素羽はもともとそれほど遠くまで離れていたわけではなく、背後で起きたただならぬ騒ぎにもすぐに気づいていた。淳子が刃物を振りかざして千尋に襲いかかった瞬間、彼女の胸の奥では、おぞましくも底知れない邪悪な思惑がむくむくと頭をもたげていた。――もし、あのまま……だが、その「もし」が現実になることはなかった。千尋は司野によって、あまりにも完璧に守られていた。彼は自分が傷つくことなど意にも介さず、それどころか、自らの流した血がガラス細工のように脆い元恋人を怯えさせることの方を、よほど恐れているようだった。やはり、あの男にとって本当に大切な人間は、いつだって幾重にも守られ、外敵に指一本触れさせないよう周到に庇護されるのだ。素羽は、彼らが繰り広げる「二人で一つ」とでも言いたげなべったりとした茶番劇に、すっかり興を削がれていた。胸の内を毒々しい不快感が満たしていく。彼女は冷ややかに視線を外すと、今度こそその場を立ち去ろうと踵を返した。その頃、司野の意識はすべて千尋を落ち着かせることに向けられており、自分が渾身の力で蹴り飛ばしたはずの淳子がいつの間にか立ち上がり、新たな標的へ向かって動き出していたことには気づいていなかった。この異変に最初に気づいたのは、やはり岩治だった。淳子が潜伏していた以上、他にも伏兵がいるかもしれないと周囲を警戒していたのだ。そして、淳子の不穏な動きに目を留めた時には、彼女はすでに刃物を握り締め、素羽の背中へ向かって狂ったように突進していた。岩治の顔から血の気が引いた。「素羽さん、後ろです!危ない!」彼は声の限りに叫んだ。同時に、異変を察した司野の怒鳴り声も響く。「素羽――!」二人の声はほぼ同時に重なり合い、ひと塊の音となって素羽の耳へ飛び込んできた。そのため内容までは聞き取れなかったが、その中に司野の不快な声が混じっていることだけは分かった。素羽は鼻で笑い、振り返るどころか無視を決め込もうとした。しかし次の瞬間、本能が危険を察知した。背後から、切羽詰まった乱暴な足音が猛スピードで迫ってくる。素羽がはっと息を呑み、振り返ったその先には、正気を失い鬼と化した淳子の姿があった。相手の剥き出しの殺意を悟った瞬間、素羽の瞳孔は極限まで収縮し、全身の筋肉が恐怖によって一瞬だけ硬直する。
Read more