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All Chapters of 沼の声: Chapter 11 - Chapter 20

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11話

いつから、選んでいたのか。 その問いは、声に出さずとも、私の中で反響していた。 問いというより、すでに答えを知っている人間が、自分に確認しているだけの作業に近い。 私は、町に戻ってきた日のことを思い出そうとした。 父の葬儀。 数年ぶりに帰った家。 変わらない沼。 変わらない空気。 そのときの私は、まだ「観察者」だったはずだ。 町を外側から見て、記録し、言語化する立場。 少なくとも、そう信じていた。 だが、本当にそうだったのか。 私は、最初の違和感を探した。 人を区別し始めた瞬間。 線を引いた最初の記憶。 ――思い出したのは、妹だった。 妹が大学に進学する前の年。 彼女は、町を出ることに迷っていた。 「外って、そんなに違うの?」 そう聞かれたとき、私は答えた。 「違うよ。でも、混ざると大変だ」 その言葉を、私は何の疑問もなく使った。 説明のための言葉だと思っていた。 妹は、首をかしげた。 「誰が?」 その問いに、私は即答できなかった。 答えを持っていなかったのではない。 答えが、あまりに自然すぎて、言葉にする必要を感じなかっただけだ。 「……全部だ」 そう答えたとき、妹は笑った。 「お兄ちゃん、変なの」 その笑いを、私は好意的に受け取った。 だが今思えば、あれが最初だった。 私は、妹を“内側”に入れた。 それは、選別ではなかったと、当時の私は思っていた。 家族だから。 守るべき存在だから。 だが、守るという言葉は、線を引くことと、紙一重だ。 妹が町を出てから、私は町の仕事を引き受けるようになった。 正式な職ではない。 誰かに頼まれたわけでもない。 ただ、話を聞く役。 外から来た人間に、町を説明する役。 役場の人間は、自然にそれを任せてきた。 私が、断らなかったからだ。 川村が来たときも、同じだった。 彼は、境界を越えようとしていた。 知るべきでないことを、知ろうとしていた。 私は、止めた。 暴力ではない。 脅しでもない。 言葉でだ。 線を示し、越えないように、丁寧に。 彼が去ったあと、私は安堵していた。 町が守られたからではない。 自分が、混ざらずに済んだからだ。 その理解に至ったとき、私は初めて、強い吐き気を覚えた。 私は、町を守っていたのではない。
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12話 選ばれなかった者

終わらせ方。 その言葉を書いたまま、私はしばらく動けなかった。 終わりとは何か。 何を終わらせるのか。 そして――誰の終わりなのか。 町は今日も平然としていた。 朝の市場では魚が並び、子どもが走り、老人が同じ話を繰り返す。 そこには、罪の気配も、後悔の色もない。 私はその中に立ち、奇妙な疎外感を覚えていた。 外の人間ではない。 だが、内側の人間でもない。 選ぶ者は、どこにも属さない。 その事実が、今になって重くのしかかる。 その日、役場から一本の電話があった。 「戻ってきた人がいる」 戻ってきた、という言い方に、私は引っかかった。 まるで、出て行くのが当然だったかのような口ぶりだ。 名前を聞いた瞬間、胸がわずかに鳴った。 ――藤崎。 記憶の奥に沈めていた名だ。 若い男。十年ほど前、町の外へ出たはずの人物。 私は、彼を「選ばなかった」。 それは、はっきりと覚えている。 藤崎は、町に違和感を抱きながらも、深入りしなかった。 理解しようとしなかった。 境界に触れはしたが、越えようとはしなかった。 だから、私は彼を止めなかった。 説明もしなかった。 線を示す必要もなかった。 彼は、自分の意思で出て行った。 少なくとも、そういう形を取った。 役場の応接室で、藤崎は私を見て笑った。 「久しぶりですね」 その笑顔は、自然だった。 恐怖も、警戒もない。 私は、言葉を選びながら尋ねた。 「どうして戻ってきたんですか」 藤崎は、あっさりと答えた。 「戻りたくなったからです」 それだけだった。 私は、その答えに、ひどく動揺した。 戻りたくなった。 理由は、それだけでいいのか。 「外は、どうでした?」 私がそう聞くと、藤崎は少し考えた。 「普通でしたよ。 ここより、ずっと」 その言葉が、胸に突き刺さる。 普通。 その言葉を、私は久しく聞いていなかった。 藤崎は、続けた。 「ここにいると、 何かを考えすぎてた気がします」 私は、返す言葉を失った。 彼は壊れていない。 混ざってもいない。 線の外に出て、ちゃんと戻ってきている。 選ばれなかった者は、 普通に生き
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13話 名前を与える者

