All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 401 - Chapter 410

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 2人の姿が見えなくなると、システム管理室は再び無機質な機械音だけの空間に戻った。 翔吾はモニターに向き直ったが、画面のコードは全く頭に入ってこなかった。 先程まで実加が座っていたパイプ椅子には、まだ微かな温もりが残っているような気がした。 ◇  夜遅く。翔吾はシステム保守の業務を終えて、一人暮らしのアパートへと帰宅した。 ドアの鍵を開け、中に入る。 暖房の切れた部屋は、冷え切っていた。生活感のない、整理整頓された空間が目に入ってくる。 洗面所で手洗いとうがいを済ませ、キッチンで再びコーヒーを淹れる。 マグカップから立ち昇る湯気を見つめながら、翔吾は深く息を吐き出した。(……無音すぎる) 社員寮にいた頃は、隣の部屋から物音が聞こえ、廊下に出れば誰かとすれ違うのが当たり前だった。 談話室に行けば実加や他の社員がいて、理玖の声が響いていた。 あの騒々しさを「勉強の邪魔、非効率だ」と疎ましく思っていたはずなのに、いつの間にかすっかり馴染んでしまっていた。今となってはあの喧騒がひどく恋しい。 ソファに腰を下ろし、目を閉じる。 まぶたの裏に浮かぶのは、実加の笑顔だ。『お茶の差し入れに文句言う奴があるかよ。ほら、飲め』 乱暴な言葉遣いだ。けれど、そこには翔吾を気遣う温もりがあった。 理玖を抱き上げる時の、母親としての慈愛に満ちた表情が思い浮かぶ。翔吾の理屈っぽい小言を鼻で笑い飛ばす、あの勝気な瞳も。 翔吾は無意識のうちに、自分の胸元を強く掴んでいた。 心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに響いている。(僕は……彼女を) 四角四面の論理的思考で知られる黒崎翔吾の脳内に、1つの明確な結論が導き出された。 それは、いかなる数式でも証明できない、不合理で感情的な事実。 ――自分は、実加に惹かれている。 いや、惹かれているとい
last updateLast Updated : 2026-07-11
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 今までの思い出が心をよぎった。 最初に出会ったのは、ホテル『サンクチュアリ』の採用試験場だった。 兄・隼人の厚意で就職を決めた翔吾は、見習いとして採用を見学していた。 そこに子連れの実加が乱入してきたのだ。 面接会場だというのに、事前の書類提出もしていない飛び入り参加だった。(あの時は本当にめちゃくちゃだった) 翔吾は思い出して、ふと笑う。(いや。彼女がめちゃくちゃじゃない時など、一度もなかったな) 最初、翔吾は実加が嫌いだった。 彼が信じるシステムと効率の真逆、熱い根性と人情こそが実加の特徴だったからだ。 何度も衝突して、本気で腹を立てたり、呆れたこともある。 でも。 せせらぎ亭で力を合わせた時の思い出は、今でも翔吾の心に強く残っている。 実加は翔吾にない力を発揮した。 そしてその上で、翔吾を認めてくれた。『メガネ、お前もやるじゃんか!』 ぞんざいな言葉遣いで笑っている実加の姿が浮かぶ。(せせらぎ亭の一件も、他の件も。実加さんがいなければ乗り越えられなかった) 翔吾も今は自分に自信を持っている。システム化と効率は彼の本分で、間違っているとは思わない。 けれどそれは、実加が持つ人間の熱があってこそだ。 小夜子には教え諭された。隼人は背中で語ってくれた。 けれど互いに力を高め合い、一緒に成長していったのは実加だ。 実加がいたからここまで来れたのだと、翔吾は実感している。 週末にしか会えない現在の状況が、酷く辛い。 毎日、顔を合わせて口喧嘩をしていた日々がどれほど幸福だったか。 彼女が他の誰かと笑い合っているかもしれないと想像するだけで、腹の底から黒い焦燥感が湧き上がってくる。「実加さん……」 誰もいない部屋で、言葉少なにその名前をこぼした。 自分の声が、信じられないほど甘く、切実な響きを帯びていたことに翔吾は驚愕した。
