我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚 のすべてのチャプター: チャプター 161 - チャプター 170

254 チャプター

第161話

「胡桃の言う通りだ。翠、そろそろ自分の振る舞いを反省した方がいい」その声を聞いた瞬間、翠は本能的に体が震えた。顔を上げると、黒いスポーツウェアを着た麟太郎が病室の入り口に立っていた。180センチの長身で、長年身体を鍛えているだけあって、年齢を感じさせない引き締まった体つきをしている。充の顔立ちは麟太郎によく似ていて、並んで立てば一目で親子だと分かるほどだった。ここ数年、青木グループの経営はほとんど充に任せ、麟太郎自身は本社のある東都で資産管理や関連事業を見ながら、半ば一線を退いた生活を送っていた。それでも、青木家で最も発言力を持つ人間であることに変わりはないし、グループの中枢もまだ彼の手中にあり、すべてを充へ譲ったわけではなかった。翠は昔から夫である麟太郎に頭が上がらない。何事にも完璧を求める厳しい性格の麟太郎に対し、翠は長年ずっと、言いようのない重圧を感じてきた。「あなたまで、そんな……私を責めるの?」翠は視線を落とし、小さな声でつぶやいた。麟太郎が両手を背中で組んだまま、ゆっくりと病室の中へ歩いてくる。深津市に戻ってきてから数日、麟太郎はこの街で起きた騒動のあらましは一通り聞いていた。女同士の細かな揉め事には興味はないが、何が問題だったのかくらいは十分理解できる。奈緒のやり方は、たしかに強引で、周囲を巻き込み、多くの人間を振り回したことも事実だ。だが、妻と息子が、出産という人生の大事な節目で奈緒にしてきた仕打ちは、それ以上に看過できないものだった。麟太郎は冷ややかに言い放った。「理由はどうあれ、奈緒が我々青木家の跡継ぎを産んだんだ。性別なんて関係ない。嫁が子どもを産んだ以上、姑としてやるべきことを果たすのは当然だろ?」麟太郎の言葉には苛立ちが滲んでいる。「昔、お前が3人続けて娘を産んだ時、俺の母さんはお前を責めたか?産後の世話もきちんとし、子どもの面倒も手配し、お祝いもきちんと開いてくれたよな?なのに、お前はどうだ?自分の孫をいないもののように扱うなんて」翠の目に涙があふれた。「でも、だって……奈緒の私への態度は……」胡桃がすかさず言葉を挟んだ。「でも、お母さん。奈緒さんが態度を変えたのは、出産してしばらく経ってからだよ。それも、美紀の子どものお祝いだけ盛大にやって、黎ち
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第162話

麟太郎が滞在していたのは、せいぜい10分にも満たなかった。それでも本人にとっては、夫として顔を見せる役目は果たしたつもりだった。麟太郎の姿が見えなくなると、翠は激しい怒りに任せ、サイドテーブルにあったグラスを床に叩きつけた。「あの人を見てよ!一年中家にも帰ってこないくせに、帰ってきたと思ったら私を責めることしかしない!青木家の切り盛りをして、親戚付き合いも私が全部やってきた。4人の子まで育て上げたのに、それでもまだ足りないっていうの?それなのに、奈緒のことで私だけが悪者みたいに言われるなんて!」結局、その怒りの矛先はまた奈緒へ向かった。胡桃は、たまらず眉を寄せる。「お母さん、お父さんは全てをお母さんのせいにしたわけじゃないよ。ただ、奈緒さんの出産のときだけは、お母さんの度量が足りなかったって言っただけでしょ?」翠は怒りのあまり、胡桃をにらみつけた。「あなたまで!はぁ……もういいわ。早く出て行ってちょうだい。分かったわ。あなたも、お父さんも充も、みんな同じ!結局私だけが、部外者ってことなんでしょ!」胡桃は呆れて苦笑いを浮かべるしかなかった。母は決して悪い人ではない。だが、嫁に対してだけは、昔から驚くほど頑なで、不器用だったのだ。人はそう簡単には変われない。胡桃はそれ以上何も言わず、お大事に、と言い残して病室を出た。その夜、翠は一人きりの病室で天井を見つめ続けていた。胸の中には、言いようのない寂しさだけが広がっていく。地方から麟太郎の母親が来ることに加え、麟太郎に奈緒の娘の百日祝いの世話を押し付けられるかもしれないと思うと、頭が締め付けられるように痛んだ。胡桃はもう頼れそうにない。それに、美紀と静香のことも、今は到底許せる気持ちになれない。これから自分は、いったい誰を頼ればいいのだろう。翠はふと、海外にいる次女の青木綾香(あおき あやか)と三女の青木夢香(あおき ゆめか)のことを思い浮かべた。綾香は昔から大人しく控えめで、まともな男性と結婚してからは海外で2人の娘と1人の息子を育てている。何事もパッとせず、意見を言うこともないので、当てにはできない。だが末っ子の夢香は違った……幼い頃から型破りで、3人の娘の中で一番自分に似ていて愛しい存在だった。数年前に留学で海外に出たきりだが、弁が立ち、世渡りも上
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第163話