 呼んでいたのは、私自身だった。 そう理解した直後から、町の景色が少しだけ変わった。 色が変わったわけではない。 音が違うわけでもない。 ただ、人の輪郭が、妙にはっきりと見える。 誰がこちらを見ているのか。 誰が、見ていないのか。 私は、久しぶりに町の外へ出た。 取材という名目だったが、実際には逃げ場を探していたのだと思う。 駅前の喫茶店。 約束の相手は、地方紙の記者だった。 「あなたの記録を、読みました」 記者は、若い男だった。 熱意も、正義感もある顔をしている。 私は、警戒した。 こういう人間が、いちばん厄介だ。 「町の因習について、とても詳細に書かれていますね」 私は、曖昧に頷いた。 「ですが……」 彼は、ノートを閉じて言った。 「違和感がある」 胸の奥が、ひくりと動いた。 「どんな?」 「書き手が、いつも“安全な場所”にいる」 私は、笑おうとした。 だが、口角が動かなかった。 「あなたは、町を観察している。制度を記録している。誰が消え、何が残ったのかも、丁寧に書いている」 彼は、少し言葉を選んでから、続けた。 「でも、あなた自身の立場が、どこにも書かれていない」 その瞬間、私ははっきりとした恐怖を覚えた。 彼は、気づいている。 いや、もう一歩手前まで来ている。 「あなたは、“語り手”であると同時に、“装置”なんじゃないですか」 装置。 その言葉は、私が最も避けてきた表現だった。 「町の人たちは、判断しない。決断もしない。ただ、そういうものだとして受け入れている」 記者は、淡々と話す。 「でも、何かが起きる。誰かが消える。それは自然現象のように扱われている」 私は、沈黙した。 「けれど自然は、誰かを選ばない」 彼は、私を見た。 「選んでいる人間がいる」 否定の言葉は、浮かばなかった。 だが、肯定することもできなかった。 記者は、ノートを取り出した。 「私は、名前を付けたい」 名前。 それは、決定的な行為だ。 曖昧なものを、逃げられなくする。 「この町には、因習殺人なんてものはない」 彼は、はっきりと言った。 「あるのは、選ぶ人間と、選ばれることに慣れた町です」 言葉が、刃物のように突き刺さる。 「選ぶ人間?」 私がそう聞くと、彼は即座に頷いた。 「あ
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14話 選ばれない者の行方

私自身なのではないか。 その考えは、夜のあいだ、頭の奥に沈殿していた。 眠っても消えない。 夢にもならない。 ただ、そこにある。 朝、町は昨日と何も変わっていなかった。 挨拶の声。 店先の戸が開く音。 子どもの笑い声。 だが、私の側だけが、ずれている。 人の顔を見るたび、無意識に“判定”が走る。 この人は、耐えられる。 この人は、危うい。 この人は――もう、戻れない。 その瞬間、私は立ち止まった。 違う。 それは、今までの私だ。 もう、装置ではいられないと書いたではないか。 私は、意識的に視線を外した。 判断を止める。 分類をしない。 今までの私は、人を見るたびに、無意識に棚へ分けていた。 残る者。 離れる者。 見て見ぬふりをする者。 いずれ、何かに触れてしまう者。 そうやって並べておけば、町は理解できた。 少なくとも、理解できているふりはできた。 だが、その棚を外した瞬間、目の前にいる人間たちは、急に知らないものになった。 すると、世界が揺れた。 輪郭が、溶ける。 町が、雑音の集合体になる。 人間が、ただの塊になる。 耐え難い不安が、胃の奥から込み上げた。 ――これが、“選ばない”ということか。 昼、町長が訪ねてきた。 珍しく、一人だった。 「最近、顔を見ませんね」 責める口調ではない。 心配する声だ。 「少し、考え事を」 そう答えると、町長は頷いた。 「無理をしないでください」 その一言で、私は悟った。 彼は、私を“役割”として扱うべきか迷っている。 いや、正確には―― 役割を果たさなくなった私を、どう扱えばいいのか分からない。 沈黙が落ちた。 町長は、しばらくして言った。 「最近、外から来た人がいます」 胸が、僅かに強く打った。 「夫婦で。古い家を借りたいと」 私は、何も言わなかった。 町長は、私を見ている。 いつものように、 私が判断するのを待っている。 「……どう思いますか」 その問いは、あまりにも自然に発せられた。 私は、すぐに答えられなかった。 頭の中では、いつもの評価が勝手に走ろうとする。 年齢。 雰囲気。
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15話 観察者の手触り

