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All Chapters of 沼の声: Chapter 21 - Chapter 30

41 Chapters

【第2部】1話 生き残った紙片

封筒は、郵便受けのいちばん奥に差し込まれていた。 広告の薄い束をどけ、指先が段ボールの角に擦れるほど探って、ようやく白い角をつまみ上げた。 手のひらに残る紙粉がいやに細かく、指先が自分のものではないように冷たい。 差出人はない。 宛名もない。 それなのに、私の名前だったものだけがある。 私の筆跡で。 いや、正確には、私の筆跡として通用する筆跡で書かれていた。 通用する、という言葉がもう嫌だった。 誰が誰に通用させるのか。 通用というのは、誰かの頭の中で成立する判定だ。 私は判定というものが、いちばん無臭の暴力だと知っている。 私はこの数週間、紙に何も書かないと決めていた。 終わったのだと思っていた。 町の外へ出て、 名前を思い出せなくなって、 呼ばれないまま数週間を過ごせば、 やがて私は私ではない何かに戻れるのだと思っていた。 だが、 呼ばれない時間というものは、 自由ではなかった。 ただ、 次に呼ばれるまでの空白だった。 空白は白紙に似ている。 似ているものは、 この町では、 すぐに同じものとして扱われる。 決めた、と思った瞬間から、どこかで書いているのではないかという疑いが生まれる。 疑いの生まれ方までが自分の癖に似ていて、気持ちが悪い。 私は疑いを否定しない癖がある。 否定しないで、形を整えて、棚に並べる。 並べた瞬間、疑いは事実の顔をして居座る。 封を切ると紙が二枚入っていた。 硬すぎず柔らかすぎない、役所でよく触るあの肌理の紙だ。 紙の縁は妙にきれいで、指を切るほど鋭い。 誰かが丁寧に扱ってきた紙で、丁寧さがそのまま悪意に見える。 一枚目には短い一文だけ。 〈あなたは、まだ装置をやめていない〉 装置。 文字面が冷たい。 私はそれを読み、読み終えた瞬間に、胸のどこかが先に反応した。 怒りでも恐怖でもなく、もっといやらしい、理解してしまう感覚だ。 二枚目には日付と時刻、それから住所。 私はその住所を、すぐに思い出した。 あの夫婦が借りた家だ。 静かな場所を探していると言っていた。 妻は窓をよく見ていた。 夫は乾いた笑いを浮かべ、原因が分からないと繰り返していた。 浴室の水音が、妙に一定のリズムで響いていた。 私はその家を「終わった」と扱った。 見なかった。 
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第2話 同じ家の、同じ空気

久住は、こちらを見ないまま笑った。 笑い声の出ない笑いだ。 「ほら、もう始まってる」 私は返事をしなかった。 返事をしないことで逃げたのではない。 返事をした瞬間に、ここにいる全員の役割が決まる。 それが怖かった。 怖いと認めることが、いちばん役割に近い。 机の上のノートは開かれたまま、私の方へ腹を見せていた。 見れば読める。 読めば筋道ができる。 筋道ができれば、終わり方が決まる。 私は視線を少しだけずらし、ノートの端、紙の毛羽立ち、ペンの先、インクの乾きの斑だけを眺めた。 どうでもいいものを見ると落ち着く。 落ち着くというのは危険な状態だ。 落ち着いた人間は、次に何をするべきかを自分で決めてしまう。 「続き、書くんだろ」 久住は同じ言葉を、もう一度言った。 今度は少しだけ、声を低くした。 低い声は命令に近い。 命令に近いほど、人は従いやすい。 私は喉の奥を湿らせるために、息を吸った。 吸い込んだ空気が少し甘い。 洗剤の匂いと、古い木の匂いが混ざっている。 生活の匂いだ。 終わった家の匂いではない。 「久住さん」 私は慎重に、 名前だけを置いた。 置いた瞬間、 失敗したと思った。 名を呼ぶのは危険だ。 分かっていたはずなのに、 私はいちばん安全そうな呼び方を選んでしまった。 安全そうな言葉ほど、 この町ではよく切れる。 久住は、やっとこちらを見た。 目は乾いているのに、まぶたの裏だけが湿っているような目だった。 「それじゃない」 「じゃあ、どう呼べば」 久住は唇の端を動かした。 笑ったのか、痙攣したのか分からない。 「分かってるだろ。あれに書いてある」 机の上の紙、追記の文が頭に浮かぶ。 妹の名前で呼べ。 私はその文を、文字としてではなく、皮膚の上に塗られた粘液みたいに思い出した。 触ったものを離してくれない種類の言葉だ。 私は視線を机に落とした。 ノートの隣にある透明のクリアファイル。 中に白紙。 角が折れている。 折り目が整っていて、折った指の迷いがない。 迷いのない折り目は、人間のものではないみたいに見える。 「それ、返すって言ったよな」 久住が、ファイルの上を指で叩いた。 透明が、薄い音を立てた。 紙の角が微かに揺れる。 「返す、って何を」
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3話 生存者の定義

