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All Chapters of 沼の声: Chapter 31 - Chapter 40

41 Chapters

11話 名簿の匂い

ペン先が紙へ近づくたび、紙の繊維がこちらに身構えるように見えた。 空白の欄には、まだ何も書かれていない。 ただ、凹みだけがある。 凹みは、書く前の筆圧の癖だった。 癖は、誰かの体温を運んでくる。 私の体温。 私の癖。 そう思った瞬間、喉の奥がひりついた。 違う、と言いたかった。 でも、何が違うのか、自分でもすぐには言えなかった。 部屋に入ってから、音の聞こえ方が少し変わっていた。 広間のざわめきは扉の向こうにあるのに、完全には遠ざからない。水の中で聞く声みたいに、輪郭だけが丸くなって残っている。 ここは静かな部屋なのではない。 声を鈍らせるための部屋なのだと思った。 そう思ってから、また嫌になった。 部屋に意味を与えた瞬間、私はもう、この部屋の使い方を理解している。 町内会の女は、椅子に座らないまま私の手元を見ていた。 視線が、ペンと紙の間に細い糸を張る。 糸なのに、切ろうとすると手を切りそうだった。 「ほら、落ち着いて」 女はやさしい声で言った。 やさしい声は、命令より逃げ道がない。 「線を引いたのも、あなた」 女の指が、受理番号の並ぶ欄を軽く叩いた。 「番号が通った。通ったら、戻れない」 戻れない。 その言葉は、説明のようでいて、もう判決に近かった。 私はペンを置いた。 置いた音が、机の上で乾いて鳴った。 置いた瞬間、女の目が少しだけ細くなる。 拒否として受け取ったのだろう。 拒否は、罪になる前に、別の言葉へ変えられる。 「書かないのね」 女は、残念そうに言った。 残念そうに言うのが上手い。 残念そうにされると、こちらが何か悪いことをした気になる。 「書けない」 私は短く言った。 言い切ると、少しだけ胸が楽になった。 楽になった瞬間が危ない。 楽になった人間は、次に妥協する。 女は帳面を閉じなかった。 閉じないまま、紙の角をそろえる。 そろえるだけで、手続きが進む気配がした。 「だったら、あなたの代わりに進める」 女が言った。 「代わりに、って」 私が言いかけたとき、扉の向こうが、こん、と鳴った。 小さな合図だった。 内側の空気が、一段だけ締まる。 女は扉の方を見なかった。 見ないまま、声だけを落とした。 「次が来た」 扉が開き、会長が顔を覗かせた。 会
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12話 剥がれた一画

名簿の紙片が半分だけ剥がれ、隠されていた文字の最初の一画が覗いた。 たった一画なのに、目がそこへ吸い寄せられる。 まだ名前ではない。 文字ですらない。 ただ、始まりの形だった。 それなのに、私はその続きを知っている気がした。次にどちらへ曲がるのか。どこで止まり、どこで払うのか。 知っている。 そう思った瞬間、知らないふりをする余地がなくなった。 後ろの女が、私に向かってはっきり言った。 「その一画は、あなたの字だ」 私は、自分の字をよく知っている。 知っているつもりはなかった。 けれど、あの一画を見た瞬間、逃げられなかった。止める場所。迷う角度。少しだけ力が抜ける癖。人に見せるためではなく、手が勝手に残してしまう形。 字は、声より先に私をばらす。 私はずっと、書いたものだけが残るのだと思っていた。 違った。 書かなかったものにも、私の癖は残る。見なかった場所にも、決めなかったつもりの沈黙にも、同じ形が残る。 その一画が私の字なら、私はもう、ここにいないふりができない。 会長の口が、薄く開いた。 男の指は紙片をつまんだまま止まっている。爪の先に、糊が白く伸びて糸になっていた。 糊の糸は、蜘蛛の糸に似ていた。 軽い。 軽いのに、絡め取る。 扉の外で椅子の倒れる音がした直後、広間からざわめきが押し寄せてきた。 人の声が重なる。 誰かが叫ぶ。 誰かが笑う。 笑いと叫びが同じ高さで混ざると、耳の奥が痛くなる。 会長は一瞬だけ、扉の方へ視線をやった。 その視線が動いた分だけ、ここで起きていることが中断できるものに見えた。 その隙間を、さっきまで後ろにいた女が、部屋の角から一歩踏み出した。 「見せるな」 女は男の手に向かって言った。 声が低い。 低い声は、刃物の柄みたいに硬い。 男は笑わなかった。 ただ、口の端が動いた。 動いただけなのに、笑いより下品だった。 「半分見えた。もう遅い」 町内会の女が、私の横から名簿を押さえた。 押さえ方が馴染んでいる。 机の端を押さえる癖のある指。 白紙を押さえる癖のある指。 指先が紙の上で、静かに呼吸しているように見えた。 指が呼吸すると、紙まで生き物みたいになる。 「遅くない」 部屋の角の女が言った。 「まだ名は出てない」 会長が、落ち着いた声で
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13話 閲覧確認

