ログインインターンの青木葵(あおき あおい)が会社の祝賀パーティーで大勢の前で転んだ。ただそれだけの理由で、社長で私の恋人である中山涼太(なかやま りょうた)はその日のうちに彼女との入籍を公表した。 私、長谷川若葉(はせがわ わかば)が怒りに任せて涼太を問い詰めると、彼は呆れたようにこう言い放った。 「葵は世間体が気になる性格なんだ。みんなの前で恥をかいたままじゃ立ち直れないだろう?社長として部下のメンタルをケアするのも仕事だし、会社の利益のためでもあるんだよ。 それに、ただ入籍しただけだろ。形式上のことなのに、なんでそんなに目くじらを立てるんだ?」 涼太のあまりに不機嫌そうな言い方に、私は初めて何も言い返せなかった。 次の瞬間、スマホに葵からメッセージが届いた。二人で結婚指輪を見せびらかしている写真に、こんな言葉が添えられていた。 【あなたが1年かけて特注した指輪ですって?別に大したことないですね。涼太さんが明後日、F国へ私のために指輪を作りに連れて行ってくれるんです。このガラクタよりずっと素敵でしょう】 私は拳をきつく握りしめた。私が涼太のために心を込めて用意した指輪を、よりにもよって葵に渡すなんて。 涼太は黙り込んだ私を見て、こう慰めた。 「ほら、ただの紙切れ一枚だろ?1ヶ月でも経てば役所で手続きして離婚するから。そうしたらすぐにお前と入籍して、盛大な式を挙げよう」 涼太がもう99回目となる約束を口にするのを聞いて、私は思わず鼻で笑った。 「もういいわ。別れよう」
もっと見る涼太は自分の判断力のなさを疑い始めた。このどうにも動けない状況は、自業自得だ。涼太は俯いて葵を見た。葵は血の気がなく真っ白で、目の下にはくっきりと青い隈ができていた。目立った外傷はないものの、見た目には相当やつれている。それでもなお、自分に盾突く度胸を見せていた。葵ははっきり言った。自分を信用していない、と。もし要求を飲まなければ、彼女は意地を通して、絶対に離婚届にサインしないだろう。もし自分に葵との間に子供ができれば、若葉は一生、よりを戻すことなんてありえない。望みをかけられるのは、葵を追い詰めて精神的に崩壊させ、無理やりサインさせることだけだ。とはいえ、本当に葵を命の危険に晒すわけにもいかない。どこにも逃げ道はない。涼太は完全に詰んでしまった。ふと、若葉と別れた時の言葉がよみがえった。「涼太、今回は葵さんが転んだだけで入籍したのね。次は彼女が怪我でもしたら、二人で子供を作る気?」言葉通りになってしまった。今、葵はまさに自分に子供を産ませようとしているのだから。これが報いだったのか。涼太は疲れ切った様子で葵に言った。「こうなれば、二人で一生かけあって過ごすしかないな」葵は口角を上げた。「今や、決定権をお持ちなのは涼太さんの方ね」涼太と葵は、2ヶ月間お互いに泥沼のような戦いを繰り広げていたが、勝負はつかなかった。これらのことは、すべて智子から耳に入ってくる話だ。結局、葵との状況に行き詰まった涼太が、遠回しに私に弱みを見せて同情を引こうとしているだけだろう。聞き終えてから、私は首を横に振った。「智子ちゃん、私と涼太の間にはもう何もないわ。彼のために気を利かせる必要なんてないから」智子はクスクスと笑った。「先輩、気を使っているんじゃないですよ。彼が受けている天罰について報告しているだけです。今はもうその奥さんにがんじがらめになっていて、下手したら1年は抜け出せないんじゃないですかね。自分で選んだ相手だし、自分で結婚を望んだ結果です。まさに自業自得のフルコースですよ!」私は微笑むだけで、何も言わなかった。涼太と別れたあの日から、彼に関する知らせには一言たりとも耳を傾けたくないと思っている。涼太が幸せだろうが破滅しようが、私とは何の関係もないことだ。私は窓の外に目を移し、
涼太は離婚届を突き出した。「署名しろ。そうすれば自由になれる。これまで贈ったものはそのままやるし、もし外国へ行きたいなら航空券も買ってやる。だが、それ以外に渡すものは何もない。もっとも、これまでにあげた分で、一生金に困ることはないだろう?」葵は離婚届に目もくれなかった。「私が署名したら、本当に解放してくれるの?」涼太はうんざりした様子で言った。「嘘をつくとでも思っているのか?」葵は離婚届を叩き落した。「私が署名して身一つになったら、守ってくれるものは何もなくなるわ。あなたはまた人を差し向けて私を苦しめ、それをネタに若葉さんへ忠誠心を見せつけるつもりでしょ?」涼太の表情が強張った。