「違うよ」 女の声だった。 妻の声のはずだった。 けれど、私の記憶にある声の湿り気とも、あの夜の震えとも一致しない。 もっと乾いていて、もっと事務的で、そして妙に親しい。 「その名前、わたしじゃない」 私は、口を開いたまま固まった。 呼ぶ直前に引き戻された舌が、行き場を失っている。 呼ぶという行為は、いつも私のほうが主体だったはずだ。 主体のつもりでいた。 なのに、いま私は、呼ぶことすら許されていない。 障子が静かに開いた。 影が、影ではなくなった。 女が一歩、部屋の境目を越える。 照明の下に出てきた顔は、確かに女だったが、私が「妻」として保存していた輪郭と違っていた。 年齢が違う、というより、表情の作り方が違う。 目が、こちらを測っている。 測っているくせに、測られていることに平然としている。 ただ、 その平然さは、 強さとは少し違っていた。 誰かに怯える必要を、 最初から与えられていない顔だった。 自分が何者かを考える前に、 置かれた場所へ馴染んでしまったものの顔。 私は、 その顔を見て、 名前より先に役割が立っていると思った。 人間は、 普通、 名前のあとに役割を持つ。 だがこの町では、 しばしば順序が逆になる。 「久住さん」 女は、机に向かったままの男をそう呼んだ。 久住はその呼び方に反応しなかった。 反応しないことが承認になる。 承認は、名付けよりも厄介だ。 名付けは抵抗できる。 承認は気づいたときには済んでいる。 「あなた、誰ですか」 私がそう言うと、女は軽く首を傾げた。 驚きもしない。 怒りもしない。 質問を質問として受け取っていない顔だ。 「誰って、困るね」 女は少し考えるような素振りをして、言った。 「わたしは、ここにいる人。あなたが呼ぼうとした人じゃない」 私は久住を見た。 久住はペンを持ったまま、紙に触れさせず、宙に置いている。 書く気配があるのに書かない。 書かないという行為が、もう書いているのと同じ重さを持っている。 「おい」 久住が、低い声で言った。 私ではなく女に向けた声だった。 「余計なことを言うな」 女は肩をすくめた。 「余計って、何が余計なの。あなたが望んだ通りに来たんでしょう」 望んだ通り。 来た。 私はその
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4話 筆跡の檻

