Todos los capítulos de 迷宮都市の葬儀人: Capítulo 31 - Capítulo 40

50 Capítulos

第31話 作戦開始

 メイズ市外。 人間とスケルトンとの戦いはさらに混迷を深めていた。 まず左翼を担当する冒険者による軍。こちらは完全に防戦に徹しており、馬防柵を防衛ラインと決めてそこから打って出ることはない。その甲斐あって戦線を維持できてはいるが、それだけだ。徐々に負傷者も増え、疲労も溜まっている。決壊は時間の問題だろう。 中央。神官戦士団は防柵を放棄して突出していた。このままではジリ貧で削りきられると判断し、攻勢に打って出たのだ。スケルトンの大群を操っている死霊術師を討ち取ることが目的だ。作戦の狙いはサイラスの考えと同じものだったが、正面からそれを実行しようとしている点が大きく異なる。<戦の歌>の奇跡により士気は保たれており、不死者に有効な聖別された武器も揃えている。スケルトンを次々に蹴散らしているが、突撃の勢いは少しずつ衰えていた。敵中を無理やり貫こうとしているのだ。いかに精強を誇る神官戦士団と言えど、傷や疲労と無縁ではないのだ。 そして右翼。領兵軍の戦線はほとんど崩壊していた。防柵はすでに破られ、残骸を踏み越えて白骨の群れが進む。領兵たちもよく戦ってはいるが、戦列が完全に崩れてしまったため、応戦は散発的なものとなってしまっていた。ひとり、またひとりと倒れていく。 デュラハンの右手が上がった。人間の背骨から作られた鞭が領兵軍の方を指す。デュラハンの周囲を固めていた予備兵力がそちらへ向かって殺到する。領兵軍を崩せば回り込んで神官戦士団の背後を突くことも、城壁の攻略にかかることも可能だ。ここが勝機と見て、一気に決着をつけようと考えたのだろう。「ようやくチャンスだな」 伏せていたサイラスがつぶやく。デュラハンの周辺の囲みが明らかに薄くなり、その姿が目視できるようになっていた。「仕掛けますか?」「ああ、頼む。派手にやってくれ」 オドゥオールは立ち上がり、古代語の詠唱を開始した。長杖に青白い電光が絡みつく。幾重にも、幾重にも、蛇の群れの如く。明滅する電光に気がついたのか、デュラハンが上半身をこちらに向けた。「<大渦雷>!」 それと同時に、オドゥオールの手から雷球が放たれる。バチバチと空気を焦がしながらデュラハンに向かって直進する。あわや直撃か。その寸前でデュラハンの鞭がうなり、手近なスケルトンを捕えて雷球に向かって投げつけた。 閃光。轟音。大
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第32話 戦車

 白骨の巨馬が迫る。 戦場の土を蹴立てて、進路上のスケルトンを蹄で容易く踏み潰し、地響きを戦塵を引き連れてサイラスに迫る。「いやいや、間近に見るとデカすぎんだろ」 戦車を引く2頭の骨の馬は、サイラスの倍以上の体高だった。その蹄にかかれば、サイラスは為す術もなく地面の染みに変わるだろう。「ま、もちろん素直に潰されるつもりはないがな!」 轟音。爆風。巨馬の頭蓋が爆炎に包まれる。サイラスが放った火霊石が炸裂したのだ。だが、地響きは収まらない。爆煙を割って巨馬の頭蓋が姿を現す。その白い頭骨にはひび割れひとつ入っていない。「こういうのは足を潰すのが鉄則なんだがねえ」 続いて脚に向かって手斧が放たれるが、それも乾いた金属音を立ててあっさりと弾かれた。「とても無理そうだな」 投擲用の手斧を投げたゴゴロガだ。普通のスケルトンであれば一撃で砕けるだけの威力があるが、かすり傷ひとつつけられていない。「のんびりおしゃべりしてる暇はなさそうだ」「そのようだッ!」 二人は左右に分かれて横っ飛びする。そのあとを地響きを立てて戦車が通り過ぎていく。二輪のそれの轍は深く、まるで大地を引き裂いているようだった。戦車の左右には肋骨を思わせる棘が無数に生えており、触れればたちまち引き裂かれてしまうだろうことが容易く想像できる。 車上でデュラハンが鞭を振るう。通り過ぎた戦車は進路を変え、無数のスケルトンを轢き潰しながら旋回する。骨片を巻き上げながら進むその先にはサイラスがいた。「ひとまず標的は俺ってわけね。光栄なこって」 サイラスは右に左に転げ回って戦車の突撃を躱す。隙を見ては火霊石を投げつけるが、骨馬はもちろん、デュラハンや戦車自体にも傷一つ付けられなかった。「いくらなんでもずるいだろ、それは」 サイラスは悪態を付きながら、足元に転がっていたスケルトン兵の馬上槍を拾い上げる。穂先に聖水を振りかけ即席の聖別を行う。そして突進してくる戦車へと真っ直ぐに構えを取った。「槍術なんて神学校以来なんだがね」 槍の石突を地面に突き刺し、穂先を戦車に向ける。両足を踏ん張り、歯を食いしばる。地響きが迫る。足裏にまで振動を感じる。音もなく嘶く白骨の馬が視界を埋める。「少しは止まれやぁぁぁあああッッ!!」 穂先が馬の眉間に突き立つ。聖水が不死者の穢に反応し、白い煙を上げる。槍の柄が
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第33話 死線

