All Chapters of 壊したいほど好きだから、: Chapter 31 - Chapter 40

57 Chapters

第1.5章:010

※ 学校から少し歩いた駅前。渚が足を止めたのは、大きなガラス窓から温かな光が漏れる一軒のカフェだった。  自動ドアをくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間に広がる甘い香りと、パステルカラーを基調としたお洒落な内装。指示された席へと向かい、椅子に座る前に、渚は首元に巻かれていたマフラーをゆっくりと解き、分厚いコートを脱いだ。  コートの下から現れたのは、ゆったりとしたシルエットの黄色のタートルネックニットだった。  少しオーバーサイズ気味の柔らかな編み目が、彼女の華奢な身体を優しく包み込んでいる。暖かみのある鮮やかな黄色が、渚の白い肌によく映えていた。制服の時には分からなかった、女の子らしい私服のディテールを目の当たりにして、玲の胸は甘く脈打つ。  同時に、店内の様子に玲は目を丸くした。  見渡す限り、店内の客席を埋め尽くしているのは自分と同世代かそれ以上の女性ばかりだった。男の姿は、店員の他にはどこにも見当たらない。文字通り、完全に男性は玲一人きりだった。 「ここ、いちど、来たかったの……」  渚が小声でそう呟く。  渚が行きたかった場所なら、玲にとっては周囲が女だらけだろうが何だろうが、全く気にならなかった。それに、不思議と、玲はその場から浮かなかった。  店員に案内されたのは、少し広めの四名掛けのテーブル席だった。  玲としては、できることなら二名掛けのテーブルで、もっと近い正面に座りたかった。けれど、案内されるや否や、渚は玲の正面を避けるようにして、すっと斜め前の席に腰を下ろしてしまった。 (……やっぱり、正面はダメか)  あからさまに距離を置かれたことに、玲は内心で少しだけ落ち込む。せっかくマフラーとコートを脱いだ彼女の姿を近くで見られると思ったのに。それでも、こうして同じテーブルを囲めているのだからと、玲はすぐに気持ちを切り替えた。  何より、メニュー表を開いて「美味しそう……」と嬉しそうに頬を綻ばせる渚の姿を見られただけで、玲の胸の奥は満足感でいっぱいになる。  メニューにはパフェなどのスイーツだけでなく、軽食も充実しているらしく、渚はトマトソースのパスタを注文した。  やがて運ばれてきた湯気
Read more

第1.5章:011

 渚が迷った末に注文した苺のタルトは、彼女が半分ほど口に運んだところで本当にフォークが止まってしまった。「ごめんね、やっぱりお腹いっぱいで……」と申し訳なさそうに身を縮める渚に、玲は「いいよ、約束通り俺がもらうね」と喜んで引き取った。  渚が食べ残したものを、自分が食べる。フォークがタルトの断面に触れるたび、言いようのない昂揚感が玲の身体を駆け巡る。渚が口をつけたものと、自分の唇が重なる——歪な形ではあっても、それは確かな間接キスだった。  そんな手段でしか彼女に触れないもどかしさはあったが、自分で注文したチョコレートパフェと、渚のタルトを交互に口へ運ぶ時間は、玲にとってこの上ない至福だった。 「ごちそうさまでした。……本当に、美味しかった」  苺のタルトを綺麗に平らげた玲を見て、渚はタートルネックの襟元に顔を半分埋めながら、少しだけはにかむように笑った。彼女のその表情を見られただけで、玲の胸の奥はこれ以上ないほどの満足感で満たされる。  席を立つ前、渚は再び分厚いコートに袖を通し、首元へ丁寧にマフラーを巻き直した。顎まですっぽりとマフラーに埋もれたその姿を見て、玲は「せっかくの黄色のニットが見えなくなっちゃったな」と少しだけ名残惜しく思う。  玲が伝票を手に取り、音もなく立ち上がる。それを見た渚が、ハッとしたように自分の財布を取り出した。 「あ、待って、宮原くん。私の分、いくらだった……?」  渚の反応に、玲は振り返って、優しい笑みを浮かべた。 「いいよ、ここは俺に払わせて」 「え……? でも、悪いよ。パスタだけじゃなくて、タルトまで食べたのに……」 「俺が誘ったんだし、タルトは俺がほとんど食べちゃったようなもんだからさ。それに、久しぶりに渚とたくさん話せて、本当に楽しかった。そのお礼」  押し付けがましさを一切感じさせない、柔らかな口調だった。  渚は財布を握ったまま一瞬だけ躊躇い、それから少しだけ申し訳なさそうに視線を落とした。 「……ごめんね。ありがとう」 「ううん。じゃあ、行こうか」  ——お金の問題なんかじゃない。渚は申し訳なさそうにしているが、玲にしてみれば、今のこの時間は、ど
Read more