もう一方の病室では、顔を曇らせた美紀と静香が、身を寄せ合っていた。美紀と静香が身を寄せ合い、顔を曇らせていた。美紀が言う。「お母さん、どうしたらいいの?どうして、今の奈緒さんはこんなに力を持ってるんだろう?放火の教唆なんていう証拠を握られて……翠さんも麟太郎さんも怒ってるに違いないよ」美紀は天を仰いで深いため息をついた。「形勢逆転するつもりだったのに、結局は全部裏目。大損したうえに、あっちへあんなに大金まで払わなきゃいけないなんて!」静香は美紀をじろりと睨んだ。「今さらどうしようもないでしょ?賠償金を払わなければ、警察に突き出されるのは私たちなんだから。そもそも、あなたが最初から充に必要以上に近づかなければ、こんなことにはならなかったのよ」美紀は頬を膨らませ、反論する。「お母さん、なんで私のせいにするの?全ては奈緒さんが悪いんだから!」美紀の眉間に皺がよった。「それにしてもおかしいよね。奈緒さん、急に別人みたいになっちゃったんだから。絶対、誰か後ろにいるはずだから、突き止めてやらないと」静香が眉間を揉む。「いつも奈緒のそばにいる、あの若い男……たしか坂本さんって名前だったわね。あの身のこなし、どう見ても普通じゃない。今の奈緒や蘭だけで、あんな人を味方につけられるとは思えない。美紀、私たちももう受け身でいるわけにはいかない。こちらも頼れる相手を探さないと」美紀は困ったように首を振った。「お父さんは協力してくれないだろうし、こんなこと知られたら、本気で見放される。今さら誰を頼れっていうのよ!」数秒間じっと考え込んだ静香の頭の中に、ある人物の名前が浮かんだ。「一人だけいる。その人が動いてくれれば、奈緒も蘭もただじゃ済まないわ」美紀が興味を示す。「誰?」静香は美紀の目を見つめた。「あなたのいとこの、聡さん。かつてあなたに付き纏っていた、裏社会にも通じているあの変態男」その名前を聞いた瞬間、美紀の顔色が一変した。声まで震えている。「お母さん、駄目。絶対駄目だから!あんな異常性癖を持つ変態男なんて、二度と会いたくないんだから!絶対に駄目!頼むからあの男には連絡しないでね!何とかして私が解決するから。充さんが私を見捨てるはずないし……絶対に私がなんとかする!お願いだからあの男だけは
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第164話

