LOGIN大道具会社のスタッフの中には、慎一の顔を知っている者もいた。 その立場も理解していたのだろう。 紗月を助けようと駆け寄り、状況を確かめようとしていた先輩たちも、慎一のその一言を耳にした途端、思わず動きを止めた。 互いに顔を見合わせると、篤司が何か言おうとするより早く、その腕を掴んで半ば強引にその場から引き離してしまう。 連れて行かれる直前、紗月の耳に先輩が篤司を諭す声だけが届いた。「……夫婦のことなんだから、お前は首を突っ込むな」 先輩の声はよく通り、少し離れても途切れ途切れに聞こえてくる。「……まったく……結婚してるって分かってたら……お前らをくっつけようなんてしなかったのに……」 それ以上は距離が離れてしまい、篤司が何か答えたのか、それとも最後まで何も言わなかったのか――もう紗月には分からなかった。 慎一は苛立ちを押し殺したまま、まるで「払った金の分は働いてもらう」とでも言うように紗月の腕を掴み、そのまま強引に撮影エリアまで連れて行く。 紗月は抵抗することもできず、痛む足を引きずりながら慎一の後を追った。 ようやく足を止めた頃には、息を整える余裕すらない。 それでも休む間もなく背中を押され、メイク直しをしていた由衣の前へ突き出された。 慎一と並んで現れた紗月を見た瞬間、由衣の顔に嫌悪がよぎる。 だが慎一がいることに気づくと、その表情はすぐにいつもの愛らしい笑顔へと塗り替えられた。「社長~。さっき探してたんですよ。今の撮影、すごく上手くできたんです。助監督にも褒めてもらえたんですよ?」 慎一の意識は終始紗月へ向けられたままで、由衣の話などほとんど耳に入っていない。「そうか」「次は追いかけられるシーンなんです。犯人に襲われそうになる場面で、昨日も遅くまで練習したんですよ。社長も――」「追いかけられるシーン?」 何か思いついたように、美咲が手にしていた台本を取り上げると、慎一は素早くページをめくった。 内容を確認したあと、今度は紗月の腫れた足首へ視線を落とし、そのまま少し離れた場所にいる助監督を見る。 立花は午前中ほかの予定が入っており、この時間帯はエキストラ中心のカットを撮影していた。 重要なシーンではないため、現場は助監督へ任されている。 慎一の視線に気づいた助監督は、慌てて駆け寄ってきた。 揉み手でもしそうな
こんなにも真っ直ぐな言葉で褒められたのは、祖父や凛子、優介くらいだった。 まして相手は、自分と歳の近い、まだほとんど知り合ったばかりと言っていい男性だ。 篤司の言葉に、紗月は思わず目を瞬かせた。 何度か口を開きかけるものの、何と返せばいいのか分からない。 篤司は励まそうとしているわけでも、優しい言葉を掛けようとしているわけでもなかった。 ただ、自分がそう思ったから口にした。 それだけなのだと、その変わらない表情が物語っている。 だからこそ、その一言には嘘も飾りもなかった。 紗月は小さく笑みをこぼし、少し照れくさそうに呟いた。「……ありがとうございます」 それだけ言うのが精一杯だった。 一瞬だけ、結婚していることを伝えた方がいいのではないかと思う。 左手の薬指にあった指輪は、とっくに外していた。そもそもあの指輪は、最初から紗月だけが身につけていたものだ。 慎一は一度たりとも指にはめてくれなかった。 あの結婚において、あの指輪は最初から何の意味も持っていなかった。 それに、篤司の態度からは恋愛感情などまったく感じられない。 ここで自分から「結婚しています」と切り出したら、かえって自意識過剰な人間だと思われてしまいそうだった。 喉元まで込み上げた言葉は、結局そのまま飲み込む。 足を痛めていることもあり、この日も紗月は大道具の確認や簡単な事務作業を任されていた。 どれも篤司が、座ったままでもできるよう気を遣って残してくれた仕事だった。 前の会社でも事務や資料作成を担当していたため、こうした作業は紗月の得意分野だ。 篤司が細かく教えなくても、説明を聞くだけですぐに要領をつかみ、手を動かすことができた。 午前中も、篤司は何度か足場から降りてきては、紗月の様子を見に来た。 困っていることがないと分かれば、それ以上は何も言わず、また自分の持ち場へ戻っていく。 任された仕事量も無理のない程度で、紗月はほどなくして一通り終えた。 ふと顔を上げると、目の前ではセットが少しずつ形になっていく。 朝、篤司が話していた通り、組まれているのはマンションの共用廊下だった。 台本では高層マンションという設定だが、実際に作られるのは二階部分まで。その先の景色はグリーンバックで撮影し、後から映像で合成するらしい。 最初は出来上がっていくセットを