動き始めた指は、私のものではない速度で、白い紙へ降りていった。 町内会の女の指先が、私の指の上に重なっている。 その形が、あの家の机で白紙を押さえた指と同じだった。 同じだと思った瞬間、息の位置がずれた。 紙は白い。 白いのに、もう汚れている気がした。 汚れはインクではない。 受理番号の匂いと、名簿の糊の匂いと、さっき見えた一画の匂いが混ざっている。 匂いは、目より早く記憶に刺さる。 「閲覧確認書」 会長が、もう一度だけ言った。 言い直すのは、こちらの迷いを短くするためだ。 言葉を繰り返されると、選択肢は減る。 机の上の紙には、短い文が並んでいた。 確認者が名簿を閲覧したこと。 閲覧に伴う責任を負うこと。 不要な憶測を口外しないこと。 口外しない。 その言葉が、逆に口外の対象を作る。 作ってから封をする。 封をしたものほど、漏れたときに大事になる。 会長は、署名欄を指で叩いた。 叩く音は小さいのに、心臓の裏側に響いた。 「ここです」 町内会の女の指が、私の指の上で少しだけ力を増した。 握らせる力だ。 握った瞬間、人は自分で握ったと思い込む。 思い込むと、受理が走る。 私はペンを離そうとした。 離そうとしただけで、女の指が私の爪の根元を押さえた。 痛くない。 痛くないのに、離れない。 痛みで止められる方が、まだ楽だった。 痛みは怒れる。 痛くない拘束は、怒りの出口を奪う。 「大丈夫」 女が囁いた。 「書いたことにしないから。確認したことにするだけ」 確認したことにするだけ。 だけ、という言葉は嘘だ。 だけで済んだ手続きは、この町にない。 ペン先が紙に触れた。 触れた瞬間、会長が息を吐いた。 ほっとする息だった。 ほっとする息は、縄を締める息だ。 町内会の女の指が、私の手首に添えられた。 動かされた、とは言い切れない。 けれど、私の手はその指の重みを避けるように、ゆっくり動いた。 急がないから、こちらは抵抗するきっかけを失う。 抵抗する隙がないまま動く手は、従順に見える。 最初の線が引かれた。 私は文字を書くつもりはなかった。 だが線は、勝手に曲がり、折れ、繋がり、字の形に寄っていく。 寄っていくというより、寄せられている。 そう感じた瞬間、私は自分の手が自分の
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14話 役場の背骨