第1.5章:012

※ ※ ※ それからの冬は、玲にとって、凍えるような寒ささえ愛おしく思えるほどの季節となった。  玲は渚と少しでも長く、多く、同じ時間を共有したくて、毎週末、土日のスケジュールを予約するかのように「今週末は空いてる?」とメッセージを送り続けた。  学校の友人たちと自発的に外へ出かけることのほとんどない渚の予定は、大抵の場合、ぽっかりと空いていた。たまに「その日は綾乃と約束があるから」と断られることもあったけれど、綾乃はバレー部の練習や遠征で週末も忙しく、結果として渚の休日は、その殆どを玲が独占することができた。  会う場所は、決まって渚の学校の近くだった。彼女が提示する境界線を、玲は決して踏み越えようとはしなかった。  試験の前には、二人で渚の学校の近くにある公立図書館へ行った。  天井が高く、本特有の匂いが漂う静まり返った閲覧室。お互いに自分の参考書やノートを広げ、何時間もの間、一言の会話もないままペンを動かす。  言葉なんてなくても、すぐ斜め前の席に渚がいて、ノートを捲る微かな紙の音が響くだけで、玲の胸の奥は幸福感で満たされた。時折、分からない問題があるのか、シャープペンの先でトントンとノートを叩く渚の手元を眺めているだけで、退屈な試験勉強の時間が何よりも贅沢な瞬間に変わった。  手は繋げない。二人きりの密室になることもない。どこかへ遠出をすることだって、今はまだ許されていない。  それでも、玲は焦らなかった。  いつか、渚が心の底から俺を信頼して、二人きりになることを許してくれるまで、何年だって、いつまでも待ち続ける自信があった。 (急ぐ必要なんてない。俺と渚は今、一緒の時間を過ごしてるんだから)
Read more

第1.5章:013

 ※ ※ ※ 季節は巡り、陽射しがアスファルトを焦がす高校二年生の夏。 衣替えを迎えた玲の制服は半袖になり、白い肌が太陽の熱で焼かれる季節が今年もやってきた。糊のきいた夏服に袖を通し、自室を出て階段を下りていく。その途中で、階下から母親の朗らかな声が響いた。 「玲、真央ちゃんがもう来てるわよ。女の子を外で待たせちゃ駄目じゃない」 母親の手前、玲は反射的に端正な笑みを顔に張り付け、「うん、分かってる」と頷いた。けれど、その内心は鬱陶しさと苛立ちで激しく逆立っている。 食卓に着くと、今度は新聞から目を離した父親から「朝から彼女を待たせるもんじゃないぞ」と、いかにも父親らしい口調で注意を受けた。父親の隣に腰かけた母親も「そうよ、もっと優しくしてあげなきゃ」と楽しそうに同意する。 胸の奥に広がる不快感を押し殺しながら、玲は淡々と声を返した。「別に、彼女じゃないよ」「またまたー。毎朝あんなに仲良く一緒に登校しておいて、よく言うわよ」「小学校からの幼馴染じゃないか。甘酸っぱい青春だな」 何が面白いのか、両親は顔を見合わせてからからと笑い合う。その無邪気な笑顔が、今の玲にとってはただただ不快で、醜悪なものにしか見えなかった。「……俺には、好きな子がいるから」 それだけを告げて、玲は半分も箸をつけていない朝食を残したまま席を立った。背後から母親が「えっ、誰!? お母さん知ってる子?」と身を乗り出して訊ねてくる。けれど、玲は二度と振り返ることなく「行ってきます」とだけ言い残し、玄関のドアを開けて外へ出た。 門の外には、強い朝陽を浴びて、笑顔を浮かべた真央が立っていた。「玲! おはよう!」 弾んだ声が鼓膜を叩くが、玲の心には何一つ響かない。それどころか、両親に無神経な誤解を植え付けられたこと、そして、今年初めての自分の夏服姿を見せた相手が、渚ではなくこの女であるという事実に嫌悪感を覚えていた。 玲は真央の前に立つと、冷え切った視線で彼女を見下ろした。「朝、家に来るな」「え……?」「母さ
Read more

