All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 221 - Chapter 230

232 Chapters

第222話

九条コーポレーション、会長室――。重厚な空気が部屋全体を包み込んでいた。応接用のソファには神代雪乃と康太が並んで座り、その向かいには玲司が静かに腰を下ろしている。誰も口を開かない。時計の秒針だけが、静かに時間を刻んでいた。落ち着かない様子で座る神代雪乃を見ていた叶翔は、軽く息をつくと玲司の隣へ歩み寄り、自分もソファへ腰を下ろした。父の隣に座りながらも、視線は雪乃親子へ向けられる。康太はその視線に気付いた。恐る恐る上目遣いで叶翔を見る。その瞳には、怯えと不安が入り混じっていた。目が合った途端、康太は慌てるようにうつむいてしまう。その小さな肩がわずかに震えているようにも見えた。叶翔は心の中で小さく息をついた。(この子には罪はない……)そう思っても、今は感情だけで動くわけにはいかなかった。九条親子が雪乃を静かに見つめる中、肝心の話はなかなか始まらない。互いに相手の出方を探るような沈黙だけが続いていた。その空気に業を煮やした瑛士が、ゆっくりソファへ近づいてくる。そして苦笑しながら言った。「黙ってにらみ合ってても何も始まりませんよ。まずは、彼女の話を聞きましょう」その言葉で張り詰めていた空気が少しだけ動く。瑛士は叶翔の後ろへ立つと、雪乃へ優しく視線を向けた。「どうぞ」促され、雪乃は小さく息を吸う。瑛士。そして叶翔。最後に玲司。三人の顔を順番に見つめたあと、ついに重い口を開いた。雪乃の話はこうだった。自分たちが若いころ、和真たち御曹司仲間とは、よく遊んでいた。当時は何度も飲み会へ誘われた。華やかな世界に憧れていた自分にとって、それは特別な時間だった。飲み会などには必ずと言っていいほど呼ばれ、その夜は一緒に帰るといった、大人の遊びを楽しんでいた。雪乃は淡々と語る。まるで何度も練習してきた話を読み上げるようだった。やがて皆も年を取り、それぞれの人生を歩み始める。自然と連絡も途絶えた。もう会うこともないと思っていた。しかし、自分が四十歳になる少し前、あるバーで、酔っぱらった和真と久しぶりに遭遇した。偶然だった。そのときの和真は何かで落ち込んでいたらしく、昔のよしみで慰めていた自分と、その晩一緒に帰り、ベッドを共にした……という内容だった。雪乃は一度言葉を区切る。部屋の空気は変わらない。玲司も叶翔も
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第223話

会長室を出た雪乃と康太は、やってきたときと同じ秘書の女性に案内され、静かな廊下を歩いていた。重厚な扉が閉まったあとも、雪乃の胸の鼓動はなかなか落ち着かない。玲司の鋭い視線。叶翔や瑛士の落ち着いた態度。そして、自分が口にした言葉。すべてが頭の中で何度も繰り返され、今にも押し潰されそうだった。一方で康太は、緊張から解放されたのか、母親の手を握りながら周囲を興味津々に見回している。「こちらです」秘書の女性は終始穏やかな口調で二人を先導し、エレベーターホールまでやって来た。ほどなくしてエレベーターが到着し、静かな音を立てて扉が左右へ開く。秘書の女性は一歩横へ下がり、二人へ優しく微笑みかけた。「どうぞ」雪乃は軽く頭を下げ、康太の手を引いてエレベーターへ乗り込む。康太も小さく会釈をした。二人が乗り込んだことを確認すると、秘書の女性は丁寧な口調で言った。「お気をつけてお帰りください」そう礼をすると、扉が閉まる最後の瞬間まで頭を上げなかった。その姿に雪乃は思わず見入ってしまう。(さすが九条コーポレーション……)社員一人ひとりの所作まで徹底されている。そんなことを考えているうちに、エレベーターは静かに下降を始めた。来るときは緊張で周囲を見る余裕もなかった康太だったが、帰りは違った。ガラス越しに見える景色へ駆け寄るように近付き、目を輝かせて外を眺めている。高層階から見下ろす街並みは、十歳の少年にはまるでミニチュアの世界のようだった。「あっ!」思わず声を上げる。「お母さん、ボクたちのアパートってあの辺だよね?」小さな指で遠くの住宅街を指差す。雪乃も窓の外を見て微笑んだ。「そうね。あの辺りかもしれないわね」康太は感心したように外を眺め続ける。「すごいね、こんなでっかいビルで働いてるなんて、さっきの人たちってすごく偉いひとなのかな?」その何気ない一言に、雪乃の胸が小さく締め付けられた。まだ幼い康太は何も知らない。今日、自分たちが何をしに来たのかも、本当の意味では理解していない。この子にだって、こんなビルにくる権利があるハズなのに……そんな思いが胸をよぎり、雪乃は思わず視線を伏せた。計画が成功すれば。いや、成功させなければ。その考えが再び頭を支配する。しかし同時に、玲司の冷たい眼差しも思い出してしまう。(本当に
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第224話