その言葉に、美紀の瞳の奥には冷たい憎悪が宿った。今の彼女にあるのは、奈緒への底知れない恨みだけ…………奈緒は自宅で丸3日間、待った。3日後、ようやく充から電話があり、食事をしながら、これからのことについて話し合おうと言われた。奈緒が指定された場所へ向かい、レストラン2階の個室のドアを開けると、そこには充だけでなく、胡桃までが同席していた。奈緒は呆然とし、その表情は固くなる。「充、話をするんじゃなかったの?胡桃さんを連れてきて、どういうつもり?」充が口を開くより先に、胡桃が自ら立ち上がり、奈緒を見て穏やかに微笑んだ。「充に無理を言って、私も一緒に来させてもらったの。あなたの妊娠中や産後、お母さんと充が至らなかったことを謝罪したくて。本当にごめんなさい」胡桃の口調には、それまでになかった敬意と穏やかさがにじんでいた。予期せぬ態度に奈緒は戸惑ったが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべ、反射的に充の方を見た。「何?やり方を変えてきたわけ?この手はもう通用しないからね、充。最近、黎の写真を胡桃さんに送ったからといって、私が懐いているとでも思ったの?まさか、仲裁役を頼むなんて。言っておくけど、私は青木家の誰とも親しくする気はないし、それは胡桃さんも同じ。だから、こんなことはやめて」奈緒は胡桃をまっすぐ指差し、ほんの二言三言で彼らが取り繕っていた建前をあっさりと見抜いてみせた。あまりにも落ち着き払った奈緒の態度と圧倒的な存在感に、充は頭が締めつけられるような痛みを覚えた。用意してきた言葉は、一瞬にして意味を失う。何を言っても通じない気がしたが、やはり彼は気まずそうに口を開いた。「奈緒、そんなつもりじゃないよ……」その言葉が終わるのを待たずに、胡桃が遮った。「奈緒さん、私は仲裁役で来たわけじゃない。本当に、青木家を代表して謝罪に来たの。これはお父さんの考えでもあって、お父さんも奈緒さんたちにもう争ってほしくない、円満に収めたいと思っている。何か要求や不満があれば言って。私たちにできることなら、誠心誠意対応するから」奈緒は胡桃の瞳をじっと見つめ、唇を固く結んだ。氷のように凍りついた感情の奥で、心がずきりと締め付けられた。高慢だったはずの青木家が、こうして頭を下げ、歩み寄ってくる日が来るなんて。かつて
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第165話

胡桃と充は、そろって言葉を失った。胡桃はとっさに奈緒の手を掴む。「これまで私が何も言わなかったのは、夫婦の問題は二人で解決するのが一番だと思っていたからなの。奈緒さんがどれほど辛い思いをしてきたかは分かっている。お父さんだって、妊娠中から出産、それに産後の日々も……お母さんのやり方は、配慮が欠けていたって言ってたんだから。それに、今日来たのは謝罪だけじゃないの。黎ちゃんの百日祝いの相談もしたくて。お父さんは盛大にお祝いをして、奈緒さんの心残りをすべて埋め合わせたいって言ってる。だからお願い。今までのことは水に流して、充とやり直してくれないかな?」胡桃の口調は、以前の傲慢なものとは違い、穏やかに奈緒と話し合おうとするものだった。青木家に嫁いでから、充の家族にここまで対等な扱いを受け敬意を向けられたのは初めてのことだ。今まで、充の姉たちは皆、奈緒に対しては常に見下した態度だった。自分がここまで徹底的に事を大きくしなければ、この態度は得られなかっただろう。そう思うと、奈緒は心の中で冷笑した。だが表情には出さず、何も言わない。胡桃が説得に来たことが分かっていた奈緒は、すでに蛍へ連絡を入れ、ここへ来るよう伝えていた。連絡を受け、車を飛ばして店に来ていた蛍は、ドアを開けようと思った時、ちょうど胡桃の言い分を耳にした。その瞬間、激怒してドアを勢いよく開け放つ。「胡桃さん、本気でそんなこと言ってるんですか?百日祝いを開くなんて話を持ち出せば、奈緒が大人しく折れて、また前みたいに青木家で肩身の狭い思いをしながら、みんなの言いなりになって暮らすとでも思ってるんですか?奈緒ばかりに我慢させて、気持ちなんて何ひとつ考えず、青木家のために尽くすのが当たり前みたいに扱っておいて、最後は家族で仲良く?今さら何を言ってるんですか?奈緒が本気であなたたちの家族になろうとしてた頃、あなたたちは何をしてきたんですか?今の奈緒は家族円満なんて望んでません。望んでるのは離婚、それだけです!胡桃さん、よく聞いてください。奈緒の望みは離婚だけ。ほかは何を言われても応じませんから」腹を括っていた蛍は、席に着くなり一気にまくし立てた。蛍のあまりの剣幕に充の顔はみるみるうちに蒼ざめた。穏やかだった胡桃の顔からも笑みが消え、氷のように冷え切る。
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第166話

