로그인「そうだったんですね……」
悠斗の声が、静かに夜気へ溶けていった。 『今でもあの部屋を客用として使ってくれててね。アタイとしては嬉しいんだ。それに、アタイは確かにこの温泉郷に救われた』 陽菜の声には、飾りがなかった。事実をそのまま差し出すような、清潔な響きだった。 『ならアタイは、温泉郷にもっとたくさん人が来られるように、これからも遭難した人をここへ導き続けるよ』 恩返し。 たった一言で括れるその理由が、悠斗の中にすとんと落ちた。難しい言葉ではない。崇高な理念でもない。ただ、もらったものを返したいという、それだけの、まっすぐな気持ちだった。 『こんなところかねぇ。アンタの問いに、うまく答えられたかい?』 陽菜が首を傾げる。 悠斗はすぐには返せなかった。胸の奥に広がっているものの正体を、うまく言葉にできない。あたたかい――それだけは確かだった。陽菜という存在に触れて、霊というものへの恐怖が、完全に消えたわけではないにせよ、たしかに少しだけ角をなくしている。陽に当たった氷が、端からゆっくり溶けていくような、そんな穏やかさだった。 「ええ……。ありがとうございます」 それが精一杯だった。今の悠斗には、それ以上の言葉は見つからない。 「あの、私からもひとついいですか?」 美琴が一歩、前へ出る。 悠斗はわずかに目を見開いた。美琴の方から問いを投げるのは、珍しい。 『おや? アンタからとはね。いいよ、なんでも聞きな』 「成仏をしようとは……考えないのですか?」 空気が、ほんの一瞬だけ止まった。 それは、悠斗が聞けなかった問いだった。 『そうだねぇ』 陽菜は腕を組み、夜空を見上げる。 『アタイは未練に縛られてるわけじゃない。アタイは、アタイがこの世に留まっていたいと思ってるから、留まってるんだ』 自分の意思で、ここにいる。 縛られているのではなく、選んでいるのだ。 「そうですか……。自分のしたいことを……」 美琴が小さく頷く。その横顔を、悠斗は黙って見ていた。けれど、その表情の奥にあるものまでは読み取れない。 「ありがとうございます。満足できるお答えでした」 『へへ、そりゃよかったよ』 陽菜が笑う。それから、ぐっと背筋を伸ばした。 『さて……と!』 気づけば、いつの間にか宿の前まで戻ってきていた。陽光館の玄関灯が、ぼんやりと三人を照らしている。陽菜は大きく背伸びをし、そのまま腕を夜空へ突き上げた。 『小太郎! 行くよ!』 『ワンッ!』 足元で丸くなっていた小太郎が、弾かれたように飛び起きる。尻尾が忙しなく揺れていた。 「もう行ってしまうのですか?」 美琴の声には、わずかに名残惜しさが滲んでいた。 『なんだい? 寂しくなっちまったかい?』 陽菜が、にやりと口角を上げる。 『それならまた、悠斗に美琴の姿でお色気作戦でも――』 「それは絶対にダメです!! やめてください!!」 美琴の声が勢いよく跳ねた。さっきまでの落ち着きが嘘みたいに、頬へさっと朱が差す。 「ぼ、僕の身のためにも……それはやめてほしいかな……。身が持たないよ……」 「せ、先輩は早く忘れてくださいっ!」 「そんな理不尽な……。さすがにそんなすぐには……ね?」 美琴の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。耳の先まで熱が回っているのが、夜目にもわかった。 『あっははは! アンタたち、ほんと面白いねぇ!』 『さて、アタイたちは本当に行くよ。悠斗に美琴、まだ数日はいるんだろう? アタイと小太郎は、まだ人助けをしなきゃいけないからね。きっと、ここでお別れだ』 「ええ、陽菜さん。本当にお世話になりました」 悠斗が頭を下げる。 「私からも、お礼を……。ありがとうございました」 美琴もその隣で、丁寧に頭を下げた。 『いいってことよ』 陽菜は気負いなく笑って、それからふと思い出したように言った。 『あ、そうだ。最後にアタイから、ひとつ聞かせてほしいんだが……』 そこで一度、二人の顔を見渡す。 『温泉郷はどうだった?』 答えなど、もうとっくにわかっている。そんな顔だった。 「とっても素敵です!」 二人の声が、ほとんど同時に重なった。 陽菜が目を細める。満足そうな、けれどどこか安心したような笑みだった。 『その言葉を聞けてよかったよ。温泉郷はいつでも、また二人を歓迎する。