九条コーポレーションのビルの中へ入ってから、綾乃はふと足を止めた。ガラス張りのエントランス越しに、先ほど出会った親子の姿が見える。神山雪乃と康太。二人は手をつなぎながら信号待ちをし、やがて青信号になると仲良く道路を渡り始めた。康太は何かを話しながら嬉しそうに笑い、雪乃もその笑顔につられるように微笑んでいる。その光景を見つめながら、綾乃も自然と頬を緩めていた。「いい笑顔……」思わず小さく呟く。親子が仲良く歩いていく後ろ姿は、どこにでもいる普通の母子にしか見えなかった。だからこそ、あの親子が今、鷹宮家と九条家を巻き込む大きな問題の中心にいるとは、とても思えない。綾乃は複雑な思いを胸に抱えながら、その姿を見送っていた。すると、不意に肩へ温かな手が置かれる。「!」驚いて振り返ると、そこには夫である玲司が立っていた。いつの間にか会長室から降りてきていたらしい。「玲司、用事は済んだの?」綾乃が穏やかに尋ねる。玲司は何も言わず綾乃を自分の方へ引き寄せると、「ああ」と短く返事をした。その一言だけだったが、綾乃には十分だった。玲司の腕に包まれると、不思議と安心する。そんな二人の様子を見掛けた社員たちは、誰も驚くことなく笑顔で会釈をしながら通り過ぎていく。「お疲れさまです」「会長、奥様」礼儀正しく頭を下げる社員たちに、玲司も軽く頷いて応える。社内では有名だった。この会社の会長夫婦は本当に仲がいい。仕事中こそ厳格な玲司だが、綾乃の前では表情が柔らかくなる。それを知らない社員は一人もいなかった。その姿を見るたびに、多くの社員は自然と笑顔になっていた。綾乃も社員たちへ優しく会釈を返す。そして再び玲司の顔を見上げた。「さっき、そこで会ったのが例の親子かしら?」玲司も会社の入り口の自動ドアへ視線を向ける。ガラス越しには、すでに親子の姿は遠く小さくなっていた。玲司は静かに頷く。「ああ」短い返事だったが、その表情はどこか考え込んでいるようにも見えた。綾乃はそれ以上何も聞かなかった。玲司にも考えがある。今はその結論を待つしかない。玲司は綾乃の肩へ手を添えたまま歩き出す。「行くぞ」「ええ」二人は並んでエレベーターへ乗り込み、そのまま地下駐車場へ向かった。地下へ到着すると、専用車が静かに待機している。運転手がす
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第225話