蛍は大声でそうまくしたて、何度も勢いよくテーブルを叩いた。手のひらは痛かったが、胸の中はすかっとしていた。この数年、奈緒が耐え続けてきた我慢や悔しさを、蛍はずっと間近で見てきた。もともと青木家の人間なんて虫が好かなかったが、奈緒の幸せのためにと、ずっと黙って自分を殺してきた。だが、今は昔とは違う……奈緒がついに立ち上がったのだ。今の蛍は、もう青木家の人間と真っ向からぶつかることなど少しも怖くなかった。たとえ奈緒からナイフを渡され、「行ってこい」と言われたとしても、迷わず前に出る覚悟さえある。理由なんてただひとつ。親友がこの5年間飲み込んできた悔しさを、少しでも晴らしてやりたい。そのためなら、嫌われ役になることなど何とも思わなかった。奈緒が今まで言えずに飲み込んできた言葉を、全部自分が代わりにぶつけてやる。そして青木家がこれまで奈緒に浴びせてきた冷たい言葉も仕打ちも、今度はそのまま彼らへ返してやるつもりだった。胡桃の表情が一瞬にして険しくなり、彼女は勢いよく立ち上がって言い返した。「奈緒さん、あなたはお友達にこんなことを言わせて平気なの?こっちがプライドを捨ててわざわざ頭を下げに来ているのに、お友達にあんな風に罵らせるなら……もう話し合う余地なんてないわ」奈緒は淡々と無表情で答える。「蛍の言葉は私の言葉ですから。青木家は以前から何かと言えば私を悪者扱いして、謝罪を求めてきましたよね。この5年間、私は青木家の皆さんに謝ってきましたけど、今だって自分のどこが悪かったのかなんて、全くわかりません。今、あなたのお母さんと美紀に私へ謝らせるのが、そんなに無理な要求ですか?」胡桃は唖然とした。充も言葉を失う。胡桃は、自分が出てくれば奈緒が折れてくれ、少し歩み寄れば、この話はまとまると思っていた。だが、それは甘い考えだったようだ。今の奈緒は、もう以前の何でも思い通りになった奈緒ではない。自分の意思をはっきりと持ち、そこには威圧感さえ感じる。その親友である女も、口が達者で一筋縄ではいかない。胡桃は来なければよかったと後悔したが、一度啖呵を切った手前、プライドがそれを許さなかった。奈緒が折れないのであれば、自分だって本音をぶつけてやる。胡桃は奈緒を見据え、威嚇するように言い放った。「お母さん
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第167話

バシッ!鋭い音が響き渡り、個室には異様な静けさが訪れた。胡桃は弾かれたように手を引っ込めたが、奈緒の頬にくっきりと浮かび上がる5本指の痕を見て、あっと驚いて思わず声を漏らす。「ご……ごめん。あなたを叩くつもりはなくて、充を叩きたかっただけなの」怒った蛍は駆け寄り、奈緒を背にかばうと、迷いなく胡桃の頬を張り飛ばした。そして、蛍は一歩も引かず言い放った。「すみません。叩く人を間違えました……く、空気を叩きたかったんです」場の空気が一気に殺気立つ。青木家の令嬢であり、青木グループの役員も務める胡桃は、これまで誰からも大切に扱われ、行く先々で敬われてきた。人前で面と向かって頬を叩かれるなど、人生で初めてのことだったし、蛍の一発はなかなかの威力だった。口元からは血も滲んでいる。胡桃の目は冷え切り、激昂して蛍に反撃しようと突き進んだ。しかし、充が胡桃の手首をがしりと掴み、鋭い目つきで制した。「姉さん、もういい加減にしてくれ!これ以上言い争ったら、一体どう収拾をつけるつもりなんだ?もう事を荒立てるのはよしてくれ。今日は俺の邪魔をしに来たのか?」事態をコントロールできなくなった充は、激しい頭痛に襲われる。疲労が溜まっていて、身も心もボロボロだった。胡桃が顔を上げて充を見つめた。「充、離婚しなよ。もう説得する気も起きないから。でも、ひとつ言わせて。離婚するのは勝手だけど、黎ちゃんは青木家の血を引いているんだから、奈緒さんには絶対に渡さない。お父さんもそう言ってるからよく考えなさい!」胡桃は、この泥沼に足を踏み入れたことを深く後悔していた。言い捨てるようにそう告げると、奈緒を冷たく一瞥し、頬を押さえながら出ていった。その場に残された充は微動だにせず、奈緒をじっと見つめていたが、怒りはすでに頂点に達していた。「青木家を敵に回して、お前は満足か?姉さんはもともとお前の味方だったのに、顔を潰すようなことをして……俺たち二人の未来なんて、これっぽっちも考えていないのかよ?」奈緒は鼻で笑った。「充、あなたもあなたの家族も、自分たちの状況が分かってないの?最初からずっと言ってるよね?私は復縁なんて望んでいない、離婚一択だって」充は目を閉じた。胸が鈍く痛む。ここまでの騒ぎになって、胡桃までもが
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第168話

