LOGIN「どこへ行くんだ?」千暁は咲夜の耳元に顔を寄せ、エンジン音に負けないよう声を張り上げた。こんな深夜に、本当にただのツーリングに付き合わされているとは思えない。咲夜も負けじと大声で返す。「ストレス発散!」その答えを聞いた千暁は、それ以上何も聞かなかった。ただ咲夜に身を任せ、夜の街を駆け抜けていく。やがてバイクは一本の裏路地で停止した。咲夜はヘルメットを外し、風で乱れた長い髪をかき上げる。「着いたよ」千暁もバイクから降り、ヘルメットを後部座席に置いた。周囲を見回すが、ここがどこなのかまるで分からない。路地を照らしているのは薄暗い街灯だけ。辺りは陰気な空気に包まれ、鼻をつく生ゴミの臭いまで漂っている。遠くからは音楽も聞こえてくる。どうやらどこかのナイトクラブかバーの裏手らしい。咲夜はバイクにもたれながら、ほどけた髪を手早く高い位置でポニーテールにまとめた。そして千暁のもとに歩み寄ると、自然な仕草で彼の手を取る。「こっち」と言って、そのまま暗闇の奥へと進み始めた。千暁は繋がれた手を見下ろし、思わず口元を緩める。何も言わず、その後をついていく。二人の姿は夜の闇へと溶け込んでいった。しばらく歩いたところで、咲夜はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送信する。千暁は横目でスマートフォンの画面を覗いた。そこに表示されていたメッセージは、たった【着いた】一言だけだった。送信後、咲夜はスマホをポケットにしまう。何を企んでいるのか分からない。だが千暁は黙って彼女の隣に立っていた。しばらくすると、静寂を破るように――ガシャン!鉄扉の開く重い音が響いた。続いて、一人の男がふらふらと外に出てくる。酔っているのか、足元はおぼつかない。その姿を見た千暁は目を細めた。――おや。晴南じゃないか。反射的に咲夜に視線を向ける。まさか、彼女は晴南のためにここまで来たのか?そう思った瞬間、胸の奥に嫌な感情がむくむくと湧き上がる。晴南はかなり飲んでいるらしい。前かがみになりながら壁に手をつき、今にも吐きそうな様子でえずいている。千暁が勝手に嫉妬しているその時だった。いつの間に用意していたのか。咲夜の手には大きな麻袋が握られていた。そして彼女は晴南の
メッセージを見た咲夜は、スマートフォンを手にしたままウォークインクローゼットに向かった。外出に適したスポーツウェアに着替えると、そっと部屋のドアを開ける。家の中は静まり返っていた。詩乃も瞳も、すでに眠っているのだろう。咲夜は足音を忍ばせながら階段を下りた。少しでも物音を立てて、二人を起こしてしまわないように。ガレージに着くと、一台のカスタム仕様の黒いバイクの前で立ち止まる。ヘルメットを被り、乗り込もうとしたその時――「こんな時間に、どこに行くんだ?」突然聞こえた声に、咲夜の心臓が跳ねた。慌てて顔を上げると、いつの間に来たのか、そこには千暁がいた。咲夜のガレージは、ちょうど千暁の家と隣接している。よく見ると、彼の髪には数枚の落ち葉が引っかかっていた。咲夜は目を見開く。「……まさか、塀を乗り越えてきたの?」どう見ても、自宅側のフェンスを越え、こちらの敷地に入り込んだとしか思えない。天下の荻野家の御曹司が、深夜に隣家の塀をよじ登るなど。そんな話が広まれば、イメージに関わるどころの騒ぎではない。それ以上に、千暁がそんならしくない行動を取ったこと自体が信じられなかった。図星を突かれた千暁は一瞬表情を強張らせる。「ち、違う。ちゃんと正面から来たんだ」咳払いをしながら反論した。何があっても、塀を越えてきたなど認めるわけにはいかない。千暁はずっと、咲夜からの返信を待っていた。だが、いつまで経っても返事は来ない。瞳から、咲夜たちが夕食を済ませて無事帰宅したと聞き、仕事を片付けた彼も家に戻ってきた。彼の主寝室のバルコニーは、ちょうど咲夜の寝室側を向いている。二棟の屋敷の間にはそれなりの距離があるものの、その気になれば向こうの様子をある程度確認できた。咲夜は寝る直前まで厚手のカーテンを閉めない。時折、窓辺を通る彼女の影がカーテン越しに映ることもある。だから千暁は、ずっと咲夜の様子を気にかけていた。そしてガレージの灯りが点いたのを見た瞬間、こんな深夜に出かけるつもりだと察した。正面から回っていては間に合わない。そう判断した結果が、塀越えだった。咲夜が車ではなくバイクに乗ろうとしているのを見て、千暁はついに声を上げた。彼女がバイクに乗ることは知っている。だが