第1.5章:014

※ ※ ※ 週末、約束の場所へと向かう玲の足取りは、いつになく軽やかだった。真央たちのことなど完全に脳内から締め出し、ただ早く渚に会いたい、その一心で歩く。 渚の通う学校の校門前が見えてくると、彼女はすでに門の外にいた。(あ……) 玲は歩み寄りながら、内心で小さく落胆のため息をついた。 渚はかっちりとした長袖のシャツを着ていて、その白い肌は首元と手首から先以外、ほとんど隠されてしまっている。衣替えをして半袖になった自分とは対照的に、徹底して露出を避けているかのようなその服装に、玲は寂しさを覚えた。「待たせてごめんね、渚」「ううん。今、来たところだから」 歩き出しても、二人の間にはいつものように、大人が一人すっぽりと入れてしまうだけの不自然な距離が空いたままだった。 じりじりと肌を焼くような夏の熱気。玲がふと横を盗み見ると、渚の白い頬に、きらりと汗の粒が伝っていた。 玲は自分のバッグを開けると、中から一本のペットボトルの水を取り出して、渚へと差し出した。「これ、飲んで。こっちの駅に着いてから買ったんだ。歩いてる間に少しぬるくなっちゃったかもだけど、まだ冷たいと思う。——俺、まだ口付けてないから、安心して」「え、で、でも……」「顔が赤いよ。こんなに暑いんだから、倒れでもしたら大変だよ。ほら、はい」 促すと、渚は「あ、ありがと……」と躊躇いがちに水を受け取った。 キャップを開け、コクコクと水を飲んでいく。その際、上を向いた彼女の細い喉が、生々しく上下に動くのが見えた。普段はガードの固い彼女の、一瞬だけの無防備な躍動。それがあまりにも色っぽく、そして切なく玲の目に映り、これ以上見つめていると目が離せなくなりそうで、玲は慌てて視線を逸らした。「冷たくて、美味しい」 一息ついた渚は、自分が口をつけたボトルの飲み口を、ポケットから出したハンカチで拭おうとした。 それを見た玲は、反射的に声をかけてしまう。「あ、いや、俺は別に気にしないよ。その
Read more

第1.5章:015

 ※ 今日は、渚と映画を観る。 渚は申し訳なさそうに「……アニメの映画なんだけど、興味なかったらごめんね」と縮こまっていた。 実は、玲はアニメなんてこれっぽっちも興味がないし、家でテレビをつけることすら滅多にない。けれど、渚がメッセージで『観たい映画がある』と教えてくれたその日から、玲の夜は一変した。 配信サイトを開き、一話三十分のそのロングランアニメを、毎日倍速で深夜まで貪るように視聴した。何シーズンもある膨大な話数だけでなく、過去の劇場版まですべて頭に叩き込んだ。全ては、今日という日のためだ。「ううん、俺もこれ気になってたんだ。特にあの、前作の映画で出てきたキャラクターがさ、今回の予告にも映ってたでしょ? あのシーンの演出がすごく好きで」 玲が予習の成果を淀みなく伝えると、渚は一瞬驚いたように目を見張った。そして、玲も自分と同じ熱量で作品を観てくれているのだと分かった瞬間、それまでの申し訳なさそうな顔が、パッと明るい笑顔に変わった。 その表情を見ただけで、深夜まで画面を睨み続けて削られた睡眠時間なんて、どうでもよくなった。見た甲斐が、ありすぎた。こうして渚の『好きなもの』を自分のなかに取り込んで、共有できていることが、何よりも嬉しい。 週末の映画館は、家族連れやカップルでごった返していた。 大きなポップコーンを一つ買い、薄暗いシアターの座席で並んで座る。上映中、スクリーンを見つめながら手探りでポップコーンに手を伸ばしたとき、一度だけ、二人の手の動きが完全に重なった。 カサリ、と箱の中で渚の指先が自分の手に触れる。 心臓が爆発しそうなほど激しく脈打ち、触れた皮膚から熱がじわじわと腕を伝って全身へ広がっていく。これほどまでに他人の体温を熱いと感じたのは、生まれて初めてのことだった。 やがてエンディング曲が流れ、上映が終了する。(ただのアニメだと思ってたけど……案外面白かったな) そんな感想を抱きながら、館内の照明がパッと明るくなった瞬間、玲は隣の渚を見て、息を呑んだ。 渚の綺麗な目尻に、涙がじんわりと溜まっていた。
Read more

