LOGIN五分後。
スマホが鳴った。
さやかだった。
私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。
『で?』
開口一番だった。
「何が」
『何がじゃないでしょ。気になるの?』
私は目を閉じた。
「……分からない」
『お、正直』
「そういう意味じゃないよ」
『そういう意味じゃないのは分かってる』
さやかの声は、茶化しているようで、ちゃんと現実を見ていた。
『拓也さんと別れたばっかだし、今すぐ誰かどうこうって話じゃないでしょ』
「うん」
『でも、気になるんでしょ』
その問いに、すぐ返せなかった。
じゃあ何。
それを私が一番知りたい。
私はソファの上で膝を抱える。
「……疲れるの」
『何が?』
「全部」
自分で言って、少しだけ笑ってしまった。
でも、笑えなかった。
「やっと終わったと思ったの」
電話の向こうで、さやかが黙る。
私は続ける。
「拓也と別れて、部屋も出て、仕事も忙しくて。とにかく一回、自分の生活だけ考えようと思ってたの」
『うん』
「恋愛とか、結婚とか、誰かと暮らすとか。そういうの、しばらく考えなくていいと思ってた」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
拓也とは三年付き合った。
同棲もしていた。
結婚の話も、何度もした。
私がすぐに決断できなかっただけで。
でも、いつかはそうなるのだろうと、どこかで思っていた。
来年も。
その次も。
週末にスーパーへ行って、同じ部屋へ帰って、何でもないことで少し喧嘩して、翌朝には普通にコーヒーを飲む。
そういう未来が、なんとなく続くと思っていた。
「別に、今でも拓也が好きとかじゃないの」
それは本当だった。
戻りたいとも思わない。
別れた理由も理解している。
でも。
「好きじゃないから平気ってわけじゃないじゃん」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
たぶん、ずっと認めないようにしていた。
仕事をして。
引っ越して。
前を向いているつもりだった。
でも、三年積み上げた生活が終わったことは、ちゃんと痛かった。
それだけの話だった。
『愛子』
さやかの声が少しだけ柔らかくなる。
『最近、結構無理してたでしょ』
「してない」
『してた』
「してないって」
『引っ越しまで早かったもん』
私は黙った。
そうだった。
別れてから、かなり早く部屋を決めた。
考える時間を作りたくなかった。
拓也の荷物がなくなった部屋に一人で残ることも。
二人で選んだ家具を見ることも。
休日の朝に、もう誰もいないキッチンでコーヒーを淹れることも。
全部、嫌だった。
だから動いた。
仕事をして。
部屋を探して。
契約して。
引っ越した。
立ち直ったふりをするには、予定を詰めるのが一番簡単だった。
***
「……だからさ」
私はタンブラーへ視線を落とす。
「今、元カレがどうとか、そういう話じゃないんだよ」
『うん』
「翔太がどうこうじゃなくて、もう恋愛のこと考えたくないの」
そこまで言って、少しだけ息が詰まる。
「なのに、隣にいるの」
『それは確かにきつい』
さやかが即答した。
その雑な優しさに、少しだけ救われる。
「でしょ」
『しかも顔がいい』
「そこ本当に最悪」
『まだいいんだ』
「いいよ。そこはもう認める」
さやかが笑う。
私も少しだけ笑った。
でも、胸の奥の重さは完全には消えなかった。
『でもさ』
さやかが言う。
『翔太くんは普通なんでしょ?』
「普通」
私は即答した。
「それが腹立つ」
『何で』
「もっと気まずそうにしてくれたらいいのに」
本音だった。
「怒ってるなら怒ってるでいいし、避けるなら避けるでいい。でも普通なの。何事もなかったみたいに」
『うん』
「こっちだけ変に意識してるみたいで嫌」
私はクッションを抱え直した。
テーブルの上の紺色が視界に入る。
「しかもさ」
『うん』
「コーヒー持っていきます?って言われて、普通にもらって帰ってきた」