瞳は今日、本来そのことを咲夜に話すつもりだったのだ。危うく忘れるところだった。それを聞いた咲夜の顔にぱっと笑みが広がる。「瞳って本当に私の福の神だね!」こちらから送った友だち追加は完全に音沙汰なしで、相手は見向きもしない状態だった。もともと咲夜は、今は詩乃もチームを率いて会社に加わったことだし、「千野千鶴」が見つからなければ、ひとまず保留にしてもいいと考えていた。以前は焦っていた。ファッションショーの開催が目前に迫っているにもかかわらず、手元にはデザイン画すらなかったのだから。特に、ショーのトリを飾る目玉作品についてはなおさらだ。詩乃の加入によって、その差し迫った問題はひとまず解決された。それでも咲夜は、もう一度「千野千鶴」を探してみたいと思っていた。もし彼が花江グループに加わってくれるなら、それに越したことはない。今の会社には新しい風が必要だった。瞳は気にした様子もなく手をひらひらと振る。「そんなに好きにならなくていいって。大したことじゃないし。じゃあ、早く休んでね」そう言って咲夜に早めの就寝を促すと、そのまま二階の部屋に戻っていった。軽やかに跳ねるような足取りで去っていく瞳の背中を見送りながら、咲夜は思わず苦笑する。本当に、あの子は感情の切り替えが早い。咲夜はスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。そこには大量の友だち追加通知が並んでいる。すべて琉安からだった。今夜の彼はどうかしてしまったかのように、執拗に瞳を探しているようだった。メッセージは送れず、電話もつながらない。その時点で、琉安は自分が瞳にブロックされたことに気づいた。仕方なく、咲夜の連絡先を探し出した。瞳と咲夜の仲が良いことは知っていたからだ。だがまさか、咲夜にも電話番号をブロックされていたとは。その時、新しい友だち追加通知が届く。【花江さん、どうか友だち追加申請を承認してください。瞳と連絡が取れなくて、本当に心配なんです。お願いです、承認してください】その内容を一瞥した咲夜は、そのまま画面を閉じた。琉安が瞳に何の用があるのか、興味はない。だが、彼のやり方には強い嫌悪感を覚えていた。両家からの圧力に耐えられず別れを切り出したのは彼の方だった。それなのに今もなお、友人と
夕食を終えたあと、咲夜は詩乃と瞳を連れて月見台に戻った。三人はリビングに集まり、のんびりとおしゃべりを楽しむ。和やかな空気が流れていた。詩乃は体調のこともあり、いつもの時間になると先に部屋に戻って休むことにした。その後、瞳は咲夜の肩にもたれかかりながら、咲夜の手を取って爪をいじっていた。瞳は気持ちが落ち着かない時、つい爪をいじる癖がある。長年の付き合いである咲夜は、すっかり慣れていた。「そういえば」瞳がぽつりと口を開く。「ここ数日バタバタしてて聞きそびれてたんだけど、会社のほうはどう?」咲夜は答えた。「まあ、なんとかなってるかな」その言葉に、瞳はようやく安堵の表情を浮かべる。「ならよかった。私、明日の昼から数日間出張なの。ちょっと心配だったけど、詩乃さんがいてくれるなら安心かな。最悪、兄にも見張らせればいいし」実のところ、瞳には最近ひとつの願望があった。――咲夜がお義姉ちゃんになってくれたら最高なのに。そう思うようになってからは、ただ願うだけでは足りない気がしていた。ならば行動あるのみだ。今後は全力で、親友と兄が一緒に過ごす機会を作ってやろう。長く接していれば情も湧く。もしかしたら、本当にお互いを好きになるかもしれない。もちろん、咲夜はそんな企みなど知る由もない。だが最後の一言を聞いた瞬間、妙に気まずくなった。脳裏に浮かぶのは千暁からの告白。思わず瞳と目を合わせられなくなる。少し考えたあと、咲夜は口を開いた。「ねえ、瞳。出張から帰ってきたら、一つ話したいことがあるの」いっそのこと、自分と千暁が入籍したことを打ち明けようか。そんな考えが頭をよぎる。瞳は首を傾げた。「今じゃダメなの?」咲夜は苦笑する。「まだ、どう説明したらいいか整理できてなくて」それは紛れもない本音だった。すると瞳は頬を膨らませる。「なにそれ。そんなに言いづらいこと?まさか『私、瞳のお兄さんと結婚しました』なんて報告じゃないんだから」咲夜の笑顔が一瞬引きつる。――実はその報告をしようとしていたのだ。「お望みどおり、本当にあなたのお義姉さんになったよ」と。心の中でそっと呟いた。その時、瞳のスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼女は、無言のまま電源を落とす。それから間もな
