All Chapters of 横領犯にされた経理女は、若頭の金庫を握って元社長を潰す: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話:判決前夜

 明日、全部が動く。  そう思った瞬間、指先が冷たくなった。私は手のなかの電卓を置いた。数字を打ち込んでいたわけではない。ただ握っていただけだ。  綾月の事務室は静かだった。営業はとうに終わっている。机の上には、判決を翌日に控えた裁判のファイルが積まれていた。背表紙の数だけ、私は七年分の仕事と、自分の名前を取り返そうとしている。  ファイルの一冊を開く。  差し替え前の請求書のコピーが、付箋だらけで挟まっている。  リベルタ企画。  名義だけの外注先。  八十万円。  あの一枚から、全部が始まった。  あの日、入出金一覧に並んだ数字が、ほんの少しだけ歪んで見えた。  私はそれを見逃さなかった。  だから、切られた。  見逃せばよかったのか。何度も考えた。けれど、見逃す女になっていたら、私は今ここにいない。  ここまでの道のりを、私はもう一度たどった。  リベルタ企画は、私を嵌めるために一度だけ使われた、名義だけの宛名だった。けれど、三崎が継続して金を流していた管は、もっと太い。  高津総合プランニング。あの八十万円も、たどれば、同じ手から垂れた最初の一滴にすぎなかった。  集めた証拠の束は、白石さんが紹介してくれた弁護士の手で、会社の監査部門と、捜査機関へ渡った。  会社は最初、沈黙した。  けれど、差し替え前の請求書――堀内さんが、震えながら社の保管庫から引き出してくれた、あの一枚――
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第71話:保管庫の一枚

 電話でも、手紙でもなかった。  堀内さんは、自分の足で、綾月の裏口に立っていた。  雨上がりの夜だった。  傘も差さず、コートの肩を濡らしたまま、その人は、ビルの非常灯の下で背を丸めていた。  総務で古い書類の保管を、ずっと一人で見ていた人。  経理にいた彼女が「思い出してみる」と言って別れたあの日から、二週間。  彼女が、私と堀内さんのあいだに、細い糸を一本だけ渡してくれていた。 「槻木さん……ですよね」  声が、震えていた。怖がっている人の震え方を、私はもう知っている。ひなのの時に覚えた。 「はい。来てくださって、ありがとうございます」  私は、それ以上、前に出なかった。一歩でも詰めれば、この人は逃げる。逃げていい人なのだ。会社に残って、長尾さんの目の届く場所で、毎日を生きている人なのだから。  裏口の常夜灯が、堀内さんの顔を半分だけ照らしていた。汗か雨か分からないものが、こめかみを伝っていた。 「あの資料……まだ、あるの」  絞り出すように、その人は言った。 「差し替える前の、請求書の箱に。誰も、開けない箱。月次の締めのあと、私が一人で片づける棚の、いちばん奥。長尾さんも畑中さんも、自分で手を入れたことは、一度もない」  心臓が、跳ねた。私は、それを顔に出さないようにした。喜びを見せれば、この人の恐怖が、もう一段重くなる。 「場所が分かっているだけで、十分です」 
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第72話:判決前夜

 明日、全部が動く。  そう思った瞬間、指先が冷たくなった。私は手のなかの電卓を置いた。数字を打ち込んでいたわけではない。ただ握っていただけだ。  綾月の事務室は静かだった。営業はとうに終わっている。  机の上には、判決を翌日に控えた裁判のファイルが積まれていた。背表紙の数だけ、私は七年分の仕事と、自分の名前を取り返そうとしている。  ファイルの一冊を開く。  差し替え前の請求書のコピーが、付箋だらけで挟まっている。  リベルタ企画。  名義だけの外注先。  八十万円。  あの一枚から、全部が始まった。  あの日、入出金一覧に並んだ数字が、ほんの少しだけ歪んで見えた。  私はそれを見逃さなかった。  だから、切られた。  見逃せばよかったのか。何度も考えた。けれど、見逃す女になっていたら、私は今ここにいない。  ここまでの道のりを、私はもう一度たどった。  リベルタ企画は、私を嵌めるために一度だけ使われた、名義だけの宛名だった。  けれど、三崎が継続して金を流していた管は、もっと太い。高津総合プランニング。あの八十万円も、たどれば、同じ手から垂れた最初の一滴にすぎなかった。  集めた証拠の束は、白石さんが紹介してくれた弁護士の手で、会社の監査部門と、捜査機関へ渡った。  会社は最初、沈黙した。  けれど、差し替え前の請求書――堀内さんが、震えなが
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第73話:勝っても負けても