夜のうちに眠ったかどうかは、はっきりしない。 布団に入って目を閉じた。 その黒が、朝の薄い光に置き換わっただけだった。 部屋の匂いが、昨日より湿っている。 湿り気が、紙の匂いに似ていた。 紙は湿ると、少し皮膚に近づく。 皮膚に近づいた紙は、文字を欲しがる。 そう思ってから、また嫌になった。 朝起きて最初にすることが、紙に意味を与えることなのか。 携帯の通知が、もう一度来ていた。 閲覧受理 確認者 9時 役場集合 この文は、丁寧さを持っていない。 命令のための最短距離だった。 短い文ほど逃げ道がない。 私は洗面所で顔を洗い、鏡の前で口をすすいだ。 水の味はいつも通りなのに、喉の奥に残るものがある。 昨夜の朱い印の鈍い音が、まだ耳の裏側にこびりついていた。 顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。 目の下が少し暗い。 眠れなかった人間の顔だ。 それなのに、その顔はまだ私のものに見えた。 見えるうちは、まだましなのかもしれない。 外へ出ると、空は晴れていた。 晴れている朝は怖い。 晴れている朝は、何をしても正しい顔をする。 正しい顔をしたまま人が消える町は、晴れの下でよく馴染む。 道の角に、町内会の女が立っていた。 偶然の顔をしている。 けれど、偶然の位置ではない。 いつも誰かが通る場所を選んで立っている。 「おはよう」 女は朗らかに言った。 朗らかさに、あの指の癖が隠れている。 「役場、行くのね」 私は頷く代わりに、女の手元を見た。 女は紙袋を持っていた。 中には、薄い封筒の束が入っている。 役場の窓口で配られるものみたいに、角だけがやけにそろっていた。 「これ」 女は袋を少し持ち上げた。 「控え。みんなの分」 みんなの分。 みんなの分という言葉は、私の分を溶かす。 溶かされた私の分は、いつの間にか公の分になる。 役場へ向かう道には、同じ方向へ歩く人が何人かいた。 顔見知りのようで、見覚えがない。 目が合うと、皆が小さく頷く。 頷きは挨拶ではない。 確認だ。 確認されるたび、私は確認者になる。 役場の建物は低く、白く、清潔に見えた。 清潔に見えるというだけで、ここで起きることは正しいことになる。 玄関のガラス扉に、消毒用アルコールの瓶が置かれていた。 アルコールの
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15話 仮確定

「では、照合で進めます」 記録係の男が、開いていた台帳をこちらへ向け直した瞬間、照合室の空気が硬くなった。 硬いのは空気ではなく、たぶん紙だった。 紙が増えると、言い訳の置き場が減る。 減った分だけ、人間は番号の方へ寄っていく。 転がる、というより、寄せられる。 私は振り向かなかった。 振り向かなかったまま、台帳がこちらを向く気配だけを感じていた。 窓の外でさっき呼ばれた音は、まだ耳に残っている。 名の形をしていた。 私の名前に似ていた。 似ているのに違う、という残り方だ。 違うなら関係ないはずなのに、耳の奥だけが勝手に覚えている。 覚えている耳が、私より先に返事をしそうで怖かった。 私は視線を動かさないまま、机の上の白い欄を見た。 白は光を返しているだけなのに、こちらの体温を奪う。 会長は椅子の背に軽くもたれ、穏やかな声を保って言った。 「あなたが書かなくても、成立します。照合は照合です」 背の高い男は、机の端に置いた薄い紙片を指で押さえたまま、動かない。 昨日、名簿の紙片が半分剥がれ、赤い筋が残った。 あの赤はフィルムで閉じ込められたはずなのに、ここに来てもう片方が現れた。 紙片は軽い。 軽いのに、部屋の中心みたいに見える。 記録係は透明ファイルを開き、閲覧受理の控えを照合票の上に重ねた。 紙の端を定規で揃える。 揃える指が慣れている。 慣れている指は、揃えた先の結論も知っている。 「氏名、生年月日、住所。筆跡照合。閲覧受理番号。照合一致」 男は淡々と読み、照合票に丸をつけていく。 丸がつくたび、少し安心しそうになる。 間違いではないと言われている気がするからだ。 けれど、その丸は私を許しているのではない。 閉じているだけだった。 丸が増えるほど、外の世界が遠くなる。 机の横に並べられた紙片には、私の筆跡として通用する字がいくつもあった。 回覧板の控え。 役場の受領票。 封筒の端。 メモの切れ端。 どれも、書いた覚えが薄い。 薄い覚えは、否定しにくい。 否定すれば嘘になる空気が、先に出来てしまう。 記録係が言った。 「筆跡は安定しています。癖が揃っている」 背の高い男が、息を吐く音だけを出した。 笑いではない。 乾いた鼻の鳴り方だ。 「揃えられている、の間違いだ」 
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16話 提出