その夜のことは、 言葉そのものを除いて、 細部まで、異様に記憶に残っている。 女の声の高さ。 語尾の上がり方。 視線が、私のどこに落ちたか。 ――ここって、住みやすいですか? その問いは、 質問の形をしていなかった。 判断を、 差し出す行為だった。 私は、女を見ていた。 いや、正確には―― 見ている自分を、見ていた。 髪の分け目。 耳の後ろの皮膚。 靴の踵の減り方。 私の中で、 かつて“自然”だった評価が、 今は、露骨な暴力に思えた。 ――見るな。 ――測るな。 そう命じるもう一人の私が、 確かに存在していた。 だが、 視線は止まらない。 女は、私が答えないことを、 不思議がらなかった。 「変な質問でした?」 その言い方が、 ひどく無防備で、 ひどく計算されていない。 それが、 最も危険だった。 私は、前に進める言葉も、 引き止める言葉も選べなかった。 そのどちらでもない言葉が、 口から落ちた。 「いえ」 私は、やっと声を出した。 何を言ったのかは、 今でも確かではない。 ただ、 口の中に残った響きだけを辿るなら、 たぶん―― 「……普通です」 そんな言葉だった。 普通。 それは、 許可でも拒絶でもない。 判断の放棄を装った、 最も曖昧な肯定だった。 女は、安堵したように微笑んだ。 「良かった」 その笑顔は、 私の言葉を信じた人間の顔だった。 ほんの短い返事だった。 曖昧で、 逃げ道だらけで、 責任のない言葉だった。 それでも、 彼女の中では、 何かが確かに決まってしまった。 人は、 誰かの一言で、 自分の不安に名前を付ける。 安心。 希望。 大丈夫。 私は、 そのどれも与えていないはずだった。 だが彼女は、 私の沈黙の隙間から、 自分に都合のいい答えを拾い上げていた。 その笑顔を見た瞬間、 私は、 はっきりとした嫌悪を覚えた。 彼女ではない。 私自身に対してだ。 私は、 逃げ道を残したまま、 相手を町へ引き入れている。 それは、 今までで、 最も卑怯な選択だった。 女は、夫のことを話し始めた。 夫は、 人と話すのが苦手なのだという。 知らない場所では、 先に空気を読もうとして、 
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16話 理由の無い崩壊

この町に来てから、最初におかしいと思ったのは、 妻の声だった。 声そのものが変わったわけではない。 高さも、癖も、語尾も、以前と同じだ。 ただ、 何かを言いかけて、やめる回数が、 異様に増えた。 「……やっぱり、いい」 その一言が、 一日に何度も繰り返される。 私は、そのたびに、 理由を尋ねた。 だが、 妻は、 理由を持っていなかった。 「なんとなく」 その言葉は、 逃げでも嘘でもなく、 本当に、 “なんとなく”だった。 それが、 私を最も不安にさせた。 妻は、 町に馴染むのが早かった。 店の人に名前を覚えられ、 隣の家の女に野菜をもらい、 道で会う老人に、 「もう慣れたかい」と声をかけられる。 そのたびに、 妻は曖昧に笑った。 以前の妻なら、 あとで必ず、 「あの人、距離近くない?」と私に言ったはずだ。 だが今は、 何も言わない。 不快ではないのか。 気づいていないのか。 それとも、 気づかないふりをすることを、 もう覚えてしまったのか。 この町に越してきてから、 妻は、 よく外を見るようになった。 窓の外。 道の先。 人の気配が消えた後の空間。 何かを待っているわけではない。 誰かを探しているわけでもない。 ただ、 見られているかどうかを、 確認しているようだった。 「誰か、気になる人でもいるのか?」 冗談めかして言ったつもりだった。 妻は、 少し考えてから、 首を振った。 「いない」 間が、 不自然に長かった。 それ以上、 聞くことができなかった。 理由は分からない。 だが、 聞いてはいけないと、 体が理解していた。 私は、 町の人間と、 必要以上に関わらないようにしていた。 親切だが、 踏み込まない。 無関心だが、 拒絶もしない。 それが、 この町の流儀だ。 だが、 ある日、 私は、 町の中心で、 あの男を見た。 名を、 正確には知らない。 だが、 妻が最初に話しかけた、 あの男だ。 こちらを見ているわけではない。 声をかけてくるでもない。 ただ、 そこにいる。 それだけで、 胸の奥が、 ざらついた。 男は、 誰かと話していた。 笑っているわけではない。 怒ってい
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17話 記録者の良心