やがて車は市街地を離れ、緑豊かな丘陵地帯へと入っていった。緩やかな坂道を登るにつれ、周囲には一般企業のオフィスとは明らかに違う雰囲気が漂い始める。高いフェンス。等間隔に設置された監視カメラ。道路脇には巡回用の警備車両も停車していた。そんな中、丘の上にそびえる巨大な建物がゆっくりと姿を現す。全面ガラス張りの近代的な外観。左右にいくつもの研究棟が並び、中央にはひときわ高い本館が建っていた。その正面には、大きな石碑が堂々と設置されている。『一ノ瀬生命科学総合研究所』一ノ瀬重工グループが経営する、DNA鑑定、ゲノム解析、再生医療、法科学鑑定、遺伝子研究、などを行う国内最高峰の研究施設だ。ここでは医療分野だけでなく、司法機関や大学、さらには世界中の研究機関とも共同研究が行われている。その技術力は国内随一と呼ばれ、海外からも高い評価を受けていた。普段は略称を使い、一ノ瀬生命研、生命科学研究所、ISLI(Ichinose Science & Life Institute)などと呼ばれている。正式名称を口にする者は少なく、研究者同士でも「生命研」と呼ぶことがほとんどだった。ここでは国内でわからないことがないほどの頭脳を持った研究者たちが、日々、研究を重ねていた。白衣姿で実験に没頭する者。スーパーコンピューターを用いて解析を続ける者。新薬や医療技術の開発に挑む者。それぞれが世界最先端の研究に取り組み、一秒たりとも無駄にしない毎日を送っている。その研究内容の中には、まだ学会での発表には至っていないものも数多く存在していた。極秘プロジェクトも少なくない。そのため施設全体には最重要警備が敷かれ、部外者の入場は絶対にできない。研究者であっても立ち入りが制限される区域が存在し、入室には複数段階の認証が必要となる。まさに国家機密にも匹敵する研究施設だった。車はゆっくりと正門へ近付いていく。巨大な門の前には警備員が常駐する守衛所があり、何重ものセキュリティーが設けられていた。瑛士は車を停止させると、窓を開けて身分証カードを差し出した。守衛はカードを受け取り、一度瑛士の顔を確認する。一ノ瀬一族だということがわかったとしても、それだけで通すことはない。守衛は無言のままカードリーダーへカードをかざした。「ピッ!」甲高い
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第226話

「櫻羅ちゃん、食事の前にお風呂に行くわよ!!」部屋で一息つき、お茶を飲みながらのんびり過ごしていた心春が、パンッと手を叩くように明るくそう言った。旅館へ来る前から楽しみにしていた温泉。夕食までまだ少し時間がある。せっかくなら、温泉でゆっくり体を温めてから、おいしい夕食を味わおうという心春の考えだった。突然声を掛けられた櫻羅は、一瞬だけ目を丸くしたあと、少し緊張した面持ちで小さく頷く。「……うん」旅館でもらった浴衣姿のまま、小さなタオルを握りしめる櫻羅は、まるで初めて試験会場へ向かう子どものように表情が硬い。その姿を見た心春は思わず吹き出してしまった。「櫻羅ちゃん、戦いに行くわけじゃないんだから、緊張しなくて大丈夫よ」笑いながらそう言うと、櫻羅の手を軽く引く。櫻羅も苦笑しながらついていき、二人は部屋を出て、一階にある大浴場へ向かった。廊下には同じように浴衣姿の宿泊客が歩いており、皆どこかのんびりとした表情を浮かべている。温泉旅館独特の穏やかな空気が流れていた。やがて暖簾をくぐり、女性用大浴場の脱衣所へ足を踏み入れた櫻羅は、その場で思わず立ち止まった。広い脱衣所では、年齢もさまざまな女性たちが当たり前のように着替えをしている。誰も恥ずかしそうな様子はなく、ごく自然に身支度を整え、大浴場へ向かっていく。その光景を櫻羅は目を丸くして見つめていた。インターネットやテレビでは見たことがある。日本には大浴場という文化があり、多くの人が一緒に入浴することも知識としては知っていた。だが、実際に目の当たりにすると印象はまるで違う。他人の目も気にせず裸になり、他人と同じ浴槽に入る。外国育ちの櫻羅には、その文化にまだ少し抵抗があった。脱衣所の入り口で固まっている櫻羅の様子に気付いた心春は、笑いながら手招きをする。「こっちこっち。」そしてロッカーを指差した。「脱いだ服はここに入れる。それからこの鍵をかけたら、カギは腕に通しておくと失くさないよ」そう説明しながら、心春は慣れた手つきで支度を始める。旅館に何度も泊まっている心春にとっては、ごく当たり前の動作だった。しかし櫻羅は説明を聞いてもなお、その場から動けない。心春はそんな櫻羅を見て肩を震わせながら笑った。「駆け落ちよりは度胸がいらないわよ。早く服を脱ぎなさい」その一言に櫻羅は
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第227話