 白紙の上に、私の指が影を落とした。 影が文字の形を取り始める気がした。 私はまだ一文字も書いていない。 それなのに、最初の線だけが、すでに引かれているような感覚があった。 感覚は事実ではない。 だがこの町では、感覚が事実より先に住み着く。 「書け」 久住は穏やかな声で言った。 穏やかだから命令に聞こえない。 命令に聞こえない命令ほど、拒む理由が見つからない。 拒めないまま従ったとき、人は自分の意思で動いたと勘違いする。 勘違いは、罪より扱いやすい。 私は白紙を押さえ、ペンを持ち上げた。 手のひらがじっとりと汗ばむ。 ペン先が紙に触れそうで触れない。 その隙間に、私の中の装置が入り込む。 書けば終わる。 書かなければ始まる。 久住の言葉が頭の中で反復し、反復が筋道に変わり、筋道が正しさの形を取ろうとする。 「久住さん」 私は名前を置いた。 名前を置くと場が整う。 整うと危険になる。 「あなたは、何を確定させたい」 久住は答えず、机の上のノートに視線を落とした。 目は合わない。 合わないまま、紙の端だけを撫でるように指を動かす。 その指の動きが、私の注意をノートへ誘導する。 誘導は命令より巧妙だ。 命令は拒める。 誘導は拒んだつもりで従う。 私はペンを置いた。 置いたとき、胸の奥が少しだけ楽になった。 楽になった瞬間に、別の恐怖が増した。 楽になることが、この場所では最も信用できない。 「書かないの」 女が言った。 女は私の斜め後ろに立っている。 距離が近い。 近いのに、匂いがしない。 匂いのしない人間は、役割に寄りすぎている。 「書かない」 私は言った。 女は小さく首を傾げた。 「書かないなら、あなたは何をするの」 この問いがいやらしかった。 書かないという否定を、ただの空白として許さない。 必ず代わりの行為を求める。 代わりの行為は、いつも本人に選ばせる形を取る。 選ばせる形は、もっとも汚い束縛だ。 久住が、椅子の背に軽く体重を預けた。 「だったら、見ろ」 見ろ。 久住はそう言った。 書くな、ではない。 見ろ、だ。 見るという行為もまた確定の入口だ。 私は一瞬だけ、あの夜を思い出した。 浴室の水音。 最後まで見なかったこと。 見なかったことが、
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5話 町が赦す話

私は白紙から目を離せなくなっていた。 文字はインクではなく凹みで、凹みのくせに、こちらの目を吸う。 吸われている間に、息が浅くなり、浅くなった息が思考を短くし、短くなった思考が判断を呼ぶ。 判断が呼ばれた瞬間に、私はまた装置になる。 久住は笑った。 笑い声は短く乾いていて、罪悪感を削る道具みたいだった。 「それでも、書く、だってさ」 久住は白紙の上の凹みを指でなぞらない。 なぞらないで、見せる。 見せるだけで私が勝手に読んだことにする。 そういうやり方が上手い。 上手い人間は、たいてい自分が上手いことに無自覚な顔をする。 女は黙っていた。 黙り方が、黙っているというより待っている。 待つというのは、相手が動くのを前提にしている姿勢だ。 私はその待ち方が嫌だった。 嫌だと思うと、嫌だと言いたくなる。 言った瞬間、物語が一本になる。 私は白紙から視線を外し、机の上の封筒の束を見た。 十九枚。 数が揃っていると安心する。 安心した瞬間に、ここで何が起きても「手続き」として飲み込めてしまう自分がいる。 そういう自分が、いちばん気持ち悪い。 廊下のほうで、床板がきしんだ。 足音がひとつ、迷いなく近づいてくる。 家の中の空気が、その足音に合わせて整う。 来客の足音は本来なら乱すはずなのに、この家では逆だった。 乱れているのは「誰も来ない」という状態で、誰かが来ると家が当たり前を取り戻す。 久住が、私を見ないまま言った。 「来たな」 女が、唇だけで笑った。 「ほら。町だよ」 障子の向こうではなく、部屋の入口に人間の輪郭が現れた。 中年の男だった。 額が光っていて、手には小さな紙袋。 どこにでもある土産物屋の袋だ。 こういう袋は、家に上がり込むための免罪符として機能する。 「失礼しますね」 男は勝手に失礼した。 許可を取りに来たのではなく、許可が出る前提で来る声だ。 男の目が私に向き、すぐに柔らかくなった。 柔らかくなるのが早すぎる。 男の顔には、 男自身の考えがあまり見えなかった。 代わりに、 町でよく見る表情が貼りついていた。 気遣い。 遠慮。 確認。 そして、 誰も責任を取らないための柔らかさ。 この男は、 ひとりで来たのではない。 ひとりの形をして、 町が来たのだ。
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6話 被害者の反転