数日後、私は彼らの家の前に立っていた。 呼ばれたわけでも、約束をしたわけでもない。 ただ、行くべきだと判断した。 それだけだった。 この町では判断という行為そのものが、最も自然で、最も気づかれにくい暴力である。 誰もそれを暴力として認識しないからこそ、判断は成立し、流通し、正当化されていく。 インターホンを押すと、ほとんど間を置かずに扉が開いた。 夫のほうが顔を出した。 名前は、ノートにはある。 だが、私の中には残っていない。 覚える必要がなかった。 名前を覚えるという行為は、相手を個として扱うことに等しい。 私はもうずっと以前から、その工程を無意識に省略する癖がついている。 彼の声は乾いていた。 その乾き方は、時間ではなく摩耗を連想させるものだった。 室内は整っていた。 散らかってもいなければ、荒れてもいない。 だが、生活だけが停止している。 食卓の上には、二人分の箸が並んでいた。 だが、片方だけが少し傾き、 もう片方は、まっすぐ置かれたままだった。 湯呑みの底には、 薄く茶の跡が残っている。 使われたものと、 使われなかったものが、 同じ卓上に並んでいる。 それだけで、 この家の中で何が起きているのか、 ほとんど分かってしまった。 使用された痕跡は確かにあるのに、使用中の気配がない。 時間だけが惰性で流れ続けている部屋だった。 私はそれを見て、即座に理解した。 観察対象として適切だと。 その理解が浮かんだ瞬間、胸の奥が遅れて軋んだ。 だが、その軋みを私は「記録者としての良心」と呼び慣れていたため、深く考えなかった。 考えないこともまた、私にとっては職能の一部だった。 妻は奥の部屋にいて、私を見ると微笑んだ。 その微笑みは好意ではない。 説明を求めない相手に向ける、安堵の表情だった。 その表情を見た瞬間、私は妹の顔を思い出した。 かつて私が問い詰めず、決めつけず、ただ書いていた頃、彼女が私に向けていた表情と同じだった。 「変わりありませんか」 自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。 それは人を気遣う言葉ではなく、状況を確認するための定型句だった。 夫が低く笑い、「変わりって何ですか」と聞き返した。 私は答えなかった。 答えを持たない質問は、この町では最も誠実な形
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18話 善意という証言

町の人々は、私のことをよく知っている。 少なくとも、彼らはそう信じている。 名前を正確に呼ぶ者は少ないが、「記録の人」「書く人」「あの人」といった曖昧な呼称で、私の存在は共有されていた。 私はそれを訂正しなかった。 訂正する理由がなかったし、曖昧さはこの町では最も安全な身分証明だったからだ。 最初に話を聞いたのは、雑貨屋の女主人だった。 年齢は分からない。 若いとも老いているとも言えない顔をしている。 彼女は私を見ると、安心したように微笑んだ。 「あの人ね、悪い人じゃないのよ」 誰のことか、確認する必要はなかった。 「むしろ、親切すぎるくらい」 親切。 その言葉は、この町では、ほとんど免罪符に近い。 「困ってる人がいると、ちゃんと話を聞くでしょ。意見も押し付けないし、判断もしない。ただ、書くだけ」 私は、ノートを開かなかった。 その必要はない。 この証言は、すでに完成している。 女主人は、 そこで一度だけ声を落とした。 「でもね、 あの人が書いてくれると、 みんな、納得できるの」 納得。 それは、 真実に近づくことではない。 それ以上、 考えなくてよくなることだ。 私は、 その言葉を聞きながら、 女主人が少しも怯えていないことに気づいた。 彼女は、 私を怖がっていない。 むしろ、 私がいることで、 自分たちが怖がらずに済むのだと、 無意識に信じている。 次に会ったのは、町役場の男だった。 彼は形式を重んじる人間で、言葉の端々に「正しさ」を混ぜる癖がある。 「あなたの記録は、町にとって重要です」 重要。 それは、責任ではなく、価値を意味する言葉だ。 「感情に流されない。偏らない。だから、問題が起きたときも、私たちは冷静に対処できる」 対処。 誰が、何に対して。 その主語は、最後まで明示されなかった。 役場の男は、 最後まで、 誰かの名前を出さなかった。 問題。 記録。 対処。 人間は、 そのどこにもいない。 それなのに、 私は、 その言い方を責める気にはなれなかった。 なぜなら、 私自身が、 誰よりも先に、 人間をそういう言葉へ変え
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19話 選ばれた沈黙

