All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 391 - Chapter 400

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「バカ、何言ってんだ。料理は愛情だよ! 食ってくれる人が喜ぶ顔を想像して作るのが、一番だろうが!」 実加も譲らない。「またやってる。いつものことだね」「喧嘩するほど仲がいいってか?」 言い合いをする彼らを、仲間たちはニコニコと笑って見守っていた。 宴もたけなわとなり、食堂のあちこちで楽しげな笑い声が弾けている。 翔吾は少し喧騒から離れた壁際のテーブルで、グラスのウーロン茶を飲んでいた。  そこに2杯目のパエリアを平らげた実加がやってきて、隣の椅子にどさりと座った。「あー、食った食った。やっぱ自分で作った飯は美味いね」「僕のローストビーフもたくさん食べていたの、見逃していませんが」「美味かったからいいじゃんか。ケチケチすんなよ」 実加は笑い飛ばし、テーブルの上に腕を組んだ。「あんたさ、来月から大学に戻るんだよね」「ええ。籍は残してありましたから。これからは学業が本分になります」「そっか」 実加はグラスの水滴を指先でなぞりながら、ふと声のトーンを落とした。「大学に戻ったら、ホテルに来る回数、減るんだろ」「システムの保守があるので週に何度かは顔を出しますが、今までのように毎日いるわけではありませんね。フルタイム勤務でない以上は、社員寮も出ざるを得ませんし」「ふーん……」 実加は顔を伏せて、ぽつりと言った。「なんか、いなくなると寂しいな」 普段は憎まれ口ばかり叩いている実加の、予想外に素直な言葉だった。 翔吾は手に持っていたウーロン茶のグラスを口に運ぼうとして、ピタリと動きを止めた。  眼鏡の奥の瞳が、少しだけ見開かれている。「な、何を言っているんですか。僕はただのアルバイトに戻るだけで、完全にいなくなるわけでは……」「わかってるよ。でも、毎日顔合わせて文句言い合ってたのがなくなるのかと思うとさ。ちょっとだけ、ね」 実加が顔を上げてニッと笑う。  翔吾は実加のまっすぐな視線を受け止めきれず、顔を赤くして視線を泳がせた。「……業務に支障が出ないよう、マニュアルは完璧に整備しておきます。あなたのような大雑把な人間でもミスをしないように」「なんだと、一言多いんだよ!」 実加が翔吾の肩を軽く小突く。「仕事に来る時は会いに来いよ。理玖も会いたがるだろうから」「ええ、もちろんです」 食堂の賑やかな笑い声に包まれながら、2
last updateLast Updated : 2026-07-05
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383:エピローグ

 高く澄み切った夏の空から、心地よい風が吹き抜けていく。 翔吾の大学復帰から数ヶ月が経過し、さらに季節は巡っていた。 ホテル『サンクチュアリ』のバックヤードは、今日も活気に満ちている。「そこのリネン類、シワにならないようにきちんと畳んでおいて。お客様が最初に触れるものなんだから、手抜きは厳禁だよ」 後輩スタッフにテキパキと指示を出しているのは、実加だ。 彼女は正社員登用試験を見事に突破し、今ではチーフとして清掃スタッフたちをまとめる立場になっていた。 髪を後ろで1つに束ねて、はっきりとした目鼻立ちには自信がみなぎっている。 パリッとした制服の着こなしも板について、以前よりも洗練された身のこなしで立ち働いていた。(ウチもずいぶん偉くなったもんだ) 実加は内心で誇らしく思いながら、清掃のチェックシートにペンを走らせた。 そこへ裏口のドアが開いて、一人の青年が入ってきた。「お疲れ様です、実加さん」 グレーのスーツに身を包んだ翔吾である。 ホテル『サンクチュアリ』で働き始めた頃の彼は、スーツに着られているような青年と少年のはざまの年頃だった。 けれど今は違う。 ホテルマンとしての所作を身につけた、立派な青年だ。 眼鏡の奥の瞳は理知的で、細身のシルエットはどこか冷たい印象を与えがちだが、今の彼の声色には以前のようなトゲはなかった。 彼は無事に大学へ復学し、平日は学業に励みながら、週末はこのようにホテルのシステム保守とフロント業務のサポートにやって来る。「お、メガネ。大学はどうしたんだよ」 実加がバインダーを小脇に抱えながら尋ねる。「今日は午後の講義が休講になったので、少し早めに来ました。システムログの確認をしておきたかったので」「相変わらず細かいねぇ。休める時は休めばいいのに」「あなたのその大雑把な性格とは違うんです。万が一のトラブルを未然に防ぐのが僕の仕事ですから」「なんだと。ウチはチーフとして、ホテルの美化を完璧に保ってるんだよ」