それは、突然の出来事だった。奈緒が視線を上げると、充が床に倒れ込んでいた。意識はない。彼女は反射的に駆け寄る。「どうしたの?倒れたの?」蛍も驚きの声を上げた。呼吸を確認した奈緒は、すぐに渉へ電話をかけた。幸い外で待機していた渉がすぐに駆けつけ、充を抱えて最寄りの病院へ急いだ。救急処置室の前で、冷や汗を拭った奈緒は、渉に向き直る。「一体何があったの?もともと頑丈な方でしょ?」奈緒の言葉に、渉が深いため息をついた。「奥様と黎様が去ってから、社長は夜眠れていませんでした。昼間は仕事、加えてこのところのトラブル続き、その上、風邪までこじらせて無理をしていたので、もう限界だったんでしょう」奈緒は呆然とした。「毎晩眠れてないなんて。そんなの信じられない。毎日、睡眠だけは絶対にとっていた人なのに――」充は典型的なエリートで、食事も睡眠も時間通り、分単位で管理するような人間だった。自制心が強く、何よりも睡眠を重視する。結婚して5年、彼が眠れないなんてことは、一度だって聞いたことがなかった。「社長は奥様と出会う前、ひどい不眠症を抱えていました。いくら医者を回っても改善しなかったんです」渉は周囲を見回し、小声で切り出した。「あの頃、社長があれほど奥様と結婚しようとした理由はそれです。奥様の隣で寝ると安らげる、横になった瞬間すぐに眠れる、と……決して、愛情がないわけではなかったのです。ただ、伝えるのが苦手だっただけなんですよ」結婚の理由が美紀との関係を噂されないための隠れ蓑だから、自分への気持ちなんて微塵もないと思っていた。なのに、今さら知らされた真実に奈緒は動揺する。そんなはずがない。「でたらめを言わないで。妊娠中だって産後だって、彼は私といなかった。その間もずっと不眠だったって言うの?」渉は顔の汗を拭う。「あの時期は一時的に回復していました。でも、奥様が黎様を連れて離れてからまた始まったんです。嘘じゃないです。もし信じられないというのであれば、診察記録もお見せできますので」渉は携帯を開き、充の過去の診察記録を差し出す。確かに、渉の話は嘘でないらしく、毎夜一睡もできず、睡眠薬に頼るしかなかった充の状況がそこに記されていた。充の目の下の深い隈が脳裏をよぎり、奈緒は言葉を失う。その時
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第169話