夫婦の家の前を再び訪れたのは、三日後だった。 日付を意識していたわけではない。 ただ、町の空気が、 次の段階へ移ったと感じた。 それだけで、人は十分に動ける。 この町では直感が制度よりも正確に機能する。 扉は施錠されていなかった。 ノックをしても返事はない。 私は一瞬だけ立ち止まり、ここで引き返す選択肢を検討した。 だが、その選択肢は形式上存在しているだけで、実行可能性は最初から失われている。 私は入る側の人間だ。 入らないことは、もはや選択ではない。 玄関には靴が揃っていた。 二人分。 乱れていない。 生活が終わるとき、人は散らかさない。 散らかすのは、まだ続きがあると信じている者だけだ。 居間に入ると、妻が座っていた。 前回と同じ場所、同じ姿勢。 違うのは目だった。 焦点が合っていない。 だが、死んではいない。 その中間の状態に、人は長く留まれない。 留まれないからこそ、町はその時間を短縮する。 「お待ちしていました」 妻はそう言った。 歓迎ではない。 報告でもない。 了承だ。 すでに何かが決まっていて、それを共有するための言葉だった。 夫の姿は見当たらなかった。 私は視線で室内をなぞりながら、あえて名前を呼ばなかった。 呼ばないという判断は、相手の存在を否定しないまま、確定させないための技術だ。 「主人は?」 妻は一拍遅れて答えた。 「今、選んでいます」 その言い方が、私の背骨を撫でた。 選んでいる。 つまり、まだ終わっていない。 終わっていないということは、まだ救済の余地があると、どこかで信じている。 だが、その信じ方がすでに致命的だった。 妻は、 その言葉を口にしたあと、 自分でも驚いたように唇を押さえた。 選んでいます。 まるで、 夫がまだ自由であるかのような言い方だった。 だが彼女の目は、 もうその嘘を信じていなかった。 信じていないのに、 そう言うしかなかったのだ。 誰かが選んでいることにしなければ、 誰も選んでいないまま、 すべてが終わってしまう。 それが、 彼女には耐えられなかったのだと思う。 前の晩、 私は、 最後まで記録するしかないと書いた。 それなのに、 この家の前に立ったとき、 初めて思った。 書かなければ、 ま
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【第1部最終話】名のないものへ

朝が来たのかどうか、分からなかった。 この町では、朝は時間ではなく、役割として訪れる。 誰かが「始まる側」に立ったとき、それが朝になる。 私は沼へ向かった。 逃げるためでも、確かめるためでもない。 行かなければならない、という感覚すらなかった。 ただ、そこに「行き終えていない私」が残っていた。 それだけだ。 沼は静かだった。 水面は揺れていない。 音もない。 だが、何も起きていないわけではない。 ここでは、起きないことこそが最大の出来事になる。 私は足を止め、ノートを開いた。 最後のページ。 妹が折った角の、その先。 何も書かれていない。 ――いや、違う。 「書かれていない」という認識自体が、すでに文章だった。 私は、これまで何度も、 自分の筆跡を見返してきた。 だが、 そこにはいつも、 わずかな違和感があった。 私が書いたはずの文章なのに。 私が選んだはずの言葉なのに。 どこか、 先に用意されていたものをなぞっているような感覚。 その違和感を、 私はずっと、 罪悪感だと思っていた。 違った。 あれは、 私が私の言葉で書いていないことに、 体だけが気づいていたのだ。 私は、ようやく理解した。 この町で死んだ人間は、誰一人として「殺されて」はいない。 選ばれたのでも、捧げられたのでもない。 彼らはただ、「物語として完結させられた」のだ。 完結とは、救済ではない。 意味を与えられ、逃げ場を失うことだ。 そして、その意味を与えていたのは―― 私だけではない。 私は、ここまでずっと「語り手」だと思っていた。 記録者であり、観察者であり、装置。 だが、それは一段階ずれた理解だった。 私は、選ばせる側ではなかった。 選ばされる側だったのだ。 沼が、わずかに波打った。 声はない。 だが、問いが浮かび上がる。 ――お前は、誰に書かれている? その瞬間、町のすべてが反転した。 記者。 精神科医。 夫婦。 妹。 彼らの言葉は、 いつも私を追い詰める形をしていた。 記者は、 私に名前を与えた。 精神科医は、 私に病ではなく役割を見た。 夫婦は、 私に見る者としての責任を返した。 妹だけが、 私を物語の外へ出そうとしていた。 それぞれが、 別々の人間とし
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