All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 381 - Chapter 390

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「労働環境とかモチベーションとか、難しい言葉はよくわかんないです。ウチら、毎日ホテル中を走り回って、正直すっごく大変です。足はパンパンになるし、シーツの交換だけで腰が痛くなる日もあります。大浴場の掃除なんて、汗だくになりますからね」 実加の言葉に、質問をした投資ファンドの男が怪訝そうに眉をひそめた。 現場の不満を暴露し始めたと勘違いしたようだ。 しかし実加の瞳は眩しいほどにキラキラと輝いていた。「でも、お客さんが『ありがとう』って笑ってくれたり、『ここのベッドは最高だね』って言ってくれたりすると、疲れなんて本当に全部吹き飛ぶんです。この前も、ロビーで迷子になった子を探してホテル中を駆け回ったんですけど、その子のお母さんが泣いて喜んでくれて。そういうの、機械には絶対できないでしょ?」 実加は最前列の役員席に座る翔吾を、遠慮なく指差した。「あそこにいるメガネみたいな頭でっかちもいて、細かいルールばっかり言ってくるからムカつく時もあるけど……でも、みんなホテルのことが大好きなんです。お客さんのために何かしたいって、本気で思ってる奴らばっかりなんです」 会場から、ドッと温かい笑いが起こった。「おいおい、役員を頭でっかちのメガネ呼ばわりかよ」「あれ? あの説明役の人は、別に役員ではないんじゃない?」「でも会社の偉い人でしょ。社長の隣に座っているし」「入社半年の新人が、あんなに堂々と相手をいじれるのか。風通しが良さそうな職場じゃないか」「半年でそこまでホテルのことを好きになれる職場環境ってことだろ。士気が低いなんてとんでもない」「あの子、この前うちの部屋にタオル持ってきてくれた子だ。笑顔がすごく良くてねえ」 個人株主たちの間で、笑い声に混じって好意的な囁きが広がる。 先ほど鋭い質問を投げかけた投資ファンドの男も、実加の飾らない言葉の前に毒気を抜かれたようだ。口元をわずかに綻ばせていた。 実加はマイクを握る手にぐっと力を込めた。「ウチは、今のサンクチュアリが最高だって思ってます。だから、
last updateLast Updated : 2026-06-30
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「これより、第1号議案、現経営陣の取締役選任の件についての投票結果を発表いたします」 議長の声がホールに響く。「賛成……過半数。よって、本議案は原案通り可決されました」 一瞬の空白が落ちる。それが意味するものを全員の脳が理解するまでの、ごくわずかな時間。 それはアーク・リゾーツの現体制、隼人を社長とした今まで通りの布陣がこれからも続くという意味だ。「おおおおおっ!」「やったぞ!」 後方の見学席から、従業員たちの歓喜の声が爆発した。実加が両手を高く突き上げて飛び跳ね、周囲のスタッフと肩を叩き合っている。 小夜子の胸に、安堵の息が深く吸い込まれる。肩の力がふっと抜けていく感覚があった。 議長がさらに言葉を続ける。「集計の詳細をご報告いたします。個人株主の皆様から圧倒的なご支持をいただいたことに加え、本日、大口の投資ファンドの皆様の大部分から、会社側提案への賛成票が投じられました。これにより、グラン・ヘリックスによる買収提案は完全に否決されました」 その言葉に、会場の視線が一斉に御子柴へと向けられた。 グラン・ヘリックスの日本支社長である御子柴は、革張りの椅子に座ったまま完全に硬直していた。 彼の顔からは一切の血の気が引き、気味の悪い土気色に染まっている。「な、ば、馬鹿な……。完璧なシミュレーションだったはずだ。絶対の自信を持っていた数字の論理が、あんな小娘たちの感情論に負けるはずがない……!」 御子柴の唇が醜く引きつり、掠れた声が漏れ出る。 彼の手は書類を乱暴に握りつぶしていた。 彼は縋るような目で、最前列の投資ファンドの担当者たちを見た。 しかし昨日まで彼に愛想笑いを浮かべていたスーツ姿の男たちは、氷のように冷ややかな視線を返すだけだった。「御子柴さん、あなたの提案はリスクが高すぎました。LTVの観点が完全に欠落している」 ファンドの代表者が、まるで不用品を見るかのような冷徹な
last updateLast Updated : 2026-07-01
