LOGIN篤司の言葉を聞いた瞬間、由衣は信じられないものを見るように目を見開いた。 みるみるうちに顔から血の気が引き、傷ついたように唇を震わせる。まるで、自分こそが理不尽な言葉を浴びせられた被害者であるかのように。 しかし、篤司は眉一つ動かさなかった。 冷えた眼差しは少しも揺らぐことなく、由衣の芝居がかった反応にも、一切心を動かされる様子はない。「私は……ただ親切にしただけなのに……」「もういいよ、由衣。こんな相手にこれ以上話す必要ない」 周囲にいたスタッフの一人が口を挟む。 その言葉に、由衣はすぐさま柔らかな笑みを浮かべ直した。 篤司へ向ける眼差しだけは、先ほど紗月へ向けていたものと同じように冷え切っている。「もう結構です。善意で手を貸しただけなのに、そんなふうに言われるなんて……私がお節介だったみたいですね」 穏やかな笑みを崩さないまま口にしたその声は、奥歯を噛み締めるような冷たさを帯びていた。 そう言い残すと、由衣は周囲のスタッフたちを連れてその場を後にする。 数歩進んだところで、不意に足を止めた。 ゆっくりと振り返ると、その視線が意味ありげに紗月の下腹部へと落ちる。「紗月さん。次は気をつけたほうがいいよ」 そう言うと、由衣は意味ありげに喉の奥でくすりと笑った。「……ふふっ。いえ、何でもない」 その含み笑いだけを残し、由衣たちの姿は遠ざかっていった。 ようやく辺りが静かになると、篤司はわずかに眉を寄せ、紗月のもとへ歩み寄る。 余計なことは何も言わず、まずしゃがみ込んで腫れがさらにひどくなった足首を確認し、それから静かに立ち上がった。「朝倉さん。この状態では歩けませんよね。送ります」 そう言って差し出されたのは、先ほど飛ばされた紗月のスマートフォンだった。「……ありがとうございます」 受け取った瞬間、画面に大きなひびが入っていることに気づく。 あの勢いで地面へ叩きつけられたのだから、無事では済まなかったのだろう。 紗月は小さく礼を言いながらスマートフォンを胸元へ抱えた。 心臓はまだ激しく脈打っている。 無意識に片手を下腹部へ添えた。 もう疑いようがなかった。 由衣は何度も自分へ危害を加え、この子を流産させようとしている。 そう思った瞬間、全身が小刻みに震え始める。 今はもう、一刻も早くこの場所を離れたい。
まさか紗月が言い返してくるとは思ってもいなかった。 周囲にほとんどスタッフはいないとはいえ、由衣にとっては面子を潰されたも同然だった。 自分より下だと見下していた紗月に反論されるなど、これ以上ない屈辱だった。その怒りは、簡単には飲み込めそうになかった。「あんたっ――!」「綾瀬さん。私の今日の仕事はもう終わっています。汗を拭いてほしいのでしたら、ほかの方に頼んでください」 怒りが胸いっぱいに込み上げていたからこそ、紗月も珍しく一歩も引かなかった。 たとえこの子を無事に産めない未来が待っていたとしても、その命をどうするかを由衣のような人間に口出しされる筋合いはない。 ましてや、堕ろす薬などという言葉を平然と口にできる神経など、紗月には到底理解できなかった。 胸の奥で渦巻く怒りだけを支えに、紗月はその場を離れるように撮影スタジオの出口へ向かう。 しかし、ようやく建物の外へ出たところで、足首に鋭い痛みが走り、思わずその場で足を止めた。 視線を落とすと、腫れは朝よりもさらにひどくなっている。 それに気づいた途端、一歩踏み出すだけで先ほどまでとは比べものにならないほどの痛みが足首を貫き、前へ進むことも、引き返すこともできず、その場に立ち尽くしてしまった。 スタジオは人里離れた場所にあり、最寄り駅まで歩くだけでもかなりの距離がある。 今の足でそこまで歩けるとは、とても思えなかった。 紗月はスマートフォンを取り出し、タクシーを呼ぼうと配車アプリを開く。だが、画面に触れようとした、その瞬間――不意に背中へ強い衝撃が走った。「っ……!」 受け身を取る間もなく地面へ倒れ込み、手から離れたスマートフォンは勢いよく弾かれ、何度も地面を跳ねながら遠くまで転がっていく。