役場を出てから、風の冷たさがずっと手のひらに残っていた。 陽はあった。 それなのに、風だけが冷たい。 私は封筒を持っていない。 持っていないのに、紙の角が指に刺さる感覚だけが残っている。 町内会の女が袋に入れた控えは、私の手には渡らなかった。 それでも、あの封筒は私より先に家へ帰っている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 なのに、人間より先にいることがある。 先回りされたみたいで、それが嫌だった。 玄関の鍵を回すと、金属の擦れる音がやけに大きかった。 家の中は静かだった。 静けさが、紙の白みたいに薄い。 薄いから、少し触れただけで破れる。 玄関脇の郵便受けを開けた瞬間、湿った匂いが立った。 雨の匂いではない。 糊の匂いだ。 封筒が二通、入っていた。 役場の窓口で見たものと同じ薄い紙。 角が不自然にそろっている。 私はしばらく、それを見ていた。 誰が入れたのかを考えようとした。 考えようとしたのに、最初に浮かんだのは人の顔ではなく、指だった。 封筒の口を閉じる指。 紙の端を押さえる指。 私の手の上に重なった指。 宛名には、黒い活字で「真壁朔也 様」と打たれていた。 字が整いすぎていて、私の体温が届かない。 体温の届かない名前は、札になる。 一通目は「仮確定控」。 二通目は「関係者名提出依頼」。 提出という文字が、紙の上で硬く光って見えた。 台所のテーブルに並べると、封筒の角が揃った。 揃っただけで、部屋の中が少し役場になる。 白い紙があるだけで、人の声が小さくなる。 テーブルの上に置いた二通の封筒は、ただそこにあるだけだった。 ただそこにあるだけなのに、椅子の位置まで変えられた気がした。 ここは私の家のはずだった。 けれど、封筒が置かれた瞬間から、この部屋には窓口の順番ができている。 私が座る場所。 紙を置く場所。 返事を待たれる場所。 家は狭い。 役場よりずっと狭い。 狭い場所に紙を置かれると、逃げ場がないことだけがよく分かる。 私は封を切らずに、宛名だけを指でなぞった。 なぞると、活字が爪の中へ入ってくる気がした。 真壁朔也。 口に出していないのに、舌の裏が乾く。 それが私の名前なのか、私に貼られた札なのか、まだ分からない。 分からない
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17話 失踪の手続き

第17話 失踪の手続き 夜になっても、提出依頼の紙はテーブルの上で白いままだった。 白いままなのに、もう汚れている気がする。汚れはインクではなく、視線の脂だ。見れば見るほど、空白の方がこちらを覚えていく。 私はペンを手に取らなかった。 代わりに上着を羽織った。 家の中にいると、紙の匂いが濃くなる。濃くなった匂いは、胸の奥を鈍く焦がす。 息が浅くなると、判断が遅れる。遅れた判断は、町に回収される。 部屋の角にいた女のことを確かめなければならない。 落ち着いた、というあの言葉の中身を見なければならない。 この町で「落ち着いた」と言われた人間は、家へ帰るとは限らない。 騒いだ人間。泣いた人間。名前を言い渋った人間。 そういう人間は、役場ではなく病院へ回される。治療ではなく、相談という形で。 中身を見ずに提出だけ進めれば、次に消えるのは自分だ。 そういう確信だけは、最初から喉に残っていた。 公民館へは行かなかった。行けばまず町内会の視線に捕まる。 捕まれば、問い合わせた事実が「協力」として記録される。 役場でもなく、町内会でもなく、いちばん人が薄く扱われる場所へ向かった。 病院へ向かう道は、昼間よりも狭く見えた。 街灯はある。あるのに、明るい場所が少ない。 光は道を照らすためではなく、暗い場所を区切るために置かれているみたいだった。 途中で、閉まった商店の前を通った。 シャッターには、古い町内会の貼り紙が残っている。 防犯。 声かけ。 見守り。 どれも、安心のための言葉のはずだった。 けれど夜に見ると、少し違って見える。 誰が誰を見ているのか。誰のために声をかけるのか。 見守るという言葉は、見張るという言葉と背中合わせで立っている。 私はポケットの中で指を握った。 何も持っていない。持っていないのに、紙片の角に触れている気がする。 家に置いてきたはずの提出依頼が、服の内側までついてきている。 そう思ってから、また嫌になった。 紙は歩かない。 歩かないものほど、こちらの歩幅をよく知っている。 町の外れの小さな病院。 看板の文字が古く、光が弱いところだ。弱い光の下では、嘘も本当も同じ顔になる。 夜間受付の窓口は閉まっていて、呼び鈴だけが置いてあった。 押すと、鈴の音が廊下を細く走った。 走った音に遅
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18話 更新日

