LOGIN慎一の言葉には、高瀬社長への遠慮など微塵もなかった。 それでも高瀬社長は気分を害した様子ひとつ見せず、慎一へ何度も頭を下げる。 その一方で、優介へ向ける眼差しだけは鋭く、あからさまな不快感が滲んでいた。 優介は思わず紗月の後ろへ身を寄せる。 すぐに気を取り直したように紗月を庇うよう一歩前へ出て、再び彼女の前へ立った。 その姿を目にした慎一は、嘲るように鼻を鳴らした。「優介。話があると言っていたのは、そこの女か」 高瀬社長の声は、優介へ向けられた途端に冷え切ったものへ変わった。紗月を見る目にも、隠そうともしない敵意が浮かんでいる。「高瀬社長、私は凛子の――」 紗月が一歩前へ出て名乗ろうとしたところで、高瀬社長が言葉を被せた。「凛子の友人だろう。君のことは知っている。高校時代の同級生だったな」 高瀬社長は紗月を見据えたまま、冷ややかに言葉を続ける。「俺が凛子の交友関係を放っておいたせいで、魂胆のある人間につけ入る隙を与えたらしい。もう帰りなさい。優介がどうしても一度会ってほしいと頼むから話くらいは聞いてやろうと思ったが、その必要はなかったようだ」 高瀬社長は不快そうに眉をひそめると、改めて紗月を頭の先から足元まで値踏みするように眺めた。 先ほど優介と寄り添うように立っていた姿を見て、二人の関係を勘違いしたのだろう。「君。うちの息子は世間知らずだ。取り入れば高瀬家へ嫁げるとでも思ったのかもしれないが、高瀬家は誰もが身の程知らずな夢を見られる家じゃない」 どうやら、高瀬社長は紗月と優介の関係を完全に誤解しているらしい。「違います。私と優介くんは――」 紗月が言葉を続けようとした声を、高瀬社長が遮る。 聞く耳を持つつもりはないのだろう。そのまま顔を上げ、秘書へ二人を追い返すよう命じようとした。 秘書が一歩前へ出る。「高瀬社長」 慎一が穏やかな声で口を開く。「娘さんの友人なんだろう。わざわざここまで来たんだ。それなりに事情はあるんじゃないか」「それは……朝倉社長のおっしゃるとおりですな」 慎一の一言で、高瀬社長はあっさり態度を改めた。 紗月へ顎をしゃくり、「話だけなら聞こう」* 秘書のあとについてオフィスへ向かう途中、紗月は嫌というほど思い知らされた。 慎一なら、本当に凛子を簡単に救うことができる。 たったひと言
優介は目に見えて焦っていた。紗月に頼まれると、すぐにスマートフォンを取り出し、父親へ電話をかける。 何度かけても途中で切られてしまう。それでも優介は諦めることなく、何度もリダイヤルを繰り返した。そして何度目かの着信で、ようやく電話がつながる。「……もしもし」 おずおずと受話口へ声をかける優介は、怯えた小動物のようだった。 普段の明るく屈託のない姿からは想像もつかないほど弱々しい。その様子に胸を締めつけられた紗月は、「代わる」と声をかけようと手を伸ばす。 だが、優介はスマートフォンを渡そうとはしなかった。紗月へ小さく笑みを向け、「ちょっと向こうで話してきます」とだけ告げると、そのまま客間へ駆け込んでいく。 きっと、実の父親に頭を下げ、必死に頼み込む姿を紗月には見せたくなかったのだろう。 リビングで待つ時間は、ひどく長く感じられた。 ようやく客間から出てきた優介は、どこか安堵したように笑った。「紗月姉さん! 父さん、今日なら会社で時間を作って会ってくれるって」「今日? ありがとう。すぐに支度するね」「僕も一緒に行きます!」 優介は迷うことなく後を追おうとする。 無理をしなくてもいいと言いかけた紗月だったが、彼の赤く腫れた目を見て、その言葉を飲み込んだ。 これは優介にとっても、大切な姉の人生が懸かった問題なのだ。「ええ。優介くん、一緒に行きましょう」 凛子の父親が経営する会社を訪れるのは、紗月にとって初めてだった。 上場企業とは聞いていたものの、社内の設備も雰囲気も、どこか寂れて見える。 社屋も建てられてから数十年は経っているような古い建物で、確かに資金に余裕があるようには思えなかった。 優介も、この会社へ来たことはほとんどないらしい。なぜか父親は、子どもたちが自分の仕事や会社に関わることをひどく嫌い、将来も会社を継がせるつもりはないのだという。 もっとも、凛子も優介もそれを気にしてはいなかった。 両親との関係がそれほど希薄だったからなのか、二人とも家業に対して何の執着も持っていないようだった。 受付は紗月たちの来訪理由を聞くと、訝しげな表情を浮かべながら、どこかへ確認の電話を入れた。その後、二人を三階の応接室へ案内する。 応接室の扉はガラス張りになっており、中からでも廊下の様子がよく見えた。この階にどの部署が入っている