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 次の瞬間、足首を貫く激痛が紗月の意識を現実へと引き戻す。 誰かが、足を踏みつけていた。 幸い、一番ひどく腫れている場所は外れていたものの、それでも息が詰まるほどの痛みが全身を駆け巡る。「きゃっ、ごめんなさぁい、紗月さん。外に立ってるなんて気づかなくて。大丈夫かぁ?」 わざとらしく甘ったるい由衣の声が頭上から降ってくる。 その直後、手首を誰かに乱暴に掴まれた。 容赦ない力でぐいっと引き上げられ、紗月は痛む足などお構いなしに無理やり立たされた
篤司は普段ほとんど笑わないのだろう。 ぎこちなく浮かべられたその笑みは、どこか不自然だった。 紗月には分かった。彼なりに親しみやすく接しようとして笑ってくれたのだと。けれど慣れていないせいか、表情はどこかぎこちなく、少しだけ引きつって見えた。「……ありがとうございます。書き間違えていないといいんですが」 紗月が小さく礼を言うと、篤司は資料を閉じながら静かに答えた。「間違っていても構いません。どうせ最後にもう一度確認しますから」 そう言って一拍置くと、何かを思い出したようにふと尋ねる。「……朝倉さん、今日はどうやって帰るんですか」「えっ?」「必要なら送ります。会社の車がありますから」おそらく現場用の車のことだろう。紗月は一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、慌てて両手を振った。「い、いえ! そこまでしていただくのは申し訳ないです」「大したことじゃありません」 篤司はいつもと変わらない淡々とした口調で続ける。「あとで必要になったら、遠慮なく声をかけてください」 それ以上は勧めなかった。 無理に気を遣わせることも、断られた相手との距離を縮めようとすることもない。ただ必要だと思ったから声をかけ、それで終わり――そんな一線の引き方が、いかにも篤司らしかった。「こっちも片付きましたので」 それだけを告げると、篤司は振り返ることなく解体チームの輪へ戻っていく。 戻った途端、仲間たちが何か面白そうに声を掛けていた。 距離があったため、紗月には何を話しているのかまでは聞き取れなかった。 それでも、篤司は最後までいつも通りの無表情で、短く受け答えをするだけだった。からかわれても表情ひとつ変えず、淡々と受け流すその落ち着きぶりは、やはり彼らしかった。 * 立ち上がった瞬間、それまで意識の隅へ追いやっていた足首の痛みが、鋭く存在を主張する。 腫れ上がった右足をかばいながら、紗月は左足へ体重を預け、一歩ずつ引きずるように撮影現場へ戻っていった。 今日の仕事が終わったことを、美咲へ報告するためだ。 しかし、美咲の姿はどこにも見当たらない。 代わりに、ちょうど一つのシーンを撮り終えた由衣が、その場に立っていた。 足を引きずりながら近づいてくる紗月の姿を認めると、由衣は口元をほんのわずかに歪めた。 その笑みは一瞬で消えたものの、目だけはじ
彼がそこまで率直に尋ねてくるとは思ってもみなかった紗月は、呆然と篤司を見つめた。 唇を開きかけるものの、結局何も言葉にすることができない。 当の篤司はまるで気にした様子もなく、本当に何気なく事実を確かめただけ、とでも言うような淡々とした表情を崩さなかった。 それ以上問い詰められることもなく、紗月は胸の奥でそっと安堵の息をつく。「今日はもう動かないほうがいいでしょう。足首も捻っていますし、かなり腫れています。一度病院で診てもらったほうがいい」 篤司は終始抑揚のない声音でそう告げた。 何事にも動じないような淡々とした雰囲気はどこか近寄りがたく、紗月は少しだけ怖さを覚える。 それでも、そのさりげない気遣いが胸に沁みて、ありがたくてたまらなかった。「ありがとうございます……篤司さん?」 篤司はちらりと紗月を見ただけで、呼び方については何も言わなかった。 