 翌朝、町の放送が鳴った。 内容はいつもと同じ調子で、いつもより一段だけ事務的だった。 名簿更新日。 来庁のお願い。 提出の締切。 言葉の順番が、まるで天気予報みたいに平らで、平らなまま人を動かす。 雨が降ります。 傘を持ちましょう。 名簿を更新します。 名前を出しましょう。 そう並べられると、どれも同じことに聞こえる。 私は、テーブルの上の「関係者名提出補助票」を見た。 空白の上の凹みが、昨夜よりはっきりしている。 紙が勝手に濃くなるのではない。 こちらの目が、そこに寄っている。 寄った目は、予定を予定として認めてしまう。 認めたくないのに、見ているだけで少しずつ認めさせられる。 私は指先を握った。 昨夜、病院で拾った「落着」の紙片は、まだ上着のポケットに入っている。 洗ってもいないのに、そこだけ湿っている気がした。 紙が湿るのではなく、自分の皮膚が紙の方へ寄っている。 そう思って、また嫌になった。 玄関のチャイムが鳴った。 短い二回。 昨日と同じ鳴り方。 同じ鳴り方は、用件が変わっていないということだ。 ドアを開けると、町内会の女が立っていた。 笑顔が整っている。 整いすぎた笑顔は、もう結論を持っている。 「おはよう、真壁さん」 女は紙袋を持ち上げた。 「提出、代わりにしてあげる。代理提出、可だから」 代理提出可。 昨日の通知の文が、女の口から出ると温度を持つ。 温度を持った手続きは断りにくい。 「触るな」 私が言うと、女は驚いた顔をしなかった。 驚かないのが怖い。 その言葉も、その声の強さも、すでに想定されていた反応なのだと思った。 「触らないと進まないでしょう」 女は朗らかに言った。 「進まないと皆が困る」 皆が困る。 困るという言葉で、代理が正義になる。 私は紙袋の口元を見た。 折り返しがきっちりしている。 内側が少し湿っている。 紙を舐めた湿りの匂いがする。 封筒の口を閉じる指の湿りだ。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は一拍だけ間を置いた。 間を置いたのは、知らないからではない。 どの答えを使うか選んだからだ。 「更新日だから」 答えになっていない。 答えになっていないのに、答えになる音だ。 更新日だから、落ち着いた。 更新日だから
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19話 二重台帳

