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八十話:霧の向こうの約束

작가: 渡瀬藍兵
last update 게시일: 2025-06-17 19:45:00

「そうだったんですね……」

 悠斗の声が、静かに夜気へ溶けていった。

『今でもあの部屋を客用として使ってくれててね。アタイとしては嬉しいんだ。それに、アタイは確かにこの温泉郷に救われた』

 陽菜の声には、飾りがなかった。事実をそのまま差し出すような、清潔な響きだった。

『ならアタイは、温泉郷にもっとたくさん人が来られるように、これからも遭難した人をここへ導き続けるよ』

 恩返し。

 たった一言で括れるその理由が、悠斗の中にすとんと落ちた。難しい言葉ではない。崇高な理念でもない。ただ、もらったものを返したいという、それだけの、まっすぐな気持ちだった。

『こんなところかねぇ。アンタの問いに、うまく答えられたかい?』

 陽菜が首を傾げる。

 悠斗はすぐには返せなかった。胸の奥に広がっているものの正体を、うまく言葉にできない。あたたかい――それだけは確かだった。陽菜という存在に触れて、霊というものへの恐怖が、完全に消えたわけではないにせよ、たしかに少しだけ角をなくしている。陽に当たった氷が、端からゆっくり溶けていくような、そんな穏やかさだった。

「ええ……。ありがとうございます」

 それが精一杯だった。今の悠斗には、それ以上の言葉は見つからない。

「あの、私からもひとついいですか?」

 美琴が一歩、前へ出る。

 悠斗はわずかに目を見開いた。美琴の方から問いを投げるのは、珍しい。

『おや? アンタからとはね。いいよ、なんでも聞きな』

「成仏をしようとは……考えないのですか?」

 空気が、ほんの一瞬だけ止まった。

 それは、悠斗が聞けなかった問いだった。

『そうだねぇ』

 陽菜は腕を組み、夜空を見上げる。

『アタイは未練に縛られてるわけじゃない。アタイは、アタイがこの世に留まっていたいと思ってるから、留まってるんだ』

 自分の意思で、ここにいる。

 縛られているのではなく、選んでいるのだ。

「そうですか……。自分のしたいことを……」

 美琴が小さく頷く。その横顔を、悠斗は黙って見ていた。けれど、その表情の奥にあるものまでは読み取れない。

「ありがとうございます。満足できるお答えでした」

『へへ、そりゃよかったよ』

 陽菜が笑う。それから、ぐっと背筋を伸ばした。

『さて……と!』

 気づけば、いつの間にか宿の前まで戻ってきていた。陽光館の玄関灯が、ぼんやりと三人を照らしている。陽菜は大きく背伸びをし、そのまま腕を夜空へ突き上げた。

『小太郎! 行くよ!』

『ワンッ!』

 足元で丸くなっていた小太郎が、弾かれたように飛び起きる。尻尾が忙しなく揺れていた。

「もう行ってしまうのですか?」

 美琴の声には、わずかに名残惜しさが滲んでいた。

『なんだい? 寂しくなっちまったかい?』

 陽菜が、にやりと口角を上げる。

『それならまた、悠斗に美琴の姿でお色気作戦でも――』

「それは絶対にダメです!! やめてください!!」

 美琴の声が勢いよく跳ねた。さっきまでの落ち着きが嘘みたいに、頬へさっと朱が差す。

「ぼ、僕の身のためにも……それはやめてほしいかな……。身が持たないよ……」

「せ、先輩は早く忘れてくださいっ!」

「そんな理不尽な……。さすがにそんなすぐには……ね?」

 美琴の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。耳の先まで熱が回っているのが、夜目にもわかった。

『あっははは! アンタたち、ほんと面白いねぇ!』

『さて、アタイたちは本当に行くよ。悠斗に美琴、まだ数日はいるんだろう? アタイと小太郎は、まだ人助けをしなきゃいけないからね。きっと、ここでお別れだ』

「ええ、陽菜さん。本当にお世話になりました」

 悠斗が頭を下げる。

「私からも、お礼を……。ありがとうございました」

 美琴もその隣で、丁寧に頭を下げた。

『いいってことよ』

 陽菜は気負いなく笑って、それからふと思い出したように言った。

『あ、そうだ。最後にアタイから、ひとつ聞かせてほしいんだが……』

 そこで一度、二人の顔を見渡す。

『温泉郷はどうだった?』

 答えなど、もうとっくにわかっている。そんな顔だった。

「とっても素敵です!」

 二人の声が、ほとんど同時に重なった。

 陽菜が目を細める。満足そうな、けれどどこか安心したような笑みだった。

『その言葉を聞けてよかったよ。温泉郷はいつでも、また二人を歓迎する。もちろん、アタイもね』

 そのとき、ふいに霧が濃くなった。さっきまで離れていた白が、足元から静かに這い寄ってくる。

『それじゃあ、またね』

 陽菜はそう言って、霧に溶け込むように後ろへ下がっていった。悠斗と美琴の姿を見たまま、少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。やがて黄色い浴衣も、小太郎の影も、白い靄の向こうに完全に消えた。