朝倉グループは、今回の映画の最大出資会社だった。 慎一が撮影現場へ姿を現した途端、その姿をいち早く見つけたプロデューサーが満面の笑みで駆け寄ってくる。 大げさなほど愛想よく頭を下げながら、この大口スポンサーを相手に終始機嫌をうかがうような口調で話しかけた。「朝倉社長、お待ちしておりました。本日も進捗のご確認でしょうか? 綾瀬さんの撮影は午後からの予定ですが、その前にこれまで撮影したシーンをご覧になりますか?」 慎一の意識は、そんな話にはまるで向いていなかった。 ただ紗月の姿を探して、視線だけが現場のあちこちをさまよう。 目に入るのは慌ただしく行き交うスタッフや出演者ばかりで、肝心の紗月の姿はどこにも見当たらない。 しかもプロデューサーに捕まってしまえば、無下に振り払うわけにもいかなかった。 慎一は適当に相槌を打ちながら話を合わせていたが、そのうち由衣まで懲りずにまとわりつき、気づけばその場を離れることもできなくなっていた。 それでも視線だけは無意識のうちに紗月を追い続けてしまう。 どこにも見つからない。その事実が、なぜか胸の奥をひどく苛立たせた。 ――何をしている。 そう思った途端、自分でも馬鹿らしくなった。 紗月を探してどうする。 気に掛ける理由など、もう何一つない。 慎一は胸に浮かんだその感情を無理やり押し込めるように、由衣やプロデューサーとともに数日前の撮影映像へ視線を落とした。* 紗月は今日も大道具チームの手伝いを任されていた。 美咲から直接指示された仕事だ。 由衣が紗月の顔を見たくないと言い出したため、付き人としての仕事は美咲が引き継ぎ、紗月は大道具チームの補助へ回されていた。 美咲としては、撮影現場で一番きついのは大道具の仕事だと思っていたのだろう。だからこそ、わざと紗月をこちらへ回したのだ。 けれど実際は違った。 大道具会社のスタッフたちは皆気さくで親切で、足を引きずりながら現れた紗月を見るなり、すぐに椅子を運んできてくれた。 篤司は資料を手に何かを確認していたが、紗月に気づくと一度だけ顔を上げ、いつもと変わらない淡々とした口調で声を掛ける。「おはようございます、朝倉さん」 それだけ言うと、また資料へ視線を落とした。 すると隣にいた年上のスタッフが、勢いよく篤司の背中を叩く。「篤司、お前も朝倉さ
慎一の口調はどこか妙だった。まるで紗月の反応を探るような響きが滲んでいる。 紗月は静かにコップを置き、しばらく黙り込んだあと、小さく口を開いた。「……あなたが約束を守ってくれることだけを願っている」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の口元がわずかに吊り上がる。 瞳の奥にも、一瞬だけ何かを思いついたような光がよぎったが、それはすぐに消え、何事もなかったかのように短く言い放った。「当然だ」 足首の痛みはまだひどかった。 それでも紗月は助けを求めようとはしない。慎一もそんな彼女の意思など意に介さず、半ば強引に車へ乗せた。 昨夜の出来事があまりにも激しかったせいで、今は足首よりも全身の痛みのほうが勝っている。 それでも朝目を覚まして足首へ視線を落とすと、腫れた患部には厚く湿布薬が塗られていた。 眠っている間に慎一が手当てをしたのだろう。 けれど、そんな優しさは今の紗月には何の意味もなかった。 撮影現場までの車内は、息が詰まるほど静まり返っていた。 今日は久我を呼ばず、慎一自身がハンドルを握っている。しかも紗月は助手席へ座らされていたが、その理由は分からない。 紗月は一度も慎一へ視線を向けることなく、ただ窓の外だけを見つめ続けた。 やがて車がスタジオの駐車場へ滑り込むと、紗月は慎一より先にドアを開け、そのまま何も言わず立ち去ろうとする。 しかし車を降りたその瞬間、スタジオの入口で待っていた由衣と目が合った。 由衣の手にはテイクアウトのコーヒーが二つ。誰かを待っていたことは、一目で分かる。 紗月を見つけた途端、由衣の笑顔は一瞬で消え失せた。さらに、紗月が慎一の車から降りてきたと気づいた瞬間、その瞳には隠そうともしない怒りが燃え上がる。 大股でこちらへ歩いてくる由衣を見て、紗月は反射的に下腹部を庇うように一歩後ずさった。 だが、由衣の視線はすぐに紗月から外れ、車を降りてきた慎一へ向けられる。「社長~!」 満面の笑みを浮かべて駆け寄る。「今日いらっしゃるって聞いてたので、ずっとお待ちしてたんですよ! 本当はこんなに早く来る予定じゃなかったんですけど、社長にお会いしたくて……昨日なんてほとんど眠れなかったんです。褒めてくれませんか?」 慎一は由衣を見るなり、露骨に眉をひそめた。 その声にも、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。