『は?』
「分かる」
『何してんの』
「分かってるって」
私は額を押さえた。
「本当に何してるんだろうって思ってる」
『部屋入ったの?』
「入ってない」
『そこは偉い』
「偉いとかじゃない」
『いや、今の愛子的には偉い』
「何それ」
少し笑ってしまう。
でも、笑いながら、どこかで自分に呆れていた。
ただの隣人。
そう距離を置きたいなら、コーヒーなんてもらわなければよかった。
持っていきます?と言われた瞬間に、いらないと言えばよかった。
なのに受け取った。
自然に。
本当に自然に。
その自然さが一番嫌だった。
私の中に、まだ翔太を完全な他人として扱いきれていない部分がある。
それを認めざるを得ないから。
『愛子さ』
さやかが言う。
『好きとか復縁とか、そこは一回置いといて』
「置くんだ」
『置く。今そこ決める話じゃない』
その言い方が妙に真面目で、私は少しだけ黙った。
『たぶん今、誰かに優しくされると揺れる時期なんだよ』
「……」
『拓也さんと別れたばっかだし。愛子、ちゃんと傷ついてるのに、仕事と引っ越しで無理やり進めてるから』
その言葉は、思ったより深く刺さった。
ちゃんと傷ついてる。
そう言われて初めて、自分がそこを飛ばしていたことに気づく。
『だから翔太くんがどうこうっていうより、今の愛子が危ない』
「何それ」
『弱ってる時に元カレが隣は事故』
「本当に事故」
『しかも顔がいい』
「やめて」
『しかもコーヒーくれる』
「やめてって」
さやかが笑う。
私はクッションへ顔を埋めた。
笑える。
笑えるのに。
笑い切れない。
***
通話を切ったあと、部屋は急に静かになった。
私はしばらくソファから動けなかった。
翔太を好きなわけじゃない。
それは本当だと思う。
でも、だからといって平気なわけでもない。
拓也と三年付き合ったこと。
結婚を考えていたこと。
その未来がなくなったこと。
翔太と再会した動揺。
引っ越したばかりの落ち着かなさ。
全部がまだ、自分の中で片付いていない。
そこに気づいてしまった。
テーブルの上のタンブラーへ手を伸ばす。
まだほんの少し温かい。
蓋の端の擦り傷を、また指でなぞる。
知らない五年間。
知らない生活。
知らない翔太。
知りたいわけじゃない。
そう思う。
でも、知らないことに気づいてしまった。
それが厄介だった。
その時だった。
インターホンが鳴った。
私は動きを止める。
昼過ぎ。
宅配の予定はない。
嫌な予感がした。
ものすごく。
ドアスコープを覗く。
外に立っていたのは、翔太だった。
片手にスマホ。
もう片方の手には、小さな紙袋。
私は額をドアに軽く当てた。
「……だから、何で来るのよ」
壁一枚向こうの男は、こちらの都合なんて知らない顔で、また私の生活に入り込んでくる。
私は深く息を吸って、ドアノブへ手を伸ばした。
なんか、あっさりと解決して変な感じがする。昔からそうだった。変に機械に強いから。こういうのはすぐに、触って解決してくれていたことを思い出す。それに、翔太は相変わらず変わらない。困っていると、言葉より先に手が動く。方向が少し独特でも、ちゃんと助けようとしてくれる。その感じが懐かしくて、少しだけ胸が温かくなる。その時。翔太がふと、眉を寄せた。「ていうかさ」さっきまで機械を触っていた時より、少しだけ声の温度が違った。私は顔を上げる。「何?」翔太は工具ポーチを手にしたまま、少し姿勢を正した。袖をまくった腕が見える。仕事帰りなのに、立ち姿が妙に綺麗だった。少しだけ落ちた前髪。疲れているはずなのに整った顔。低い声。普通に、腹が立つくらい相変わらず顔がいい。「危ないからね」「え?」「俺だからいい、じゃなくて」翔太の視線がまっすぐ来る。「男の人を、簡単に家に入れない方がいいよ」落ち着いている。でも、少し怒っている。私は一瞬だけ言葉に詰まった。いや。怒られている。怒られているんだけど。……顔が、とにかく良い。なんで説教してるだけなのに、こんなに顔がいいの。しかも、低い声。近い。