風呂から上がった二人は、浴衣姿のまま旅館の館内をゆっくりと歩いていた。温泉で芯まで温まった体はまだぽかぽかと熱く、頬もほんのり赤く染まっている。すぐに部屋へ戻るのももったいなく感じた心春は、「食事まで少し時間があるし、館内を見て回ろうか」と櫻羅を誘った。「うん!」櫻羅は嬉しそうに頷き、二人は並んで歩き始める。館内は木の香りが漂い、落ち着いた照明に照らされていた。温泉旅館らしい静かな空気が流れ、宿泊客たちも思い思いに土産物店をのぞいたり、ロビーでくつろいだりしている。館内には、この土地ならではの特産品や伝統工芸品を扱う店がいくつも並んでいた。地元で焼かれた陶器。手作りの和小物。地酒や銘菓。木工細工。色鮮やかな手ぬぐい。中には全国どこでも見かけそうな雑貨やキャラクター商品を並べる店もあったが、多くは「この土地でしか買えない物」を中心に扱っていた。旅の思い出として手に取る人も多く、店内は穏やかな賑わいを見せている。その中を歩いていた櫻羅が、また一軒の店の前でぴたりと足を止めた。「あっ……」目を輝かせながらショーケースを見つめる。少し先まで歩いていた心春は、その様子に気付き苦笑しながら引き返した。「また何か見つけたの?」櫻羅は返事もせず、棚に並んだ小さな陶器を手に取る。ころんと丸いピンク色の招き猫。両手を挙げて微笑んでいる姿が何とも愛らしい。「招き猫?」心春が声を掛けると、櫻羅は嬉しそうに振り返り、手にした招き猫を心春へ見せた。「招き猫っていうの? この子、なんだか叶翔に似てない?」そう言って、くすくすと笑う。心春もその招き猫をまじまじと見つめた。少しだけ拗ねたような表情。どこか素直になれないような顔つき。「……ふふっ。」思わず笑みがこぼれる。「確かに。」ちょっと不機嫌そうな表情が、まさしく叶翔にそっくりだった。本人が見たら絶対に怒りそうだと思うと、余計に笑えてくる。すると櫻羅は店内を見回しながら、別の棚を指差した。「あっちは和真さんに似てない?」その先には、他の招き猫とは少し雰囲気の違う一体が飾られていた。目元がすっと切れ長で、鼻筋も整っている。全体的にシャープで品のある顔立ちだった。「あ、ホントだ」思わず心春も笑いながら、その招き猫に手を伸ばす。穏やかな表情なのに、どこか大人の余裕
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第228話

心春と櫻羅が部屋に戻る際、廊下には静かな空気が流れていた。温泉でゆっくり体を温めたせいか、二人とも頬がほんのり赤く染まり、浴衣姿のまま廊下を歩いているだけで心地よい疲れを感じている。部屋へ入ると、畳の香りがふわりと鼻をくすぐった。窓の外には夕暮れが広がり、山々は少しずつ藍色へと姿を変え始めている。遠くには温泉街の灯りが一つ、また一つとともり始め、どこか幻想的な景色になっていた。櫻羅は窓辺へ歩いて行き、景色を眺めながら嬉しそうに呟く。「きれい……」日本へ来てから初めて見る温泉街の夕景。石畳の道を浴衣姿の人々がゆっくり歩き、小さな提灯が風に揺れている。まるで映画の中へ入り込んだような景色だった。その余韻に浸っていると、不意に部屋のドアが「コン、コン」と上品に叩かれた。心春が「どうぞ」と声を掛ける。襖が静かに開き、仲居の女性が笑顔で頭を下げた。「お客様、お食事のご用意をさせていただきますね」「お願いします。」心春が微笑み返すと、仲居の女性は大きなお盆を両手で抱え、慣れた手つきで部屋の中央のテーブルへ料理を並べ始めた。一品一品、丁寧に置かれていく料理。色鮮やかな前菜。湯気を立てる茶碗蒸し。氷の上に美しく盛り付けられた刺身。小さな鍋にはこれから火を入れる牛肉。煮物、焼き魚、天ぷら、小鉢……。まるで芸術作品のように並んでいく料理に、櫻羅の瞳は再びキラキラと輝き始めていた。「すごい……」思わず漏れたその声に、仲居の女性も微笑む。櫻羅は料理が置かれるたびに少しずつ身を乗り出し、興味津々な様子で眺めている。その姿を見た心春は思わず笑ってしまった。「櫻羅ちゃん、そっち側に座って待ってたらいいわよ」そう言うと、櫻羅はハッとしたように仲居の女性を見た。(私、邪魔してるかも……)そう思ったのだろう。「ごめんなさい」小さく頭を下げると、部屋の隅へ移動した。そして、先ほど売店で買った紙袋を大事そうに取り出す。「そうだ。」櫻羅は袋の中から包装紙に包まれた招き猫を取り出し、丁寧に包みをほどき始めた。紙が破れないよう慎重に折り目をたどりながら開いていく。その様子を料理を眺めながら見ていた心春が、不思議そうに声を掛けた。「どうしたの?」櫻羅は笑顔で顔を上げた。「心春ちゃんのも出してあげていいかな?」「うん。」心春が頷く
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第229話

