جميع فصول : الفصل -الفصل 1320

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第1311話

章真に連れられ、結安は静かに周囲を見渡していた。――怖くないわけじゃない。けれど、家へ帰ることのほうがもっと怖かった。家の前には借金取りが押しかけ、中には刺青だらけの男たちまでいる。まだ高校三年生の自分が戻れば、どうなるかなんて想像するまでもない。それに、章真が自分に何か企みを持っていることくらい、結安にも分かっていた。それでも――今の彼女には、この人以外に頼れる相手がいなかった。高校を卒業して、地方の大学へ進学して。遠くへ逃げるように、新しい人生を始める。それだけが今の結安の望みだった。結安は生まれながらに恵まれた少女だった。けれど、一夜にして天国から地獄へ突き落とされた。――もう、他に道はない。使用人の蝶野は目の前の少女を静かに観察していた。素直で大人しい子だ。ただ……あまりにも綺麗すぎる。こんな若い娘を章真と同じ屋根の下で暮らさせて大丈夫なのだろうか。そんな不安がよぎった瞬間、階段を上がりかけていた章真が気だるげな声で言った。「考えすぎ。まだ子供だろ。成人まであと三か月だし。これからは彼女の身の回りを頼む」「かしこまりました」蝶野は恭しく頭を下げた。そのまま結安を連れて二階へ向かう。途中でふと思い出す。東側の部屋は章真の寝室に次ぐ特別な客室だった。隣接してはいないが、バルコニー同士が向かい合っており、距離もかなり近い。若い男女をそんな場所に住まわせるのはやはり少し気になる。けれど――章真には女性の噂が絶えない。確かに結安は目を引くほど可愛いが、さすがに恋愛対象にはならないだろう。十二歳差。ちょうど一回りも離れているのだ。……きっと、自分の考えすぎだ。実際、その通りだった。章真の頭の中にあるのは、どうやって結安の実家の会社を手に入れるか――それだけだった。数兆円規模の巨大企業。一生に一度あるかないかの好機だ。小娘一人に、そんな価値が敵うはずもない。しかも、まだ子供。最初から女として意識することなど、まったくなかった。その時、スマホが鳴る。相手は、そこそこ名の知れた女優だった。通話を繋ぐと、甘く絡みつくような声が耳に届く。「章真、私、帰国したの。でも立都市には二日しかいられなくて……ねえ、会いに
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第1312話

結安は小さな口で、静かに食事を口へ運んでいた。蝶野はその様子を見ながら内心ほっとしていた。上品で、所作も綺麗だ。一目で、きちんと育てられてきた子だと分かる。食事を終えた頃、一人の女性が別荘を訪れた。秘書然とした雰囲気の女性は丁寧に名乗る。「私、桐生と申します。章真様の秘書を務めております。本日は結安様のお洋服を揃えるよう仰せつかりまして」そう言いながら、桐生はふと思い出す。章真は最初こう言っていたのだ。「あのアヒルにな…………いや、違う。名前は立花結安だったか。立花拓哉が残した厄介な置き土産だ。別荘のほうへ行って、服を一式揃えてやれ。普段着からフォーマルまで全部だ。特にフォーマルは分かりやすく高いやつにしろ。俺が大事に扱ってるって周りに見せるためだからな」……その時は本当に、ペットでも飼い始めたのかと思った。しかも、なぜアヒル。誰がアヒルを飼うのだろう。けれど実際に会ってみれば、目の前にいたのは繊細で綺麗な少女だった。どこがアヒルなのか、まるで分からない。結安は小さく頷き、桐生に連れられてリビングへ向かう。しばらくすると、使用人たちが車から大量のカタログを運び込んできた。どれも高級ブランドの新作コレクションだ。結安の年齢を考えると、桐生としてはMIU MIUのような若いブランドが似合うと思った。だが章真の条件は一つ。――とにかく高く見えること。そのため、CHANELもかなり選ばれていた。さらにブランド側の担当者まで現れる。ジュエリーショップのスタッフも次々と到着した。計算機の数字が積み重なっていき――最終的な総額はおよそ十五億円を超えていた。結安は元々、何不自由ない生活を送っていた。良いものを食べ、良いものを着て育ってきた。けれど今の彼女はすべてを失った落ちぶれた令嬢だ。しかも今、自分が暮らしているのは見知らぬ大人の男の家。章真に思惑があることも理解している。彼が欲しいのは父の会社だ。それでも――こんな贅沢に慣れてしまうのが怖かった。いつか自分は一人で生きていかなければならないのだから。そんな結安の表情を見て、桐生はさらに好感を抱く。少女の不安を察したのか、そっと耳元で囁いた。「こういうお洋服って、状
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第1313話