さっきまで床にしゃがんでいたから、距離感がおかしくなっている。元彼なのに。今さら。何でちょっとドキッとしてるんだろう。「いや、でも翔太じゃん」私は言う。言いながら、自分でも自然すぎると思った。翔太。元彼。隣人。安全な人。だから呼んだ。そういう感覚だった。でも、翔太の表情が、ほんの少しだけ止まった。その一瞬が、妙に印象に残る。少しだけ、傷ついたような顔。でも、すぐ戻る。「俺でも、です」静かな声だった。「元彼でも男だからね」その言い方が、少しだけ低かった。真面目で。ぶっきらぼうで。なのに、妙に色気がある。何それ。前、こんな感じだった?いや、違う。前はもっと子どもだった。感情が先だった。でも今は。落ち着いていて。余裕があって。ちゃんと叱る。しかも、妙に男っぽい。私は少しだけ目を逸らした。困る。普通に困る。Wi-Fiを直してもらって。説教されて。何でちょっとドキドキしてるんだろう。気持ちが、カオスだ。「……なんか、ごめん」思わず言うと、翔太が少し息を吐いた。「謝
水曜日、二十三時過ぎ。私は部屋で仕事をしていた。イベント後の追加提案資料。クライアントからの質問対応。次回施策のたたき台。少し落ち着いたはずなのに、結局やることは減らない。ローテーブルにはPC。横には、すっかり冷めたお茶。ソファの上には、脱いだカーディガンが丸まっている。髪は適当にまとめただけ。メイクも半分落ちている。完全に家モードだった。「ここ、明日の朝までに……」そう呟きながら資料を開いた、その時だった。画面が止まった。「……え?」ブラウザが読み込まない。社内チャットも止まる。Wi-Fiの表示が消える。私は一瞬、固まった。「嘘でしょ」ルーターを見る。再起動する。待つ。変わらない。もう一度。変わらない。「いやいやいやいや」声が大きくなる。明日の朝までに出したい資料がある。今止まるのは本当に無理だった。「何で今なの!?」自分でも少し引くくらいの声が出た。その数秒後。スマホが震えた。翔太だった。『なんかあった?』私は画面を見て、固まった。聞こえていた。最悪。今さら自分の声量を自覚して、顔が熱くなる。『ごめん、うるさかったよね』『Wi-Fi死んだ』送ってから、指が止まった。こういう時。少し前なら、正人に連絡していた。Wi-Fi死んだ。助けて。たぶん、それだけで来てくれた。「またかよ」と言いながら。勝手にルーターを見て。必要ならコンビニで何か買ってきて。ついでに「飯食った?」まで聞いて。そういう距離だった。でも今は、送れない。送ってはいけない気がする。正人が、自分のために線を引いてくれているのが分かるから。困った時だけ前の距離に戻ろうとするのは、ずるい。そう思うと、胸が少し痛んだ。スマホがまた震える。『ルーター見ようか?』短い文面。私は画面を見たまま、少し止まった。そういえば。昔から翔太は、こういうのが得意だった。理系で。機械に強くて。PCの設定やスマホの不具合も、ぶっきらぼうに直してくれた。「何でそんなことも知らないの」と言いながら。でも、最後までやってくれる。言葉は足りないのに、手は止めない人だった。少し迷った。でも、もう背に腹は代えられなかった。『助けて』『ほんとに無理』送った後、少しだけ息を止める。すぐ返信が来た
「重そう」「大丈夫」と言う前に、袋はひょいと翔太の手に移っていた。私は止まる。「え?」「軽いものを、なんか重そうに持ってるから」軽い声だった。恩着せがましくない。当たり前みたいに言う。「大丈夫だってば」「今日の顔なら落としそうなんで」「顔で判断しないでよ」「でも、だいたい当たるからね」そう言って、翔太は私の部屋の前まで歩いた。昔の翔太なら、こういう優しさはもっと雑だった。ぶっきらぼうで。勢いで。少し不器用で。でも今は違う。ちゃんと見ている。余裕がある。急がない。その何でもない動きが、少しだけ男っぽく見えた。「……ありがとう」部屋の前で袋を返され、私は小さく言った。翔太は少し肩をすくめる。「今日くらいは」それだけ。でも、胸に残る。「色々考えないで、寝た方がいいよ」翔太が言った。