last updateLast Updated : 2026-07-06
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「あ? なんだそりゃ。そりゃ総支配人は上司だけど、師匠だからな。大事な師匠だ。師匠と飯食えるなら嬉しいけど」 実加は不思議そうに首を傾げる。「じゃあ決まりですね。仕事上がりに理玖くんを連れて、ロビーに集合です」「はいよ」 翔吾はそれだけ言うと、耳まで赤くしてそそくさとシステム管理室の方へ歩き去っていった。(なんだってんだ) 実加は翔吾の背中を見送りながら、小さく息を吐き出す。 理由はよくわからないが、美味しい食事ができるなら悪くない。 実加は少しだけ軽い足取りで、次の業務に向かった。 ◇  サンクチュアリの総支配人室には、明るい夏の陽射しが差し込んでいた。 大理石張りのローテーブルの上には、今後のサービス向上策や季節のイベント企画をまとめた資料が広げられている。 隼人と小夜子は、真剣な表情でそれらの数字やスケジュールを追っていた。「リピーター向けの特別プランは、この内容で進めよう。顧客満足度のアンケート結果も良好だ」 隼人が書類に目を通しながら言う。 彼の整った顔立ちには、経営者としての自信と頼りがいのある雰囲気が満ちていた。 広い肩幅を包む仕立ての良いスーツが、彼の存在感を引き立てている。「ええ。レストランの特別メニューも、シェフが腕によりをかけて試作を重ねてくれていますわ。きっとお客様にも喜んでいただけるはずです」 小夜子は柔らかな笑みを浮かべて同意した。艶やかな黒髪が、彼女の顔の動きに合わせて滑らかに揺れる。 会議が一段落したところで、隼人は立ち上がった。「少し休憩にしよう」 彼はサイドテーブルに用意されていたハーブティーのポットを手に取り、小夜子のカップにお茶を注いだ。 カモミールとリンデンの甘い香りが室内に広がる。「ありがとう、隼人さん」 小夜子がカップを受け取ろうとすると、隼人は小夜子の背中に手を回し、ふかふかのクッションを絶妙な位置に
last updateLast Updated : 2026-07-07
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「大丈夫ですよ。隼人さんがいつも気にかけてくださるおかげで、体調はとても良いのです」 小夜子はお腹にそっと手を当てて、慈しむような表情を見せた。「そうか。少しでも疲れたら、すぐに言うんだぞ。ホテルの経営も大事だが、俺にとってはお前とこの子が一番大切だからな」 隼人は小夜子の隣に腰を下ろし、彼女の手を優しく握る。 小夜子もその大きな手を握り返した。 2人の間に、甘やかで温かい空気が満ちていく。 1年前の、あの血みどろのような企業買収の危機。 一時はホテルを奪われかけ、すべてを失う覚悟もした。 けれど従業員たちと力を合わせて、互いを信じ抜くことで、彼らはサンクチュアリを守り抜いたのだ。「本当に、色々なことがありましたね。御子柴さんとの戦いは、思い出すだけでも胸が締め付けられそうになります」「あいつの残した爪痕は大きかったが、俺たちはそれを乗り越えた。このホテルは、ただの建物じゃない。俺たち家族の、従業員全員の『聖域』になったんだ」 隼人は力強く断言する。「ええ、その通りです。翔吾さんも大学に戻って、本当に良い顔をするようになりました。実加さんもチーフとして立派に成長しています」 小夜子は嬉しそうに微笑んだ。「ああ。あいつらを見ていると、俺たちも負けていられないと思うよ。生まれてくる子供に、胸を張れるようなホテルを作り続けていこう」「もちろんです。この子と一緒に、サンクチュアリの未来を見守っていかなければ」 2人は窓の外に広がる空を見上げた。 これから生まれてくる新しい命への期待と、共に築き上げていく未来への希望が、2人の胸を満たしていた。 ◇  夕方。太陽が西の空に沈みかけ、世界を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。 ホテル『サンクチュアリ』のエントランス前の大理石の床には、夕焼けの光が長く伸びた影を落としている。 食事会に向かうため、業務を終えた小夜子と隼人がエントランスに姿を現した。
last updateLast Updated : 2026-07-07