 朱い印の音が、まだ耳に残っていた。 誰も私を止めなかった。 止めないというより、もうこの部屋で必要な分は済んだ、という顔をしていた。 私は椅子を引き、照合室を出た。 廊下の空気が少しだけ生温かかった。 役場の中で温度が戻るのは、紙の白さから目を逸らせた時だけだ。 だが、今日は逸らせない。 廊下の向こうで、さっきの「真壁朔也」が連れていかれている。 職員の背中に隠れて、背の曲がった男の影が揺れる。 番号札も名札もない胸。 返事だけが残る喉。 私は歩いた。 追うふりはしなかった。 追うふりをすると、追った事実が手続きになる。 廊下の掲示板の前で立ち止まったふりをして、視線の端で男の行き先を拾う。 職員は窓口の列へ男を混ぜ、別の窓口へ回した。 回すという動きが、荷物を回す動きに似ている。 荷物は落ち着く。 落ち着いた荷物は運びやすい。 そう思ってから、嫌になった。 私は人を荷物だと思いたいわけではない。 けれど、この町の手続きは、人を荷物に見える位置へ運ぶ。 男は振り向かない。 振り向かないのは、振り向く必要がないからだ。 名で呼ばれ、返事をし、次へ行く。 そういう生活が体に染みている。 窓口の札には「更新」「照合」「控え発行」と並び、どれも正しい顔をしている。 正しい顔の前で、男が「真壁朔也」として紙に触れる。 触れた瞬間、私の方が余計に薄くなる。 薄くなるのに、宛名だけは分厚い。 男は窓口の前で紙に触れたあと、職員に促されて奥へ歩いた。 客用の廊下ではない。 職員通用口の方だ。 そこへ入る時だけ、職員は男の背に手を添えた。 案内というより、運搬に近い手つきだった。 出入口の脇で、さっき出ていったはずの清掃員がモップを引いていた。 昨日、病院で見た背中と同じ丸さだ。 役場の制服の色が変わっても、背中の丸さは変わらない。 顔より先に、背中で分かった気がした。 私が近づくと、清掃員は目を合わせず、モップの柄だけを少し傾けた。 傾けた先は、職員通用口の方だった。 扉には「関係者以外立入禁止」。 どこへ行っても、禁止の札がある。 札のある場所へ、札のない人間が入る。 「昨日の人」 私が小声で言うと、清掃員は一度だけ頷いた。 「落ち着いたって言われる人は、ここを通る」 落ち着いた。
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20話 起点

第20話 起点 名簿更新日の翌朝、目が覚めて最初に玄関へ行った。 理由は分からない。ただ、鍵を見なければいけない気がした。 鍵は内側から閉まっていた。 閉まっていたはずなのに、鍵穴の縁に細い傷が増えている。 刺して抜いて、刺して抜いた回数の傷だ。 家の鍵にまで手続きが染みると、家はもう家ではなくなる。 内側から鍵を見ているのに、外から入ろうとしている気がした。 そう思ってから、また嫌になった。 玄関から台所へ戻ると、匂いが先に来た。 紙の匂い。糊の匂い。朱肉の匂い。 どれも昨日まで役場で嗅いだ匂いなのに、台所の空気に混ざっている。 テーブルの上に、封筒が三通並んでいた。 並び方が整いすぎている。 誰かが端を揃えた並び方だ。 鍵は閉まっていた。 それをもう一度思った。 思ったところで、何の役にも立たなかった。 昨夜、ここには何もなかった。 少なくとも、私は見ていない。 見ていないものが、朝には整って置かれている。 それがいちばん嫌だった。 誰かが入ったのか。 紙だけが先に来たのか。 考えようとして、どちらでも同じだと思った。 一通目は「最終確定通知」。二通目は「関係者名受理控」。三通目は、白紙のように見える薄い紙で封がされていた。 宛名だけが黒い活字で大きい。 真壁朔也 様。 活字の「真壁朔也」は、もう何度も見ている。 見ているのに、喉の奥がひりつく。 自分の名を見ているはずなのに、名前の方が自分を見返してくる。 封を切る前に、携帯が震えた。 知らない番号ではない。 町内会の連絡網の中に混ざっていた番号だ。 「真壁さん」 町内会の女の声が出た。 朝の声なのに夜みたいに落ち着いている。 落ち着きは、落ち着かせるための声だ。 「今日で終わるから。九時。公民館」 終わる。 終わると言いながら、始める予定が透ける。 「部屋の角にいた女は」 私が言うと、女は短く笑った。 「もう関係ないわ」 関係ない。 関係ないと言えるのは、関係を確定する側だけだ。 電話が切れると同時に、チャイムが鳴った。 短い二回。 私は覗き穴を見た。 隣の家の老婆だった。 いつも朝に植木へ水をやる老婆だ。 今日はバケツを持っていない。 手が空いているのに、手の甲だけが少し濡れている。 「真壁さん」 
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