 口に出してから、自分でも驚いた。怖い、なんて言葉を、この人の前で。 「七年間、あの会社で数字を合わせてきました。誰も見ていなかった。それでも、一円も間違えなかった。なのに、横領犯にされた。明日、もし負けたら――」  私は言葉を切った。負けたら、という続きを、口にするのが怖かった。 「負けたら、私は本当に、盗んだ女になります。記録の上で。一生」  それがいちばん耐えられない。殴られるより、追い出されるより、なかったことにされて、嘘の数字で塗り潰されること。  あの男は私の名前を、横領犯という一行に書き換えた。私は今、その一行を消しにいく。 「負けない」  黒瀬さんが遮った。断定だった。慰めではない。 「おまえが積んだ証拠は、感情じゃない。紙だ。紙は嘘をつかない」  私は顔を上げた。 「黒瀬さんは、私が負けたらどうするんですか」  聞いてみたかった。利益で動く男だ。負ける女に、この人は用がないはずだった。  黒瀬さんは、ほんの少しだけ目を細めた。 「最初に拾ったとき、おまえは接客に向いてなかった」「知ってます」「だが、伝票の並びを直した。誰にも頼まれてないのにな。あのとき決めた。この女は接客用じゃない。勘定用だ」  私は黙って聞いていた。あの夜のことは、今でも覚えている。並びがおかしかった伝票を、つい揃えてしまった。それだけのことだった。 「使える人間は、勝っても負けても使える。負けたから捨てる、なんてのは、計算のできない男のやることだ」「それは、慰めですか?」
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第74話:判決

「主文。被告人を、懲役三年に処する」  裁判長の声が、法廷に落ちた。  私は息を止めた。隣で弁護士が、わずかに頷くのがわかった。傍聴席のどこかで、誰かが小さく声を漏らした。  被告人。三崎清隆。  七年間。私が数字を合わせてきた会社の社長だった男。私を横領犯に仕立てて切り捨てた男。その男が今、被告人と呼ばれている。 「この裁判が確定した日から、五年間、その刑の執行を猶予する」  裁判長は、続けてそう告げた。  懲役三年、執行猶予五年。検察が立証したのは、横領だけじゃない。証拠隠滅。責任転嫁。それでも、前科のない初犯という壁は、あの男を塀の中までは落とさなかった。  一瞬、物足りなさが、胸をかすめた。あの男が、刑務所の塀の中へ消える画を、私はどこかで描いていた。  けれど、すぐに、思い直した。  塀の中へ逃げ込まれるより、ずっといい。猶予がついたぶん、あの男は社会に残る。残って、毎月、私の名前を見ながら、奪った金を振り込み続ける。  殺すより、閉じ込めるより――生きたまま、毎月払わせる。それが、一番、私の復讐に似合っている。  裁判長は判決理由を読み上げ始めた。私は背筋を伸ばし、一言も逃さないように聞いた。手のなかのノートは、もう何度も握りしめて、角が柔らかくなっていた。  ――この判決までに、一度だけ、私は証言台に立った。  三崎側の弁護士、橘は、私を崩しにかかった。経理担当だったあなたは、単独で処理できる立場だった。あなたこそが主犯ではないのか、と。  会社の会議室なら、私はそこで潰されていた。実際
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第75話:剥がれた顔