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「しょーご!」 理玖が無邪気に笑いながら、小さな両手を伸ばす。 彼は翔吾のスーツの裾をぎゅっと掴むと、もう片方の手で実加のスカートを引っ張った。「こら理玖、引っ張っちゃダメだろ。メガネのスーツがシワになっちゃうよ」 実加が慌てて理玖の手を剥がそうとするが、理玖は「しょーご!」と満面の笑みで翔吾を見上げている。 翔吾は一瞬戸惑ったような顔をした後、少しだけ屈み込んで、理玖の小さな頭をそっと撫でた。「構いませんよ。シワくらい、クリーニングに出せば直りますから」「……あんた、理玖には甘いよね」 実加が呆れたように言うが、その表情はどこか嬉しそうだ。「そりゃそうですよ。理玖くんは僕がミルクをあげて、オムツも変えたんですから。半分育ての親みたいなものです」「まあなー。メガネには世話になったよ。ありがとな」「な、なんですか。今日に限って素直で」「あん? 素直で悪いか?」 いつもどおり口喧嘩を始めた2人の間で、理玖はニコニコしている。 これが彼らの通常運転だと、小さいこの子も理解しているのだ。「さ、行こうぜ」 翔吾と実加は、理玖を間に挟んで歩き出す。 理玖は2人の手をしっかりと握り、楽しそうに跳ねるように歩を進めていた。 その光景を後ろから見守りながら、小夜子は隼人の腕にそっと手を添えた。「ふふっ。まるで本当の親子のようですね」「そうだな。翔吾もすっかり丸くなった。昔のあいつなら、子供に触られただけで顔をしかめていたはずだ」 隼人は感慨深げに頷く。 5人は歩みを止め、一度振り返ってホテルの看板を見上げた。 真鍮製のプレートに刻まれた『Sanctuary』の文字が、夕日の光を受けて黄金色に輝いている。 ここにいる人々は、それぞれが過去の傷や困難を抱えていた。 家族を信じられなかった翔吾、1人で理玖を育ててきた実加。そしてホテルを守るために多大な努力をしてきた隼人と小夜子。
last updateLast Updated : 2026-07-08
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387:離れて気づく心

 ――ピピピッ、ピピピピッ。 無機質な電子音が、六畳一間のワンルームに鳴り響く。 翔吾はアラームを止めて、ベッドから身を起こした。 秋の気配が深まり、朝の空気はそろそろ冷たい。 グレーの遮光カーテンを開けると、白み始めた空が広がっていた。 翔吾はキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。 豆が挽かれて、ドリップされる芳醇な香りが部屋に満ちていく。 翔吾の部屋には、生活感というものが極端に欠けている。 本棚には大学のテキストや情報工学の専門書が整然と並び、テーブルの上には高性能なノートパソコンとデュアルモニターが置かれているだけだ。 壁にカレンダーやポスターはなく、装飾品や趣味の品は一切ない。白い壁紙がむき出しになっているだけだ。 強いて言うならば、筋トレ用具がいくつか置いてあるくらいか。 実加に「ヒョロガリ」呼ばわりされたのが気になって、翔吾は体を鍛え始めた。(全く失礼な話です。僕とて鍛えればいいだけのこと) 今日も素早く着替えると、1時間ほどの早朝ランニングをこなす。 公園の周囲を周り、河川敷まで足を伸ばした。 秋の朝の空気は冷たく、火照った体に心地よい。 翔吾は軽く息を上げながら走っていく。「よう、兄ちゃん。今日も走っているな」 犬の散歩の老人とすれ違うと、話しかけられた。 翔吾は立ち止まった。この老人とは挨拶を交わす仲である。「ええ。トレーニングは反復練習が大事ですから」「ははは、若者は元気でいいねえ。俺くらいの年になると、こいつの散歩がせいぜいさ」「ワン」 老人の言葉を理解したかのように、犬が合いの手を入れる。「歩行も立派な運動ですよ。毎日その子の散歩をしていれば、足腰の衰えがカバーできるでしょう」「おお、そうだな。俺が健康なのも、こいつのおかげってな。じゃあ兄ちゃん、頑張ってくれ」「ワン、ワン!」 老人と犬に見送られ、すっかりお馴染みとなった近所の風
last updateLast Updated : 2026-07-09