「ミスした日って、無駄に考えるから」私は少し笑う。「経験者?」「かなりだいぶ」その言い方が、少しだけ柔らかかった。「明日にはたぶんどうでもよくなってる」「それ、さっきも言った」「大事だから」「正人みたいなこと言うね」言ってから、少しだけ止まった。名前を出すつもりはなかった。翔太は表情を大きく変えなかった。ただ、目元だけがほんの少し静かになる。けれど、すぐに軽く笑った。「じゃあ効果あるね」その返しに救われる。踏み込まない。でも、逃げもしない。「……ありがと」私がもう一度言うと、翔太は頷いた。「おやすみ」「おやすみ」ドアを閉める。部屋の中は静かだった。私はコンビニ袋をテーブルに置いて、ソファへ沈んだ。疲れた。でも、少しだけ気持ちが軽い。今日、正人は助けてくれた。ちゃんと。仕事としても、私が困らないようにも。でも、遠かった。翔太は、特別なことをしたわけじゃない。エレベーターで少し話して、袋を持ってくれて、ミスなんて明日にはどうでもよくなると言っただけ。それなのに、少し楽になった。不思議だった。いや、不思議じゃないのかもしれない。今の正人といると、私は自分の曖昧さを見てしまう。正人が引いてくれていること。それに寂しくなっていること。でも近づかれたら答えられるか分からないこと。全部が、正人の優しさで浮き彫りになる。翔太といると、そこから少しだけ逃げられる。終わ
月曜日。イベントの熱が、ようやく少しずつ引き始めていた。報告資料も山を越え、クライアントへの一次共有も終わった。チーム全体に残っていた張り詰めた空気も、少しだけ緩んでいる。本来なら、私も同じように息をつけるはずだった。けれど、仕事が落ち着いた分だけ、頭の中に余白ができた。その余白に、考えたくないことばかりが入り込んでくる。正人のこと。翔太のこと。正人が遠いこと。翔太と話す時間が、前より楽になっていること。考えたくないのに、気づけばそこへ戻ってしまう。そんな状態だったからか、私は珍しく小さなミスをした。「……あ」メールを送信した直後に、添付ファイルが古いことに気づいた。しかも相手はクライアントだった。致命的ではない。すぐ訂正すれば済む。でも、地味に嫌なミスだった。私は目を閉じて、数秒だけ呼吸を止めた。最近、頭が散っている。仕事が落ち着いたせいだ。考える時間が増えたせいだ。そう思いたかった。「平原さん?」隣の席の後輩が声をかけてくる。「大丈夫ですか?」私は小さく息を吐いて、PCへ視線を戻した。「大丈夫。古いファイル送っちゃっただけ」そう言いながら、全然大丈夫じゃないなと思った。すぐに訂正メールを作る。件名。謝罪。差し替えファイル。念のための補足。それだけのことなのに、指が少し止まる。前なら。こういう時、正人が気づいていた。「顔やばい」「何した」「見せて」雑なのに、ちゃんと見ていた。気づけば横に来て、PCを覗き込んで、「これならまだリカバれる」と言いながら勝手に段取りを組んでくれた。その近さを、私は当たり前に受け取っていた。今は、ない。正人は少し遠い。少しして、正人が会議室から戻ってきた。資料を片手に席へ戻ろうとして、私の顔を見た瞬間、ほんの少し足を止める。「何かあった?」ちゃんと気づく。やっぱり、気づくんだ。そのことに少し安心してしまう自分がいて、すぐに嫌になる。私は苦笑した。「地味にやらかした」「何」「古いファイルを最終版として送った」正人はすぐに状況を把握した。けれど、前みたいに私の肩越しへ近づくことはなかった。少し離れた位置から、画面に表示された件名と添付名を見る。その距離が、はっきり前とは違う。「……まあ、大丈夫」静かな声だった。「今なら