もちろん、アタイもね』 そのとき、ふいに霧が濃くなった。さっきまで離れていた白が、足元から静かに這い寄ってくる。 『それじゃあ、またね』 陽菜はそう言って、霧に溶け込むように後ろへ下がっていった。悠斗と美琴の姿を見たまま、少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。やがて黄色い浴衣も、小太郎の影も、白い靄の向こうに完全に消えた。 「行っちゃったね」 悠斗の声は、どこか名残を含んでいた。 「はい。とても恥ずかしい思いはさせられましたけど……でも、まっすぐな人で、明るくて……。いい人なんだって、よくわかりました」 美琴は霧の消えた先を見つめたまま、静かに言った。 「うん。本当に素敵な人だった。また……会えるよね」 「ええ。会いたくなったら、また会いに来ればいいんです」 その言葉に、悠斗は小さく頷く。 「……そうだね。寒くなってきたし、中に入ろう」 「そうですね」 そうして二人は、陽光館の引き戸をくぐった。 * 「おや! お若いおふたりさん! 随分遅くまで観光してたんだねぇ?」 帳場にいた女将が、明るい声で迎える。 「とても素敵な場所で、時間を忘れていました」 悠斗がそう答えると、女将は嬉しそうに笑った。 「そうかい。そりゃあ紹介した甲斐があるってもんだ!」 からりとした笑い声が、宿の中のあたたかな空気によく馴染む。 「今日はゆっくり休みなよ」 「はい。ありがとうございます」 挨拶を交わして部屋へ戻ると、布団が横並びに敷かれていた。 さっきまで外にいたときは意識の外へ押しやっていられたものが、そこで急に現実味を帯びる。二人はできるだけ平静を装ったまま、歯を磨き、寝る支度を整えた。けれど最後には、どうしても視界に入ってしまう。 「…………」 部屋の空気が、妙に静かだった。 「そ、その……。ね、寝ようか?」 悠斗がぎこちなく口を開く。 「そうですね! おやすみなさいっ!!」 美琴は勢いよく言って、そのまま布団へ滑り込む。 「う、うん。おやすみ……」 悠斗もそれに続きながら、どこか落ち着かないまま灯りへ手を伸ばした。 だが、当然のように眠れるはずもなかった。 目を閉じても、意識は沈まない。むしろ隣を意識すればするほど、悠斗の目は冴えていく。布団一枚ぶん向こうに美琴がいる。その事実だけで、どうにも落ち着かなかった。 けれど、隣からは規則正しい寝息が聞こえてくる。 もう眠ったのか――そう思いながら、悠斗は薄暗い天井を見つめた。 静かになったせいで、余計なことばかり頭に浮かぶ。 美琴の呪われた血のこと。あれが彼女に悪い影響を与えたりはしないのかということ。そして結局、自分の血はどこから来ているのかということ。 一つ考え始めると、そこから先が止まらない。答えのない問いが次の問いを呼び、思考はじわじわと深みにはまっていく。気づけば、悠斗はその渦の中に足を取られていた。 「先輩っ」 不意に声がして、悠斗ははっと瞬きをした。 「あれ、まだ起きてたの?」 隣へ声を返すと、すぐに美琴が小さく息を吐く気配がする。 「こんな状況で眠れるわけないじゃありませんか」 暗がりの中でも、その言い方に少しだけむくれたような響きが混じっているのがわかった。 「はは、そうだよね」 悠斗が小さく笑う。 それきり、また静けさが戻った。 同じ部屋の、すぐ隣にいるのに、互いの顔はよく見えない。ただ気配だけが近くにある。その曖昧な距離が、余計に落ち着かなかった。 「先輩」 「ん?」 「私、今日がとても楽しかったです」 その声は静かで、けれどはっきりとしていた。 「それは僕もだよ」 答えながら、悠斗は今日一日を思い返す。 いろいろあった。穏やかな時間も、予想外の出来事も、気まずさも、笑ってしまうような場面もあった。それでも、振り返ってみれば間違いなく充実していたと思える一日だった。たぶんこの旅行のことは、ずっと悠斗の中に残る。 「こんなに楽しい日で、私は……」 そこで美琴の声がふっと途切れた。 「どうかした?」 問いかけると、少しの間が空く。 それから、かすかな笑みを含んだ声が返ってきた。 「ふふ。いいえ、なんでもありません。明日も、満喫しましょうね。先輩」 「うん、そうだね」 悠斗が返すと、美琴は小さく息を整える気配を見せた。 