廊下の向こうで、別の足音が聞こえた。 男の足音に重なるように、女の靴の細い音がひとつ。 さらに、話し声。 小さく、確かめ合うような声。 家の中が、家のままではいられなくなる気配だった。 男は部屋の入口で振り返り、こちらに向かって笑った。 「じゃあ、今夜。七時。公民館です」 公民館。 その言葉は柔らかいのに、押さえつける力がある。 公民館は誰の家でもない。 だからこそ、誰の責任でもない空気が作れる。 責任がない空気は、人が最も残酷になれる場所だ。 男は女の方へ軽く会釈をした。 「奥さんも、無理しないで。今日はゆっくりね」 女は礼を言わない。 ただ、薄く笑った。 笑いが「受け取った」顔をしていた。 奥さんと呼ばれた役割を、受け取った笑いだ。 受け取った瞬間、その役割はもう外せない。 男は去った。 廊下の足音も、少しずつ遠ざかった。 去ると同時に、部屋の温度が少し下がった。 人の出入りで変わる温度は、生活の温度ではない。 合意が出入りしている温度だ。 私は回覧板の紙を見た。 署名欄の空白が、穴みたいに静かだった。 静かで、逃げ道のない静けさだった。 「中心で」 男の声が耳の奥に残っている。 中心。 中心に置かれたものは、逃げると壊れる。 壊れると、壊した者の名前が残る。 残る名前は、次の話の材料になる。 久住が、机の端を指で叩いた。 「お前、行くんだろ」 私は紙から目を離さずに言った。 「行かない」 久住は短く笑った。 「行かないのは勝手だ。でも行かないってことは、町に書かせるってことだ」 女が静かに言った。 「町が書くと、あなたはもっと優しくなるよ」 優しくなる。 私はその言い方が耐えられなかった。 優しいは褒めではない。 裁定だ。 優しいという裁定が出た人間は、見ないことで人を殺す役を引き受ける。 私は紙を机に置き、立ち上がった。 立ち上がると、足が少し痺れていた。 痺れは恐怖の代わりに来る。 恐怖を認めると、役割が決まる。 だから体は痺れで誤魔化す。 「帰る」 久住は止めなかった。 止めないことが、いちばん止める。 「帰れよ」 久住は穏やかに言った。 「帰っても、夜には来る」 私は玄関へ向かった。 靴が揃っているのが、さっきよりも不自然に見えた
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7話 公民館の灯

久住が言った問いは、口にされなかった。 その口にされなさが、いちばん残酷だった。 問いが口にされないと、こちらは勝手に問いを作ってしまう。しかも、そうして作った問いは、たいてい自分に不利な形をしている。 私は玄関を出た。 出た瞬間、冷たい空気が肺に刺さった。思わず咳が出そうになったが、出なかった。胸の奥に、冷たさだけが残る。 ありがたい、と思った。 痛みがあると、考えが一瞬だけ止まる。その隙に、装置が動かない。 そう考えたところで、もう嫌になった。 止まってなどいない。 私は結局、何を見ても、何を感じても、すぐに意味へ変えようとしている。痛みでさえ、自分を止める道具にしている。 道の向こうに、さっきの男と別の女が立っていた。 二人は笑っていた。 笑い方が整っている。 整いすぎていて、顔の上に、別の顔が薄く貼りついているように見えた。 合意の笑いだ、と私は思った。 また、そういう言い方をしてしまう。 合意は、人間を一人にしない。けれど、その輪の外にいる人間を、ひどく簡単に孤独にする。 男が手を振った。 「今夜、お願いしますね」 私は返事をしなかった。 男の手が、ほんの少しだけ宙に残っている。その手を見るのが嫌で、私は目を逸らした。 口を開けば、何かが出る。 何かが出れば、それを拾われる。 拾われた言葉は、もう私のものではなくなる。 返事をしないことも、返事になる。分かっている。分かっているのに、声が出なかった。 男は困らなかった。 困らないことが、答えのようだった。 家に戻るまでの道が、やけに短かった。 こんなに短かっただろうか、と一瞬思った。けれど、何度も歩いた道だ。短くなったはずがない。 短く感じたのは、私が考えるのを避けていたからかもしれない。 道端の側溝に、濡れた落ち葉が詰まっていた。 そんなものを見る必要はなかった。 でも、私はそれを見ていた。 葉の端が黒くなっている。踏まれて、潰れて、それでも流れずにそこに残っている。 見なくていいものを見るとき、私はたいてい、見なければならないものから目を逸らしている。 私は決められた通りに動きたくないのに、足だけはいつも正確に家へ戻った。 戻ることが、すでに「今夜行く」ことの準備に見えてしまう。 それが嫌だった。 部屋に入ると、自分の机の上に
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8話 声の持ち主

「違う」 女は、もう一度そう言った。 短い否定だった。 さっきより少しだけ、声に芯があった気がする。 気がする、という言い方しかできない。 あの場にいた私は、声の大きさや震えを正しく覚えているわけではない。ただ、その一言のあと、湯呑みの湯気が細く曲がったのを見た。卓上の紙が、誰かの袖に触れて、かすかに鳴ったのも覚えている。 そんなことばかり覚えている。 大事なものの手前で、私はいつも、どうでもいいものを見る。 「今の、誰ですか」 会長が言った。 声は落ち着いていた。 落ち着いている、というより、落ち着かせ直した声だった。さっき一瞬だけ崩れた顔を、両手で押さえて元に戻したような、そんな声だ。 後ろの席から、女が立ち上がった。 町内会の女ではない。 久住の家で私の背後に立っていた女でもない。少なくとも、同じ顔ではなかった。 背丈が違う。 髪の癖も違う。 肩の落ち方も、着ている上着の色も違う。 なのに、似ていた。 顔ではない。 目の置き方だ。 こちらを見ているようで、私の少し後ろを見ている。人間を見るのではなく、人間の置かれている位置を測っているような目。 その目を見た瞬間、私は喉の奥が少し狭くなった。 「私です」 女はそう言った。 乾いた声だった。 けれど、喉の奥に、ほんの少し震えが残っている。 震えているから本当なのか。 震えているから嘘なのか。 そんなことを考えた時点で、もう私は嫌になった。人の声まで、すぐに分類しようとする。 「違うって、どういう意味です」 会長が聞いた。 女は会長ではなく、私を見た。 やめてくれ、と思った。 その目で見ないでほしかった。 私を見れば、責任の向きが決まる。私が聞く側ではなく、答える側へ押し出される。押し出されれば、私はまた、いつもの形になる。 装置。 その言葉が頭に浮かびかけて、私は飲み込んだ。 飲み込んでも、もう遅い。 浮かんだものは、消えない。 女は言った。 「その紙に書いてあることは、整理ではありません。押し付けです」 押し付け。 強い言葉だった。 強すぎる言葉は、この町では浮く。 浮いたものは、そのままでは残れない。 誰かが少し笑う。 誰かが息を吐く。 たぶん、誰かが「まあまあ」と言う。 そうしているうちに、言葉の角がなくなる
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9話 署名の瞬間