翔太は前を向いたまま続けた。「気持ちって、自分が分かってても扱うの難しいのに」少しだけ、口元が動く。笑ったわけではない。でも、どこか苦さを含んだ表情だった。「相手がいると、余計に難しいですよね」私は何も言えなかった。「自分の気持ちを無視しすぎても、どこかで無理がくるし」翔太はそこで、ほんの少し息を吐いた。「でも、自分の気持ちだけを優先すると、相手を傷つけることもあるし」その言葉は、妙に重かった。説教ではない。一般論みたいに聞こえるのに、どこか本人の身体を通った言葉のように感じた。翔太は、こちらを見た。まっすぐではあるけれど、押しつける視線ではなかった。「歳を重ねるって、たぶんその辺ちゃんと考えることなんだと思います」「その辺?」「自分の気持ちをなかったことにしないことと、相手を傷つけないことの両方」少し間を置く。「どっちかだけなら、たぶん楽なんで」私は言葉を失った。こんなことを言う人だったっけ。翔太は、こんなふうに考えて話す人だっただろうか。昔の翔太はもっと感情が先に出る人だった。好きなら好き。嫌なら嫌。寂しければ不機嫌になる。傷ついたら、少し乱暴な言葉で隠す。そういう人だった。でも今の翔太は違う。自分の感情をちゃんと持っている感じがする。それを無理に隠しているわけでも、相手にぶつけるわけでもない。相手が受け取れる距離を測って、言葉を置いている。「ただ」翔太は少しだけ声を落とした。「相手がちゃんと距離取ってくれてるなら、たぶんかなり頑張ってると思うんで」正人の顔が浮かんだ。雨の日、タクシーを呼んでくれた正人。傘に入れようとはしなかった正人。会議室で向かい側からPCを回した正人。「普通に」と言った正人。「そこだけは、なかったことにしない方がいいと思います」翔太の声が、静かに落ちる。私は何も言えなかった。正人のことを言われているように感じた。名前は出ていない。でも、分かる。分かるのに、その言葉をくれた翔太の表情が、なぜか胸に残った。少しだけ苦そうで。でも、ちゃんと飲み込んだ顔。もしかしたら、翔太も何かを飲み込んでいるのかもしれない。そう思いかけて、すぐにやめた。考えすぎだ。今、翔太は私の相談に答えてくれているだけ。それ以上の意味を乗せるべきじゃない。「……翔太
金曜日。仕事が少し落ち着いた分、考える時間が増えた。それが、いちばん厄介だった。私は部屋のソファに座ったまま、しばらくスマホを見ていた。正人からの連絡はない。正確には、仕事の連絡はある。これ確認お願いします。月曜、報告書詰めよう。丁寧で、普通で、少し遠い。正人はちゃんと線を引いている。思っていたよりも、ずっとちゃんと。そのことに、私はまだ少し動揺していた。自分が避けた。正人を困らせた。普通にしてほしいと、どこかで思っていた。なのに、本当に距離を取られると寂しい。勝手すぎる。そう思う。でも、寂しいものは寂しかった。正人は近すぎた。近すぎて、そこに恋愛という名前を置いたことがなかった。仕事の家族。親友。自分が何も言わなくてもわかってくれる人。失いたくない人。でも。恋人になりたいのか。その問いだけが、どうしても答えられない。手を繋ぎたいのか。触れたいのか。休日に二人で出かけたいのか。正人を、男として見ていたのか。考えようとした瞬間、頭が止まる。わからない。考えたことがなかった。それが、一番ひどい気がした。正人は、ずっと苦しかったのに。自分だけ、曖昧な場所に立っている。スマホを伏せる。部屋の中は静かだった。静かすぎると、考えたくないことばかりが大きくなる。「……走ろ」考えるのをやめたくて、私は立ち上がった。***夜のジムは、思ったより静かだった。ランニングマシンの低い音。白い照明。床に落ちる足音。少し湿った汗の匂い。私はイヤホンをつけて、ゆっくり走り始めた。身体を動かせば、頭も少し黙る気がした。でも、そう簡単にはいかない。正人の顔が浮かぶ。雨の日、タクシーを呼んでくれた横顔。前なら送ってくれたのに、と勝手に思ってしまった自分。黒い傘を持っているのに、差さずに私を見送った姿。それから、翔太の顔が浮かんだ。定食屋で向かいに座っていた時の、落ち着いた目。「落ち着いてからでいいです」と言った声。自然に会計を済ませた背中。普通に働いてるんで、と笑った顔。そこで私は、走る速度を少し上げた。何で翔太まで出てくるの。関係ない。今考えるべきなのは、正人のことだ。息が少し上がる。足音だけを聞こうとする。その時、隣のマシンに誰かが乗った。視界の端に、黒いTシャ