last updateLast Updated : 2026-07-12
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394:せせらぎ亭への社員旅行

 秋の気配が色濃くなり、吹き抜ける風が心地よい冷気を運んでくる。 ホテル『サンクチュアリ』のシステム管理室で、翔吾はノートパソコンのキーボードを叩いていた。 画面に流れる文字列を目で追いながら、週末の宿泊予約データの整合性をチェックしていく。(うん、順調だ。システムはオールグリーン。宿泊予約も好調で、問題は何もない) システムは問題なくても、翔吾の心の問題は残っている。 あれから実加と理玖に出会うたび、心臓がドクドクと鳴るのを抑えきれないでいた。(会いたい。でも会えばまた体に異常が出る……) 順調な仕事ぶりと対照的に、翔吾は頭を悩ませていた。 と。 背後で静かにドアが開く音がした。 翔吾は一瞬だけ実加かと思い、すぐに打ち消した。がさつな実加があんなに静かにドアを開けるはずがない。「翔吾さん、お疲れ様です」 振り返ると、総支配人である小夜子が柔らかな微笑みを浮かべて立っていた。 淡い色合いののマタニティドレスに身を包んだ彼女のお腹は、すでにふっくらとした丸みを帯びている。「義姉さん、いえ、総支配人。どうかしましたか。何かシステムに不具合でも?」 翔吾はタイピングの手を止めて、パイプ椅子から腰を浮かせかけた。 小夜子はそれを軽く制した。「いいえ、そういうわけではありません。実は従業員たちの慰労を兼ねて、社員旅行を企画しました。行き先は『せせらぎ亭』です。翔吾さんも大学の予定を調整して、ぜひ参加してくださいな」「せせらぎ亭、ですか」 懐かしい名前を聞いて、翔吾は顎に手を当てた。 せせらぎ亭は、アーク・リゾーツ社が運営する地方旅館である。 かつて買収直後に彼らが赴き、立て直しに奔走した場所だ。 あれから1年以上の時間が経過している。 あそこの予約管理システムの稼働状況も、現地で一度直接確認しておきたいと思っていたところだった。「わかりました。でも社員旅行ですか。臨時職員扱いの僕が同行して
last updateLast Updated : 2026-07-12
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 それから数日後のこと。 よく晴れた秋空の下、サンクチュアリの駐車場には貸し切りの大型観光バスが停まっていた。「ほら理玖、勝手に走るな。車が来たら危ないだろ」「あーっ、バス! おっきいね!」 髪をポニーテールにした実加が、元気いっぱいの理玖の手を引いてバスのステップを登っていく。「あっ、しょーごだ!」 翔吾に気づいた理玖が手を振った。翔吾も笑顔で振り返す。 カジュアルなパーカーにデニムというラフな服装の実加の背中を、グレーのジャケットを羽織った翔吾が追った。 バスの車内は、日常の業務から解放された従業員たちの熱気に満ちていた。「実加さん、理玖くんの席はこっちだよ!」「お菓子いっぱい買ってきたから、あとでみんなで食べようね」「うわ、ありがとう! 理玖、後でおやつもらえるってさ」「やったぁ! おやつ! ありがとー!」 顔見知りのスタッフたちが次々と声をかけてくる。 実加が理玖を膝に乗せて窓際の席に座ると、翔吾はごく自然な動作でその隣の通路側の席に腰を下ろした。 やがてバスが動き出す。窓の外の景色が、街のビル群から次第にのどかな風景へと変わっていく。「しょーご、くるま! ぶーぶーだよ!」 理玖が窓ガラスに顔を押し付けて、すれ違う車を指差している。「そうですね。たくさん車が走っています。あの赤い車はスポーツカーという種類で、空気抵抗を減らすための流線型のフォルムが特徴です」 翔吾が真面目な顔で答えると、隣で実加が吹き出した。「あんた、2歳児に空気抵抗とか言ってどうすんだよ。もっと子供向けの言い方があるだろ」「正確な名称と概念を教えるのが教育というものです。幼児の学習能力を侮ってはいけません」「はいはい、頭のいいお兄さんは言うことが違うねぇ。理玖、かっこいいブーブーだねー」 実加は口を尖らせながらも、表情は楽しそうだった。 バスはビル街を抜けて、高速道路へと入った。 バスの中央付近では、早
