All Chapters of <社会人百合>アキとハル: Chapter 21 - Chapter 30

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第二十一話 道

「わたし、大学へ戻るか、今の仕事を続けるか、選ばなくてはならなくなりました」 本来ならば、いいとこのお坊ちゃま・お嬢様大学に在籍していた彼女。 ところが、運命変転の果てに、今はピアノ教室の講師をしている。「関口さんですね、最近メキメキ腕が上達してるんです。それを、先生のおかげですよって評してくださって。他の生徒さんも、わたしのおかげだって、どんどん腕が伸びてるんです。わたし、どうしたらいいんでしょう」 顔を手で覆うハルちゃん。生徒想いの、いい先生だ。それだけに、復学で離れるという選択に、苦渋しているのだろう。「おねーさん、わたしは、どうしたらいいんでしょう?」「それは、ハルちゃん次第かな。それを踏まえた上で、ものすごく無責任なアドバイスならできるよ」 彼女が、ごくりと固唾を飲む。「いい? これは無責任なアドバイスだからね? まずさ、ハルちゃんってなんのために大学通ってた?」「それは……その、親の言うがままに」「うん。でも、ハルちゃんはそのレールを、自分で外れたわけだ。だったら、外れ通すのも道じゃない?」 真剣な面持ちで述べる。「じゃあ、音楽講師を続けたほうがいいんですね!」「ストップ。無責任なアドバイスって言ったでしょ。日本は学歴社会でね。その人の本質じゃなく、学歴で人を判断しようとするの。だから、音楽講師がダメになったとき、ハルちゃんが忌んだ、男性との輿入れとかが視野に入ってくるよ。そして、ハルちゃんは、アオイグループのお飾りになる」 そう言うと、明るくなったハルちゃんの表情に、影が差す。「これは、あくまでも、私個人の無責任な考えね。鵜呑みにしないでね? ハルちゃんは、講師兼、作曲の道に進むといいんじゃないかな。博打ロードだけど、ハルちゃんの生き方にあってると思う。私から言えるのは、これだけかな。ミドリさんの意見も訊いてみてもいいかも」 突き放すようだけど、そう結んだ。「わかりました。ミドリさんにも、相談してみます……」 そう言って、とぼとぼ歩み去っていく彼女。 最適解をね、スパッと切り出せるようなら良かったんだけど。 自室のベッドに大の字になり、愛しのハルちゃんのことを、想うのでした。  ◆ ◆ ◆  そして、夜。まかないを作るためのキッチンに、私とハルちゃんが同席していることにどよめくシェフやメイドさん
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十二話 理由

 朝。キッチン兼ダイニングの空気が、どうにも気まずい。 ハルちゃんも、ミドリさんも、シェフさんも、メイドさんも、黙々と食べている。無論、私も。 せっかくの、おいしいまかないが、これじゃ台無しだ。 もしかしたら、これが葵家流なのかもしれないけど、やっぱりなんかおかしい。その原因はといえば……。 ◆ ◆ ◆「ハルちゃん、ちょっとこっち来て」 適度な離れた場に、彼女を連れて行く。「ハルちゃん、やっぱ昨日のはよくなかったよ。空気、おかしいもん。ちゃんと、謝ろ?」 料理勝負とか言い出したお前が言うな、という感じですが。「はい。一晩経って頭も冷えたので、謝ります。でも、今ではなく、料理勝負のときにさせてください。説得力が生まれると思うので」 説得力? この子は、何を……。「とにかく、論より証拠ということわざ通りのお話を、お見せできると思いますので」 なんとも、要領を得ない話だ。 ともかく、葵家シェフ謹製弁当を手に、職場に向かうのでした。 ◆ ◆ ◆ 仕事場で、妙に豪華なお弁当にツッコミを入れる同僚でしたが、葵家に越したことを告げると、絶句してしまう。上司は、書類の関係で把握済みだったけどね。 「富」の世界から「貧」の世界へ。今日も、利用者さんのお悩み相談の回答や、事務仕事をこなしていく。「住む世界が違う」という言葉があるけれど、驕らないように気をつけなきゃ。 そして、帰宅。やはり、遅い時間になってしまった。通勤時間も伸びたしなあ。 さすがに、送迎はどうかと思うし。「ただいま戻りました」 メイドさんに出迎えられ、自室に案内される。まだ、邸内把握しきってないからね。「お嬢様とシェフが、紅様をお待ちです」「すみません、着替えたら向かいますね」 シャワーを浴びたいところだけど、とりあえず着替えだけで済ませる。 ベルを鳴らすと狛さんが応対したので、キッチンに連れて行ってもらう。 で、中を開けると……。ひい! 殺気立っているぅ! 若井さんとミドリさんが、それぞれ何かを作っている。「すみません、あれは何を……?」 手近にいたシェフさんにひそひそ問うと、「ポークチョップです」とのこと。若井さんが、ミドリさんの得意フィールドである大衆料理に合わせたそうで。 私が応援するのは、もちろんミドリさんだけど……。若井さんが、素人目には何をやって
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十三話 ハルの歩み