 アイラを蹴り飛ばした骨馬は、転回して騎手不在のまま駆ける。アイラに向かってではなく、反対に向けてだ。そして百歩ほどの距離が開いたところで再び転回。前足で地面をかき、鼻を鳴らすかのように頭蓋を震わせる。 アイラは歯を食いしばり、震える膝に力を込めて立ち上がる。あの骨馬は助走をつけてとどめを刺すつもりなのだ。前脚の蹴り一発でこれだけのダメージを受けている。全速力の突撃を受けたらどうなるかは考えなくともわかる。 よろめきながら一歩一歩進む。倒れたサイラスから離れるためだ。固まっていてはもろともに轢き殺されてしまう。自分が囮になれば、サイラスは助かるかもしれない。 戦車が加速を開始する。目論見通り、進路はアイラに向かっていた。「させるかっ!」 戦車の横合いからゴゴロガが打ち掛かる。狙いは白骨馬の脚。大木を切り倒す樵のような勢いで、全霊の力を込めて戦斧を振るう。だが、ドワーフの剛力で振るわれた戦斧でさえ、白骨馬には傷一つつけられず弾き返される。 たたらを踏んだゴゴロガの脇腹を、車体横に生えた骨の刃が抉る。深手を負ったゴゴロガの身体が己の血の海に沈む。 ゴゴロガを一蹴した戦車はさらに加速。八つの巨大な蹄が大地を揺るがす。巨大な二輪が轍を引いて大地を引き裂く。大質量の砲弾と化してアイラに襲いかかる。 いまの自分にこれを避ける手段はない。アイラは覚悟を決める。せめて一矢報いる。サイラスやゴゴロガが生き残る可能性を紙一枚の薄さであろうが高めてみせる。「天地を統べる偉大なる陽神よ。冥府を統べる崇高なる陰神よ……」 聖句を口ずさみながら、傍らに落ちていたスケルトン兵の槍を拾う。石突を地面に突き立て、穂先を戦車に向ける。先程サイラスが行った戦術だ。戦車の、白骨馬の速力と質量を槍でそのまま跳ね返すのだ。この敵を傷つけられるとしたら、もはやこれ以外の手段はない。 迫りくる戦車が妙にゆっくりに感じる。思考が嫌に明晰になる。戦場の喧騒が遠くに聞こえる。前線はまだ持ち堪えられているのだろうか。横たわるサイラスが、ゴゴロガが視界の端に映る。どちらも重傷だ。なんとか生き残って欲しいと神に祈る。 ゆっくりと、ゆっくりと戦車が迫ってくる。当然、実際の速度が遅いわけはない。蹄は激しく土を巻き上げているし、引きつれる戦塵も激しい。最良の駿
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第34話 入院