last updateLast Updated : 2026-07-13
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 しばらく後、ふと翔吾が前方の席を見ると、総支配人である小夜子と、社長の隼人が並んで座っていた。「小夜子、エアコンの風が直接当たっていないか? 寒かったらすぐに言うんだぞ」 隼人はそう言って、小夜子の肩に大判のブランケットをふわりとかけた。「大丈夫ですよ、隼人さん。車内はちょうどいい温度です」 小夜子は困ったように笑い返す。「そうか? だが足元が冷えるといけない。俺のジャケットも膝に掛けておけ。それから、水は飲むか? 常温にしてあるから、胃に負担はかからない」 隼人はペットボトルのキャップを開けて、小夜子に手渡した。「本当に大丈夫ですから。隼人さんこそ、少し落ち着いて座っていてください。まるで私が割れ物か何かのようです」「お前と腹の子は、俺にとって割れ物以上に大切なんだ。万が一のことがあったらどうする」 隼人は真剣な顔つきで言い張っている。 その微笑ましいやり取りを見ていた実加が、呆れたように肩をすくめた。「黒崎社長は過保護だよな。小夜子師匠もあそこまで過保護にされたら、逆に疲れちまわないか?」 実加の言葉に、翔吾は眼鏡を中指で押し上げた。「それだけ義姉さんを愛しているのでしょう」「まあ、愛されてるってのはいいことだ。ウチもいつか、あんな風に大事にされたいもんだね」 実加は窓の外を見つめながら、ぽつりと呟いた。 実加の元夫、理玖の父親にあたる男はひどい暴力男だった。 御子柴のグラン・ヘリックスと対立している時は、敵の手駒としてサンクチュアリに乗り込んできた。 気丈な実加があの時見せた怯えの表情を、翔吾はよく覚えている。(実加さんを、大事にする……) 胸の奥で、心臓が不規則な音を立てる。喉が不自然に渇いた。「実加さんは……」 翔吾が何か言いかけた時、バスが大きく揺れた。「おっと。山道に入ったみたいだな」 実加が姿勢を立て直す。
last updateLast Updated : 2026-07-14
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「いらっしゃいませ! よくぞお越しくださいました!」 ハリのある大きな声が響き渡る。 バスから降りた翔吾たちを出迎えたのは、作務衣を着た番頭だった。 かつては無精髭を生やし、やる気のない態度で客をあしらっていた彼だが、今の顔つきにその面影はない。髪を短く刈り込み、背筋をピンと伸ばして、満面の笑みを浮かべている。「番頭さん、お久しぶりです」 翔吾が声をかけると、番頭はにっこりと笑った。「翔吾さん、それに実加ちゃんも! 待ってたぜ。あの時は本当に世話になったな。2人のおかげで、この旅館はすっかり生まれ変わったよ」 番頭の声には、偽りのない感謝の念が込められている。「よしてくれよ、ウチらはちょっと手伝っただけだ。それより、ずいぶん繁盛してるみたいじゃないか」 実加が周囲を見渡しながら言う。「ええ、おかげさまで。連日満室が続いてるぞ。俺たちもやりがいを感じているんだ。今日は社員旅行ということで、特別キープだけどね」 番頭の背後から、着物姿の仲居たちがわらわらと集まってきた。「あらー、実加ちゃん! 元気だった?」「まあ、理玖ちゃんじゃないの。こんなに大きくなって!」 地元出身の年配の仲居たちが、理玖を囲んで歓声を上げる。「こんにちはー!」 理玖が元気よくお辞儀をすると、仲居たちは「可愛いわねえ」と目を細めた。「あの時は露天風呂の石運び、お疲れ様だったわね。腰痛はもう大丈夫?」 1人の仲居がからかうように言う。「もう1年も前のことだろ! とっくに治ってるよ。あの時は姐さんたちにも色々アドバイスをもらって、助かったよ」 実加も笑って返す。「今夜はゆっくり温泉に浸かって、日頃の疲れを癒やしていってちょうだいね」 和やかな会話が交わされる中、奥から白い調理着姿の恰幅の良い男が現れた。 せせらぎ亭の板前だ。「おお、サンクチュアリの皆さんが到着したか」 板前は腕まくりをしながら、豪快に笑った。
last updateLast Updated : 2026-07-14
