娠してから前より綺麗になったって、毎日言ってくれるんです。私のそばを離れるのがつらいみたいで」

そして、にこっと笑って言った。

「今日、私時間あるんです。よかったら夕食ご一緒しません?この子の父親も呼びますけど」

その視線は、露骨に挑発を含んでいた。

大輔の表情が一気に曇る。智美を鋭く睨みつけた。

「妻は忙しい」

突き放すような声だった。

「智美、彼氏が待ってるんだろ。心配させるな」

苛立ちと拒絶がはっきり滲む。

そう言うと、大輔は楓の肩を抱き寄せた。触れ方だけは優しい。心配する夫そのものだ。

「まだ回復途中だ。病院を歩き回るな」

穏やかな声で続ける。

「ただの秘書だ。気にする必要はない」

その冷たさに、智美の顔が歪んだ。目に涙が浮かび、急に幼く、か弱く見える。

「そうですね……」

声を震わせる。

「私なんかが桜井夫人と食事なんて、おこがましいですよね」

手の甲で目元を拭い、本当に傷ついたみたいに言った。

「もう行きますね。彼が心配するので」

背を向け、肩を小さく震わせながら去っていく。

一瞬、大輔の表情が揺れた。追いかけたそうな気配すらある。

――でも、楓が見ていることに気づいて、その場に留まった。

大輔は楓の頭を撫で、いつもの声で言う。

「安静にしてて。会社で急ぎの用事がある。悠真(ゆうま)に送らせるから、今日は休んで。夜にまた様子を見に来る」

三年間、何度も聞いてきた声。

病室に戻った直後、楓のスマホが震えた。送り主は――智美だ。

最初に表示されたのは妊娠検査薬の写真。くっきり二本のピンクの線。

続くメッセージを追ううち、楓の指先が震え始める。

【今日で分かったでしょ。お腹の子は大輔の。あなたが思ってるほど、彼はあなたを愛してない。本当に愛してたら、私が彼の人生にいるはずないでしょ?】

【知ってる?あなたの誕生日も結婚記念日も、あなたが寝たあと、彼は毎年私のところに来るよ。すごく激しくて、情熱的で……翌日は歩けないくらい】

【車でも、会社でも、あなたが留守の間は寝室でも。あなたにはしてないこと、全部私にはしてくれる。ねえ楓、彼はあなたと本気でしたこと、ある?それとも情熱は全部、私だけのもの?】

残酷な文字列を目で追うたび、楓の中で何かが音を立てて崩れていった。スマホを置く手が震える。

ゆっくり息を吸って、吐く。込み上げる感情を必死で押さえ込む。

その夜。大輔が白く上品な箱を抱えて戻ってきた。

中には、市内でも屈指の高級フレンチパティスリーの苺ムースケーキ。かつて楓が、いちばん好きだったデザート。

「楓、好きだろ?」

反応を探るように言う。

「まだ体力が戻ってないって先生が言ってた。甘いもの食べて、元気出さなきゃ」

箱を開けると、淡いピンクの繊細なケーキが現れた。

以前なら、楓は目を輝かせて喜んだはずだ。「綺麗すぎて食べられない」なんて言って。

でも今は、見ただけで胃がむかついた。

銀のフォークを手に取り、無表情でひと口運ぶ。甘味が重く、口の中にまとわりつく。飲み込めない。

楓は黙って立ち上がり、ケーキごとゴミ箱に放り投げた。鈍い音と共に、綺麗なケーキが、崩れて落ちた。

大輔は呆然と楓を見つめた。

「楓……どうしたんだ?」

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