「これで、私も本当に寝ますね。それではまた明日に。おやすみなさい」 「うん、おやすみ」 それきり、隣から声は返ってこなくなる。 また静けさが部屋を満たした。けれど、さっきまで頭の中で渦を巻いていたものは、もう先ほどほどの勢いを持っていなかった。 美琴の呪われた血のことも、自分の血のことも、消えたわけではない。答えを出さなければならない問いであることに変わりはない。それでも、今はそれを追い詰める時間ではないのだと思えた。 考えるのは、またあとでいい。 今はただ、この旅行をちゃんと楽しいものにしたかった。 そう意識が向いた途端、張っていたものがふっとほどける。疲れが、遅れて身体の奥から浮かび上がってきた。 心がようやく落ち着きを取り戻すと、悠斗の意識はあっけないほど素直に沈んでいく。 温泉郷の静かな夜が、二人の眠りをそっと包み込んでいた。### 作品をより良くするための挑戦 この作品は、**物語の良さを最大限に引き出すため**に、大きく二つの改訂を行います。 一つ目は、視点の変更です。 当初は一人称で書いていましたが、**三人称一元視点(悠斗の内面に寄り添う視点)** に変更しました。これは、読者の皆さまにより深く物語の世界に没入していただくための選択でした。 一人称では表現しきれなかった、**静かな空気感**、**日常に滲み出る異常**、そして**じわりと背筋を這い上がる怖さ**。それらを、より豊かに、より美しく描くことができたと感じています。 二つ目は、内容のテコ入れです。 物語の核心は変えず、展開やシーンの構成を見直します。より自然な流れで、より緊張感のある展開で、悠斗と琴音の物語が読者の心に届くように。 ### でも、変わらないもの どれだけ手を加えても、**絶対に失いたくなかったもの**があります。 それは、**この物語が持つ温かさと切なさ**。 春の桜、夕陽の茜色、風に揺れる髪。そんな美しい日常の中に、静かに、でも確かに存在する「この世ならざるもの」との繋がり。 **悠斗の優しさ**と**美琴の儚さ**。二人の間に流れる、言葉にならない想い。 それらは、最初に書いた時から、ずっと変わらず、この物語の心臓として脈打っています。 ### 最後に この物語が、皆さまの心に、少しでも残るものであれば幸いです。 怖さの中にある優しさ。日常の中にある奇跡。そして、縁が結ぶ不思議な物語。 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
皆さん、物語を読んでいただきありがとうございます! ここでは、物語をさらに深く楽しんでいただくために、いくつかの裏設定を少しだけ解説したいと思います。 Q1. 迦夜(かや)って、結局何だったの? 第七章で悠斗たちを苦しめた《迦夜》。彼女たちは、琴音の呪いによって生まれた「歴史への怨嗟の集合体」です。 しかし、琴音が戦いの最中に言ったこのセリフ、気になりませんでしたか? > 『ぐぅ……! 吸収し損ねた迦夜の残骸か……! はみ出し者の分際で、妾に逆らうとは……っ!!』 実は、琴音はこの千年もの間、自らが振りまいた呪いが生み出す怨念を、その身に吸収し続けていました。 迦夜の力も怨みも。 つまり、悠斗たちが戦った迦夜は、その巨大な器から**ほんの少しだけ溢れ出してしまった「残骸」**にすぎません。 Q2. なぜ沙月(さつき)の血筋だけが、他の巫女より長生きできたの? 美琴の血筋をはじめ、多くの巫女たちが二十代という若さで命を落とす中、なぜ沙月の子孫だけは比較的長く生きられたのか。 その答えは、**沙月が呪いの元凶である琴音の「実の妹」**だったからです。 力の源流に最も近い血を持つ沙月は、琴音の力を扱える器でした。 (もちろん、全く呪われていない訳ではありません) 例えるなら、他の巫女たちの呪いの進行速度を「2倍速」とすると、沙月の子孫は「等速」で進む、というイメージです。 それ故に、他の巫女よりは長く、三十代~四十代まで生きることができました。 悠斗に一切呪いがないのは、沙月の子孫への強い想いから繋がった、祈りという名の奇跡なのです。 Q3. 忘れられた創設者・沙月の歴史 桜織市の創設者である沙月の歴史は、あまりにも長すぎるため、そのほとんどが人々の記憶から忘れ去られています。 温泉郷にかすかに「清き巫女の伝説」が残るのみで、その全貌を知るのは、桜織神社の墓守である藤次郎の一族だけです。 なぜ歴史が忘れられたのか? それは、沙月自身がそう望んだからです。 彼女は、自分の子孫たちが過酷な宿命に縛られず、自由に生きてほしいと願い、藤次郎の祖先に「真実を語り継ぐ必要はない」と伝えていました。 ちなみに、沙月には**《葵(あおい)》**という娘がいました。 白蛇様の分身体を封印する覚悟を決めた沙月は、その少し前に、娘を父方の家系へと