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「素晴らしいですね。食事の時間が楽しみです」 翔吾が素直な感想を口にすると、板前は「おうよ、任せとけ!」と胸を叩いた。 ◇  荷物をそれぞれの部屋に置いた後、社員たちは思い思いに館内や周辺の散策へと散っていった。「これからどうする?」「まずは温泉に入らなきゃ! それから温泉街へお土産買いに行こうかな」「山道の散歩コースもあるみたいよ。紅葉がきれいだから行ってみる?」「いいね!」 社員たちの楽しげな声があちこちで響いている。 翔吾は実加と理玖を連れて、旅館の裏手にある露天風呂へと足を運んだ。 木立に囲まれた空間に、岩を組んで作られた立派な露天風呂がある。「懐かしいな……。ここを2人で整備したんですよね」 翔吾は湯けむりが立ち上る岩風呂を見つめながら呟いた。「ああ。あの時は掃除から始めて、泥だらけになって岩を運んだっけ。メガネは、途中で腰痛いとか言ってへばってたよな」 実加が面白そうに昔話を持ち出す。「それは事実と異なります。僕は最適な力学の計算に基づいて岩の配置を指示していただけです。体力的な疲労は計算外でした」「またそういう理屈こねて。でもまあ、結果的にこんなに立派な風呂ができたんだから、よしとするか」 実加は岩の表面を撫でながら、満足そうに笑った。 理玖は湯気に向かって手を伸ばし、「あわあわ!」とはしゃいでいる。「他の皆さんは、お土産屋を見たり、温泉街を散策したりしているようです。夕食まではまだかなり時間がありますね」 翔吾は腕時計で時刻を確認した。「ウチらもどっか行くか? 理玖も退屈そうだし」 実加の言葉に、翔吾は以前から考えていた計画を口にした。「もしよろしければ、僕たち3人で少し離れた農業地区の方へ行ってみませんか」「農業地区? お、そうだな。そういえばあの人たちへの挨拶がまだだった」 実
last updateLast Updated : 2026-07-15
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399:初心者ドライブ

 実加はその後ろ姿を見つめながら、小さく息を吐く。(なんだよ、理屈っぽいことばっか言ってるくせに、そういうところは気が利くじゃんか) 彼女の胸の内に、じんわりと温かいものが広がっていく。「かーちゃん、しょーご、どこいくの?」 理玖が実加の服の裾を引っ張った。「翔吾はね、これから車を借りに行ってくれるんだよ。理玖、お野菜作ってるおじいちゃんたちのところに行くからね」「くるま! ぶーぶー、のる!」 理玖がぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ。「ああ、乗るよ。楽しみだな」 実加は理玖を抱き上げて、秋の澄んだ空を見上げた。 これから始まる小さな旅への期待が、胸を高鳴らせているのを感じていた。 ◇  午後、周囲ではすっかり秋の気配が色濃くなり始めている。 せせらぎ亭の裏手にある従業員用駐車場は、ひんやりとした空気に包まれていた。 黒崎翔吾は、足元の砂利が立てる乾いた音を聞きながら歩みを進めた。 手の中には、先ほど番頭から借り受けた車のキーがある。金属の冷たさが、手のひらを通して伝わってきた。 目当ての車両は、端のスペースに停められていた。 白い塗装の軽自動車だ。 古い型式で、業務用として使い込まれているらしく、ボディのあちこちに細かい傷がある。 翔吾はジャケットのポケットから、黄と緑に彩られたマグネット式のマークを取り出した。 初心者マークである。 フロントのボンネット部分とリアのハッチバック部分に、それを慎重に貼り付ける。 少し傾いた気がして、数ミリ単位で角度を修正した。「おいおい、メガネ。お前、本当に運転できんのかよ」 背後から、疑念を隠そうともしない声が降ってきた。 翔吾が振り返ると、腕を組んだ山内実加が立っている。 彼女の足元では、息子の理玖が落ちているどんぐりを拾おうとしゃがみ込んでいた。「問題ありません。道路交
last updateLast Updated : 2026-07-15
