封筒は、郵便受けのいちばん奥に差し込まれていた。 広告の薄い束をどけ、指先が段ボールの角に擦れるほど探って、ようやく白い角をつまみ上げた。 手のひらに残る紙粉がいやに細かく、指先が自分のものではないように冷たい。 差出人はない。 宛名もない。 それなのに、私の名前だったものだけがある。 私の筆跡で。 いや、正確には、私の筆跡として通用する筆跡で書かれていた。 通用する、という言葉がもう嫌だった。 誰が誰に通用させるのか。 通用というのは、誰かの頭の中で成立する判定だ。 私は判定というものが、いちばん無臭の暴力だと知っている。 私はこの数週間、紙に何も書かないと決めていた。 終わったのだと思っていた。 町の外へ出て、 名前を思い出せなくなって、 呼ばれないまま数週間を過ごせば、 やがて私は私ではない何かに戻れるのだと思っていた。 だが、 呼ばれない時間というものは、 自由ではなかった。 ただ、 次に呼ばれるまでの空白だった。 空白は白紙に似ている。 似ているものは、 この町では、 すぐに同じものとして扱われる。 決めた、と思った瞬間から、どこかで書いているのではないかという疑いが生まれる。 疑いの生まれ方までが自分の癖に似ていて、気持ちが悪い。 私は疑いを否定しない癖がある。 否定しないで、形を整えて、棚に並べる。 並べた瞬間、疑いは事実の顔をして居座る。 封を切ると紙が二枚入っていた。 硬すぎず柔らかすぎない、役所でよく触るあの肌理の紙だ。 紙の縁は妙にきれいで、指を切るほど鋭い。 誰かが丁寧に扱ってきた紙で、丁寧さがそのまま悪意に見える。 一枚目には短い一文だけ。 〈あなたは、まだ装置をやめていない〉 装置。 文字面が冷たい。 私はそれを読み、読み終えた瞬間に、胸のどこかが先に反応した。 怒りでも恐怖でもなく、もっといやらしい、理解してしまう感覚だ。 二枚目には日付と時刻、それから住所。 私はその住所を、すぐに思い出した。 あの夫婦が借りた家だ。 静かな場所を探していると言っていた。 妻は窓をよく見ていた。 夫は乾いた笑いを浮かべ、原因が分からないと繰り返していた。 浴室の水音が、妙に一定のリズムで響いていた。 私はその家を「終わった」と扱った。 見なかった。
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