あれから――さらに、百年もの歳月が流れようとしていた。 悠久の風がこの白蛇山の山頂を吹き抜ける中、妾は静かに見守り続けていた。悠斗に遺した妾の血を媒体に、彼と美琴、そしてその子孫たちが紡ぐ、すべての記憶と感情を。 それが、妾が自らに課した最後の贖罪であったから。 二人は、実に満ち足りた生涯を送った。 まるで失われた時間を取り戻すかのように、笑い、愛し合い、時には些細なことで喧嘩をしながらも、固く手を携えて歩んだ。やがて、その腕に新しい命を抱き、慈しみ、育て、そして次の世代へと縁を繋いでいった。 霊砂や百合香たち、古の巫女たちもまた、穏やかに天寿を全うし、安らかな眠りについた。 その最後の魂が天へと昇ったのを見届けたとき……妾の役目も、ようやく終わったのだ。 あぁ……なんと壮大で、愛おしい記録であったことか。 妾の呪いが彼らを、そして多くの者を苦しめてしまった事実に変わりはない。 だが、妾の血を引き継いだ彼らの子孫たちが、この先も数多の物語を紡いでいく。かつてあれほど憎らしいとさえ思ったその事実が、今ではむしろ……誇らしく、喜ばしいとさえ感じるのだ。 そんなことを想いながら空を仰いでいた、その時だった。 『……姉上……』 ふと、天から懐かしい声が聞こえたような気がした。 いや、気のせいではない。魂に直接響く、凛として、それでいて慈しみに満ちた声。 『む……?』 『姉上……』 見上げると、雲間から柔らかな光が差し、天からひとつの人影が、静かに舞い降りてくる。 妾の記憶にある、ただ一人の姿。 『……沙月……!』 『迎えにまいりました』 地に降り立った妹は、以前と何ひとつ変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。 かつては、その清廉さが息苦しくもあった。だが……それがいまは、どうしようもなく心地よい。 『ふふ……そなたの蒔いた種が、見事な花を咲かせ……こうして、妾を解放するに至った。感謝するぞ、沙月』 そう告げると、彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、そっと妾の手を取った。 差し出されたその手は、記憶にあるどの温もりよりも柔らかく、そして、暖かかった。千年の時を超え、ようやく妹の手に触れることができたのだ。 さぁ、天へと上がろう。 悠久の時を、今度こそ二人で。 そして、この地に生きる、まだ見ぬ愛しき子孫たちよ。
あれから――十六年が経った。 月日は慌ただしく流れ、私の日常も大きく姿を変えた。 私は今、この桜織市で『結び屋』という名の霊媒処を営んでいる。 古の巫女である霊砂さんたちとの交流は続き、私の方から「一緒に霊媒師をやらないか」と声を掛けたところ、彼女たちも快く受け入れてくれた。今では、皆が『結び屋』の正式な仲間だ。 皆の助けもあってか、いつしか「よく当たる」などと評判になり、かつてのような無名の存在ではなくなった。 けれど、やっていることは昔と何も変わらない。 ただ静かに、迷える霊たちの傍に寄り添い、その”想い”と向き合い――癒すだけ。 かつて、彼女がそうしてくれたように。 *** バスの車窓から、ふと紅い影を纏った霊を見つける。すぐに停止ボタンを押し、運賃を払ってバスを降りた。 いた。あの霊だ。 「こんにちは。何か、お困り事でも?」 私は、路地裏に佇むその霊に、臆することなく声をかける。 『あんた……私が見えるのね……』 「ええ。何か抱えている想いがあるはずです。私でよければお聞きしますよ」 『……なんで……なんで私が死ななきゃいけなかったの!? あいつが……あいつが悪いのに……!』 胸の内に渦巻く、未練と怒り。それはまだ”すれ違い”の最中なのだろう。 