「わたし、音楽の道に進みたいと思います」 彼女は、すっぱりそう言い切った。「お嬢様、後悔なさらないですか?」 ミドリさんが、心配そうに問う。「どっちを選んでも、選ばなかったほうに後悔が残ると思うよ。でもね、わたし生徒さんとの交流が好きなの。笑顔になってくれるのが嬉しいの」 慎ましやかな笑顔で、そう語るハルちゃん。芯の強い子だ。「だから、二人とも、わたしの応援をしてくれるかな。とりあえず、お父様たちへのご報告を」「……ええと、ご飯食べてからでいい?」「あ、そういえば、私だけポークチョップ二皿も食べたんだった」 後頭部を撫でるハルちゃん。「お詫びってわけでもないけど、なにか作るね!」 そう言って、我らがお嬢様は調理台に向かうのでした。「お嬢様、すっかり立派になられて……」「私はうちに来る前のハルちゃんを知らないですけど、来た時は、ちょっと我儘なお嬢様って感じでしたね。それが、たしかに立派になって……」 「結婚したくないから」。その一念だけで、家を飛び出した彼女。気づけば、行動力はそのままに、気遣いのできる子になっていた。 成長した娘を見る、母二人の心境。 ややすると、ポークチョップ定食が運ばれてきました。「ハル流ポークチョップ、召し上がれ」「いただきます」 娘が、母のために一所懸命作ってくれた手料理。そんな味がしました。 ミドリさんのが母の味なら、ハルちゃんのは娘の味だね! 歯を磨き、大浴場で流しっこした後、小綺麗な格好で吾文さんの居室に向かう。「お父様、ハルです」 ノックして呼びかけると、「入りなさい」と招かれる。 吾文さんの横では、麗さんが手厚い介護をしていた。政略結婚だと吾文さんは言っていたけど、しっかりと愛があるんだね。 ハルちゃんが、父に反発しつつも、ねじけなかった理由がわかった気がする。「お父様。わたし、音楽の道へ進みます。入学金など無駄にしてしまい、すみません」 深々とお辞儀し、謝罪するハルちゃん。私たちと一緒なのは、この勇気が欲しかったんだね。「そうか……。ハル、自由に生きなさい。オレは、お前を縛りすぎた。これからの人生は、その、せめてもの償いだ」「お父様……ありがとうございます。お母様も」 抱き合う父娘、そして母娘。やだ、ちょっと目頭が熱い。 生徒さんとの交流の日々を語って聞かせるハルちゃ
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十四話 閑話休題・一

 実は私、葵家に越してきてから、一度やってみたいことがありました。「すっごいいいワイン、呑んでもいいでしょうか……?」 今日は、私がオフでミドリさんが休みで実家に顔を出し、ハルちゃんがお仕事という日。この期を逃す手はありますまい! そこで、お昼にソムリエさんを捕まえて、尋ねてみました。「ございますよ。リュクグという銘柄ですが」 リュクグ! 何かわからないけど、期待が高まる名前じゃあないですか!「どんなお酒なんでしょう?」「それはもう、高貴なる姫のごとき味わい。香り、味、喉越し、どれをとっても勝てるのは、かのドン・ベリニョンぐらいと思われます」 ごくり。ドン・ベリニョン、話には聞いたことがあるけど、それに次ぐとは。 呑みたい。呑んでみたい。「それに合う料理と一緒に、いただけないでしょうか」「かしこまりました」 ソムリエさんが、キッチンに入っていく。 いやー、贅沢を禁じた私ですけどね。こう、お酒にだけは面がなくて……ふへへ。 ワクワクドキドキで待っていると、ステーキと一緒に、グラスが運ばれてきました。「仔羊のステーキとリュクグです」 ほわー?「リュクグって、発泡酒なんですね?」「いえ、正真正銘のシャンパンでございます」 聞いたことがある! フランスのシャンパーニュ地方で作られた発泡酒だけが、シャンパンを名乗っていいと! ホンモノだーっ!「い……いただきます」 一口、ごくり。 ふわああ……ソムリエさんの仰る通り、香り、味、喉越し。どれをとっても、今まで呑んできたお酒とは別次元! ああ……一口でトリップしそう……。 そして、ステーキをいただく。 むう! 癖がなく、それでいてしっかりとした味わい! 仔羊なんて食べ慣れないけど、こんなに美味しかったとは! ああもう、リュクグとステーキで永久機関の完成だわ! そして、あることに気づく私。私、お酒を呑むと鯨飲しがちだけど、リュクグにはそんな気持ちになれなくて。なんていうか、すごい神聖な想いを抱いている。これは、ガパガパといく気になれない。 こんな、厳粛な気持ちになれるお酒があるなんて……。「美味しゅうございました」 おかわりすることもなく、昼食を終える。 ◆ ◆ ◆「今日のおねーさん、なんだかハッピーそうだね?」「ですね」「ふへへー? そうかな?」
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十五話 閑話休題・二

 ちーん……と、鈴の音が鳴り響き、手を合わせる。「お父さん、私は元気でやってるよ。だから、安心してね」「ミドリもわたしも、大病もせず、健やかです。守ってくれているのですね」 祈念が終わり、お仏壇から後ずさる。「お母さん、ごめんね。一人暮らし、大変でしょう」「ミドリこそ、また葵家での暮らし、苦労してるんじゃない? ほら、七年前……」「お母さん、お嬢様を悪く言わないで」 それは、懇願だった。私は、お嬢様を愛している。「ごめんなさい。お母さんは、仕送りのおかげもあって、ちゃんと暮らせているからね」 母はひと息ため息を吐き、「やっぱり、大学を卒業させてあげたかったねえ……」とこぼす。「仕方ないよ。突然だったもの」 狭いアパートを見渡す。父が生きていた頃は、もう少し羽振りの良い暮らしができていたが、せんもない。「今ね、お父さんから教わった料理が、活きているの」 料理勝負を思い出す。私の料理を、好きだと仰ってくださったお嬢様。心の底から、嬉しい。料理人だった父。生前教わった数々のことが、私を助けてくれている。 それにしても、あのとき、アキさんに引き止めてもらってよかった。あの場から逃げ出していたら、またお嬢様を傷つけるところだった。 アキさんにはそれだけではなく、「狂言恋人」のときも助けられている。まさか、公式二股なんて解決法があったなんて。 アキさんがいなければ、私はお嬢様を、どれだけ深く傷つけていたことか。 彼女には、感謝しかない。「今日は、どれだけゆっくりできるの?」「終バスが早いから、あまりゆっくりできないかな。夕ご飯まで食べている時間、ないと思う」「そう……残念ね」 項垂れる母。「ごめんね。お昼の肉じゃが、とても美味しかったよ」「ふふ、サンマの次に、ミドリの大好物ですもんね」「時間まで、たくさん話しましょ」 父との、思い出話や、今後について話に花を咲かせる私たち。 大学に、行きたかった。それは、偽らざる本音。でも、進学を諦めたおかげでお嬢様に出会えたのは、運命というものだろう。 それに、私には本がある。本でも、知識を蓄えることはできる。「あ、そろそろ行かなきゃ」「寂しくなるわね」「また、ちょくちょく帰ってくるから」 バス停まで、見送ってくれる母。乗車すると、
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十六話 閑話休題・三

「鍵盤を見ていただければ分かる通り、ファには#がありません。ですので、右上に黒鍵のない、ファから三つ左がドなのだと覚えると、楽ですよ」 今日は、完全な素人さんが、体験入学してきました。 なので、基本的な鍵盤の使い方から教えているわけです。「では、ドの音に合わせて『ドー』と言ってみましょう」「ドー」 よく響く声を出す彼女。「もう少し下ですね。もう一度」「ドー」「いいですね。少し良くなってます」 こんな感じで、マン・ツー・マンがうちの特徴。 一人五十分の授業を、入れ替わり、立ち代わりやってもらうわけです。 これが、なかなか体力勝負で。わたしは、基本的に座れないからね。 こうして、新人さんの授業が終了。 お疲れ様でしたと挨拶し合い、喉が枯れないように、水分補給。「先生、こんにちは」 ニコニコ笑顔で、関口さんがいらっしゃった。休む間もないね。 関口さんは、ややご年配の女性。「こんにちは。では、前回の続きから。私がガイドしますから、『エリーゼのために』を、指で追ってきてください」「はい」 お隣にお邪魔し、鍵盤を叩く。関口さんは、筋がいい。何より、楽しそうに弾いてくれるのがとてもいい。 生徒さんによってまちまちだけど、やはり皆さん楽しんでくれるのが嬉しい。わたしは、少なくとも楽しんで授業を受けられるように、気を配っているつもりだ。 もちろん、水が合わなかったとか、授業料を払い続けるのが困難になった、などの理由で辞める生徒さんもいるけれど、それは不幸なことだったと、半ば慰めるように、諦めている。「関口さん。ピアノをなさる動機って何ですか? 素朴な疑問なんですけど」「ある人がね、六十になってピアノを始めようとしたとき、『六十にもなって、今更……』と諦めてしまったんですって。でもね、九十の誕生日を迎えたとき、『六十でピアノを始めてたら、三十年もピアノができたのに!』ってすごく後悔したんですって」 ひと息挟む、関口さん。「それ聞いたらね、私、居ても立ってもいられなくなって、クチコミのいいここに、入学を決めたの。講師が、葵先生みたいな素敵な方で良かったわ」「いえいえ。関口さんの筋がいいんですよ。本当に、教えがいがありますもの」 おしゃべりは、ここまで。レッスンに戻る。 すごくやりがいのある仕事だな。 そして、皆さんと交流してるう
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十七話 決意

「二人に、聞いてほしいことがあるんです」 朝、まかないを食べてる私たち三人。ハルちゃんはお弁当係、私が明太サラダスパを作り、ミドリさんはミネストローネと、役割分担。お弁当はサンドイッチで、具は開けてのお楽しみだそうで、わくわく。「わたし、作曲してみようかな、って」「いいじゃない! ハルちゃんの楽才ならいけるよ!」「私も、同様に存じます」 二人で背中を押す。「うち、ピアノ教室ですから、コンテストのパンフとかよく来るんですけど、これは! と思ったのが、作詞の必要なものでして」「いいんじゃない? うんうん」「それがその……わたし、詩才には、からっきし自信がないんです」 あらま、意外。「そこまで?」「はい」 ミドリさんのほうに目をやると、頷いて肯定する。あちゃー。「なので、お二人に、歌詞を考えていただこうかと思ってまして」「うーん、私はかまわないけど、ミドリさんは?」「それでしたら、私より適任者がいますよ。あとで、話をしてみます」 ほほう? 適任者とな? どなたでしょ? 謎を含みつつ、朝ごはんを終えるのでした。 ◆ ◆ ◆ うふふ~。ハルちゃんの愛情弁当~。ぱかっ。 ツナきゅうりサンド、たまごサンド、ハムチーズレタスサンド、BLTサンドを各種クロワッサンで! 美味しそ~。「おおう、今日は豪華弁当じゃないのか~」 また、高級弁当のお相伴に与ろうとしていたであろう同僚が、ちょっと残念そうに言う。素直ですねえ。「私にとっては、豪華弁当ですよん。愛する人の手料理だもん。いっただっきまーす!」「え!? 愛する人って、マ? 誰々?」「ヒミツー」 ぱくっ! ツナきゅうりおいし~!「美味しそうに食べるなあ」「美味しいですし~」 ハルちゃんとあんな出会いをした私が、よくぞここまでバカップルの片割れに成長したものです。そして、自分の性指向を知る切っ掛けにもなって。自分がレズビアンだとは、お付き合いするまで思ってもみなかったよ。 そういえば、パートナーシップ制度って「重婚」OKなのかな? 今度調べてみよう。 ふう。ごちそうさまでした。ハルちゃん、美味しいお弁当をありがとう~! ◆ ◆ ◆「ただいまー。ハルちゃんは?」 今日も一日、よく働きましたよっと。出くわしたメイドさんに尋ねる。「ご
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十八話 粋な計らい

「お父様、わたし、作曲の賞に応募してみようと思うんです」「おお、そうかそうか。お前も頑張ってるのだな」 万年筆を右手に持ち、自室でハルちゃんの報告を聞く吾文さん。リハビリのため、文字を書く練習をしていたらしい。何十字もの「あ」や「い」で埋め尽くされた紙が見える。 かつての彼はそこにはおらず、娘同様努力する、人当たりのいい、おじ様がそこにいた。「それで、お父様にも試聴していただきたくて……。音楽、かけてもいいでしょうか?」「いいとも。聞かせてくれ」 ハルちゃんが、ファイルを再生しながらスマホの音量を調節する。「……いい曲だ。これだけで応募できるんじゃないか?」「いえ、作詞も必要で……。わたし、作詞はからっきしなので、ミドリさんのご友人のご助力を、いただいているんです」「ほお……」 筆を止めず、同時に話を聞くという器用なことをしながら、感心する彼。「そういえば、奥様のお姿が見えませんね」 いつもなら麗さんのいる席で主人の世話をしている辻さんを見て、ミドリさんが素朴な疑問を口にする。「今日は、一日羽根を伸ばしてもらっている。オレの世話で、ずっと苦労させっぱなしだったからな」 吾文さん、ほんとに丸くなって……。「そういえば、ハルも紅さんも、皆に混じってまかないを作ってるんだったかな?」「はい。わたし……こういう言い方は失礼ですけど、アキさんと共同生活して、世間様の暮らしを体験しました。それで、わたしもぬるま湯に浸かっていてはいけないと思うようになったんです。もっとも、衣と住に関しては、贅沢させていただいてますけども……」 とはいえハルちゃん、オフの日は率先してメイドさんたちの仕事を手伝っている、パワフルさんだ。「ならば、食も遠慮せず、食べなさい。その、夏野には他の使用人の手前、それはさせられないが」 つ、と、頷いて肯定するミドリさん。「それが嫌なんです。私にとってミドリさんの手料理は……こういう言い方よくないですけど、母の味ですし、彼女と同じものを食べたいんです」「ふむ……」 吾文さん、筆を一旦置き、左手で顎を撫でながら、思案する。「なら、慰労会を開こう。屋敷の者、全員参加のパーティーだ。そこでなら、夏野も遠慮は必要あるまい」「よろしいのですか!?」 びっくりミドリさん。「いいともいいとも。考えてみれば、がむ
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第二十九話 一日メイド