第1.5章:016

※  カフェに入って冷たい飲み物を口にし、映画の感想をぽつぽつと語り合っているうちに、渚の強張っていた身体はすっかり解けていった。 そうして夕方前、渚の学校へと向かう帰り道。 玲は歩きながら、ふと自分の右側に感じる熱に気付き、そっと視線を落とした。(……距離が、ない) これまで二人の間にあった大人一人分の距離。それが、今は跡形もなく消え去っていた。 玲が肩を僅かに動かせば、渚の着ている長袖シャツの袖が擦れ合ってしまいそうなほど、二人の距離は信じられないほどにぐっと近付いていた。 渚の側から、こちらに寄ってきているようだった。 決して玲への甘えや、恋愛的な好意からのアプローチではなかった。渚自身、自分がここまで玲に密着して歩いていることに全く気付いていない様子だった。ただ、俯きがちに歩きながら、玲との会話を続けている。 渚から歩み寄ってくれたことが、玲の胸を歓喜がめちゃくちゃに掻き乱す。 今すぐ、ポケットの中でじっと堪えているこの手を伸ばして、その白くて細い指先をぎゅっと握り締めてしまいたかった。 玲はかろうじて理性を保ち、伸びそうになる右手をグッと堪えた。 ここで自分から手を繋ぎにいったり、「近いね」などと指摘してしまえば、渚は正気に戻り、自分のしていることに青褪めて、距離を取られてしまうかもしれない。 だから、玲は気づかない振りをすることを選んだ。「あ、見て渚。あそこのお店、この前テレビで紹介されてたよ」「え? あ、本当だ……美味しそうだね」 玲は前を向いたまま、何事もないように、他愛のない話を振り続ける。 指摘せず、触れもせず、ただ奇跡のような密着感を、静かに、そして貪欲に噛み締める。 手は繋いでいない。けれど、西日に照らされた二人の影は、アスファルトの上でぴったりと一つに重なり合っていた。
Read more

第1.5章:017

  ※ ※ ※ 夏休みに戻ってきた家は、本来なら一番心が休まる場所だった。それなのに、今の渚にとっては、自分のせいで家族の自然な空気が失われているような、言いようのない息苦しさを感じる場所になっていた。「渚、お母さんと近所のスーパーまで買い物に行かない? 今日の夜、何が食べたい?」「うん、行く。……お父さんは、行かないの?」 渚がそう訊ねると、ソファに座っていた父親は、優しく、けれどどこか遠慮がちな笑みを浮かべて「俺は留守番してるよ」と答えた。 渚は頭では分かっていた。 お父さんは何も悪くない。幼い頃から自分を愛し、今だって誰よりも心配してくれている、大好きな父親だ。絶対に酷いことなんてしないと、頭ではちゃんと分かっている。 なのに――リビングでお父さんと二人きりになったり、近くに並んだりするだけで、どうしても男性としての気配を察知して、身体が恐怖でガチガチに強張ってしまうのだ。 そんな娘の拒絶の反応に気づいているからこそ、渚のお父さんは自ら一歩引いて、距離を置いてくれている。お母さんもまた、腫れ物に触るかのように渚に気を遣ってばかりいた。 本当は、せっかくの夏休みなんだから、三人揃って遠出をしたいはずだ。昔みたいに、みんなで楽しくお出かけしたいと思っているはずなのに。 (私のせいで、みんなに気を遣わせて……本当に情けないな) 自分がこの家にいるだけで、優しい両親から普通の日常を奪ってしまう。その申し訳なさに、渚は実家にいる間、ずっと浅い呼吸しかできずにいた。※ 夜になり、自室のベッドに入って一人きりになった時だけが、ようやく少し息を整えられる時間だった。 静まり返った暗闇のなか、渚は枕元に置いていた携帯を手に取った。画面を開くと、そこには宮原からの新しい通知が表示されている。『今日、こっちはすごく暑かったよ。渚の方は天気どう?』 画面に並ぶ宮原からのメッセージを目にした瞬間、渚は、自分の胸のつかえがすうっと消えていくような感覚が広がった。 (&hellip
Read more