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 会場の個人株主たちから、容赦のない野次が飛んだ。「帰れ! 乗っ取り屋!」「人の心を馬鹿にするからこういう目に遭うんだ!」「二度とアーク・リゾーツに関わるな!」「あんたみたいな経営者は、業界のダニだ!」 四方八方から罵声が浴びせられる。 絶対の自信を持っていた数字の魔法は粉々に打ち砕かれ、味方だと思っていたファンドからも完全に見放された。 御子柴は周囲の冷ややかな視線と非難の言葉を一身に浴びて、一切の反論もできずに顔面を蒼白にさせる。 エリート街道を歩んできた彼の輝かしいキャリアに、致命的な汚点が刻まれた瞬間だった。 本社からの凄惨な追及、業界からの完全な追放。 今後の転落とみじめな末路の予感が、鋭い刃のように彼の首筋に突きつけられている。「くそっ……! くそぉぉぉっ!」 御子柴は誰にともなく喚き散らしながら、身をよじるようにして役員席を飛び出した。 壁にぶつかりそうになりながら、逃げるように這々の体でホールの出口へと消えていく。 その後ろ姿は、エリート然としていた少し前までの威厳は少しも残っていない。 あまりにも滑稽でみじめだった。「終わったな」 隼人が小夜子の肩にぽんと手を置いた。「ええ。私たちのサンクチュアリを、守り抜くことができましたわ」 小夜子は隼人を見上げ、柔らかな笑みを浮かべた。 隼人もまた、安堵の笑みを返す。「良かった……本当に、良かった」 隣では翔吾が、タブレットを抱えながら深く息を吐き出していた。 翔吾が目を上げた先では、実加が従業員の仲間たちと一緒に拳を突き上げている。 翔吾も小さくガッツポーズを取ると、実加は満面の笑みで応えた。 ◇  それから数日後。 ホテル『サンクチュアリ』のロビーには、柔らかな朝の光がたっぷりと降り注いでいた。
last updateLast Updated : 2026-07-01
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 AIの効率化と人ならではの温かさ。2つの要素を両立させるため、新たなハイブリッド構想が立ち上がっている。 その第一歩として、バックオフィスのシステムが効率よく稼働し始めているのだ。 翔吾は時折、フロントスタッフと画面を見せ合いながら、業務の改善点について話し合っている。 その姿にかつての人を寄せ付けない効率主義の姿勢はない。人と人との関係を大事にしている様子が見て取れた。 小夜子と隼人は、ロビーの中央に並んで立っていた。 小夜子の上品なグレーのジャケットが、朝の光を受けて柔らかくもきりりとした印象を与える。「山内は、朝からエネルギーが有り余っているな。翔吾のやつも、いつもよりタイピングの音が軽い」 隼人が周囲を見渡しながら、面白そうにニヤリと笑った。「ええ。皆、この場所を守り抜いたという誇りが、新たな活力になっているのだと思います」 小夜子は深く頷いた。 彼女の目には、忙しくも楽しそうに立ち働くスタッフたちの姿が映っている。「これからが本番だ。株主たちに約束した『真のホスピタリティ』と『ハイブリッド構想』を形にしていかなくてはならない。忙しくなるぞ」「望むところですわ。従業員の皆が笑顔で働き、お客様が心から安らげる場所。それを作り上げるのが、私たちの使命ですもの」 小夜子の視線の先で、一組の老夫婦がフロントへ向かって歩いてくる。 毎年の結婚記念日に必ず宿泊してくれる、大切なお得意様だ。「いらっしゃいませ、遠藤様。今年もお会いできて光栄です」 小夜子が一歩前に踏み出し、深く優雅にお辞儀をする。 隼人もそれに続いた。 老人が微笑む。「ああ、今年もよろしく頼むよ。色々と大変だったみたいだが、やっぱりここに来るとホッとするねえ」「ありがとうございます。皆様の安息地であり続けるために、私たちはここにおります」 小夜子は顔を上げて、花の咲くような笑みを向けた。 買収の危機を乗り越え、サンクチュアリは結束を強めた。 この場所には、
last updateLast Updated : 2026-07-02
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376:当然の報い

