All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 1 - Chapter 10

40 Chapters

第1話:隣の男は、最悪の元カレ

段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。白い壁。まだ何も掛かっていないカーテンレール。大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。ほんの少し背伸びして契約した、職場からタクシーで十分の築浅マンション。家賃は安くない。でも、今の私にはそれくらい必要だと思った。仕事から帰ってきて、誰にも気を遣わずに眠れる場所。同棲していた部屋の記憶を、少しずつ剥がしていける場所。三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度ちゃんと自分を立て直すための場所。そのはずだった。「……よし」小さく呟いてみたものの、声は思ったより頼りなかった。引っ越し初日。本来なら、新しい生活に胸を躍らせる日なのかもしれない。けれど私の身体は、鉛を流し込まれたみたいに重かった。朝から引っ越し業者の対応をして。前の部屋の退去立ち会いをして。不動産会社で鍵を受け取って。電気とガスを確認して。ネットの設定で一時間格闘した。そのあいだにも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。『確認お願いします』『今日中に戻せますか?』『先方が急ぎで見たいそうです』急ぎじゃない仕事なんて、この世の中に存在するのだろうか。私はスマホを裏返し、段ボールの上に置いた。画面が見えなくなっただけで、ほんの少し息がしやすくなる。本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。失恋して。同棲を解消して。三十二歳の誕生日に、人生の予定表を真っ白に戻された女には。それくらい許されてもいいはずだった。元恋人の拓也は、最後まで穏やかだった。責めもしなかった。泣きもしなかった。ただ、少し疲れた顔で言った。「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」その言葉を思い出すと、胸の奥がきゅっと縮む。生きていける。たしかに、そうかもしれない。仕事はある。収入もある。重い荷物だって業者に頼めるし、家具も家電も自分のカードで買える。けれど。生きていけることと、寂しくないことは違う。泣くほどではないのに、すごく疲れているせいで、涙の輪郭だけが薄く滲む。そういう自分が嫌だった。強くなりたくて、強くなったわけじゃない。ただ、仕事を落とさないようにして。誰かの期待に応えて。無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか誰にも頼れない女になって
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第2話:誰かと思えば

翔太もまた、私を見ていた。驚きは、ほんの一瞬だけだった。すぐに彼は口元だけで笑う。懐かしさではない。喜びでもない。意地の悪い、綺麗な笑みだった。「……へえ」その声は、私の記憶にあるものより少し低かった。夜の廊下に、静かに落ちる。「誰かと思えば」喉が乾いた。言いたいことはあった。夜中にうるさい。非常識だ。静かにしてほしい。けれど、そのどれもが一瞬で形を失った。翔太は扉にもたれたまま、私を上から下まで眺める。その視線が、昔よりずっと大人びていた。「久しぶりですね、愛子さん」その呼び方に、胸の奥が嫌な音を立てた。昔はもっと甘かった。愛子、と呼ぶたび、まるで名前を大事に包むみたいだった。今の声には棘がある。わざとらしく、昔はしなかったさん付けで。名前を自然に愛子さん、と呼んだ。私はようやく唇を動かした。「……翔太?」「覚えてたんだ」彼は笑った。「音信不通にした元カレのことなんて、とっくに忘れてるかと思ってた」その言葉が、まっすぐ刺さった。反射的に顔をしかめる。「そんな話をしに来たわけじゃないんだけど」「じゃあ何?」翔太の背後から、女の声がした。「翔太くん、誰?」私は彼の肩越しに室内を見た。見知らぬ女の影。甘い香水の匂い。乱れた空気。そこでようやく、現実に戻される。そうだ。私は文句を言いに来たのだ。背筋を伸ばす。「夜、もう少し静かにしてもらえませんか」翔太の眉がわずかに動いた。「静かに?」「隣まで聞こえてます。正直、かなり迷惑です」言いながら、自分の声が少し震えていることに気づいた。怒りのせいか。疲れのせいか。それとも、目の前にいるのが翔太だからか。翔太はしばらく黙って私を見ていた。その目に、昔の柔らかさはない。代わりに、何かを押し隠すような薄い笑みだけが残っている。「だってさ」翔太は部屋の中へ視線を戻した。「俺たち、うるさかったみたい」こめかみが、ぴくりと動いた。昔の翔太なら、絶対にこんな言い方はしなかった。すぐに謝って、困ったように笑って、私の機嫌を取ろうとしたはずだ。すみません、とか。気をつけます、とか。愛子、怒ってる? とか。あの頃の翔太は、真っ直ぐで、少し眩しかった。だからこそ、怖くなった。まだ二十一歳だった彼に、自分の忙しさや不安定
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第3話:忘れたはずだった