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(今日の講義は4コマ。その後は図書館でレポートの資料集めだな。午後はホテルのサーバーのセキュリティパッチを当てるための予備作業をしておく必要がある) 頭の中で素早く、今日のスケジュールを組み立てていった。 春に大学へ復学してから、半年が経過している。  学業の遅れを取り戻すため、翔吾は貪欲に知識を吸収していた。 元よりずっと目指していた大学だ。学ぶのはいつだって楽しかった。 経営戦略、情報処理、組織論。  翔吾は次々と学んでいる。  かつての彼は、これらを机上の空論だと切り捨てていた。  データと数字だけが真実であり、人間の感情など不確定要素でしかないと考えていたからだ。 けれどサンクチュアリでの経験を経た今の翔吾には、血肉の通った知識として理解できる。  現場で汗を流しながら働く人々の姿や、お客様の笑顔があってこそ、初めて数字が意味を持つという事実を身をもって知ったからだ。 成績はすこぶる良好で、教授からの評価も高い。同級生たちとも表面上の付き合いはこなしている。 充実した日々であるはずだった。 しかしアパートを出て大学へ向かう道すがら、街路樹の色づいた葉を見上げるたびに、翔吾の胸の奥には常に小さな隙間風が吹いていた。 講義中、ノートパソコンのキーボードを叩きながら、ふとした瞬間に視線が宙を泳ぐ。(実加さん、今日のシフトは早番だったか。最近は新人教育も任されていると義姉さんが言っていたな。理玖くんは保育園で新しい言葉を覚えただろうか) 数式やグラフが並ぶ画面の向こうに、髪を一つに束ねた彼女の姿が重なる。 社員寮で他の従業員たちと寝食を共にしていた頃は、顔を合わせればすぐに口喧嘩が始まっていた。  翔吾の几帳面さと実加の大雑把さは、水と油のように反発し合っていた。 それが今は、週に一度か二度、週末のアルバイトで顔を合わせるだけだ。  距離ができたことで、翔吾は自分の生活がいかに無音で、無彩色のものかを突きつけられていた。◇ 金曜日の夕方。大学の講義を終えた翔吾は、グレーのスーツ姿に着替えてホテル『サンクチュアリ』へと足を運んだ。 エントランスには秋の花であるリンドウやコスモスが飾られて、訪れるお客様を温かく出迎えている。 従業員通用口からバックヤードに入ると、途端に活気のある空気と様々な匂いが押し寄せてくる。  リネ
last updateLast Updated : 2026-07-09
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「お疲れ様です、翔吾さん」「お疲れ様です。週末の宿泊客のチェックイン状況はいかがですか」「順調ですよ。満室御礼です。紅葉のシーズンですからね」 すれ違う従業員たちと挨拶や業務の確認を交わしながら、翔吾はシステム管理室へと向かった。 静かすぎる自室と違い、この『サンクチュアリ』には活気が満ちあふれている。 パイプ椅子に腰掛けて、メインサーバーの稼働状況をチェックする。  予約管理システム、顧客データベース、空調や照明の制御プログラム類。  翔吾が構築し、アップデートを重ねているサンクチュアリの心臓部だ。 画面に流れるコードの羅列を目で追い、異常がないかを確認していく。  カタカタとキーボードの打鍵音だけが部屋に響いていた。「おい、メガネ。邪魔するよ」 不意に背後から声が掛かる。 振り返ると、マグカップを2つ手にした実加が立っていた。 彼女は正社員となり、今ではチーフとして清掃スタッフたちをまとめる立場にある。  パリッとした制服に身を包み、背筋を伸ばして立つ姿は以前よりもずっと頼もしい。  ぱっちりとした二重の瞳には、自信と活力が満ちあふれていた。「実加さん。業務中に勝手に入ってこないでくださいと、いつも言っているでしょう。ここは精密機器が多いんです。水濡れは厳禁ですよ」 翔吾は口ではそう言いながらも、無意識のうちに姿勢を正していた。指先がキーボードから離れる。「お茶の差し入れに文句言う奴があるかよ。ほら、飲め」 実加はデスクの空いたスペースに、湯気を立てるマグカップをドンと置いた。「……いただきます」 翔吾はマグカップに口をつけた。  立ち上る湯気が温かい。熱いほうじ茶の香ばしい香りが、こわばっていた肩の筋肉を和らげていく。「大学はどうなんだ? ちゃんと友だちとかできたか?」 実加は隣のパイプ椅子に無造作に腰掛けて、自分のカップを両手で包み込むように持った。「学業をしに行っているんです。交友関係を広めるのが第一目的ではありません。もっとも、グループワークなどで顔を合わせる人間はいますが」「可愛くねえなあ。もっとこう、キャンパスライフを満喫してます! みたいな顔できないのかよ。合コンとか行かないの?」 実加は手を広げてみせた。「行きません。非生産的な時間の使い方です」「でた、非生産的。そういう理屈ばっかこねてる
last updateLast Updated : 2026-07-10