 轟音。破砕音。重量物が大地を打つ音。 戦車が白骨馬と共に吹き飛ばされ、横転し、土埃を巻き上げながら何度も転がっていく。首無しの方は完全に粉砕され、一頭だけになる。なんとか体勢を立て直し、突如現れた黒衣の女に機首を向ける。 エンバーはアイラを見下ろし、サイラス、ゴゴロガの順に視線を移す。それから無言のまま戦車に向かって一歩ずつ歩いていく。背負った棺が土を抉り、地面に太い線を刻んでいく。 一頭立てとなった戦車がエンバーに突っ込む。二頭立ての時よりも速度は落ちているが、それでも尋常の馬車よりは遥かに速い。人間の力では到底止められるような勢いではない。 そう、人間の力であれば。 エンバーは無造作に左手を伸ばすと、棒立ちのまま戦車を迎え撃つ。鈍い衝撃音。戦車は鉄の壁にでも衝突したかのように停止し、車輪が浮き上がる。エンバーの白く細い左手が、白骨馬の額を掴んでいた。 エンバーの左手が無造作に振られる。戦車が弧を描いて地面に叩きつけられる。大地が震える。反対に向けてもう一度。さらに反対にもう一度。もう一度。もう一度。もう一度。 叩きつけられるたびに、肋骨が砕け、車軸が折れ、背骨が曲がり、車輪が外れ、四肢が散り散りになる。「黒鉄の蛇よ、飲み込め」 鎖が無数の蛇となり、戦車であったものを棺の中に取り込んでいく。真っ黒な闇が、白骨を次々に飲み込んでいく。最後の一片まで飲み込んで、棺の蓋が軋みを立てて閉じた。「炎よ、煉獄より来たれ」 蓋の僅かな隙間から、火蜥蜴の舌のように赤い炎が洩れる。小さな覗き窓の中が赤一色に染まる。 それと同時に、戦場を埋め尽くしていたスケルトンの群れが動きを止め、がらがらと崩れ落ちていく。一瞬の静寂。あちこちからばらばらと歓声が上がり、やがてそれは割れんばかりの勝鬨となって戦場を埋め尽くした。 * * *「ちょっと、サイラスさん。病室で煙草なんてやめてくださいよ。傷にも触りますよ」「うるせえなあ。吸わなきゃ調子が出ねえんだよ」「ゴゴロガさんからも何か……って、なんでお酒飲んでるんですか!?」「ドワーフの酒は百薬の長だ」 スケルトンの大群との戦いから3日後。アイラたち3人は教会が運営する治療院に入院していた。致命傷を負った3人を、エンバーがひとりで担いで運び込んだのだ。 城壁から様子を見ていたツバキによると「文
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第35話 見舞

 骸の王とエンバーとの関係について、正面から切り込もうとサイラスが決意したときだった。病室のドアが騒々しく開き、二人の女が入ってきた。「おーす! 元気に入院してっかー?」「どういう見舞いの挨拶だ。元気じゃねえから入院してんだよ」 ひとりはツバキだ。この斥候役を務めるハーフエルフの少女は、身軽さと目端が効くことを買われて教会の臨時雇いになっている。城壁外でしばしば放置される遺体の捜索を任されているのだ。 遺体ひとつにつき銀貨2枚で引き取る施策も続行しているが、それだけでは見落としが怖い。先日の戦で教会の人員も逼迫しており、サイラスの推薦でこの任務に当たってもらっている。「それで、お連れさんはどちらさんだ?」 もう一人はサイラスが知らない女だった。 すらりとした長身を白いワンピースで包み、銀色の長髪を結い上げている。薄く化粧をしているが、もともと抜けるほどの白い肌をしていることがひと目でわかる。長いまつげに縁取られた真珠色の瞳は茫洋としていて、どうにも感情が捉えがたい。見舞い品なのか、細い腕に何かを包んだ袋を提げている。「ちょっと、サイラスさん何を言ってるんですか。エンバーさんじゃないですか」「は?」「何?」 アイラの言葉に、サイラスとゴゴロガが揃って間抜けな声を出した。「ったく、野郎どもはホント節穴だね。女が化粧するとすぐにわかんなくなっちまうんだから」 ツバキがからからと笑うのに、サイラスとゴゴロガは「うっ」と呻いて俯いた。サイラスは長年女っ気のない暮らしをしているし、ゴゴロガは妻がするたまのお洒落を見落としてよく叱られている。要するに図星だったのだ。「いやー、本当におきれいですね! 服もお似合いです。エンバーさんもこういうの持ってたんですね!」「いや、あたしが買わせたんだよ。真っ黒な服で棺桶背負って菓子屋に並んでるからさあ。営業妨害だからやめろって。ついでに化粧もしたら王都の高級娼婦も裸足で逃げ出す別嬪さんの一丁出来上がりってわけさ」「しょ、娼婦って……」 ツバキの例えにアイラは思わず絶句し、顔を赤らめる。孤児のアイラは物心ついたときから教会で育ったため、そういう話に免疫がないのだ。「と、ところでお菓子屋さんって?」 アイラはエンバーが黙って突き出した袋を受け取り、中身を見る。「あ、この前エンバーさんが気に入ってくれたお菓
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第36話 骸の王の后