「それ、確認じゃない」 女は、もう一度そう言った。 その声は、さっきの「違う」よりも少しだけ芯があった気がする。 気がする、という言い方しかできない。 あの場にいた私は、声の大きさや震えを正しく覚えているわけではない。ただ、その一言のあと、湯呑みの湯気が細く曲がったのを見た。卓上の紙が、誰かの袖に触れて、かすかに鳴ったのも覚えている。 そんなことばかり覚えている。 大事なものの手前で、私はいつも、どうでもいいものを見る。 町内会の女は、まだ笑っていた。 声は出さない。 唇だけで笑う。 その笑いが、あの家の机で見た笑いと同じ形だった。 私はペン先を紙に置いたまま、指先の感覚だけを頼りにした。 紙の繊維のざらつき。 ペン先が紙に触れているのか、まだ触れていないのか、その境目が分からない。ほんの少し力を入れれば、線になる。力を抜けば、ただ止まっているだけになる。 その差が、急に怖くなった。 インクの匂いはしなかった。 乾いた空気だけが鼻の奥に残っている。公民館の広間にある、古い畳と湯呑みと、誰かの上着に染みついた洗剤の匂い。そういうものが混ざって、逃げ場のない生活の匂いになっていた。 落ち着こうとするほど、周囲の視線が重くなる。 重いというより、近い。 見られているのではない。 背中に指を並べられているようだった。 「確認者の署名を」 会長の声が、私の耳に入った。 落ち着いた声だった。 いや、落ち着いているように聞こえる声だった。 さっき灯が弱くなったことも、後ろの女が割り込んだことも、全部なかったことにして、話をまっすぐ進める声だ。 まっすぐなものは怖い。 曲がっているものより、よほど人を逃がさない。 私は名前を書かない。 そう決めた。 決めた、と思った。 でも、その瞬間、決めたという事実が別の方向へ転がり始めるのが分かった。私の中で決めたことなのに、もう私のものではなくなっていく。 「書けない」 ようやく声が出た。 思ったより、小さい声だった。 それでも広間の中では、やけに聞こえた。 声を出すと、空気がこちらへ向く。向いた空気は、私の言葉をそのまま受け取らない。噛み砕いて、柔らかくして、都合のいい形にする。 「書けないとは」 会長は言った。 声色が少しだけ硬くなった。 ほんの少しだ。 
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10話 受理番号

線は、点のつもりだった。 署名ではない、と言い張れる程度の、短い傷。 紙の白に、ほんの少しだけ影を落とすくらいの、迷いの痕。 そうすれば、私はまだ外側にいられる。 そう思った。 思っただけで、指の関節は、もう次の動きを準備していた。 準備というものが嫌だった。 準備は、始める前のことではない。始めていることを、まだ始まっていないように見せるための言葉だ。 ペン先が紙を擦った。 擦れた音は小さかったはずなのに、会場の静けさに吸われて、大きく聞こえた。 私は一文字も書いていない。 書いていないのに、誰かが息を呑んだ。 その音で、背中の内側が冷えた。 息を呑む音は、何かが事実になる音に似ている。 似ているだけだ。 でも、その場ではそう聞こえた。 私は指を止めようとした。 止めようとした瞬間、止めるための力が指に入る。力の入った指は、かえって動きやすくなる。 紙の上で、私の手だけが私のものではなくなる。 「今、書きましたね」 会長の声がした。 落ち着いていた。 落ち着いた声で言われると、反論は子どもの言い訳みたいに聞こえる。会長は、こちらが何を言っても受け止める顔をしていた。 受け止める顔。 あれは、受け止めないための顔だ。 「書いてない」 私は言った。 言った瞬間、自分でも弱いと思った。 書いていない。 たしかにそうだ。 けれど、線は入っている。 線がある以上、この町はそこから何かを作る。 作る、というより、あらかじめ用意していたものをかぶせる。 「書いたか書いていないかは、あとで確認できます」 会長は淡々と言った。 「いまは、線が入った。線が入った以上、手続きに入ります」 手続き。 その言葉で、皮膚が薄くなるような感覚があった。 手続きは、正しい顔をしている。 正しい顔で人を押さえる。 押さえたあとで、誰も押さえたとは言わない。制度です、決まりです、流れです。そう言えば、押さえた手は消える。 消えた手で押さえつけられるのが、一番息苦しい。 町内会の女が、机の端から紙をそっと引いた。 私の線が入った紙だ。 ペンは私の指に残ったまま、紙だけが離れていく。 紙の端が机の木目を擦った。 乾いた音だった。 女の指先が、線の近くで止まった。 触れたのか、触れていないのか分からない。 
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