「よければ……あなたの話を、聞かせてくれませんか。私にも、力になれることがあるかもしれません」 これまで、幾度となく見てきた。怒りに呑まれ、世界を恨んだ霊たちも――きちんと”言葉”を交わせば、癒えるのだと。 *** 『……ってわけがあってねぇ……』 先ほどまで荒れ狂っていた霊は、今ではすっかり落ち着き、赤く禍々しかった気配も、まるで嘘のように消えていた。 「なるほど……それは、とてもお辛かったですね」 そう伝えると、彼女の身体が透き通り始める。成仏の兆候だ。 「あとは私が、あなたの想いを引き継ぎましょう」 『……ほんとに? いや……なんだか、あんたは信用できる気がするよ……』 彼女は、誤解の果てに彷徨っていた。だが、その誤解はいま解けた。約束通り、後日、彼女の言葉を伝えるために”その人”へ連絡を取るつもりだ。それが、私の仕事。私が選んだ、生き方。 『……あぁ……なんだか……心地がいいや……』 彼女の姿がさらに透け、やがて光の粒子となり、静かに――天へと昇っていっ
僕は車の中で、輝信さんと……琴乃さんの話をしていた。 彼女は、魂を賭して美琴を、そして僕を守ってくれたのだ。 美琴の言葉を借りれば──魂が攻撃されて死んでしまった場合、その魂は浄土へ昇れず、消滅してしまう。それを知っていながら、琴乃さんは迷わず僕たちを守ってくれた。その事実を思えば、あの山頂での自分の行動は……あまりにも愚かだったと、今更ながら胸が痛む。 この命は、琴乃さんと美琴、ふたりの魂に支えられて今、ここにあるのだ。 琴乃さんの想い人であり、彼女を同じように深く愛していた──輝信さん。彼がどんな反応をするか、正直、不安だった。 けれど、返ってきた言葉は……想像していたものとは違っていた。 「そうか、琴乃がふたりを守ってくれたのか……なら──ちゃんと、生きないとな。きっと琴乃も、それを望んでる」 その声は、努めて明るく振る舞う中に、微かな震えが混じっていた。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に深い悲しみがよぎる。でも彼は、変わらず優しく微笑んでくれた。 「……はい」 僕は深く頷いた。 *** 車内の空気は、しばらく静寂に包まれた。それでも、輝信さんは黙って僕を自宅まで送り届けてくれた。 「元気でな、悠斗君!」 別れ際、彼は笑顔で手を振った。 「俺はこれから琴乃の亡骸を弔ってくる。……また気が向いたら、あの家に来てくれ!」 その言葉を聞いて、僕は彼に尋ねた。なにか、自分にもできることはないかと。 だけど彼は、そっと首を横に振った。 「これは俺が、一人でやりたいことだから」 彼の瞳は、どこか遠い空を見つめていた。 そして、こうも言った。呪いが消えた今、琴乃さんが住んでいたあの家に住むつもりだと。そこに、彼女のための大きな墓を建てるつもりだと── (……僕も、ちゃんとお墓参りに行かないと) そう心に誓った僕に、彼は大きく手を振って車に乗り込んだ。 「じゃあな、悠斗君! 達者でなぁ!!」 その声が遠ざかっていく。 僕は、ただ静かに頭を下げて、その車を見送った。 *** 輝信さんと別れた僕は、その足で――久しぶりに、母さんのいる病院へと向かった。 バスの振動に揺られながら、窓に映る自分の顔が、やけに強張っていることに気づいた。もう何度も来ているはずの場所なのに、今日は心が落ち着かない。大切な報告があるからか、それとも、これまで
「……よく戻ったな」 長老の家の前に立ったとき、あの慈愛に満ちた声が出迎えてくれた。 琴音様のことを村人たちに伝え終え、僕はひとり、この家を訪れていた。理由はふたつ。ひとつは――琴音様が告げた、美琴の転生の話を伝えるため。この人にとっても、美琴はきっと、大切な存在だったから。 「長老……琴音様から、美琴についてのお話がありました」 「ふむ……聞こう」 僕は、琴音様が語った言葉をそのまま伝えた。十数年後、美琴は再びこの世に生を受け、僕のもとへ還ってくる、と。 「琴音様が……そんなことを……?」 長老は、にわかには信じがたいといった表情で目を細めた。だが、その深く刻まれた皺の奥で、小さな希望の灯火が宿るのが見えた。 僕は静かに頷く。 「はい。あのとき、琴音様は力強くそう言ってくれました。