次の日は寝不足だった。それは、鏡を見た瞬間に分かった。オフィスビルのエレベーターの壁に映る自分を見ながら、私は小さく息を吐いた。肌のくすみは、コンシーラーでどうにか隠した。目尻の疲れは、いつもより少しだけ長めに引いたアイラインでごまかした。リップは血色がよく見える色を選んだ。最低限、仕事に出られる顔にはなっている。けれど、目元だけはどうにも重い。昨日の睡眠時間は、三時間。原因は仕事ではない。そこが、何より腹立たしかった。三十二歳にもなって。失恋したばかりで。ようやく新しい部屋で立て直そうとしていたのに。五年前の元恋人と再会したくらいで。何を動揺しているんだろうと思う。エレベーターの扉が開いた。オフィスフロアには、いつも通りの朝があった。誰かの電話の声。慌ただしくすれ違う足音。いつもと同じ場所。いつもと同じ時間。それなのに、自分だけが少しだけ世界からズレている気がした。***午前中は、忙しかった。会議、資料確認、クライアント対応。社内チャット、メール、電話。次から次へと仕事が流れ込んでくる。本来なら、ありがたいはずだった。余計なことを考えなくて済むから。なのに。ふとした瞬間に、昨夜の光景が頭をよぎる。深夜の廊下。少しだけ開いたドア。目が合った、あの数秒。少し長めの黒髪。昔よりシャープになった輪郭。ゆるく開いたシャツの襟元。気怠そうなのに、妙に人の目を引く立ち方。そして、声。『久しぶりですね、愛子さん』その呼び方だけで、胸の奥が変なふうに揺れた。昔からそうだった。翔太は顔が良かった。腹が立つくらいに。一緒に歩いていると、知らない女の人が振り返ることがあった。飲みに行けば、私が少し席を外しただけで声をかけられていた。そういう種類の男だった。でも、昨日見た翔太は、ただ顔がいいだけではなかった。余裕があった。視線も、声も。こちらの動揺を分かっていて、わざと逃がさないような間も。私の知っている二十一歳の翔太とは違った。そこまで考えて、私は慌ててパソコンへ視線を戻した。違う。正確には、私が知らなかっただけなのかもしれない。五年ちょっと前。私たちは半年だけ付き合っていた。あの頃の翔太は、私よりずっと若かった。年下だとは思っていた。けれど、ある日テーブルの上に置かれ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第4話:親友の同期