 夏の空は重く垂れ込めて、窓の外では生ぬるい雨がガラスを打っていた。 グラン・ヘリックス日本支社の社長室にて。  最上階の角部屋に位置する広大な空間で、御子柴は黒革の特注チェアに深く身を沈めるように腰掛けていた。  彼の顔色はひどく悪い。  かつての鋭利な眼差しは濁り、視線はあてどなく宙をさまよっていた。 アーク・リゾーツの株主総会での敗北から、数日。  彼の机の上には、処理すべき書類が手つかずのまま山積みになっている。 御子柴は、手元のタブレット端末の画面を何度もスワイプした。  表示されているのは、経済ニュースのトップ見出しだ。『外資系ホテルチェーン、グラン・ヘリックス。日本支社長主導で過去の買収案件で違法行為の疑い。インサイダー取引や粉飾決算強要か』 見出しの下には、御子柴自身の顔写真と、グラン・ヘリックスが過去数年間に行ってきた強引な買収の手口が詳細に記されていた。 ターゲット企業の株価を意図的に操作した疑いが書かれている。  さらには対象企業内部の人間を脅迫し、財務データを改ざんさせたという告発まである。  他にも多数の疑惑案件が紙面を飾っていた。 もちろん、どれも身に覚えのあるものばかりだ。  捏造ではない。だからこそ問題だった。(なんだ、これは……。一体どこから漏れた) 情報管理は完璧だったはずだ。なのに何故。 御子柴はネクタイの結び目を乱暴に引き下げた。首元にまとわりつく汗が不快だ。 バンッ、と扉が開く。顔面を蒼白にさせた秘書が転がり込んできた。「支社長! アメリカ本社から緊急のビデオ通話が入っています。至急お繋ぎしろと……!」「わかっている、繋げ」 苛立ちに任せて声を荒らげた。  彼にはもう、表面を取り繕う余裕すらなかった。 デスクの大型モニターが切り替わり、アメリカ本社のCEOをはじめとする重役たちの険しい顔が映し出された。  彼らの背後には、マンハッタンの冷たい夜景が広がっている。「ミスタ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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「我々はそのような違法行為を承認した覚えは一切ない。すべては日本支社長である君の独断と暴走にすぎない。我々グラン・ヘリックスはコンプライアンスを最重視する企業だ。君のような人間を組織に置いておくわけにはいかない」「な、何を言っている! 利益が出ていた時は称賛しておいて、表沙汰になった途端にトカゲの尻尾切りか! 私一人に責任を押し付ける気か!」 御子柴はモニターに向かって身を乗り出し、唾を飛ばすように叫んだ。 しかし画面の向こうの重役たちは、微動だにしない。 まるで汚物を見るかのような視線が、御子柴を突き刺しているだけだった。「君の解任は、先ほどの緊急取締役会で全会一致で決定した。後任はすでに手配している。速やかにオフィスから立ち去りたまえ。二度と我々のブランド名を口にするな」 プツン、という無機質な音と共に、モニターの電源が強制的に落とされた。 ブラックアウトした画面に、御子柴の歪んだ顔が映り込んでいる。 髪は乱れ、目は落ち窪んで、ひどい有様だ。 かつて自信と気迫に満ちあふれていた男は、みじめで哀れな表情をしていた。「ふざけるな……! 私がどれだけ、この会社のために尽くしたと思っている……!」 御子柴がデスクを拳で叩きつけた直後、社長室の扉が再び開いた。 入ってきたのは秘書ではなく、ダークスーツを着た数人の見知らぬ男たちだった。 先頭に立つ初老の男が、内ポケットから身分証を提示する。「御子柴さんですね。東京地検特捜部です。金融商品取引法違反、および強要の容疑で同行願います」「ば、馬鹿な……。私は何も知らない! 本社の指示だ! 本社に聞いてくれ!」 御子柴は椅子から立ち上がり後ずさった。けれど逃げ道はどこにもなかった。「詳しいお話は、署の方で伺いましょう」 捜査員たちが御子柴の両脇を固める。 腕を掴まれた感触に、御子柴の顔から完全に血の気が引いた。逃げ道はないのだと実感するのに、時間はかからない。
last updateLast Updated : 2026-07-03