紗月は大きく目を見開いた。慎一の口から告げられた言葉が信じられないというように、顔から血の気が引いていく。「あなた……本当に、あなたが……」 早出明と慎一に仕事上の繋がりがあると知ったとき、紗月も一度は、慎一が裏で糸を引いていたのではないかと疑った。 あまりにも出来すぎた偶然が重なり、そう考えずにはいられなかったのだ。 それでも、証拠は何一つなかった。だからこそ心のどこかでは、慎一だけは違っていてほしいと願っていた。 どんな理由があったとしても、こんなやり方はあまりにも卑劣だ。 かつて心から愛した男が、そこまで人の人生を弄ぶような人間だったとは信じたくなかった。 だが、その慎一自身がこの話を切り出したことで、最後の希望さえ音を立てて崩れていく。「あなたが仕組んだんでしょう……!? どうして、こんなことを……!」 紗月の詰問を受けても、慎一は認めようとはしなかった。 かといって、きっぱり否定することもない。 玄関の灯りを受けた瞳はどこまでも昏く、その口から紡がれる言葉も、弁明なのか、責任逃れなのか、紗月には判別できなかった。「早出社長は以前から、新しい妻にふさわしい女性を探していた。俺は候補を何人か挙げただけだ。その中でお前の友人に目を留めたのは、たまたま早出社長の好みに合ったからだろう。運がよかったと言うべきか、それとも不運だったと言うべきかは分からないが」 慎一はそう言って、口元だけをわずかに歪める。「嘘よ……! あなたが仕組んだくせに!」「紗月、事情がどうであれ、もう話は決まっている。俺は他人の縁談になど興味はない。それでも相手がお前の友人だから、手を貸してもいいと言っているんだ。ただし、結婚はあくまで他人の私事だ。俺が介入すれば、当然こちらにも損失が出る。それに見合う対価をお前が差し出せるのなら、その損失を俺が引き受けてもいい。ただそれだけの話だ」 慎一は完全に交渉人の顔になっていた。理路整然と並べられた言葉を前に、紗月は何一つ言い返せない。 二人はもう離婚していて、何の関係もない――そう繰り返してきたのは紗月自身だ。だからこそ、慎一に何かを求める資格など、自分にはない。 重苦しい沈黙が流れる。 やがて慎一が静かに口を開いた。「紗月、今朝提示した契約条件はまだ有効だ。お前が署名さえすれば――」「出ていって……!」
「あなた、酔ってないじゃない……! どいて!」 紗月が必死に抵抗すると、慎一はようやく少しだけ身体を引いた。 頬はうっすら赤く染まっている。酒を飲んでいたのは間違いないのだろう。「悪い。バーで少し寝ちまったみたいでさ。気づいたら湊斗がここまで連れてきてた」「だったら、もう帰って」「酒を飲んでるんだ、紗月。運転なんてできない。一晩くらい泊めてくれてもいいだろ」 まるでそれが当然だと言わんばかりの口ぶりだった。 朝倉グループを率いる若き社長。 社内では誰もが一歩引いて接し、その一言一言で空気さえ変えてしまう男が、高級なスーツ姿のまま玄関へ座り込み、「一晩くらい泊めてくれてもいいだろう」と平然と言っている。 その姿には、普段の威圧感も冷徹さもない。 あるのは、自分の思いどおりになるまで帰るつもりのない、子どものような頑固さだけだった。「嫌。早く帰って」 紗月は考える素振りも見せず、迷いなく言い切った。 あまりにもあっさりとした拒絶だった。以前の紗月なら、困ったように眉を下げながらも、最後には自分の言葉を受け入れていたはずだ。 そんな変化がどこかおかしくて、慎一の口元がわずかに緩む。 そのまま何気なく玄関へ目を向けた慎一は、視線を止めた。 玄関の隅には、見覚えのない若い男物のスニーカーが一足、きちんと揃えて置かれている。 その靴へ吸い寄せられるように視線が留まり、かすかに浮かんでいた笑みは音もなく消えていく。 代わりに宿ったのは、冷え切った静かな眼差しだった。「……誰のだ」 不意に問われ、紗月は一瞬きょとんとする。 だがすぐに、慎一が見ているのは玄関へ揃えて置かれた優介のスニーカーだと気づいた。「誰の靴かなんて、朝倉社長には関係ありませんよね」「関係ないから、泊められないのか」 慎一は靴から目を離さないまま、低く問い返す。「もう、別の男がいるから?」 責めるような口調だった。 紗月は、その声音に一瞬だけ息を詰める。 まるで時間が巻き戻ったようだった。まだ夫婦だった頃でさえ、慎一がこんなふうに問い詰めてきたことは一度もない。 束の間、思考が止まる。 けれどすぐに現実へ引き戻された。 もう自分たちは夫婦ではない。 慎一に、自分のことを問い質す資格などない。「ええ、そうだと言ったら?」 紗月はまっすぐ慎一を見返し