「どうしてエンバーさんが討伐されなきゃいけないんですか!」「それは何度も説明しただろうが」「納得できません!」「俺に言われてもなあ……」 アイラとサイラスは、道化師の残した研究所を再び訪れていた。内部にあった装置や魔導書はすべて教会に回収され、がらんどうになっている。そして、エンバーへの討伐令が下されたのは、回収された魔導書から或る一節が解読されたためだった。 ――偉大なる骸の王が創りしは己の后なり。永遠にして不死。永劫にして不滅。永久にして不変。■■■■■■■たる王は、千年の眠りと引き換えに其れを創りて目覚めを待つ。「骸の王の后だなんて言われたら、敵視されても仕方がねえだろ」「これがエンバーさんのことだなんて決まってないじゃないですか!」「だが、上層部はそうは思わなかった」 無論、サイラスも反論はした。 しかし、教会内の序列においてサイラスはせいぜい中の下と言ったところに過ぎず、発言力は弱い。サイラスの他にも討伐に反対する勢力はいたのだが、強硬派に押し切られてしまった。 メイズ市で生じた数々の異変。それらの災厄もエンバーが招き寄せたものに違いないと主張する者までいたのだ。「そんなのおかしいじゃないですか! スケルトンの大群をやっつけたのはエンバーさんじゃないですか!」「強硬派に言わせると、それは教会の信用を得るための自作自演らしいぞ。エンバーは教会の中枢に入り込み、反乱の機会を伺っているんだそうだ」「だったら行方をくらますなんておかしいじゃないですか!」「魔導書の解読で正体がバレるのを予見して逃げたんだそうだ」「そんなこと言ったらなんでもありじゃないですか……」 エンバーには二十数年にわたる実績がある。その中で、エンバーが自衛以外で生者を手に掛けたことは一度もない。本来なら魔導書の一節程度で討伐令が下されるはずなどなかったのだ。 だが、このタイミングでエンバーが所在不明になったのがまずかった。あの戦争でエンバーが見せた圧倒的な力に恐れを抱いてしまったのだ。それまでは書類上や噂でしかエンバーの実力を知らなかった者たちが、行方知れずのエンバーが牙を剥くことを警戒し、討伐派になってしまったのである。「そもそも、その本の内容って信用できるんですか? でたらめが書いてるかもしれないじゃないですか!」「使われている紙やイン
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第37話 屍喰い蝶

 汗みどろになってツルハシを振るうこと一刻あまり。研究室の石壁は硬く、ひと振りごとに耳かきでこそいだ程度しか削れなかったが、ようやく一筋の亀裂が刻まれた。「ふー、一刻かけてこれだけですか……」 アイラはツルハシを置き、手のひらに息を吹きかけた。日々の鍛錬で皮が厚くなっているが、さすがにツルハシを振るい続けた経験はない。慣れない作業に手のひらが熱を持ってじんじんと痛んでいた。「ま、罅さえ入ればなんとかなるだろ」 サイラスが粘土のようなものを取り出し、出来た亀裂に詰め込む。粘土は赤みがかっていて、何か混ぜものがしてあるのかところどころがきらきらと光っている。「何ですか、それ?」「細かく砕いた火霊石を粘土に混ぜたもんだ。よし、詰め終わった。離れててくれ」 アイラが十分に距離をおいたのを確かめて、サイラスは亀裂に向かって火霊石を投げつけた。火霊石が炎を伴って爆発し、粘土に誘爆。二度連続して轟音が響き渡った。「よし、思った通りだな。壁の向こうに空間があるぞ」 瓦礫を蹴飛ばしながら、サイラスは崩落した壁に近づいていく。ランタンを掲げて中を照らそうとしたときだった。「うおっ、なんだ!?」 暗闇から無数の何かが突風のように飛び出してきた。ひとつひとつの大きさは手のひらほどか。数え切れないほどのそれが不規則な軌道を描いて通り過ぎていく。サイラスは咄嗟に顔をかばって防御姿勢をとった。 離れていたアイラはサイラスよりも冷静に状況を見ることが出来ていた。素早い動きで一匹を捕え、まじまじと観察する。それは赤黒い羽根に髑髏状の斑紋がついた毒々しい色合いが特徴的な蝶だった。「屍喰い蝶ですね、これ」「屍喰い蝶がなんでこんなところに……って、考えるまでもねえか」 改めて部屋の中を見れば、人骨や腐乱死体が散乱している。 屍喰い蝶とは動物の死体に群がり、血や腐汁をすする習性を持つ低位の魔物だ。あの道化師はわざわざ餌を用意して、これを飼っていたのだろう。「これを使い魔にして連絡を取り合っていた……ってところですかね?」「虫を飼うのが趣味じゃなけりゃな」 部屋の中へと踏み込むと、強烈な異臭が鼻を刺す。口元を押さえながら内部を探ると、部屋の端に机があり、その上には紙片が散らばっている。「この机、人骨で出来てますね……」
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第38話 霧

 南の街道を外れ、道なき道を進んで5日が過ぎた。「わ、また川ですね……」「渡れる浅さでまだマシだったな」 糸を括り付けた屍喰い蝶の後を追いかけているのだが、その道程に人間への配慮など当然ない。獣道すらない深い草むらをかき分け、ちょっとした崖をよじ登り、そして今回のようにざぶざぶと川を渡ったりしてきた。「くそ、腰まで濡れちまったな」「さすがに水が冷たいですね……」 ようやく川を渡りきったところで、アイラから「くちゅん」とくしゃみが出る。サイラスもわずかに身体を震わせながら、ブーツを脱いで溜まった水を捨てていた。「風邪を引いたら洒落にならん。火を起こして服を乾かすぞ」「はい!」 幸い、川原には乾いた流木がいくつも転がっていた。薪にできそうなものを手分けして拾い集め、焚付用に枯れ草も回収する。石を積んで簡単な竈門を組み、火打ち石で着火した。ぱちぱちと爆ぜる火が濡れた身体を温める。「ついでだ。少し早いが晩飯にしちまおう」「今日はここで野営ですかね」「もう少し進んでおきたい気はするが……ま、服の乾き具合と相談だな」 川の水を鍋に汲み、焚き火にかける。干し肉や干し野菜を固めた保存食を放り込み即席のスープが出来上がった。先日、道化師の迷宮を探索中に食べたのと同じものだ。旅の準備は十分に整えたつもりだったが、糧食の残りも心許なくなってきていた。 アイラは出来上がったスープを一口すする。温かさが食道を通り抜け、腹の芯からぽかぽかしてくる。「はあ、生き返りますねえ」「だがさすがに飽きてきたな。ゴゴロガから調味料を分けてもらえばよかったか」 スープの味は塩ばかり強くて単調だった。道化師の迷宮では酒場の主人でもあるゴゴロガが味を整えてくれたので絶品に仕上がっていたが、アイラにもサイラスにもそんな料理の心得はない。 食事を終える頃には辺りはすっかり暗くなっていた。南東の山脈に近づいたせいで日没が早いのだ。ほのかな橙と紫のグラデーションとなった空に、山々のシルエットが浮かび上がる。ぎざぎざと尖った山並みは猛獣の牙を連想させた。「ちっ、霧が出てきたか」「せっかく服が乾きかけたのに……」 どこからか立ち込めてきた霧が二人の身体を湿らせる。湿気で焚き火の勢いも弱まっていた。薪を追加しながら、焚き火の周りに残りの薪を積んでいく。薪を湿らせないためだ
last updateÚltima actualización : 2026-07-13
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第39話 老人