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 大学に復学して以降、翔吾は運転免許を取った。 ホテルのシステム管理や備品の調達など、将来的な業務において自力での移動手段を確保することは、移動の効率化に繋がると判断したのだ。 教習所でのテストは、学科も実技も満点だった。 とはいえ不確定要素の多い公道を走るプレッシャーは、シミュレーション通りにはいかない。 翔吾は自分の車を持っていない。 だから教習所以外の車にはほぼ乗ったことがない。 車を買ったり維持するためのお金はなかったし、必要も感じなかったからだ。(免許さえ取得しておけば、必要に応じて運転できると思ったんだが……)「まあいいや。事故るなよ。隣でウチが見ててやるから、安心しな」 実加はそれ以上追求せず、後部座席のドアを開けた。 そこには、翔吾が事前に手配して取り付けておいたチャイルドシートがある。 黒いファブリック素材で、安全性に定評のあるモデルだ。「お、気が利くな。サンキュー! ……ほら理玖、乗るよ」「ぶーぶー!」 どんぐりをポケットに突っ込んだ理玖が、嬉しそうにシートに収まった。 翔吾は後部座席のドアを開けて、身を乗り出した。 シートベルトの金具を引っ張り出し、カチャリと金属音を立ててバックルに差し込む。 ベルトにたるみがないか、理玖の体に過度な負担がかかっていないか、指先を滑らせて入念にチェックした。「よし、後部座席の安全確保は完了しました。出発しましょう」 翔吾は運転席のドアを開け、乗り込んだ。 少しへたった布張りのシートが体を包み込む感触がする。 キーシリンダーに鍵を差し込んで回した。 キュルル、ブルンと、軽自動車特有の軽いエンジン音が足元から響いてくる。 助手席では実加がシートベルトを締めて、窓枠に肘を乗せていた。 少し行儀が悪いが、彼女らしい。翔吾は口出ししないでおいた。 それから翔吾はブレーキペダルを踏み込み、サイドブレーキの
last updateLast Updated : 2026-07-16
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 せせらぎ亭の駐車場を出て、一行は農業地域へと続く田舎道に入った。 舗装はされているものの、道幅は狭い。右へ左へとカーブが連続している。 両脇には背の高いススキが秋風に揺れていた。色づいた広葉樹の枝が、道路の上まで迫ってきている。 翔吾は両手でハンドルをしっかりと握りしめている。 視線は常に前方とサイドミラー、ルームミラーを忙しく行き来していた。 メーターの針は、制限速度を律儀に少々下回っている。「なあ、メガネ。遅せえよ。もっとアクセル踏めよ!」 助手席から、容赦のない指摘が飛んできた。 実加はイライラした様子でダッシュボードを指差す。「現在、法定速度のマイナス5キロで走行しています。この道路の曲率と道幅を考慮すれば、最も安全かつ合理的な速度です」 翔吾は前を見たまま反論した。運転に精一杯で、視線を向ける余裕がないともいう。「後ろに軽トラがつっかえてんだよ! 田舎道でそんなトロトロ走ってたら、逆に危ねえだろ」「後続車両の存在は認識しています。しかし、無理な加速は事故のリスクを高めます。安全マージンは最大限に確保すべきです」 そう言っている間に、緩やかな右カーブが迫ってきた。 翔吾は早めにブレーキペダルを踏み込み、さらに速度を落とす。車体が前方に沈み込む感覚があった。「そこでブレーキ踏むな! カーブの手前で減速して、抜けながらアクセル踏むんだよ! 基本だろ!」 実加の声が一段と大きくなる。「減速Gのコントロールは意識しています。ですが、この車両のサスペンションの劣化具合からして、遠心力への耐性が……」「理屈はいいんだよ! もっと感覚で乗れ、感覚で!」 実加は元ヤンであり、かつてはレディースとして二輪車での走行経験も豊富であるらしい。 彼女の指摘は、物理の公式ではなく経験則に基づいた実践的なものだ。 翔吾は少しだけむっとした。「自動車の運転免許すら保有していない実加さんに、感覚論で指導される筋合いはありません。僕は国家
last updateLast Updated : 2026-07-16
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