「行っちゃったね」

 悠斗の声は、どこか名残を含んでいた。

「はい。とても恥ずかしい思いはさせられましたけど……でも、まっすぐな人で、明るくて……。いい人なんだって、よくわかりました」

 美琴は霧の消えた先を見つめたまま、静かに言った。

「うん。本当に素敵な人だった。また……会えるよね」

「ええ。会いたくなったら、また会いに来ればいいんです」

 その言葉に、悠斗は小さく頷く。

「……そうだね。寒くなってきたし、中に入ろう」

「そうですね」

 そうして二人は、陽光館の引き戸をくぐった。

 *

「おや! お若いおふたりさん! 随分遅くまで観光してたんだねぇ?」

 帳場にいた女将が、明るい声で迎える。

「とても素敵な場所で、時間を忘れていました」

 悠斗がそう答えると、女将は嬉しそうに笑った。

「そうかい。そりゃあ紹介した甲斐があるってもんだ!」

 からりとした笑い声が、宿の中のあたたかな空気によく馴染む。

「今日はゆっくり休みなよ」

「はい。ありがとうございます」

 挨拶を交わして部屋へ戻ると、布団が横並びに敷かれていた。

 さっきまで外にいたときは意識の外へ押しやっていられたものが、そこで急に現実味を帯びる。二人はできるだけ平静を装ったまま、歯を磨き、寝る支度を整えた。けれど最後には、どうしても視界に入ってしまう。

「…………」

 部屋の空気が、妙に静かだった。

「そ、その……。ね、寝ようか?」

 悠斗がぎこちなく口を開く。

「そうですね! おやすみなさいっ!!」

 美琴は勢いよく言って、そのまま布団へ滑り込む。

「う、うん。おやすみ……」

 悠斗もそれに続きながら、どこか落ち着かないまま灯りへ手を伸ばした。

 だが、当然のように眠れるはずもなかった。

 目を閉じても、意識は沈まない。むしろ隣を意識すればするほど、悠斗の目は冴えていく。布団一枚ぶん向こうに美琴がいる。その事実だけで、どうにも落ち着かなかった。

 けれど、隣からは規則正しい寝息が聞こえてくる。

 もう眠ったのか――そう思いながら、悠斗は薄暗い天井を見つめた。

 静かになったせいで、余計なことばかり頭に浮かぶ。

 美琴の呪われた血のこと。あれが彼女に悪い影響を与えたりはしないのかということ。そして結局、自分の血はどこから来ているのかということ。

 一つ考え始めると、そこから先が止まらない。答えのない問いが次の問いを呼び、思考はじわじわと深みにはまっていく。気づけば、悠斗はその渦の中に足を取られていた。

「先輩っ」

 不意に声がして、悠斗ははっと瞬きをした。

「あれ、まだ起きてたの?」

 隣へ声を返すと、すぐに美琴が小さく息を吐く気配がする。

「こんな状況で眠れるわけないじゃありませんか」

 暗がりの中でも、その言い方に少しだけむくれたような響きが混じっているのがわかった。

「はは、そうだよね」

 悠斗が小さく笑う。

 それきり、また静けさが戻った。

 同じ部屋の、すぐ隣にいるのに、互いの顔はよく見えない。ただ気配だけが近くにある。その曖昧な距離が、余計に落ち着かなかった。

「先輩」

「ん?」

「私、今日がとても楽しかったです」

 その声は静かで、けれどはっきりとしていた。

「それは僕もだよ」

 答えながら、悠斗は今日一日を思い返す。

 いろいろあった。穏やかな時間も、予想外の出来事も、気まずさも、笑ってしまうような場面もあった。それでも、振り返ってみれば間違いなく充実していたと思える一日だった。たぶんこの旅行のことは、ずっと悠斗の中に残る。

「こんなに楽しい日で、私は……」

 そこで美琴の声がふっと途切れた。

「どうかした?」

 問いかけると、少しの間が空く。

 それから、かすかな笑みを含んだ声が返ってきた。

「ふふ。いいえ、なんでもありません。明日も、満喫しましょうね。先輩」

 「うん、そうだね」

 悠斗が返すと、美琴は小さく息を整える気配を見せた。

「これで、私も本当に寝ますね。それではまた明日に。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 それきり、隣から声は返ってこなくなる。

 また静けさが部屋を満たした。けれど、さっきまで頭の中で渦を巻いていたものは、もう先ほどほどの勢いを持っていなかった。

 美琴の呪われた血のことも、自分の血のことも、消えたわけではない。答えを出さなければならない問いであることに変わりはない。それでも、今はそれを追い詰める時間ではないのだと思えた。

 考えるのは、またあとでいい。

 今はただ、この旅行をちゃんと楽しいものにしたかった。

 そう意識が向いた途端、張っていたものがふっとほどける。疲れが、遅れて身体の奥から浮かび上がってきた。

 心がようやく落ち着きを取り戻すと、悠斗の意識はあっけないほど素直に沈んでいく。

 温泉郷の静かな夜が、二人の眠りをそっと包み込んでいた。

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