結城正人(ゆうきまさと)だった。会社の同期で、五年来の親友。ジャケットを肩に掛け、ネクタイは少しだけ緩んでいる。仕事帰りなのだろう。それでも、不思議と疲れて見えない。正人はとても整った顔をしている。仕事もできる。性格もいい。社内でも、ちゃんと人気がある。モテない理由がない。でも私は、なぜか正人を異性として意識したことがなかった。一緒にいて楽だからだと思う。変に格好つけない。変に距離も詰めてこない。こちらが黙っていても、無理に踏み込んでこない。だから、気を遣わなくて済む。「疲れてる?」席に着くなり聞かれた。私は少し笑う。「そんなに?」「少し」即答だった。正人はビールを注文しながらも、一瞬だけ私の顔に視線を戻した。確認するみたいに。何かを測るみたいに。「寝不足?」その言い方が、妙に自然だった。大丈夫?とも、無理してない?とも言わない。ただ、気づいたことだけを言葉にする。昔からそうだ。正人は、人をよく見ている。「聞いてよ正人」さやかが口を挟んだ。嫌な予感がした。「やめて」遅かった。「愛子、引っ越したらさ。隣に元カレ住んでたんだって」正人の手が止まった。ビールへ伸ばしかけた指先が、ほんの少しだけ。たぶん、私が見ていなかったら気づかなかったくらい。そのあと、何事もなかったみたいにグラスを持つ。「それは大変だね」いつも通りの声。変わらない。でも、その一瞬だけ、何かを考えた気がした。「しかも騒音クレーム言いに行ったら本人だったの」さやかが楽しそうに付け足す。「本当にやめて」「いや、これは言うでしょ」正人は少しだけ眉を上げた。「騒音?」「夜、いろいろうるさかったんだって」さやかが濁しながら言う。正人は一瞬黙ったあと、真面目な顔でグラスを置いた。「それは普通に嫌だね」その言い方が真面目すぎて、私は少し笑ってしまった。「でしょ」「管理会社案件じゃない?」「それはそうなんだけど」「入居早々言いづらい?」「そう」「続くなら言った方がいいよ。でも、今すぐ無理に動かなくてもいいと思う」正論だ。でも、押しつけない。ちゃんと、私が自分で決める余白を残してくれる。そういうところが正人だった。***店を出る頃には、二十三時近かった。さやかは反対方向だった。「じゃあ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第5話:生活圏

元カレが隣に住んでいる。——という事実は、思っていた以上に日常へ入り込んでくる。三日目にして、私はそれを痛感していた。理由は単純だった。遭遇する。普通に。驚くくらい普通に。朝のゴミ出し。夜のエントランス。コンビニ。宅配ロッカー。エレベーターホール。同じマンションの、同じ階。しかも隣同士。生活圏が重なっているのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。実際に経験すると、想像以上に落ち着かなかった。そして何より。翔太が普通だった。会えば挨拶する。必要以上に話しかけてこない。昔の話もしない。変に気を遣ったりもしない。本当に、ただの隣人みたいな顔をしている。その態度が妙に完成されていて、私は未だに距離感を測りかねていた。もっと気まずそうにしてくれた方が楽だった。怒っているなら怒っているでよかった。あからさまに避けてくれたなら、それはそれでこちらも避ければいい。なのに翔太は、何事もなかったみたいに普通だった。それが一番、腹立たしい。こっちはまだ、拓也と別れたばかりなのに。恋愛なんて、しばらく考えたくないのに。五年前にちゃんと終われなかった人が、平然と日常の中に立っている。それだけで、心の置き場が分からなくなる。好きとか。未練とか。そういう単純な話ではない。ただ、忘れたつもりだったものが、自分の意思とは関係なく反応してしまう。それが面倒だった。***金曜日。仕事は案の定、長引いた。会議。資料修正。確認。確認の確認。終わらない社内チャット。終わらないメール。十八時を過ぎたあたりから、今日中という言葉が急に増え始める。今日中。念のため。軽く確認。その軽さに何度も殺されながら、会社を出た頃には二十二時半を回っていた。ビルの外へ出た瞬間、夜風が頬に当たる。少し冷たい。その冷たさで、ようやく自分の肩がずっと上がっていたことに気づいた。スマホを見る。不在通知。宅配便だった。「ああ……」思わず顔を覆う。今日受け取る予定だった水と日用品。別日に回してもいい。でも、それはそれで面倒だった。明日の自分に押し付けるのも嫌だ。私は駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買い、マンションへ戻った。エントランスは静かだった。金曜の夜なのに、住人の気配は少ない。宅配ロッカーの前
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第6話:コンビニ袋

「別に」「見てましたよね」「見てない」即答すると、翔太が小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。でも、顔は見なかった。見たら負けな気がしたから。「そうですか」それ以上は追及してこない。その引き方が腹立たしい。昔なら、もう少し面倒だった。もっと笑って、もっとからかってきた。今は違う。だから余計に分からない。今の翔太が。***部屋の前へ着く。翔太は荷物を下ろした。玄関の開閉の邪魔にならない場所へ。少し横へ寄せて、綺麗に揃える。そういうところだ。昔から。妙なところで丁寧だった。「ここでいいですか」「あ、うん」「じゃあ」本当にそれだけだった。あまりにも普通で。あまりにも隣人で。私は思わず呼び止めていた。「あの」翔太が振り返る。黒いコートを持つ手が少しだけ止まる。「この前は、ごめん」言葉を探しながら続ける。「深夜に、あんな言い方して」数秒。短い沈黙。翔太は少しだけ視線を落とした。怒っているのかと思った。でも、次に顔を上げた時、そこにあったのは困ったような表情ではなく、少しだけ力の抜けた顔だった。「いや」それから、肩を竦める。「最近、人が来ること多かったし」淡々としていた。責めるわけでもない。許すわけでもない。ただ事実を話すみたいに。「うるさかったと思うんで」穏やかな声だった。だから困る。怒ってくれていた方が楽だった。「……あと」気づけば言っていた。「別に、女の人が来ること自体に対して....言ったわけじゃないから」言った瞬間、何を説明しているんだろうと思った。翔太が少しだけ目を細める。それから、堪えるみたいに笑った。その表情に、少しだけ昔の面影が戻る。「心配しなくても」視線が私へ落ちる。「毎日連れ込んでるわけじゃないですよ」「いや、普通にそんな感じするよね」反射的に返していた。翔太が吹き出す。ほんの一瞬。昔のままみたいな笑い方だった。その笑い方を覚えている自分が嫌だった。「偏見ひどいですね」「実績があるから」「三日見ただけで?」「三日連続なら十分でしょ」言ってから、会話が続いていることに気づく。こんなふうに話すつもりはなかった。もっと距離を取るつもりだった。普通の隣人として。昔の知り合いとして。それくらいで終わらせるつもり
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第7話:コーヒー飲みます?

結局。コンビニ袋は、そのまま一晩テーブルの上に置かれた。返そうとは思った。思ったけれど、二十二時四十分という時間は妙に中途半端だった。今さらインターホンを押すほどでもない気がしたし。押さない理由を探している自分も、少し嫌だった。だから、明日でいい。そう結論を出した。そのくせ、寝る前に一度。朝起きてから一度。私はテーブルの上のコンビニ袋を見ていた。白いビニールが、部屋の照明を鈍く反射している。ただの忘れ物。ただ返すだけ。それなのに、部屋の中で妙な存在感を放っている。我ながら、面倒くさい。***土曜日。珍しく目覚ましをかけなかった朝だった。カーテンの隙間から差し込む光で目が覚める。薄いベージュの布越しの陽射しが、床に細長い帯を作っていた。時計を見る。十時半。久しぶりによく寝た気がした。洗濯機を回す。顔を洗う。寝癖を手ぐしで軽く整える。鏡の中の自分は、仕事の日より少しだけ気が抜けた顔をしていた。それが嫌ではなかった。スマホを見る。仕事の通知は思ったより少ない。平和な休日だった。そう思ったところで、視界に入る。テーブルの上のコンビニ袋。「……返すか」深くため息を吐く。返すだけだ。本当に。ただ、それだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は玄関を出た。隣。たった数歩。それなのに、インターホンを押す指が少しだけ重い。自分でも理由は分からなかった。いや、分かりたくなかった。数秒後。ドアが開いた。「あ」思わず声が漏れる。翔太だった。黒いスウェット。ラフな部屋着。眼鏡。少しだけ下りた前髪。仕事帰りのスーツ姿とは全然違う。けれど、不思議と違和感はなかった。むしろ、こちらの方が本来の生活に近い気がした。「あー」翔太が私の手元を見る。私も同時に言った。「あー」数秒。沈黙。それから、二人同時に少し笑った。「今さら要らない気がする」私が言うと、翔太も頷く。「うん。要らないですね」「じゃあ捨てる?」「ゆで卵、多分もうだめです」「だよね」また少し笑ってしまう。なんだろう。変な感じだった。気まずくない。むしろ、自然すぎる。それが一番困る。翔太が袋を受け取る。「ありがとうございます」「いや、こっちこそ気づかなくてごめん」そこで終わると思った。本当
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第8話:紺色のタンブラー

私は深くため息を吐く。その時、ふわりとコーヒーの香りがした。苦味の奥に、少し甘さを含んだ香りだった。まだ温かい。淹れたばかりだからだろう。その香りに、昔の記憶が不意に重なる。朝。眠そうな顔でコーヒーを飲む私。マグカップから立ち上る湯気。『だから、ちゃんと寝なって』呆れた声。笑う翔太。私は慌てて首を振った。違う。思い出すな。今さら。そう思うのに、視線はタンブラーへ落ちる。小さな擦り傷。毎日使っていたのだろう跡。そこには、私の知らない五年間があった。私はずっと、翔太のことを知っていると思っていた。でも違った。知らないことの方が多い。それどころか、もしかしたら当時だって。私は翔太をちゃんと見ていなかったのかもしれない。そこまで考えて、私は勢いよくクッションへ顔を埋めた。柔らかな布地が頬に触れ、洗剤のかすかな香りがした。「いやいやいや……」何を考えているんだろう。終わった恋だ。今さらだ。そう思う。本当にそう思う。拓也と別れたばかりで、自分の生活を立て直すだけで精一杯なのに。誰かを好きになるとか。また恋愛を始めるとか。そんな余裕はどこにもない。それなのに、五年前に置いてきたはずの人が隣にいて。普通にドアを開けて。普通に笑って。普通にコーヒーを渡してくる。それだけで、過去が勝手に部屋へ入り込んでくる。その感じが、どうしようもなく落ち着かなかった。***スマホが震えた。通知。さやか。嫌な予感がした。開く。案の定だった。『ねえ』一件。『元カレとはどうなの?』もう一件。私は天井を見上げる。続けて通知が来る。『ちゃんと顔見た?』『やっぱり今も顔いい?』私は反射的に返信を打った。『うるさい』即送信。すぐに既読がつく。早い。休日のさやかは、大体暇だ。数秒後、返信が来た。『いや、そこは大事でしょ』『五年前にちゃんと終われなかった相手が隣って、普通に気まずいじゃん』私は画面を見つめた。その言い方に、少しだけ救われた。そう。気まずい。そういうことだ。好きとか、復縁とか、そういう単純な話じゃない。気まずい。でも、気になる。知らなかった今の翔太が、目の前にいる。それだけ。そう思った瞬間、また通知が来た。『で?』短い一文。続けて。『気になる
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第9話:気になる?