……あの瞳に、迷いはありませんでした」 ゆっくりと、深く頷いた長老の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。 「そうかぁ……そうかぁ……」 何度も繰り返されるその声に、どれほどの想いが込められていたのか――僕は、その涙の重みを、ただ静かに見守った。 そして――もうひとつ。 「長老、もうひとつ……お願いがあります」 「ほう? なんじゃ?」 「沙月さんの情報を……すべて、正しく書き直してほしいんです」 しばしの沈黙の後、長老は目を閉じて静かに問い返す。 「それは……構わんが、なぜ今になって?」 「沙月さんのこの村での記録は、偽られたままです。本当のことが、何ひとつ残されていない……。千鶴さんが、彼女の子孫である僕達を守るためにそうしたのは分かります。でも、今はもう――その呪いも、終わったから……」 かつて琴音様が残した呪いは、もう祓われた。今の村には、彼女を知る人もいない。それなら、もう……彼女の人生を”真実”として刻んでもいいはずだ。 「ふむ……。では、文献を作り直そう」 そう言って、長老は真っ直ぐ僕を見つめ、力強く頷いてくれた。その声に、ひとかけらの迷いもなかった。 「ありがとうございます」 知らず知らずのうちに詰めていた息が、そっと吐き出された。 「して……その沙月様について詳しく話してくれるか?」 「もちろんです」 そうして、僕は語りはじめた。あの人が歩んできた、千年の祈りの軌跡を。温泉郷で呪われた霊たちを鎮めたこと。僕に呪いが宿って
緑色の清浄な焔が、確かに迦夜の禍々しい霊体を、その奔流の中へと包み込んだはずだった。けれど……目の前にいる“アレ”は、僕たちの、か細い希望を嘲笑うかのように、そんな甘い存在ではなかった。『……ゥゥア゙ア゙ア゙ア゙ア゙……ッッ!!!』皮膚が焼け爛れるような、凄まじい苦悶の声を上げながらも、緑色の焔にところどころその身を焦がされた迦夜が、その瞳に、消えることのない憎悪の炎を宿したまま、まだその場に黒い影のようにうずくまり、確かに存在していた。祓い切れていない……!「嘘……。私の、今の全力でも……ダメ、なの……?」美琴の震える声が、絶望の色を帯びる。彼女は、霊力の大部分を使い果たした
「──穢れを清浄なる焔にて……」 僕の背後から、美琴の凛とした詠唱が空気を震わせる。その声に宿る霊力が、穢れた空間に波紋を広げていく。 迦夜の目が、カッと見開かれた。その金色の瞳に、初めて焦燥の色が浮かぶ。詠唱に込められた力の危険性に、気づいたのだろう。 させないとばかりに、迦夜は美琴へと一直線に飛んでくる。 「星燦ノ礫!!」 僕は、その間に割り込むように、牽制の礫を放った。 迦夜は鬱陶しそうに僕を睨みつけ、それをひらりとかわす。だが、立て続けに術を使った影響で、僕の呼吸は荒くなり、肺が焼けるように痛い。血の味が、口の中に広がっていく。 その隙を、迦夜は見逃さない。 にやぁ、と
『どうして、私達だけがこんな目に合わなければならかったのだ』脳内に、冷たく響く声がした。それは、どこまでも深い悲しみに濡れていた。(私……達……?)その、複数形であることに、僕は一瞬だけ思考を奪われる。すると、次の瞬間、その声は、燃えるような怒りに変わった。『なぜだ!? 許せない!』『憎い…!こんな運命を強いた琴音も、白蛇も……!』『お前も巫女の末裔なのだろう? それなのに……』怒りの声は、一つの問いを、僕に突きつけてきた。『『なぜ、呪われていないのだ?』』『許せない。憎い、憎い、憎い』ドス黒い、底なしの感情が、僕の心を渦巻き、掻き乱していく。(…違う……!!僕が呪わ
僕が咄嗟に展開した桜色の結界に守られながら、美琴が静かに、だが力強い声で詠唱を紡ぎ始めた。 「燦星の輝きを我が手に集めよ……我が祈りにて穢れを砕く珠を放て!」 詠唱を終えた瞬間、彼女の華奢な身体から、眩いほどの紫色の霊気が迸った。それは、迦夜が纏う禍々しい瘴気と同じ源流にありながら、どこまでも清らかに澄んだ、浄化の輝きを放っている。 「星燦ノ礫…っ!!」 美琴の指先から、鋭い紫色の光弾が、閃光となって弾け飛ぶ。 それを見た迦夜は、さっきまでの般若のような怒りの形相から一転、なぜか、楽しそうににやりと口角を吊り上げた。 (何を考えてるか分からない……でも、僕にも出来る事がある!)