「死ぬ」という言葉に、奈緒は心臓が跳ねるような恐怖を覚えた。充を恨み、腹を立てているのは確かだ。だがかつては深く愛した人であり、いくらなんでも死んでほしいとまでは思っていない。今日、目の前で倒れた充を見て、奈緒は本気で心配した。奈緒は充を見てから、蛍に視線を移し、そっと蛍を部屋の外へ連れ出した。「蛍、充がこんな状態になった今、私、帰るべきかな?それとも目を覚ますまで残るべき?」蛍も奈緒と同じで、根は非常に優しい。蛍もまた、充の死を望むような人間ではない。蛍は奈緒の肩を優しく叩いた。「奈緒、今は非常事態。一旦恨みは横に置いて、目を覚ますまでここで待ってみたら?」そして蛍は、奈緒の耳元でこそっと言った。「ついでに、宮本さんの話が本当なのか探ってみたほうがいいよ。実は二人を繋ぎ止めるための嘘だったなんてオチだったら、洒落にならないでしょ?」奈緒は病室に残ることを選び、蛍はその場を後にした。奈緒は夕方まで静かに待っていたが、いつの間にか付き添いのベッドの上でまどろみ、眠りに落ちてしまった。病室内はひっそりとしており、静寂の中で均等な呼吸音だけが響いている。どれほど経ったのだろうか、暗闇の中で充がゆっくりと目を開けた。病院にいると気づいた充が身を起こそうとしたその時、付き添いのベッドにうずくまって眠る奈緒の姿が目に飛び込んできた。それはまるで、全ての鋭い爪を隠した子猫のように愛らしい姿だった。小さいベッドが少し窮屈なのか、奈緒は脚を少し折り曲げている。薄暗い病室の照明がその華奢な体を浮かび上がらせていた。少し乱れた髪が頬にかかり、呼吸に合わせて優しく揺れる。そして、眠っているはずなのに、唇をギュッと結んだ頑固そうな様子が、充の心をかき乱した。その姿を見た瞬間、充の混乱した頭に電撃が走ったような衝撃が走る。これほど長く冷たくされ、何度も離婚を突きつけられたことで、もう二人の関係は完全に終わったのだと、充は思い込んでいた。そして限界まで追い詰められ、自分は怒りと動揺のあまり意識まで失ってしまった。だが今、奈緒は帰らずに、自分のそばにいてくれている。奈緒にはまだ自分に対する気持ちがある、充はそう確信した。口では冷たいことを言っても、本心では見捨てられないのだろう。奈緒の寝顔を見ながらそんなことを
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第170話

購入してから気がついたのだが、奈緒はほとんどこの碧瀾郷にいない。しかし、充は水鏡ヶ丘でまだ改装が続いていたので、ここ最近ずっとこっちに住んでいたのだった。彼は奈緒を抱き上げ、車からエレベーター、エレベーターから寝室へと移動し、丁寧にベッドへと降ろした。奈緒は深い眠りに就いていて、目を覚ます気配すらない。満足げに笑みを浮かべた充は、すぐにシャワーを浴び、くつろげる服に着替えた。それから布団に入り、奈緒の首元に手を回して優しく抱きしめ、目を閉じる。それは懐かしく、そして遠い感覚だった。充は、まるで何世紀もの間二人で眠っていなかったかのような不思議な心地に包まれていた。一度失ってからの再会は、格別に愛おしい。充は今、宝物でも抱くかのように、奈緒を傷つけないよう慎重に腕の中に収めた。薄暗い室内。肌馴染みの良いシルクのシーツが二人を包んでいた。奈緒の服は丁寧に脱がされ、奈緒はかつてと同じ白のキャミソールとショートパンツ姿になった。奈緒は服を着ていると華奢に見えるが、実際はとても女性らしい柔らかな体つきをしている。抱き寄せるとふんわりとした温もりが伝わり、小さな抱き枕を腕に抱いているような心地よさに、充は思わずそのぬくもりへ沈んでいった。充はひどく疲れ切っていて、とても眠かった。こうして奈緒を抱いていると、荒海を彷徨った小船がようやく港を見つけたような安心感に包まれる。猛烈な眠気に飲まれ、充はようやく満足して夢の中へ落ちていったのだった。腕の中には、昼も夜も思い続けていた女がいる。肌と肌が隙間なく重なり合う。深い満ち足りた思いと共に、充は規則正しく寝息を立て始めた。……奈緒もまた、深い昏睡にも似た眠りの中で、ある夢を見ていた。それはかつての日々、仕事を終えて家に帰っては二人で心ゆくまで求め合っていたあの頃の夢。夢の中の充は、昔と変わらず、奈緒が好きだったあのたくましい彼のままだった。まるで雄ライオンのように激しく、情熱的な彼。懐かしいぬくもりに包まれる夢は、あまりにも鮮明で、まるで本当に過去へ戻ったかのようだった。そして、甘く切ない余韻だけを残しながら、夢はゆっくりと途切れていく……目を覚ましたとき、奈緒の全身にはうっすらと汗がにじみ、肌はじっとりと湿っていた。すぐそばには、
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