五分後。スマホが鳴った。さやかだった。私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。『で?』開口一番だった。「何が」『何がじゃないでしょ。気になるの?』私は目を閉じた。「……分からない」『お、正直』「そういう意味じゃないよ」『そういう意味じゃないのは分かってる』さやかの声は、茶化しているようで、ちゃんと現実を見ていた。『拓也さんと別れたばっかだし、今すぐ誰かどうこうって話じゃないでしょ』「うん」『でも、気になるんでしょ』その問いに、すぐ返せなかった。じゃあ何。それを私が一番知りたい。私はソファの上で膝を抱える。「……疲れるの」『何が?』「全部」自分で言って、少しだけ笑ってしまった。でも、笑えなかった。「やっと終わったと思ったの」電話の向こうで、さやかが黙る。私は続ける。「拓也と別れて、部屋も出て、仕事も忙しくて。とにかく一回、自分の生活だけ考えようと思ってたの」『うん』「恋愛とか、結婚とか、誰かと暮らすとか。そういうの、しばらく考えなくていいと思ってた」言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。拓也とは三年付き合った。同棲もしていた。結婚の話も、何度もした。私がすぐに決断できなかっただけで。でも、いつかはそうなるのだろうと、どこかで思っていた。来年も。その次も。週末にスーパーへ行って、同じ部屋へ帰って、何でもないことで少し喧嘩して、翌朝には普通にコーヒーを飲む。そういう未来が、なんとなく続くと思っていた。「別に、今でも拓也が好きとかじゃないの」それは本当だった。戻りたいとも思わない。別れた理由も理解している。でも。「好きじゃないから平気ってわけじゃないじゃん」口にした瞬間、自分でも少し驚いた。たぶん、ずっと認めないようにしていた。仕事をして。引っ越して。前を向いているつもりだった。でも、三年積み上げた生活が終わったことは、ちゃんと痛かった。それだけの話だった。『愛子』さやかの声が少しだけ柔らかくなる。『最近、結構無理してたでしょ』「してない」『してた』「してないって」『引っ越しまで早かったもん』私は黙った。そうだった。別れてから、かなり早く部屋を決めた。考える時間を作りたくなかった。拓也の荷物がなくなった部屋に一人で残ることも。二人で選ん
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第10話:何?

インターホンの向こうに、翔太が立っていた。片手にスマホ。もう片方の手には、小さな封筒。ドアスコープ越しに見えた姿に、私は額を軽くドアへ押し当てた。本当に。どうしてこうも、タイミングが悪いんだろう。さっきまで、さやかと電話していた。元カレが隣に住んでいるなんて事故だ。しかも顔がいい。しかもコーヒーをくれる。そんなふざけたようで、少しも笑いきれない話をしていたばかりだった。私は小さく息を吐いて、ドアを開けた。「……何?」できるだけ普通に言ったつもりだった。けれど、声は少しだけ硬かったかもしれない。翔太は気づいたのか、気づいていないのか。表情を変えずに、封筒を持ち上げた。「これ」「え?」「ポストに入ってました」差し出された封筒には、見覚えがあった。住所変更関係の書類だった。私は思わず眉を上げる。「私の?」「たぶん、間違って入ったんだと思います」そう言って差し出された封筒を受け取る。指先が触れそうになった瞬間、私はほんの少しだけ手を引いた。自分でも分かるくらい、不自然だった。翔太は何も言わない。ただ、一瞬だけ視線が落ちて。すぐに戻った。見なかったことにするみたいに。昔から、そういう人だった。「ありがとう」私が言うと、翔太は軽く頷く。「たまにあるんですよね」「そうなんだ」「ポストが隣なので」それだけの会話。本当に、それだけだった。なのに、落ち着かない。壁一枚向こうに住んでいる人。五年前、恋人だった人。今は、ただの隣人。私はその事実を自分の中で整理しようとしていた。だから。少し早めに言った。「今度から、ポストに入れ直してくれれば大丈夫だから」言った瞬間、自分でも分かった。事務的だった。距離を置くための言葉だった。少なくとも、私はそういうつもりだった。翔太はほんの少しだけ目を細める。驚いたというほどではない。ただ、こちらの意図を受け取った時の小さな間。視線が私に止まる。何か言うのかと思った。でも、言わなかった。代わりに、ほんの少しだけ口元が緩む。「分かりました」あまりにも自然な返事だった。責める響きもない。残念そうな空気もない。私がそうしたいなら、そうする。ただ、それだけ。昔からそうだった。翔太は押さない。相手が引けば、追わない。嫌がることを、
last updateLast Updated : 2026-07-02
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