そこまで一気に言い終えると、湊斗は返事を待たず、そのまま電話を切ってしまった。 本当に急いでいたのだろう。 紗月はスマートフォンを耳に当てたまま、通話の切れた無機質な電子音をしばらく呆然と聞いていた。 湊斗の言う「送る」が、自分の家まで慎一を送り届けるという意味だったとは思ってもいなかった。 半信半疑のまま待っていると、ほどなく玄関のチャイムが鳴る。 扉を開けた先には、酒に酔って足元もおぼつかない慎一を支える湊斗の姿があった。 その光景を目にして初めて、湊斗が口にした「帰る場所」が、この部屋のことだったのだと理解する。 湊斗は見るからに焦っていた。 少し前に結婚したばかりの彼は、本当なら今夜も早く帰宅し、妻と穏やかな時間を過ごすはずだった。 慎一に付き合って酒を飲んでいなければ、とっくに家へ帰っていたに違いない。 そのため、紗月が不本意そうな顔で扉を開けても、湊斗は短く素早く挨拶をしただけだった。 そして慎一の身体を紗月へ預けると、逃げるような勢いでその場をあとにする。 廊下の向こうへ消えていく湊斗の背中は、あっという間に見えなくなった。 慎一の身体からは濃い酒の匂いが漂っている。 相当飲んだのだろう。湊斗から引き渡された途端、慎一は全身の体重をそのまま紗月へ預けてきた。 酒の匂いと体温が一気に押し寄せ、空気まで熱を帯びてしまったように感じる。 胸の奥までむせ返るような酒気に包まれ、息をすることさえ苦しかった。「朝倉社長……ちょっと……!」 どこへ連れて行けばいいのか分からない。 だからといって、このまま部屋へ上げることにも強い抵抗があった。 紗月は玄関先で慎一を支えたまま、途方に暮れて立ち尽くす。 迷っている間にも、慎一の身体は少しずつ重さを増していくようだった。 やがて支えきれなくなり、紗月は慎一を抱えたままずるずると床へ崩れ落ちる。 二人はそのまま玄関へ座り込むような格好になった。 倒れた拍子が悪かったのか、慎一はなおも紗月へ覆いかぶさるようにもたれかかったままだ。 紗月は何とか抜け出そうと、身をよじった。けれど、慎一の体重に押さえつけられ、思うように身動きが取れない。 何度も抜け出そうともがくうちに、腕も身体も少しずつ力が抜け、疲労ばかりが募っていく。 不意に、耳元で小さな笑い声がした。 紗月はは
紗月はスマートフォンを手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 手の中では着信を知らせる振動が途切れることなく続いている。 それでも出ることができずにいるうち、やがて呼び出し時間が長すぎたためか、震えはようやく止まった。 もう慎一からかかってくることはないだろう。 そう思ったのも束の間、数秒もしないうちに再びスマートフォンが鳴り始めた。 今度、画面に表示されていたのは見覚えのない番号だった。「……もしもし?」 紗月はわずかにためらいながらも、通話ボタンを押した。すると電話の向こうで、相手が明らかに安堵したように息をつく。 聞こえてきた声には覚えがあった。 しばらく顔を合わせていなかった、湊斗の声だった。 紗月が電話に出たことがよほど嬉しかったのか、湊斗の声は少し弾んでいる。「よかった。さっき慎一のスマホから一度かけたんだけど、出なかったから、今度は俺の番号からかけてみた。変に思わないでね」「……桐生さん?」「覚えててくれたんだ。よかった。紗月さんがあのプロジェクトを外れてから、ずっと残念だったんだ。最近はどうしてる? 会社も辞めたって聞いたよ。本当はうちに来てもらえたらって思ってたんだけど、慎一から別の仕事が決まってるって聞いてさ」 思い出したように「あ」と声を漏らし、続ける。「それより、紗月さんが慎一の奥さんだったなんて、本当にびっくりしたよ。もっと早く知ってたら、あの時ちゃんと挨拶したのに」 湊斗と慎一は昔から親しい仲だった。 それでも慎一が紗月のことを口にしたことは、一度もない。 湊斗が知っていたのは、慎一が結婚しているという事実だけだった。 何気なく夫婦の話題に触れようとするたび、慎一は露骨に機嫌を悪くし、表情まで険しくなる。 そんなことが何度か続き、湊斗も夫婦のことだけは慎一にとって触れてはいけない話題なのだと悟った。 それ以来、自分からその話を持ち出すことはなくなっていた。 紗月が慎一の妻だったと知ったのは、今日になってからだ。 慎一に誘われ、二人で酒を飲んでいた席で、ようやく本人の口から打ち明けられた。 最初は、ここまで徹底して隠していた慎一に文句の一つでも言ってやろうと思っていた。 湊斗は紗月と一緒に仕事をしたことがある。それなのに、慎一は一言も教えなかった。 責められて当然だと思った。
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