 こんこん、がちゃ。ハルちゃんの部屋……。いない。 ピアノ室かな? てくてく……こんこん、がちゃ。ビンゴ!「ハールーちゃん。競馬見ーましょ」「すみません、おねーさん。今、取り込み中で」 スマホからも、ユキさんの声が聞こえる。作曲中か……。 ハルちゃん、曲自体もあれからブラッシュアップするとのことで、ピアノ室にこもることが多くなっている。 ミドリさんは仕事中でしょ。だからって、休日まで同僚とつるみたくないしなあ。 私にも、楽才なり詩才なりあったらな。ハルちゃんとユキさんの間に混じれるのに。 ただ食客やってるのもあれだし、今日は皆さんのお手伝いでもしますか!「ミドリさーん」 とりあえず、取っ掛かりとしてミドリさんを捕まえ、呼び止める。「はい、なんでしょうか」「私、暇を持て余してまして。で、ただ食客やってるのもアレだし、お手伝いしようかなあ、なんて」「ありがたいお話ですが、私の一存では決めかねますので……メイド長に、話を取り付けましょう」 というわけで、メイドさんたちが、わらわらとたむろしてお掃除している、エントランスへ。「……というわけなのですが」「なるほど、ありがたいことです。でもその格好では……余ってるメイド服、召されてみますか?」 おお! リアルメイド服! まさか袖を通す機会が訪れるとは。「はい、ぜひ!」 そんなわけで、更衣室へ。おお、これがメイド服! 何かワクワクするな!「おまたせしました」 着替えて、しゃらららん。「ではさっそく、拭き掃除をお願いします」 と、水入りバケツと雑巾をメイド長から手渡されました。 おっほう! さっすがメイド長! 着替えたてホヤホヤのボランティアにも、容赦なしですね! 彼女が、葵家の秩序を守っているのだなあ。「あの、メイド長さん」「長野と呼んでください」 おさの、おさの……あれ?「ひょっとして、シェフ長の……」「はい、彼は夫です。それで、ご質問は?」「あ、はい。ええと、どのあたりを中心に拭けばいいですか?」 メイドさんたちがめいめい動いているので、文字通りどこまでクリアされてるか、わからないのだ。「でしたら……」 と、結構な広範囲を指定される。うっひゃ~! でも、自分で言いだしたことだもんね! やるぞー! ◆ ◆ ◆「みなさん、休憩にしま
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第三十話 たまには

 どうも、最近オフは、やることがなくていけない。お掃除もお洗濯も、メイドさんたちがやってくれるしなあ。かといって、またメイドイン私……逆か。ま、それはちょっと辛いと理解できた。 というわけで、競馬中継など見ていたわけだけど、スターランサーが有馬で怪我し、療養中になってしまった。予後不良とかじゃなくてまだよかったけど、寂しいな。 もう一頭の推し、マリアージュベーゼも、パッとしない戦績が続いている。さっきも、六着に終わったところだ。高松宮では、ビシッと決めてほしいけどなー。 なんとも、気が沈みますなあ。 なんか、今日は視聴気分じゃないや。そういや、今日ミドリさんオフだっけ。たまには、ハルちゃん抜きでミドリさんと絡んでみようかな?「ス~マ~ホ~!」 某猫型ロボットの物真似をしながら、コール。「はい? どうされました?」「いやー、手持ち無沙汰だし、メイドさんのお手伝いは、私には無理だと悟ったんで、たまにはミドリさんと、なにかしようかと」 首筋をもみながら、提案する。テレビばっか見てたら、首凝っちゃったよ。「そうですね……読書も、目が疲れましたので、小休止中でして。構いませんよ」「じゃあ、とりあえず、私の部屋で」「かしこまりました」 冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲んでると、ノックとともに「私です」と、ミドリさんの声が。「いらっしゃ~い。入って、入って!」「お邪魔します」 彼女が入ってくる。「さーて、ミドリさん。呑みましょうか!」「ええ!? 唐突ですね? というか、屋敷のお酒を勝手に開けるわけには……」 高級酒ばかりですもんね。「ノンノン。私の私物~。自分用に、こつこつ買い溜めてるんですよ」 と、クラフトビールを二缶出す。「おつまみも、ありますよ~。いきましょうよ!」 乾き物を、色々取り出す。「そうですね、久しぶりにこういうのも、悪くないかもしれません。お嬢様がいらっしゃらないのが、残念ですが」「一時間ぐらい前、ピアノ室覗いてみたら、ユキさんとかなりガチな話してましたよ。邪魔しないほうが、いいかもしれませんね」「左様ですね。では、二人で呑みましょう」 「そうこなくっちゃ!」と、ビールグラスを出し、慣れた手付きで注ぐ。美味しさを引き立てる白い泡が、シュワッと膨らむ。「乾杯!」 グラスを打ち鳴らし、ごくごく。
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