第1.5章:018

  頬を緩ませながら、甘いものを食べている宮原の姿が渚の脳裏に浮かんだ。視界に映っているはずの窓の外に流れる景色は、いつの間にか宮原のことで頭がいっぱいになって、それはもう見えていなかった。 (早く渡したいな) ――高速道路を抜けて見慣れた街並みに入り、やがて車は女子寮の前に静かに停車した。「じゃあ、気をつけてね。無理しちゃダメよ」 運転席の母親が、寂しさと、どこかホッとしたような安堵を半分ずつ滲ませた複雑な笑顔で、渚の背中をそっと押してくれた。 言葉にしなくても、両親は娘が実家でずっと気を張り詰め、浅い呼吸を繰り返しているのを見て取っていたのだろう。渚が「そろそろ、寮に戻ろうかな」と切り出したとき、二人はその理由を一切問い詰めず、こうして送り出してくれた。 お互いに本音には触れない、沈黙の優しさ。やっぱり実家は申し訳なくて息苦しかったけれど、そんな両親の温かさに胸を締め付けられながら、渚はトランクを引いて車を降りた。 母親の車が見えなくなるまで見送り、渚は寮の敷地内の少し開けた場所で立ち止まった。携帯を取り出して宮原にメッセージを送る。『予定より少し早くこっちに帰ってきました』『宮原君が暇な日、会えないかな?』 送信ボタンを押して、数秒も経たないうちに既読がついた。 その文字を確認してすぐ、渚の手の中で、携帯が激しく振動を始めた。 画面に表示されたのは、文字の返信ではなく――『宮原玲』からの着信画面だった。「ひゃっ……!?」 渚は小さく声を上げ、応答ボタンを押してしまう。そのまま、携帯を耳に当てた。『渚!? 今、もうこっちに戻ってるの!?』 電話口から飛び出してきたのは、宮原の弾けたような高い声だった。『会えるよ、もちろん会える!』 息を切らせるようにして紡がれる彼の言葉が、耳の奥に心地よく響く。 電話の向こうから聞こえる「男性の声」のはずなのに、やっぱり宮原の声だけは、自分の身体を少しも脅かさない。むしろ、実家でずっと縛られていた透明な鎖が、その響きだけ
Read more

第1.5章:019

 ※ 鳴らない携帯をいくら睨みつけていたって、渚の名前が浮かび上がるわけではなかった。  夏休み期間中、渚からの返信は夜しかない。十五時過ぎたこの時間帯に彼女からの連絡は、経験上ないのは玲は理解している。しかし、「もしかしたら」という淡い期待を捨て切れず、一時間に一回――のはずはなく、五分に一回の頻度で携帯画面を睨みつけていた。その度に、落ち込むと分かっていながら。  玲は画面を下にして、リビングの机に置いた。携帯から視線を外すように、ソファの背もたれに背中を預ける。  天井を仰ぎ、玲はシーリングファンの回転を無言で見上げた。  (渚、何をしてるかな)  玲から「今日はこれをした」「これを観た」「食べた」とメッセージを送っても、渚は返信はするものの、自分が今実家で何をしているのか、という情報は一度も発信されなかった。  (渚に、何してる? って聞けたら楽なんだけどな。でも、しつこく聞いてキモがられたら嫌だし……)  失った信頼を取り戻しつつあるのに、失言によって再びゼロになるのはどうしても避けたい。  (ゼロならいいけど、マイナスになっちゃったら……)  折角、並んで歩く距離が縮まったのに手が届かない距離まで離れてしまいかねない。  玲の視線は、再び携帯に向かった。  そして、玲の手は携帯に伸びる。  通知はなかった。「…………」 玲は携帯を置こうとしたが――寸前で「もしかしたら」と思い留まる。小さな希望のために、携帯を机に置くのはやめた。「玲、明日、おじいちゃんの家に行く準備は終わってるの?」 携帯ばかり見ている息子に、母親が洗濯物を取り込みながら小言を言った。「ちゃんと終わってるよ。あとは行くだけ」 玲は顔に完璧な笑顔を張り付けたまま、言葉を返した。  ――そうだった、明日から数日間、お盆の間は両親と一緒に祖父の家へ行く予定が入っていたのだ。本来なら、そんな家族行事など、玲にとっては退屈ではあっても大した苦痛ではないはずだった。  けれど、今の玲にとっては
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status