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 革張りのソファに座る隼人が、手元のコーヒーカップをローテーブルに置く。  呆れたようなため息をついた。「他人の心を蔑ろにして、数字だけを追い求めた当然の末路だな。本社からもあっさりと切り捨てられるとは」 向かいのソファに座る小夜子は、テレビ画面から視線を外して窓の外の雨模様を眺めた。「ええ。ですが、あのまま買収が進んでいれば、サンクチュアリも同じように数字の道具として解体されていたかもしれませんわ」「そうだな」 隼人はネクタイを少し緩めた。「翔吾のやつが、グラン・ヘリックスの過去の買収案件の不審な金の流れに気づいてくれたのが大きかった。あいつが組み上げたデータをもとに、俺がツテを頼って証拠を裏付け、メディアにリークした。ギリギリのタイミングだったが、結果的に奴の足元をすくうことができた」「翔吾さんの情報収集能力と、隼人さんの行動力。お2人の見事な連携でしたわ」 小夜子は柔らかな笑みを浮かべる。 御子柴の所業をリークしたのは、隼人だ。  彼にしてみれば、グラン・ヘリックスと御子柴相手に手加減をする理由はない。  逆恨みで再び攻撃されるのを避けるためにも、御子柴という人物を徹底的に叩きのめした。二度と起き上がれないように。 同時にグラン・ヘリックス本社には、強く釘を刺した。 御子柴を庇い立てしたり、アーク・リゾーツへの攻撃を再開するのなら、この情報をより大きく炎上させて本社ともども追い込む、と。 もっとも、御子柴の身から出た錆でもある。  調べれば調べるほどに黒い案件が出てきて、隼人は呆れながらもゾッとしたものだ。  この汚れた牙がサンクチュアリを食い破らずに、本当に良かったと感じた。 そうして買収騒動という暗いトンネルを抜け、サンクチュアリは再び自分たちの足で歩き出す権利を勝ち取った。  人の温もりと絆を大切にするという経営理念は、決して間違っていなかった。 ホテル『サンクチュアリ』は守るだけの価値があるものだった。  小夜子はそれを実感している。「雨降って地固まる、ですね。私たちはこれからも、お客様と従業員のためのホテルを作り上げていきましょう」「ああ、そのとおりだ。ここを家として、皆の幸福を守っていかなければな」 小夜子の言葉に、隼人も力強く頷いた。 窓の外の雨は未だ振り続けている。  けれど空の端は明るく、青
last updateLast Updated : 2026-07-03
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379:旅立ちの季節

「きれいですね……」 愛する夫の体温を感じながら眺める虹は、小夜子にはサンクチュアリへの祝福のしるしのように見えたのだった。 ◇  それから半年と少しが過ぎた。 季節は巡り、柔らかな春の陽射しが町を包み込んでいる。 ホテル『サンクチュアリ』の業績は、買収騒動の直後から順調に右肩上がりの推移を見せている。 あの株主総会での小夜子や実加の言葉は、好意的に報道された。  サンクチュアリは「血の通ったおもてなしのホテル」として、新規の予約もひっきりなしに入っていた。 春の風が吹き抜けるバックヤードの休憩スペースで、小夜子と隼人が業務の合間のコーヒーを楽しんでいると、翔吾が足早に近づいてきた。「義姉さん、兄さん。少しよろしいですか」 翔吾の銀縁眼鏡の奥の瞳は、いつもより少しだけ和らいでいるように見えた。 小夜子と隼人を義姉と兄と呼んだ。  普段であれば総支配人と社長と呼ぶのに、その違いに小夜子は小さく首を傾げた。「どうした、翔吾。システムのエラーか?」 隼人が尋ねると、翔吾は首を横に振った。「いえ。私事なのですが、ご報告がありまして」 翔吾は居住まいを正し、2人の前に立った。「先日、僕の口座の資金整理が完了しました。アーク・リゾーツからいただいた半年分の給料とボーナスのおかげで、母が勝手に使い込んでいた大学の授業料と生活費の穴埋めが、全額終わりました。これで退学の危機は回避できました」 翔吾の母親である真澄は、翔吾の学費にまで手をつけていたのだ。その事実を知った時、翔吾は深い絶望を抱えていた。  誰にも頼れず、初めて会う異父兄に頭を下げに来たのが、彼の物語の始まりだった。「そうか。本当によかったな、翔吾」 隼人が目を細めて弟を見つめる。「はい。これもすべて、兄さんが僕にこのホテルで働く場所と、自分でお金を稼ぐチャンスを与えてくれたおかげです。義姉さんも、僕を受け入れてくださって本当にありがと
last updateLast Updated : 2026-07-04
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「社長ー! 総支配人ー! あとついでに、メガネ!」 廊下の向こうから、ドタドタと足音を立てて実加が駆け込んできた。制服のスカートを翻し、息を切らしている。「どうしました、実加さん。廊下は走らない決まりですよ」 小夜子がたしなめるが、実加の顔は満面の笑みで輝いていた。「受かりました! 正社員の登用試験、合格です! ウチ、今日からサンクチュアリの正社員です!」 実加が合格通知の書かれた紙を両手で高く掲げる。「おお、やったな。おめでとう」「おめでとうございます、実加さん。あなたの毎日の頑張りが認められた結果ですね」 隼人と小夜子が拍手を送ると、実加は「えへへ」と鼻の下をこすった。「これで理玖に、もっと美味いもん食わせてやれます。ウチ、これからもガンガン働きますからね!」 実加は隣に立つ翔吾の方を見た。「おいメガネ。ウチも正社員になったんだから、これからはもうちょっと対等に口きかせてもらうからな」「雇用形態が変わろうと、業務上のルールは絶対です。調子に乗ってミスをしないように気をつけてください」 翔吾はそこまで言って、ふと眉を寄せた。「というか実加さんは、今まで僕を対等だと思っていなかったんですか? 対等じゃないと思っていたのに、あの態度だった?」「あはは! バレたか!」 実加は楽しそうに笑い声を上げる。「メガネ、お前はウチの対等な仲間だよ。当たり前じゃん。大学に戻っても、ここを辞めるわけじゃないんだろ。これからも頼むぜ、相棒!」 実加が勢いよく翔吾の背中を叩くと、翔吾はつんのめった。足をもつれさせている。「うわ! やめてくださいよ、もう!」 メガネがずれてしまって、慌てて直している。 それを見た実加が、カラカラと笑った。「あー、お前、もっと体鍛えた方がいいって。ヒョロガリだもんな」「余計なお世話です!」 憎まれ口を叩き合いながらも、2人の間には笑顔が絶えない。 その賑やかな
last updateLast Updated : 2026-07-04
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 翔吾はデジタルスケールで細かく塩を量りながら、神経質な声で指摘した。  彼の目の前には、温度計を突き刺して徹底的な温度管理のもとで火を通している特製ローストビーフの塊がある。  隣のコンロでは、赤ワインと香味野菜を煮詰めた精密なソースが静かに泡立っていた。「うるさいなー! 料理は気合いと愛情と目分量で美味くなるんだよ! いちいち量ってたら日が暮れちまうだろうが!」 実加は特大のパエリアパンの前に立ち、オリーブオイルを豪快に回し入れている。  刻んだニンニクと玉ねぎを炒め、エビ、イカ、ムール貝といったシーフードを次々と放り込む。  サフランを入れたスープを一気に注ぎ入れると、厨房に食欲をそそる香りが立ち込めた。「気合いで旨味が科学的に変化するわけがありません。あなたのその適当な調理法は、再現性に乏しい」「再現性なんて知るか! 美味けりゃいいんだよ! ほら、トマトも入れとけ!」 実加がざく切りにしたトマトを、翔吾の鍋に放り込む。「ああっ、水分の計算が狂います! 余計なことをしないでください!」 エプロン姿の2人がフライパンとトングを持ったまま口喧嘩をしていると、厨房の隅に置かれたベビーサークルの中から、舌足らずな明るい声が響いた。「かーちゃん! しょーご! がんばれぇー!」 1歳6か月になった実加の息子、理玖だ。  サークルの柵に掴まり立ちをして立ち上がった後、小さな両手をパチパチと叩いている。 可愛らしいエールに、翔吾と実加は顔を見合わせた。 つい先程までの喧嘩腰はすっかり消えてしまっている。「……ほら、理玖も応援してくれてるし。喧嘩はやめて、とっとと作ろ」 実加が少し照れくさそうに言うと、翔吾も小さく咳払いをした。「……そうですね。仕上げに入りましょう」 相反する調理スタイルの2人だったが、完成した料理は見事なものだった。 翔吾のローストビーフは完璧な火入れで断面が美しい薔薇色に染まり、精密なソースが肉の旨味を最大限に引き出している。 実加のシーフードパエリアは、魚介の出汁をたっぷりと吸い込んだ米が黄金色に輝き、豪快な盛り付けが食欲をそそった。 食堂に料理が運ばれると、スタッフたちから歓声が上がった。「うわ、これすごい! 翔吾くんのローストビーフ、口の中でとろける!」「実加ちゃんのパエリアも最高! 魚介の旨味がすっ
last updateLast Updated : 2026-07-05
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