慎一は、もう長い間紗月に触れていなかった。 その反動だったのか、それとも怒りに身を任せていたからなのか、一度身体を重ねただけでは到底収まらなかった。 ソファで終えても、慎一は乱れた呼吸を整えるようにしばらく紗月を抱き締めていただけだった。 だが、ほどなくして力の抜けきった彼女を横抱きにすると、そのまま寝室へ向かう。 ベッドへ下ろす手つきだけは、先ほどより幾分穏やかだった。 それでも次の瞬間には再び覆いかぶさり、焦燥にも似た激しさで紗月を求める。 同じ熱を帯びた身体が触れ合うたび、その熱は慎一の理性を少しずつ焼き尽くしていった。 何度も容赦なく紗月を追い詰め、その瞳からもっと涙を零させたい。もっと許しを乞わせたい。 そんな歪んだ衝動だけが、慎一を突き動かしていた。 紗月が負けを認め、自分へ縋る姿を見たかった。 けれど、泣き続けたあと、紗月はほとんど声を発しなくなってしまう。 慎一はその顎を指先で持ち上げ、無理やり自分のほうへ向かせた。その瞳はどこまでも昏く、何ひとつ映してはいなかった。 まるで、この世界には誰も存在していないかのように。「紗月。俺を見ろ」 理由も分からないまま胸がざわつき、慎一は思わずその名を呼んだ。 紗月は静かに目を閉じたまま、慎一へ視線を向けようともしなかった。 その拒絶に煽られるように、慎一はさらに乱暴に紗月を追い詰め、無理やり反応を引き出そうとする。 どれほど時間が過ぎたのか、自分でも分からなかった。 悪夢のような苦しみの中、紗月は一度意識を手放し、また浅い眠りから目を覚ます。 全身は汗に濡れ、喉は焼けつくように渇いていた。 岸へ打ち上げられた魚のように、ただ水だけを求める。「……みず……」 かすれたその一言に、慎一はすぐ気づいた。 動きを止めると、慎一はベッドを離れ、水を取りに部屋を出た。 グラスを手に戻ってきたものの、すぐには飲ませようとはしない。 しばらく紗月を見つめたあと、自ら一口だけ水を含むと、片手で紗月の後頭部をそっと支え、そのまま唇を重ねた。 口移しに流し込まれた水を、紗月は夢中で飲み下していく。 喉の渇きはあまりにも激しく、それが口づけであることすら意識する余裕はなかった。 水を含ませるためだけに重なっていた唇は、次の瞬間には慎一の深い口づけへと変わる。 容赦なく唇を
紗月は、こんな形でこの事実を打ち明けることになるなんて、思ってもみなかった。 妊娠。 本来なら、もっと落ち着いた場所で、もっと穏やかな時間の中で伝えたかった。 そう願っていたのに。 その言葉を耳にした瞬間、慎一の動きが止まった。 ただ、それも――ほんの数秒だけだった。 次の瞬間、慎一はあまりにも馬鹿げた話を聞かされたかのように、喉の奥で低く笑った。 室内は暗く、その表情までは見えない。 それでも紗月には分かる。 今、自分へ向けられている視線が、どれほど冷たく、どれほど嘲りに満ちているのか。 ――見えなくてよかった。 あの目を真正面から見てしまえば、それだけで心が折れてしまいそうだったから。「妊娠? 紗月、お前もずいぶん何でも言えるようになったな」 そう言うと、左手を紗月の下腹部へ重ね、その上からゆっくりと押し込むように力を込めた。 その感触に、紗月の心臓が大きく跳ねる。「違う……慎一、本当なの。私、本当に――」「そんな安っぽい嘘を、俺が信じるとでも思ったのか?」 慎一は吐き捨てるように言った。「夢を見るな、紗月。止めさせたいなら、そんなくだらない嘘で俺を試すべきじゃなかったな」 二人の間に、信頼などとうの昔に失われていた。 まして、「妊娠」という言葉が二人の間で交わされたのは、これが初めてだった。 慎一は、自分と紗月の間に子どもができる未来など、一度たりとも考えたことがない。 避妊は完璧だった――そう信じて疑わなかった。 だからこそ、慎一は紗月の言葉を信じるどころか、最初から嘘だと決めつけていた。 その言葉を聞いても、父親になる実感はもちろん、喜びが胸をよぎることすらない。 紗月と子どもを育てる未来など、一度たりとも考えたことがなかった。「それとも、そこまで必死だったのか?」 慎一は口元を歪める。「妊娠まで利用して男を繋ぎ止めようとするなんて……いかにも、お前らしいな」 紗月はもう何も言い返せなかった。 何を言っても、この人は信じない。 慎一は紗月の言葉も想いも、すべて卑劣な企みだと決めつけ、一切ためらうことなく彼女を押さえつけ続ける。 下腹部へ重ねられた手には、先ほどよりもさらに強い力が込められた。 痛みが走るほど乱暴なその手つきは、まるで罰でも与えるかのようだった。 お腹を守ろうと伸ばした紗
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