章真は女を横目で見た。「……いくらだ?」女は平然と答える。「十億円」男は鼻で笑った。十億円。よくもそんな額を口にできる。ミナ程度の女優が、一生のうち何度十億円規模の作品に出られるというのか。それでも章真は煙を吐きながら軽く鼻を鳴らした。――了承。それだけで十分だった。ミナはぱっと顔を輝かせ、キスをしようと身を寄せる。だが章真は煙草を挟んだ指でその唇を遮った。それ以上、触れさせる気はなかった。女が金の話をすること自体は構わない。多少高くても、許容範囲なら払う。だが――ベッドの上で金を口にした瞬間、それで終わりだ。それが章真のルールだった。余韻を楽しんでいる時に金の話をされると、一気に興が冷める。さっきまでは、もう一度抱いてもいいと思っていたのに。今はもう、そんな気分も消えていた。章真はシーツを払い、服を着始める。ミナはそこでようやく空気を察した。慌てて男の腕へしがみつき、小声で謝る。繋ぎ止めようとしているのだ。なにしろ、章真は本当に金払いがいい。数回身体を重ねただけで、すでに一億円以上の贈り物を受け取っていた。こんなスポンサー、簡単に失いたくない。それに――単純に、男として魅力的だった。顔立ちは申し分なく、身体の相性も驚くほどいい。抱かれるたびに、自分の知らない快感を引き出される。経験も手慣れていて、あれほど満たされる男はそういなかった。けれど、ミナでは止められなかった。章真はズボンのファスナーを上げ、口元の煙草を揉み消す。そして感情のない声で告げた。「十億円は制作側に振り込ませる」投資。ただそれだけだ。ミナ一人に、十億円の価値などない。女一人にそんな金を使うほど、自分は馬鹿じゃない。金は湯水のように湧いてくるものではないのだから。無駄遣いする気などさらさらなかった。……たとえば、あのアヒル。今日の午後だけで、十五億円も使わせやがった。もし利用価値がなければ、四千万円だって高いと思うような存在だ。食えるわけでもない。稼ぐわけでもない。しかも、姫みたいに丁重に養わなきゃならない。考えるだけで面倒くさい。――まあ、しばらく飼っておくか。技術資料を手に入れたら、そのまま追い出せ
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第1314話

章真が部屋を出ようとした、その時だった。ベッドの上の少女が、ふいに目を開けた。暗闇の中で、ぼんやりと彼を見つめている。まだ完全には覚醒していないような、曖昧な瞳。案の定――次の瞬間、結安はゆっくり身体を起こし、真っ直ぐ章真を見つめたまま、小さな声で呟いた。「……お父さん」章真は眉をひそめる。――誰が父親だ。あんなおっさんと一緒にするな。自分はまだ三十代だ。それに、父親なんてものになれば、一生面倒を見なきゃいけない。――こっちは数か月飼うだけで十分なんだよ。そう思った矢先。小さな身体が、そのまま真っ直ぐ彼の胸へ飛び込んできた。温かくて、柔らかい。まるで親を探す幼い動物みたいだった。章真は追い払おうとしていた手を止める。結局、そのまま抱きつかせてやった。……もちろん、慰める気なんてない。両親を死に追いやったのは自分じゃない。しばらくすると、胸元がじわりと濡れていく。熱を帯びた涙が、黒いシャツへ染み込んでいた。……なんなんだ、この泣き虫。章真は低く掠れた声で言う。「これ以上泣いたら外に捨てるぞ。ネズミと一緒に寝たいか?」その声で、結安ははっと現実へ引き戻された。目を大きく見開く。章真はベッドサイドの灯りを点けた。一瞬で、部屋が明るくなる。そして結安は、自分が抱きついていた相手をようやく認識した。父親ではない。ほとんど他人同然の、葉山章真。自分を引き取り、その上で父の会社まで手に入れようとしている男。結安は慌てて腕を離した。そのまま視線が、男の黒いシャツへ落ちる。胸元はボタンが二つ外れていて、首筋には細い爪痕が残っていた。生々しくて――どこかひどく艶めいている。結安はもうすぐ十八歳になる。何も知らない子供ではない。彼がどこへ行っていたのか。なんとなく、分かってしまった。……恋人?空気が妙に気まずくなる。章真は立ち上がり、窓際へ移動した。煙草でも吸いたかったが、ここはアヒルの部屋だと思い出し、やめる。……ほんと、面倒だ。アヒルを飼うのってこんなに大変なのか。しかもメス。これがオスだったら、今頃一緒に煙草でも吸わせてる。そんなことを考えていると、ちょうど蝶野が夜食を持って上がっ
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第1315話

結安はおずおずと章真を見上げた。しばらく迷ったあと、小さな声で呼ぶ。「……葉山さん?」章真は不満そうに眉を動かした。秘書でもない。まだ十八歳にもなっていない小娘だ。そもそも自分は未成年を働かせる趣味もない。それに――十五億円も使わせておいて、もう少し可愛い呼び方はないのか。結安は少し考え込む。それから、恐る恐る口を開いた。「……お兄ちゃん?」その瞬間。章真の胸が、妙にざわついた。言葉にできない感覚だった。芽衣以外に、そんなふうに呼ばれたことなどなかったからだ。会社の女たちは彼を恐れる。外の女たちは媚びる。ダーリンだの、名前を甘く呼ぶ女はいても。「お兄ちゃん」なんて呼ぶ子はいない。結安は自分より十二歳も年下。しかも現役の女子高生だ。身長一八五センチの章真は窓際に立ったまま、ふと妙な想像をしてしまう。制服姿の結安。プリーツスカート。両手を揃えて、車の横で行儀よく立っている。自分が窓を下ろして手招きすると、アヒルは逆らえないみたいに近づいてきて――「お兄ちゃん……」そう小声で呼ぶ。そこで頬でもつまんでやれば、きっと面白い。……悪くない。章真は肩をすくめ、否定も肯定もしなかった。結安は改めて思う。この人は本当に綺麗な顔をしている。……でも、絶対に女癖は悪い。首筋に残る爪痕なんて、まるで猫に引っ掻かれたみたいだった。……結局、アヒルは章真に半ば強引に座らされ、夜食を食べさせられることになった。黒髪を腰まで流し、小さく座って麺を啜る姿は、それだけで妙に目を引く。両親の遺伝子が良かったのだろう。大事に育てられてきたことも分かる。だからこそ、一人っ子だったのかもしれない。……けれど。そんなに愛していたなら、どうして二人揃って死ねたのか。幼い娘を一人残して。こんなふうに他人へ預けて。もし自分が拾わなければ、どうなっていたか分からない。こうして住まわせてやっている。食事まで与えている。しかも十五億円も使ってやった。章真は考えれば考えるほど――自分って、かなり善人なんじゃないかと思えてくる。そこへ、蝶野が再びトレイを持って戻ってきた。冷たい杏仁豆腐が乗っている。彼女は当然、章真が自室
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第1316話

耀石グループ。最上階――社長室。章真の手には、一式の書類が握られていた。すべて、宇佐美が三十六時間で揃えたものだ。その中には、結安の親権放棄に関する同意書も含まれている。立花家の親族一同が署名済みで、結安の監護権を放棄し、章真を唯一の後見人として推薦する内容だった。さらに後半には、章真の華々しい経歴まで添付されている。品行方正、人格優秀、社会貢献実績多数。アジア青年ランキング前三位入りを五年連続達成――そんな肩書まで並んでいた。あとは結安本人が署名するだけ。それで彼は、正式な法定後見人になる。……もっとも、期間はたった三か月。三か月後には、結安が成人を迎えるからだ。そのときだった。桐生が慌ただしく部屋へ入ってくる。「葉山社長。立花さんが高熱を出しています」声を落として報告した。「執事の話では、かなり熱が高いようで……高橋先生が解熱剤を打ったそうですが、熱が下がらず……ずっと『お父さん』『お母さん』と呼び続けているそうです。蝶野さんから、病院へ搬送するか確認をと」章真は眉を寄せた。――高熱?ペットを飼うのは面倒だな。……夜。漆黒のロールス・ロイス・ファントムが、静かに屋敷へ滑り込む。章真は細いストライプの入ったスリーピース姿のまま車を降りた。蝶野が駆け寄ってくる。その表情は不安に満ちていた。ふと章真の脳裏に、妙な考えがよぎる。――まさか、自分はこの子を死なせるんじゃないか?子どもを育てたことなどない。ペットだって飼ったことがない。いっそ両親に預けるか。それとも芽衣と陽白のところへ送るか。小さな存在が一人いれば、あの二人の関係修復にも役立つかもしれない。蝶野が小声で言った。「高橋先生によると……極度のショック状態が原因だそうです」「ショック?」章真は石段を上がりながら足を止めた。橙色の灯りが横顔を照らし、その整いすぎた輪郭を際立たせる。口元には薄い笑みすら浮かんでいた。「昨夜、あれだけ食べてただろ。お前も見てたはずだ。そんな子がショックで倒れるか?むしろ度胸はあるほうだと思ったけど」蝶野は思わず庇う。「育ち盛りなんですから……食べるのは当然でしょう」章真はそのまま先に屋敷へ入った。宇佐美と桐生
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第1317話

だが章真は一切迷わなかった。「使え」高橋医師の胸がわずかに揺れる。だが、章真は彼にとって最重要の顧客だった。この男を失えば、損失は計り知れない。どれほど気が進まなくても、結局、高橋医師は結安へDSYを投与した。極秘研究段階の特殊薬剤。効果は異常なほど強力で、一般人が触れられるような代物ではない。そして、その効き目は凄まじかった。三十分も経たないうちに、結安の熱は完全に下がった。顔色も明らかによくなっている。だが高橋医師は知っていた。これは身体を前借りして得た回復だ。無理を重ねれば、将来的に確実に身体を壊す。まして少女の身体では負担が大きすぎる。普通なら、よほどの事態でなければ使わない薬だった。結安が目を覚ます。視界に映ったのは医師。そしてベッド脇に立つ章真。部屋には宇佐美と桐生の姿もある。手には書類ケース。朦朧とする意識の中、彼らは署名について説明していた。監護権の件。そして父の会社について。今後は新たな後見人である葉山章真が、全面的に管理を引き継ぐということ。罠だと分かっていた。父の会社を奪ったのはこの男だ。追い詰めたのも。もしかしたら、両親を死へ追いやったのも。――全部、この人かもしれない。それでも、生き残るためには、署名するしかなかった。立花家にはもう彼に対抗できる人間などいない。結安はベッドに座り、目の前の書類を見つめる。サインしてしまえば、成人した瞬間、この男は自分を捨てる。屋敷から追い出される。……なるほど。これが自分を引き取った理由だったんだ。結安は泣かなかった。悲しむ時間すらなかった。書類を読み終えると、静かに署名し。そのまま書類を返す。そして布団へ横になり、小さく鼻を鳴らしながら呟いた。「……もう、寝たいです」彼女には、選択肢などなかった。復讐しようとすら思わない。若くても分かっている。自分は、巨木にしがみつく羽虫のような存在だと。ただ成人まで耐えて。機会が来たら、章真のもとから逃げればいい。……あるいは。逃げるまでもなく、彼のほうから捨てるかもしれない。なんて惨めなんだろう。今の自分は、彼に養われなければ生きていけない。そうでなければ、路
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第1318話

少女がどれだけ泣いていても。章真は、ただ静かに眺めていた。……面倒だ。やはりペットを飼うのは厄介だ。せっかく気分よく過ごしていたのに、水を差された気分になる。結局、章真は思った。――泣きたいなら、好きなだけ泣かせておけばいい。男はグラスを片手に寝室へ戻る。広すぎるベッドへ身を投げ出しながら、頭の中で女たちの名前を思い浮かべた。ルーシー。アリエル。それとも鈴音だったか。どこかへ遊びに行って、適当に発散するか――だが、隣室にいるアヒルのことを思い出した瞬間、妙に胸の奥がざわついた。……やめておくか。興が削がれる。章真は静かに、自分の未来の帝国図を思い描く。あと四年。その頃には、栄光グループと肩を並べる存在になっているはずだ。男なら誰しも、一度は夢を見る。――天下を掌に収め、美女を腕に抱く。美女のほうは、もういい。どんな女も、どんな欲望も、彼は知り尽くしている。やはり欲しいのは権力だった。そのためなら、章真は昔から手段を選ばない。この世代の中でも、彼は突出した存在だった。弱肉強食。それがビジネスの絶対法則。彼にとっては、信仰にも等しい。罪悪感など必要ない。弱かったのは拓哉だ。甘く脆かったから、結安は孤児になった。そして母親もまた、自分勝手な女だった。そう考えると、少しだけ気分が軽くなった。……拓哉夫妻は転落死。事件性は認められなかった。三日後。複数の手続きを経て、ようやく荼毘に付されることになった。章真は、二人のために最高級の墓地を用意した。庭付きの区画。総額は二千万を軽く超えていた。下手な生者の家より、よほど立派だった。だが、見送りに来た人間は少ない。立花家の人間は皆、理解していた。結安は駒にされ。いずれ、捨て駒になる。関わる価値などない。下手に近づけば、自分まで巻き込まれる。誰もがそう考えていた。深夜。冷たい雨が降っている。空は重く沈み込んでいた。結安のそばにいたのは章真だけ。あとは宇佐美、桐生。それから福祉局の職員が一人。葉山社長が結安にどれほど丁寧に接しているか。どれほど手厚い環境を与えているか。それを自分の目で確認していた。そして
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第1319話

返事はない。章真が視線を上げると、結安は両手を膝の上に揃え、まるで優等生のようにきちんと座っていた。……なるほど。寝室で男を待つのは大人の女の役目だ。この子はまだ子ども。だからリビングで、帰りの遅い保護者を待っていたわけか。宿題でも見てほしいのか。保護者欄にサインでも必要なのか。そう考えると、妙に新鮮だった。章真は、まだ父親というものをやったことがない。だが、いずれ自分にも子どもはできるだろう。その予行練習と思えば悪くない。そんなことを考えていると、結安が小さく口を開いた。「……学校が、受け入れてくれなくて。先生が、一度あなたに来てもらって、手続きをしてほしいって……」――ほう。それは少し面倒そうだ。だが逆に、少し興味も湧いた。それに、数日会わなかっただけで、「あなた」呼びか。随分よそよそしくなったものだ。章真はソファへ歩み寄り、結安の隣へ腰を下ろす。その瞬間、結安は敏感にアルコールの匂いを感じ取った。まだ幼い。それでも女の本能のような警戒心が働き、無意識に身体を少し離す。章真は目を細めた。……へえ。アヒルは自分を怖がるのか。誰の金で食べ。誰の家に住み。誰の庇護で生きていると思ってる。それなのに、そんな顔を向けてくるとは。まったく、躾がなっていない。少し教育したほうがいいかもしれない。どうせしばらく育てる予定だ。今後は両親にも会わせる。祖父母たちだって結安を見たがっている。なら、それなりに形を整えておかないと困る。恥をかくのは自分だ。章真はソファにもたれ、結安を横目で見ながら小さく息を吐いた。「最近忙しくてさ。足が疲れきってるんだ。本当はどこかでマッサージでも受けたかったんだけど……未成年の面倒を見に帰ってきた」そう言って、じっと彼女を見る。察しのいい子なら、とっくに動いている。だが結安は、ただ彼を見つめ返していた。瞳の奥では何かが揺れている。……涙か。少しくらい脚を揉んだからといって死ぬわけじゃない。衣食住すべて彼が与えている。姫みたいなベッドで寝かせている。その保護者に少し尽くして、何が悪い?章真は譲る気もなく、そのまま待ち続けた。「自分から動け」とでも言うように。
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第1320話

けれど結安は分かっていた。彼の優しさなんて、きっと気まぐれだ。今はただ機嫌がいいだけ。あるいは、少し興味を持っているだけ。そのうち本気の恋人でもできれば、この家に自分の居場所などなくなる。……もっとも。結安自身、ここに居続けるつもりなどなかった。章真は両親を死へ追い込んだ側の人間だ。そんな相手の庇護の下で、何も知らないふりをして生きていけるはずがない。生き延びたいとは思う。けれど、ただ惨めにしがみつきたいわけじゃない。もちろん、本音を章真に話すつもりもなかった。結安は従順そうに目を伏せ、小さな声で言った。「分かりました、葉山叔父様」――叔父様?章真はわずかに眉を上げる。以前、結安は彼をお兄ちゃんと呼んでいた。だが、彼が何年もかけて父の会社を狙っていたと知ってから、その呼び方は二度と口にしなくなった。お兄ちゃんより、叔父様のほうが安全だった。世の中には悪い叔父はいても、悪いお兄ちゃんという響きは存在しない。もちろん、そんな少女の複雑な感情を章真が知るはずもない。彼はただ、素直で聞き分けのいい子だと満足していた。叔父様呼びも悪くない。どこか威厳が出る。その呼び方を彼は自然に受け入れた。まだ父親ではない。だが先に姪ができたと思えば、それも悪くない。明日は学校へ付き添い、そのあと両親の家へ連れて行こう。少し自慢したくなっていた。章真は結安の髪を撫でる。改めて眺めると、本当に整った顔立ちだった。家へ連れて歩いても見栄えがいい。結安は目的を果たし、そろそろ部屋へ戻ろうと身体を動かす。だが次の瞬間、また肩を押さえられた。章真はソファにもたれ、目を閉じたまま低く息をつく。「なかなか上手いな。次は肩も頼む。今日は疲れた」結安は逆らえなかった。おとなしく彼の肩へ手を伸ばす。明るい照明。静まり返った屋敷。傍らには、懸命に世話を焼く少女。章真はふと思った。騒がしい夜遊びも。欲望に溺れる時間も。今はどうでもいい。こうして静かな家で過ごすのも、案外悪くない。……もっとも。この子の手つきはまだぎこちない。明日にでも蝶野に教えさせるか。力加減も分かっていない。危うく変な場所を押されそうになった。そ
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