さらに、風一はすでにこう言い渡していた。もし晴南が咲夜から許しを得られなければ、地方の支社に異動させる、と。それは実質的な左遷だった。異動先として選ばれた地域は、まだ十分に開発も進んでいない場所だ。生活も仕事も不便極まりない。もちろん、咲夜もその話は知っている。最近の晴南は、静香や青音の問題への対応だけでなく、新規プロジェクトの獲得にも奔走していた。実績を作らなければならないのだ。会社の人間たちに、自分にはグループに貢献できる価値があると示すために。そうなれば、風一も簡単には自分を左遷できなくなる。晴南の事情など、咲夜はすべて把握していた。もっとも、晴南が狙っていた案件のいくつかについては、彼女が裏でかなり手を回していたのだが。その結果、晴南は今に至るまで一件たりとも契約をまとめられていない。あまりの不調ぶりに、自分の能力を疑い始めるほどだった。別れたからといって、咲夜は晴南を楽にしてやるつもりなどない。それどころか、千雪を通じて密かに通報までさせていた。晴南が経営するスタジオが、暗号資産を利用した違法取引に関与している疑いがある、と。晴南自身は完璧に隠しているつもりだった。だが実際には、その計画を思いついた時点で、咲夜はすでに察知していた。以前彼と付き合っていた時、咲夜は必死に彼を止め続けていたし、常に目を光らせて抜け道を与えなかった。だが、清治が咲夜の保有株を買い取ったあと、状況は変わった。晴南は清治を説得し、二人はすぐにその計画に着手した。もちろん、その動きも咲夜は千雪に監視させていた。おそらく晴南自身も想像していなかっただろう。計画を実行に移した瞬間から、自分が咲夜に監視されていたことなど。図星を突かれた晴南の顔色が変わる。確かに自分は後悔していた。洸のために咲夜を失ったことを。そして、咲夜を取り戻そうとも考えていた。だが、それは愛情ゆえではない。咲夜の機嫌を取り、許してもらわなければならないからだ。そうしなければ、あの老いぼれは本気で自分を森崎グループから追い出しかねない。晴南は内心で毒づいていた。――あの爺さん、本当にボケたんじゃないか。どうして会社の株式を咲夜なんかに渡そうとする?あれは本来、自分のもののはずだ。
三人がレストランに到着した頃には、ちょうど夕食時のピークを迎えていた。幸い、咲夜は事前に予約していたため、待たされることなく案内された。本来なら、美味しい料理で瞳の傷ついた心を少しでも癒やしてあげたいと、そう思って選んだ店だった。だが、食事も半ばに差しかかった頃、どうしても顔を合わせたくない人物が現れた。晴南は遠くから咲夜の姿を見つけた。今日は取引先との商談でこの店を訪れていた。同席していた取引先に一言断りを入れると、そのまま咲夜たちのテーブルに向かってくる。目の前に立った男を見た瞬間、咲夜は思った。――せっかくの料理がまずくなる。今日こんなことになると分かっていたら、出かける前に運勢でも確認しておくべきだった。晴南と向き合った途端、咲夜の表情はすっと冷え込んだ。彼に向ける笑顔など、一欠片も残っていない。その変化に、晴南も気づいていた。自分の姿を見た瞬間、咲夜の笑みが消え失せ、代わりに冷たい眼差しだけが残ったことに。胸の奥がちくりと痛む。彼はわずかに唇を開いた。「咲夜……食事か?」ここ数日、静香の件に加え、青音の問題も会社に大きな影響を及ぼしていた。その対応に追われ、晴南と英樹は休む暇もなく奔走している。あちこち駆け回っているというのに、状況は一向に好転しない。まるで誰かが意図的に邪魔をしているかのようだった。その考えが頭をよぎった瞬間、真っ先に咲夜の顔が浮かぶ。だが晴南はすぐにその可能性を打ち消した。咲夜にそんな力はない。彼はそう信じていた。何日も顔を合わせていなかったせいか、こうして再会した今、晴南は改めて気づく。――咲夜に会いたかった。どうして昔の自分は、咲夜の良さに気づかなかったのだろう。本当に見る目がなかった。後悔と自責の念が胸を締めつける。しかし咲夜は、彼に視線を向けることさえしなかった。無表情のまま食事を続ける。だが数口食べたところで箸が止まった。晴南の視線が鬱陶しかったからだ。咲夜が口を開くより先に、瞳が動いた。「ゴミはわざわざ存在感を出しに来なくていいの。見てるだけで気分悪いから」そう吐き捨てると、目の前の小皿を掴み、そのまま晴南に投げつける。ソースが彼の服に飛び散った。それでも晴南は気にも留めない。視
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は
「晴南さん、一人だと……少し怖いの」背後から、震える洸の声が追いかけてきた。晴南はすぐさま手を伸ばし、洸の手をしっかりと握り締めると、宥めるように優しく声をかけた。「どうした?慣れない環境で落ち着かないのか?」洸はただ、消え入りそうな様子で小さく頷いた。その痛々しい姿に、晴南の胸は締め付けられた。「俺がそばにいる。何も怖いことはないよ」「……ごめんなさい。私、あなたと咲夜さんの邪魔をしてしまったかしら」洸の視線が咲夜へと向けられる。それはまるで、今この瞬間に初めて彼女の存在を認識したかのような、白々しいまでの素振りだった。洸は緊張に声を震わせながら言葉を継いだ。
「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(お
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願い