食事が進み、次々と並べられた料理も少しずつ減っていった。湯気の立っていた鍋料理は食べ頃を迎え、焼き魚もほぐされ、小鉢も空になり始めている。部屋の中には温かな灯りがともり、窓の外にはすっかり夜の温泉街が広がっていた。石畳の道には浴衣姿の宿泊客がゆっくり歩き、遠くからは下駄の心地よい音が聞こえてくる。時折吹く夜風が木々を揺らし、その葉擦れの音までが旅館の静けさを引き立てていた。そんな穏やかな空間の中、二人のグラスのビールも少しずつ減っていく。心春はもともと酒には強い方ではない。温泉で体が温まり、空腹の状態で飲み始めたこともあり、頬はほんのり赤く染まり、目元も少し潤んでいた。一方の櫻羅は違う。日本へ来る前から、家族や親族との食事ではワインやシャンパンを口にする機会も多く、酒にはめっぽう強かった。顔色一つ変わらず、料理を楽しんでいる。その中でも特に気に入ったのが茶碗蒸しだった。スプーンですくって口へ運るたびに目を輝かせる。「これ、本当においしい……」何度もそう呟きながら味わっていた。心春は笑いながら自分の茶碗蒸しを櫻羅の前へ寄せる。「そんなに好きなら、私の分も食べる?」櫻羅は驚いたように顔を上げた。「いいの?」「うん。私は他にも食べたいものがあるし。」「ありがとう!」嬉しそうに頭を下げると、櫻羅は心春の分まで大切そうに食べ始めた。その姿をぼんやり眺めていた心春は、グラスを手にしたまま、少し虚ろな瞳で誰にともなく話し始めた。「私だってわかってるのよ、和真はホントに素敵な男性で、私が子供の頃だって、いろんな女の人と交際していたのも知ってるの。でもね………でも、あんなにはっきり『和真さんとの子供です』って目の前に突き付けられたら……さすがの心春ちゃんも、ショックだったのよね……『和真の昔の女です』って言われた方がマシっていうか……子供って……」最後の言葉は小さく消えていった。心春自身も、自分の気持ちをうまく整理できていなかった。頭では理解している。和真には昔、多くの女性と付き合っていた時期があったことも知っている。だから、昔の恋人が現れるくらいなら驚かなかっただろう。けれど、「子供」が現れた。しかも、自分の目の前で。その衝撃だけは、どうしても心が受け止め切れなかった。櫻羅はスプーンを置き、心春の話を黙って聞いていた
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第230話