「何を馬鹿なことを言っている?」葵は目を閉じ、力なく笑った。「図星のようね」涼太は歯を食いしばった。「つまり、署名するつもりはないということか?」その声に含まれた殺気に触れても、葵は不思議なくらいに恐怖を感じなかった。「署名するわ。ただし、条件がある。あなたの子を産むわ」涼太は目を見開いた。「お前、頭がおかしいのか?離婚するって言っているのに、なぜ子供が必要なんだ?」葵は淡々と言った。「あなたの子を産み、無事に生まれてきて、あなたの家族に引き渡した時点で、すぐに離婚届に署名する。子供を引き取らせろとは言わない」涼太は葵の首を絞め上げた。「離婚させることしか考えていないと思っているのか?今すぐ死なせることもできるんだ」息苦しさの中でも、葵は途切れ途切れに答えた。「いいわよ、そうしても。やってみたら?それが若葉さんの心に、消えない棘として残るのかどうかを。一回目で運悪く死んだと思わせられても、二度目はどうかしら?もしそうなれば、もう若葉さんはあなたのそばに帰ってこないはずよ」涼太はたまらず手を離した。肺に空気を吸い込み、葵は激しく咳き込みながら言った。「中山家に留まるか、それともあなたの子供を生むか。これが私にとっての保険よ。そうでなきゃ、離婚して外に出された途端、私がどうなるかなんて保証がないもの」中山家は代々続く一族だ。子供を産めば、若葉がどれだけ自分を憎もうとも、涼太がどれほど薄情であろうとも、夏美と和子は子供を見捨てるはずがない。後継ぎを守るためにも、中山家は自分を守らざるを得なくなる。涼太がどんなに自分
涼太の気性をよく知る葵は、自分が今や彼の目障りな存在であることを理解しており、戻れば無事でいられるはずがないと悟っていたからだ。手首を砕かれた記憶がよみがえり、葵は身を震わせた。「いやだ。絶対行かない!」ボディーガードは無表情のまま返した。「まだ涼太様と離婚していませんので、同じ家で暮らすのは当然なのでは?行きましょうか」ボディーガードの態度は強硬だった。相談を持ちかけるような口ぶりだが、実のところ葵に拒否権などなかった。中山家に連れ戻された後、涼太は容赦なく葵を地下室に投げ込み、1週間そのまま閉じ込めた。その1週間、葵にとってそれはまさに、死ぬほど辛い時間だった。涼太は二度と葵の手を折ることはしなかったが、常に張り詰めた神経で追い詰めていった。熟睡したところへ突如強烈な照明を浴びせて起こされることを何度か繰り返され、葵は半ばノイローゼ状態に追い込まれた。眠ることを許されないという恐怖。睡眠が奪われることこそが一番の拷問だと、葵は思い知らされた。ある食事の時間、出されたのは芯が残った硬い麺だった。食べたくなかったが、断ることも出来ず、仕方なく半分ほど口にした。葵を見張っていたボディーガードが器を蹴った。「涼太様は残すなと言ったはずです」葵は悔しさを飲み込み、無理やり麺を完食した。硬い麺はほとんど噛めず、喉に押し込むように呑み込んだ。食後、ボディーガードは時計を見た。「今は17時ちょうどです」葵にはその意味がわからなかった。一時間後、ボディーガードたちが視線を交わし、突如として葵の体を縛り上げた。葵は悲鳴を上げて抗議した。「一体、何をするつもり?」ボディーガードはその問いを無視し、逆さ吊りにした。得体の知れない恐怖が、葵の限界を超えていく。懸命に抵抗しても、相手は鼻で笑うだけだった。「無駄ですよ。ここは防音室だから、どんなに叫んでも、外には一切聞こえません」葵は深い絶望に打ちひしがれた。ところが、ボディーガードたちは彼女を吊り上げたあと、何もせずそのまま部屋を出ていった。見逃してくれたのかと疑ったが、そうではなかった。すぐに、それが始まりに過ぎないことを葵は知る。消化されなかった硬い麺が、喉からせり上がり、鼻から逆流してきたのだ。鼻腔の粘膜は非常に弱く、その苦しみは