 切られたあの日から、誰も言ってくれなかった言葉だった。あなたは盗んでいない。あなたは正しかった。それを、裁判長が、公の場で、記録に残る形で読み上げた。  私は泣かなかった。泣いたら、隣の三崎に見られる。あの男に、私の涙を一滴も渡したくなかった。  私はゆっくりと、被告人席のほうを見た。  三崎は正面を見ていた。外面のいい、誠実な経営者の顔。それが今、剥がれかけていた。口元がわずかに引きつっている。いつも人を品定めしていたあの目が、初めて行き場をなくしていた。  あの顔を、私は何度も見てきた。会議で、廊下で、社長室の前で。いつも余裕があった。下の人間を、いくらでも替えのきく駒だと思っている顔。その顔が、今、崩れていく。  ざまぁみろ、とは思わなかった。もっと冷たい何かが、胸の底にあった。やっと、対等になった。やっと、同じ場所に立った。値段を決められる側に、私は来た。  あの男は、最後まで私を見誤った。  感情で動く、弱いパートの女。証拠なんて取れるはずがない。そう思っていた。だから油断した。だから、私が記録を残していたことに、最後まで気づかなかった。  裁判長が判決を読み終えた。閉廷が告げられる。  三崎の弁護士、橘が、何か早口で耳打ちしていた。三崎は答えない。ただ、ゆっくりと立ち上がった。連れ出される間際、彼の視線が、一瞬だけ私を捉えた。  その目に、初めて見る色があった。  恐怖だ。  私を、終わった女だと思っていた男が。私を、見下していた男が。初めて、私を見た。私が誰であるかを、今になって理解した目だった。 「遅いんですよ」  私は声に出さず、唇だけで言った。
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第76話:免罪の言葉

「槻木理央への疑いは、根拠がなかった」  弁護士が読み上げた声明の、その一行を、私は三回読み返した。  判決の翌日。弁護士事務所の会議室で、私は報道資料の原稿を見ていた。マスコミに向けた正式な声明文。そこに私の名前があった。横領犯としてではない。無実の人間として。  「これで」と弁護士が言った。 「公的な記録に残ります。あなたが横領犯ではなかったという事実が」  私は原稿を持つ手が、わずかに震えるのを感じた。  公的な記録。  七年間、会社で積み上げてきた私の名前。その最後に、たった一行が貼られた。  横領の疑いで解雇された女。前職照会で全滅した女。再就職を断られ続けた女。  その一行に、私の名前はずっと縛られていた。それが今、もう一つの記録に上書きされていく。 「疑いは根拠がなかった、ですか」「ええ」「この一行のために、私は一年以上、戦ってきたんですね」  弁護士は静かに頷いた。 「言葉一つです。でも、この言葉がないと、あなたは一生、横領犯のままだった」  私はリベルタ企画の請求書のことを思い出していた。八十万円。あの一枚からここまで来た。差し替え前の書類が決定的な証拠として評価された。番号の欠番。フォーマットの時系列。鑑定の結果。それらが全部、この一行に結晶した。  思えば、長い道だった。綾月に拾われて、伝票の並びを直して。接待記録を証拠に変えて。堀内さんから原本を引き出して。夜の女たちが証言に立ってくれて。一つひとつは、小さな紙だった。けれど積み上げれば、人ひとりを裁判で詰める束になる。&n
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第77話:会社の会見

 会見場の壇上で、頭を下げているのは、私を切り捨てた会社だった。  ミサキアセットソリューションズ。三崎ホールディングスの中核子会社。その役員たちが、フラッシュの光のなかで、深々と頭を下げている。  私は綾月の事務室で、その中継を見ていた。隣には沙耶さんがいた。 「これ、あんたの会社じゃないの?」「元、です」「ふうん」  沙耶さんは画面を見たまま言った。 「あの頭、下げてんの、誰に向かってだと思う?」  私は答えなかった。役員たちは、世間に向かって謝っている。けれど私には、別のものに見えた。あの人たちは、自分の身を守るために頭を下げている。三崎を切り離すために。  司会者が、用意された文章を読み上げた。 「弊社は、内部調査の結果、前代表者による会社資金の私的流用が確認されたことを、深くお詫び申し上げます」  前代表者。三崎清隆の名前は、もう「弊社の社長」ではない。切り離された。トカゲの尻尾のように。 「また、本件に関連して不当な処分を受けた元従業員の方につきまして、その主張が正当であったことを確認いたしました」  不当な処分を受けた元従業員。  それが私だ。名前は出ない。けれど、画面の向こうの会社は、初めて認めた。私は不当に切られた。私の主張は、正しかった。  「胸糞悪いわね」と沙耶さんが言った。 「え」「あの会社、あんたを切ったとき、なんて言ったの?」  私は、あの日のことを思い出した。人事の長尾さん。事務的な声。封筒のなかの自宅待機
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第78話:逃げる先がない