夜の帳がすっかり下りた頃。山あいに建つ高級温泉ホテルには柔らかな灯りがともり、玄関先には次々と宿泊客を乗せた車が到着していた。玄関へ横付けされた一台の高級セダンから降り立ったのは、玲司と綾乃だった。仲居たちが丁寧に頭を下げる中、二人はチェックインを済ませ、部屋のキーカードを受け取る。館内は落ち着いた和の雰囲気に包まれ、廊下には畳の香りがほのかに漂っていた。窓の外にはライトアップされた日本庭園が広がり、水面に映る灯りが静かに揺れている。綾乃はその景色を眺めながら微笑んだ。「やっぱり温泉旅館って落ち着くわね。」玲司も短く「ああ」と返事をする。二人はゆっくりと廊下を歩き始めた。部屋番号を確認しながら歩いていると、前方の廊下の向こうから二人の男性が歩いてくる。見慣れた姿だった。「叶翔!!」綾乃が嬉しそうに声を掛ける。その声に気付いた叶翔と瑛士も足早に近寄ってきた。「母さんたち、今着いたのか?」叶翔がそう尋ねると、綾乃は笑顔で頷いた。「あなたたちの方が早く着くとは思わなかったわ」研究所から直接向かった二人より、自分たちの方が先に着くと思っていたらしい。叶翔は苦笑する。「高速が空いてたからな。」そんな親子のやり取りを見ながら、瑛士も軽く会釈した。玲司は短く頷くだけだったが、その表情はどこか穏やかだった。綾乃は玲司を見上げる。「先に部屋に入りましょう」そう言うと、玲司を促し、自分たちが取った部屋の前まで歩いていく。カードキーをかざすと電子音が鳴り、静かにドアが開いた。「どうぞ。」綾乃が先に入り、玲司も後に続く。叶翔と瑛士も招かれるまま部屋へ足を踏み入れた。広々とした和室。大きな窓の向こうには夜景が広がり、温泉街の灯りが宝石のように瞬いている。テーブルにはすでに湯呑みと茶菓子が用意されていた。四人が腰を下ろして間もなく、部屋のドアが静かにノックされた。「失礼いたします。」襖が開き、仲居の女性が丁寧に頭を下げる。「皆さま、ようこそ起こしくださいました。ご夕食ですが、まだご用意できますが、どちらで召し上がりますか?」綾乃は玲司へ視線を向けた。「大広間に用意してもらいましょうか」玲司もすぐに頷く。「ああ。食事の前に風呂に入る時間はあるか?」その問いに、仲居の女性は柔らかな笑みを浮かべた。「はい、今からお
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第231話

心春が眠ってしまったため、櫻羅は起こさないよう細心の注意を払いながら、静かに部屋を抜け出していた。座布団の上で穏やかな寝息を立てる心春の姿を見ていると、先ほどまで涙を流しながら胸の内を打ち明けていたことが嘘のようだった。櫻羅は布団代わりにもう一枚座布団を肩口へ寄せ、エアコンの風が直接当たらないよう向きを少し変えてやる。「ゆっくり休んでね……」誰に聞かせるでもなく小さく呟くと、起こさないよう音を立てず襖を閉めた。せっかく日本の温泉旅館に来たのだ。少し景色を楽しみながらホテルの中庭を歩いてみたかった。廊下へ出ると、館内は昼間とは違う静かな空気に包まれていた。遠くから聞こえてくるのは、大浴場の方から響く微かな話し声と、どこかで流れている琴の音色だけ。木造の廊下を歩くたびに、床板がわずかに軋み、その音さえも風情の一部のように感じられる。櫻羅はゆっくりと歩きながら窓の外へ目を向けた。昼間は多くの観光客で賑わっていた庭園も、夜になるとまるで別世界だった。中庭へ出ると、夜闇に照らされた幻想的な照明の光が、この巨大なホテルを美しく照らしている。石灯籠には柔らかな灯りがともり、小川には月明かりが映り込んで静かに揺れていた。庭に植えられた松や紅葉はライトアップされ、日本庭園特有の静寂さをより一層引き立てている。風が吹くたびに木々の葉がわずかに揺れ、竹垣の向こうから虫の鳴き声が聞こえてきた。櫻羅は思わず深呼吸した。温泉の湯気を含んだ夜風は少し湿っていて、とても心地よい。「きれい……」自然とそんな言葉が口から漏れる。櫻羅の育った街にも、こういった歴史のある建物は多かったが、それはすべて西洋のものであり、櫻羅にとっては子供の頃からなじみのあるものしかなかった。石造りの教会。古い城。大理石の広場。噴水や時計塔。そういった景色には見慣れていたが、日本庭園のように自然と建物が一体となった美しさは初めてだった。人工的に派手な装飾を施すのではなく、静けさそのものを楽しむ文化。その奥深さに、櫻羅はすっかり魅了されていた。「叶翔にも見せてあげたいな……」そう呟くと、浴衣の袖からスマホを取り出した。何枚も角度を変えながら写真を撮る。石灯籠。池。橋。旅館の建物。そして夜空。どれも美しく写っているように思えた。撮ったばかりの写真を見てみ
last updateLast Updated : 2026-07-18
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