高そうなワンピースで、クリーニングに出すべきだったけれど、今の葵にそんな気力はなかった。今日の喧嘩で、体はあちこち痛んでいた。腰にはくっきりとした青あざができているし、顔の傷はもっと酷い。真帆に張り倒されて腫れ上がり、さらには机の角で顎までぶつけていた。鏡に映るみすぼらしい自分の姿を見て、葵は立ち尽くした。どうしてこんなところまで落ちぶれてしまったんだろう?洗濯機が揺れ始めた。注意散漫だったのか、スマホをポケットに入れたままにしてしまったらしい。誰かから通知が届かなければ、そのまま一緒に洗うところだった。スマホを手に取ると、昼間の取引先の社長からだった。例の「ビッグプロジェクト」についての問い合わせだ。昼間よりさらに下手に出る様子で、協力できれば「恩に報いる」という甘い誘惑が書き込まれていた。その「恩に報いる」が何を意味するのか、葵は痛いほど分かっていた。今までも、何度も同じような誘いを受けてきたのだから。適当な言い訳で断ろうかと考えた。そもそもこれは嘘のハッタリで、相手を繋ぎ止めてもう少し優遇してもらうための手立てだった。ところが、メッセージを打ちかけて、指は送信ボタンの上で止まった。今日味わった屈辱が込み上げてくる。こんな生活をあとどれだけ続ければいいの?仮にしばらく上手く誤魔化せたとしても、また会社に戻らなければならない。行けばまた難癖をつけられ、いじめられるだけだ。それに涼太はいずれ戻ってくる。彼が戻って来れば、状況が良くなるなんてありえるの?それとも悪くなる一方なのか?葵の心は沈んだ。涼太が戻ってくれば、間違いなく今の地獄が待っているだけだ。若葉を連れ戻したところで、自分の鬱憤を晴らすために八つ当たりされるだろう。若葉を連れ戻せなければ、すべての過ちは自分にあるとして、同じようにサンドバッグにされるのは目に見えている。逃げるしかない。ここから逃げ出さなければ。そう決意すると、葵はさっきまで打っていた文章を全て消し、綿密に練り上げた嘘のメッセージを打ち込んで送信した。スマホを置いてから、心臓は激しく波打っていた。涼太、全部あなたのせいよ。……涼太が帰国してほどなくして、葵は確保された。プロの犯罪者でもないのに、被害額があまりにも大きかったためすぐに逮捕された。巻き取った6億もそのまま
涼太は無理に起き上がり、使用人を呼ぼうとした。莉子が弁当箱を持って部屋に入ってきた。「藤本さん、若葉はどこだ?すぐに呼んでくれ」涼太は枯れた声で命じた。莉子は溜息をつくと、水を差し出し、涼太が飲み終えるのを待ってから口を開いた。「若葉様には、どうしても連絡が取れないです」「なぜあの家から火が出たんだ?安全管理はどうなっていたんだ?」莉子は言い訳をしようとしたが、言葉が詰まってしまった。彼女は潔くタブレットの監視カメラ映像を、涼太に差し出した。「涼太様、こちらが火災直前の映像です」涼太は眉をひそめた。また監視カメラか、と内心で思う。訝しげながらも、タブレッ
涼太はそれを聞くとすぐに立ち上がり、出て行こうとしたが、葵に引き止められた。どうやら葵も莉子の言葉を耳にしていたようだ。「涼太さん、騙されちゃだめよ。若葉さんは今日、家でゆっくり休んでいるはず。火が出るなんておかしいわ。嘘に決まってる、あなたを試しているだけよ。それに、今日これだけ大勢の招待客がいるのに、突然席を外すなんて。自分のことはともかく、中山家の面子を潰すようなものよ。礼儀に厳しい方々ばかりだし、今ここでいなくなったら、ただの損失では済まないわ。それにしても若葉さんもどうかしてるわ。嫉妬のあまり、火事だの死人が出ただのなんて……やりすぎですよね」その言葉を聞き、涼太
涼太は鼻を覆って言った。「これは葵が一生懸命お前のために見繕ってきたんだ。その気持ちを無下にするんじゃないぞ」口に詰められた布は取り出されたが、痛みでもう声も出ず、虚ろな目で天井を見つめるしかなかった。葵は得意げに言った。「涼太さん、見て。この方法は本当に効果抜群ね、若葉さんもちゃんと大人しくなったわ」涼太はそれに頷き、使用人から氷嚢を受け取ると、そのまま葵を連れて階下へ降りて行った。私はかつて踏み折られた自分の手を見下ろした。たとえ治っても、その時の痛みは心の奥底にずっと残ったままだ。私は手をぎゅっと握りしめ、わずかな荷物を見つめた。これが7年間の全てなんて、信じ
しかし涼太と葵が結婚を発表したその日、葵はしたともストーリーズで、マンションの権利書を晒しこう綴った。【ありがとう。結婚前にマンションなんて最高】だがそれは24時間もたたないうちに消されてしまった。涼太はまるで何もなかったように装い、もし周りが気づいていたとしても、隠すつもりの涼太が私に真実を話すはずもなかった。莉子もきっと知っていたはずだが、私には一言も漏らさなかった。これが、私がここを離れようと思う最後の引き金になった。私はこの関係にどうしようもなく苦しんでいる自分に気づいた。涼太の方を少し多く好きでいることや、過ごしてきた7年という月日の重みのせいだけではなかったのだ。
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