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 突きつけられた指を手で避けて、翔吾は言い返した。「僕には僕のペースがあります。合コンなどで無駄な時間を過ごすより、今は学びたいんです。……そう言う実加さんはどうなんですか。保育所のこぐまの森は、信頼できる保育士ばかりだ。たまには理玖くんに留守番を頼んで、遊びに行ったりしないんですか?」「はぁ? 何言ってんだ。今のウチにとっちゃ、理玖が一番大事なの! 遊ぶのは昔、もうやったよ。何せ中学の頃から家にほとんど帰らないで、遊んでばっかいたからな。……あーでも、理玖もでかくなってきたし、あの子と遊びに行くのはいいなぁ」 実加はニカッと笑う。  翔吾は思った。(そうだった……。実加さんは18歳で理玖くんを産んだ。ということは、理玖くんの父親とそういう関係だったということだ) 知っていたはずの事実なのに、翔吾の胸がギリギリと痛む。  これ以上この話題を続けたくなくて、彼はやや強引に話を変えた。「それよりも、実加さんこそチーフの仕事は順調ですか? 先週の清掃スタッフのシフト表、配置の効率が悪かったですよ。僕ならあの人員でもう少し各フロアの移動時間を短縮するよう組みます」「出たよ、メガネの小言! あのな、現場には現場の事情があるの。新人にはベテランを組ませて教えながらやるから、単純な数字の計算通りにはいかないんだよ。それに、お客様との会話だって清掃係の重要な仕事だろ。タイムアタックやってんじゃないんだから」 実加は唇を尖らせて反論した。「教育コストと顧客対応の時間を考慮した上でのシミュレーションです。感情論で反論されても困りますね」「うっさい。数字で人間の心がわかるかよ」 いつものラリーである。  論理と感情のぶつかり合い。  以前なら本気でイライラしていたはずのやり取りが、今の翔吾には不思議なほど心地よかった。 実加の怒った顔も、呆れたように笑う顔も、翔吾の視界を鮮やかに彩ってくれる。  買収騒動の時、彼女が理屈抜きで個人株主を説得して回ったあの熱意を、翔吾は誰よりも評価していた。 と。「かーちゃん!」 開け放たれたドアの向こうから、元気な声が飛び込んできた。  ペタペタと足音を立てて走ってきたのは、実加の息子である理玖だ。2歳になり、すっかり足取りもしっかりしてきた。 どうやら保育の時間が終わって、他の社員が送ってくれたようだ。「お
last updateLast Updated : 2026-07-10
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「こら理玖、翔吾の手を煩わせるんじゃないの。仕事中なんだから」 実加が息子の手を解こうと手を伸ばす。「構いませんよ」 翔吾は眼鏡を押し上げ、理玖と目線を合わせるように屈み込んだ。「こんにちは、理玖くん。今日は何をして遊んだんですか?」「おしゃかな! おしゃかな、かいた!」 理玖は保育園で描いたらしい絵の話を一生懸命に伝えようとしている。 お魚を描いた、という意味だろう。 身振り手振りで、魚の尻尾が泳ぐ様子を踊ってみせている。「そうですか。それは素晴らしい。造形活動は脳の発達に良い影響を与えますからね」「あんた、2歳児相手に何言ってんだか」 実加が腹を抱えて笑う。 翔吾は理玖の小さな頭を撫でた。柔らかい髪の感触が手のひらに伝わる。 以前の翔吾なら、子供の予測不能な行動はノイズでしかなかった。 汚れた手で触られることも、泣き声も、全てが忌避すべき対象だったはずだ。 それが今では、理玖が笑うだけで胸の奥が温かくなる。「しょーご、あしょぼ!」 理玖が翔吾の手を引っ張る。「今は業務中ですから、あと10分だけです。それならシステムチェックの合間に時間を取れます」「10分って……。ほんと、変なところで几帳面だねえ」 実加は呆れながらも、その瞳は優しく細められていた。 翔吾は自分のスマートフォンを取り出した。 理玖に簡単なパズルゲームの画面を見せてやる。色とりどりのブロックを動かして絵柄を合わせるゲームだ。「ここはこうやって画面に触れて、赤いブロックを右に動かすんです」「しゅわいぷ?」「そうです。論理的な思考回路を養う第一歩ですよ」 実加が横から顔を覗き込む。「子供にそんな難しいこと教んなよ。理玖、もっと楽しいことして遊ぼうねー」 実加の顔が近づき、彼女の髪からほのかにフローラル系のシャンプーの香りが漂った。
last updateLast Updated : 2026-07-11
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