 手を伸ばせば指先が見えなくなるほどの濃密な霧の中を、老人の背中を追って泳ぐように歩く。草むらはやがて森に変わった。一歩進むたびに、霧で湿った木々の葉から雫が滴り、ぽたぽたと音を立てた。 やがて細い道に出る。道と言っても整備されたものではない。人の往来によって自然に出来たものだろう。下草が踏み均され、邪魔になる枝が払われただけの道だった。「霧の中、歩かせてすまんですのう。村はもう少しですじゃ」 老人の言う通り、すぐに拓けた場所に出た。霧の向こうに人の営みを知らせる灯火が点々と灯っている。濃い霧を透けた弱々しい月光に、麦藁で葺かれた家々の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。表に人気はないが、ひそひそと話し声のようなものが聞こえた。 村には濃い獣臭が充満していた。灯りに獣脂を使っているのか、解体した血や内臓の臭いか。あるいはその両方かもしれない。 老人が一軒の小屋の前で立ち止まり、引き戸を開ける。ストーブが一台置かれ、その横に薪が積んであるだけの簡素な小屋だった。「ここを使ってくれなされ。あとで食事も届けますので」「お心遣い感謝します。これは些少ですが」「おお、こんなに。これはあいすいませんで……」 サイラスは老人の手に銀貨を1枚握らせる。一泊の代金としては充分すぎるほどだ。「できれば、食料を分けてもらえませんか? まだ旅の途中でして」「干し肉でよければいくらでも。村を出る時にお渡ししましょう」 そう言うと、老人は二人を残して去っていった。「地獄に陰神の光ってやつですね」「地獄ってほどじゃないが、この霧を凌げるのはありがたいな」 霧は視界を遮り、身体を濡らす。マントの隙間からも入ってくるのである意味では雨よりも性質が悪い。サイラスはストーブに火を入れながら、ついでにパイプに火をつけた。「くそ、煙草もすっかりしけってやがる」「禁煙しろって陽神のお導きじゃないですか?」「主神様がそんな些事に関わるかよ」 ストーブに火がつくと小屋の中は柔らかい光で照らされた。他には家具や調度もない部屋だと思っていたが、部屋の隅に小さな祭壇のようなものがあることに気がつく。「なんですかね、これ。教会のものではなさそうですが……」 祭壇の中央には長方形の黒い箱が置かれ、それを囲んで木彫りの像が並べら
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第40話 濃霧

 翌日も霧は晴れなかった。 窓の木蓋を開いて外を覗くと、乳白色の霧に塗りつぶされている。陽光も散乱して弱々しく、太陽がどこにあるのかすらもわからない。「こりゃ参ったな」「日が高くなれば霧も消えるでしょうか」「わからん。あの爺さんに聞いてみよう」 衣服を整え、戸を開けて外に出る。数歩歩いたところでアイラは「きゃっ!?」と短い悲鳴を上げた。手を伸ばせば届くような距離に、老人の皺だらけの顔が突然浮かび上がったからだ。「おお、おお。驚かせてすまんですのう。この季節はいつもひどい霧でのう」「い、いえ。こちらこそ失礼しました」 アイラは慌てて頭を下げた。いくら霧が濃かったとはいえ、他人の顔を見て悲鳴を上げるのは非礼にもほどがあるだろう。そして顔を上げて、また悲鳴を上げそうになったのを慌てて飲み込む。老人の横に、何人もの別の顔が並んでいたからだ。「奥方をお探しだそうで」「奥方はどんなお人で」「奥方の服装は」「奥方の歳の頃は」 別の顔が、一斉に口を開く。どの顔も満面の笑みで、その口には黄色く汚れた歯が覗いていた。「これこれ、皆の衆。そんないっぺんに聞いたら旅の方もお困りじゃろうて。ああ、あいすみません。旅の方が奥方を探していなさると話したもんだら、皆直接話がしたいと言いよるもんで。いやあ、田舎者でお恥ずかしい。旅の方など珍しいもんで」「あ、ああ、いや、ご親切痛み入ります」 若干気圧されながら、サイラスはエンバーの特徴について端的に説明する。棺を背負った女というだけで充分だと思うのだが、村人たちは根掘り葉掘り聞いてくる。 だが、いくら説明してもエンバーの目撃情報は出てこない。これ以上は時間の無駄だと判断し、話を切り上げることにする。「すまないが、先を急いでいるんだ。どうやら妻はこの村を通らなかったらしい。また別を探すよ」「この霧では迷いなさろう。わしでもこの霧が出たら猟は控えているくらいで」「危なそうなら引き返してくるよ」 まだまだ話し足りなそうな村人を振り切り、サイラスはアイラを連れて村の外に出た。来たときとは反対側の道だ。しばらく進んで人の気配がなくなったところで、屍喰い蝶を籠から取り出した。「この霧でも飛べるんですかね?」「ダメなら引き返すしかないが……大丈夫そうだな」 屍喰い蝶は霧をかき回しながら飛ぶ。こころなしかこれまでより
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