 あの男には、もう、頼れる場所が一つも残っていない。  私は事務室の机に一枚の紙を広げていた。三崎の逃げ道一覧。顧問弁護士。人事。愛人。外注先。取引先。私と黒瀬さんで作った工程表だ。その一つひとつに、もう線が引かれていた。 「全部、塞がりましたね」  向かいに座る黒瀬さんに、私は言った。 「ああ」「顧問弁護士の橘は、判決前に手を引きました。負け筋だと見たんでしょう」「あの男は、依頼人の利益でしか動かない。負ける依頼人は、利益にならない」「人事の長尾さんも、会社側に証言しました。三崎の指示があったと」  身を守るためだ。会社が三崎を切ると決めた瞬間、長尾さんは三崎を売った。あの人はいつも上の意向に従う。意向の向きが変われば、刃の向きも変わる。 「取引先も、全面的に離れました」  少し前まで、取引先は三崎を誠実な経営者だと信じていた。地域経済誌のインタビューに出るような男だ。  信用があった。だからこそ、その信用が崩れたとき、離れ方も早かった。誠実だと信じていた相手に裏切られた人間は、いちばん容赦がない。  紙を見ながら、私は思った。  あの男は外面で生きてきた。  穏やかで、知的で、再生支援に強いビジネスマン。  その仮面が、いま全部、剥がれている。  仮面の下には、何も残っていなかった。  金を逃がし、女を飼い、弱い人間に責任を押しつける。  それが、あの男の本当の顔だった。  「残ってるのは」と黒瀬さんが言った。 
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第79話:俺が動く

「亜希も、もう三崎の側にはいません」「金が止まれば、ああいう女は離れる」  冷たい言い方だった。けれど、事実だった。高槻亜希は三崎を愛していたわけじゃない。金と地位にしがみついていただけだ。金が凍り、地位が崩れれば、しがみつく理由がなくなる。  私は、彼女に少しだけ複雑な感情を持っていた。彼女も別の形で値段をつけられた女だった。三崎に飼われ、三崎に切られた。私とは違う生き方だ。けれど根は、同じ構造のなかにいた。  ただ、同情はしなかった。彼女は、三崎の金が誰のものか知っていて受け取っていた。それは、共犯だ。  無罪だとは思わない。けれど、三崎の盾として潰されるべき人間だとも思わなかった。法的にどう裁かれるかは、私が決めることじゃない。  だから私は、彼女を救ったんじゃない。三崎から離れる道を、一つ、見せただけだ。選んで歩いたのは、彼女自身だった。  紙の上で、最後の線が引かれた。逃げ道は、全部塞がった。  「友人も、知人も、距離を置いています。あの男の名前が報道に出てから、誰も連絡を取らなくなった」「外面で繋がってた人間関係だからな。外面が崩れれば、何も残らない」  私は紙を見つめた。あの男は、いつも他人の値段を決めてきた。誰が使えて、誰が切り捨てられるか。その目で、人を見てきた。そして今、その目で見られていた全員に、見捨てられている。  自業自得だった。  スマートフォンが震えた。相馬さんからの連絡を、黒瀬さんが確認した。 「三崎が、動いてる」「どこへ」「金を抜こうとしてる。資産保全の前に、現金を逃がそうとした。だが――」  黒瀬さんは、わずかに口の端を上げた。
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