ただ小さく頷くと、それ以上言葉を交わすこともなく、そのまま解体チームの作業へ戻っていった。 足が思うように動かせないままでも、紗月は何度か立ち上がって手伝おうとした。 しかし、そのたびにチームの誰かが気づき、慌てて制止する。「大丈夫ですよ、朝倉さん。うちは作業も早いですし、無理に手伝っていただかなくても平気ですから」 そう優しく声を掛けられても、何もせずに見ているだけでは、紗月はどうしても落ち着かなかった。 自分だけ何もせず座っているように思われるのが嫌だった。それでも椅子に座らされたままでは、本当に何もすることがない。 そんなふうに所在なくしていた、その時だった。「朝倉さん。視力はいいですか」 不意に篤司が隣へやって来て、相変わらず無表情のままそう尋ねた。「えっ? 視力……ですか? あ、はい……目はいいほうです」 篤司は小さく一つ頷いた。 何を考えているのか読み取れないまま、彼は近くの机へ向かい、一冊の記録表と一本のボールペンを持って戻ってくる。「篤司さん……?」「これは記録表です。確認した資材や備品を記録しておく人が必要なので、この一覧にある品目ごとに数量を書いてもらえれば十分です」 そう言いながら、午前中に取り外され、整然と並べられた木材や資材を指さした。「多少誤差があっても問題ありません。会社へ運び戻す時に、もう一度正式に数量を確認しますから」 特別な技術も知識
すべては一瞬の出来事だった。 幸いだったのは、紗月が立っていた場所が足場の縁ではなかったことだ。 とっさに身体をひねったことで、そのまま床へ倒れ込み、間一髪で足場の外へ投げ出されるのは免れた。 しかし、その代償は大きかった。 足首に鈍い痛みが走る。 まだ治りきっていなかった場所を、再び捻ってしまったのだろう。今度は前回とは比べものにならないほど痛みが強かった。激しい痛みに息が詰まりそうになる。 紗月はその場に身体を丸めるように倒れ込んだ。 それでも、両腕だけは無意識にお腹を守るよう抱き締めたまま、決して離そうとはしない。 あと少し。 あとほんの少し位置がずれていたら、そのまま足場から真っ逆さまに落ちていた。 痛みがあまりにも激しく、息をすることさえ苦しい。 額には汗が滲み、全身は強張ったまま一歩も動けなかった。 視界まで歪み、ぐらぐらと揺れている。 それでも、その視界の端には由衣の足元が映っていた。 彼女は安全な場所に立ったまま、一歩も動こうとしない。 ただ静かに、紗月が苦しむ姿を見下ろしていた。 やがて痛みがわずかに和らぎ、紗月はゆっくりと顔を上げる。 その視線の先で、由衣は口元をゆっくりと吊り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。 その瞳には、凍りつくような冷たい悪意が宿っていた。 紗月と目が合っても、由衣は視線を逸らそうとはしなかった。 その身には、狂気と冷静さが同居したような、ぞっとする空気が漂っている。 紗月の心は、一気に底へ沈んでいった。 由衣が、はっきりとそう口にしたからだ。「やっぱり、本当に妊娠してたんだ」 その口調には、一片の迷いもなかった。 つまり、たった今の行動は、紗月が本当に妊娠しているのかを確かめるためだけのものだったのだ。* 昼休みが終わると、由衣は何事もなかったかのように撮影現場へ戻っていった。 だが、彼女が去った後も、あの低く不気味な笑い声だけはいつまでも紗月の耳にこびりついて離れない。 全身から血の気が引き、震えはいつまで経っても止まらなかった。 ――もう、ここにはいられない。 紗月は本能的に、お腹の中の子だけは守らなければならないと思った。 そう思った瞬間、紗月ははっと息をのんだ。 妊娠を知ってからというもの、胸の中はずっと複雑な思いでいっぱいだった。どこか現実味
休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。 今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな