All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 471 - Chapter 480

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第471話 契約の傷跡①

 真っ白に弾けるフラッシュの波が、網膜の裏側に焼き付いては消えていく。 カシャカシャという硬質なシャッター音が、幾重にも重なって鼓膜を打ち据える。 無数のレンズの放列の前に立ち、ミッドナイトブルーのシルクドレスの裾をわずかに引いて姿勢を正す。隣に立つ濃紺のスーツの袖が軽く触れ、そこから伝わる岩のような硬い熱が、背筋を真っ直ぐに支えていた。 飛び交う無遠慮な声や、好奇の視線。だが、そこに張り詰めたような焦燥はもうない。 肺の奥までゆっくりと空気を吸い込み、口角を上げてカメラの光を真っ向から受け止めた。 ◇ メインホールの喧騒を抜け、地下駐車場で待機していたハイヤーの後部座席に滑り込む。 重厚なドアがバタンと閉まり、外界の騒音が分厚いガラスの向こう側へと完全に遮断された。 革張りのシート特有の、少し甘く沈むような匂い。 深く息を吐き出すと、ピンと張り詰めていた肩の筋肉が、じんわりと熱を持ちながら緩んでいくのがわかった。 隣に座る湊もまた、ネクタイの結び目をわずかに緩め、深くシートに背中を預けていた。 街灯のオレンジ色の光が、一定の間隔で車内を横切り、彫りの深い横顔に陰影を落としては消えていく。「……お疲れ様。見事な立ち回りだった」 低い、少しだけ掠れた声が車内の静寂に溶ける。「湊こそ。……あんな風に、自分で全部被るようなこと言うなんて反則よ。本当に、心臓が止まるかと思ったんだから」「事実を述べたまでだ。僕が強引に巻き込んだ。……あの契約を持ちかけたのは、間違いなく僕なのだから」 湊の大きな手が、シートの上でそっとこちらの手に重なる。 指を絡ませると、少しだけ体温が上がったような気がした。 流れる窓の外の景色を見る。 見慣れた高層ビル群のネオンが、冬の澄んだ空気の中でチカチカと瞬いている。 車は本邸がある方向とは違う、都心の中心部へと滑るように走っていた。「……本邸には、もう戻らなくていいの?」
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第472話 契約の傷跡②

 耳がわずかにツンとするほどの速度で上昇していく密室の中、湊の視線がずっとこちらに向けられているのを感じていた。「……何? 顔に何か付いてる?」「いや。……麗華の言う通り、これ以上のドレスはないと思って見惚れていただけだ。その色、君の肌によく似合っている」 耳の奥がカッと熱くなる。 真っ直ぐすぎる言葉に、どう返していいか分からず、ただ視線を足元の絨毯へと逸らした。 ピン、という電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。 毛足の長いフカフカの絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、一番奥の重厚な木製のドアの前に立つ。 湊がカードキーをかざすと、カチャリという軽い金属音が鳴り、ロックが解除された。 ドアを開け、一歩足を踏み入れる。 室内の照明は落とされており、壁一面の巨大な窓ガラスいっぱいに、東京の夜景が宝石箱をひっくり返したように広がっていた。 赤や黄色のテールランプが、動く光の川となって首都高を流れている。「わあ……」 思わず声が漏れる。 靴を脱ぐのも忘れ、窓際へと歩み寄る。 足元の絨毯がハイヒールの音を吸い込み、静寂だけが部屋を支配していた。 ガラスに額が触れそうなくらい近づくと、眼下に広がる途方もない光の粒に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。「……あの日も、この景色を見たわね」 窓ガラスに反射する自身の姿。ミッドナイトブルーの生地が、夜の闇に溶け込むように同化している。「ああ。君はあの時、この窓際で肩を震わせていたね」 背後から、低い声が降ってくる。 振り返ると、湊が上着を脱ぎ、ネクタイを外し終わったところだった。 第一ボタンを外した白いシャツの胸元から、鎖骨の硬いラインが覗いている。 湊は、窓際から数歩離れたリビングスペースのローテーブルへと歩み寄った。 そして、脱いだばかりのジャケットの内ポケットに手を差し込む。 ガサリ、と。 静かな部屋に、少し古びた紙が擦れる
last updateLast Updated : 2026-06-12
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第473話 契約の傷跡③

 ローテーブルの前に歩み寄り、その契約書を見下ろす。 たった数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。 相手の素性もよく分からず、ただ見栄を張りたいという目的から始まった、書類上の繋がり。「……今見ると、本当に冷たい文面ね。感情の欠片もないわ」「僕が作成させたものだからな。法務の人間が書くような、血の通っていないただの契約だ」 湊が、ソファの背もたれに手をつき、契約書を見下ろしながら自嘲気味に口角を上げた。「この契約書で、君の自由を奪った。君が危険な目に遭うと分かっていながら、巻き込んでしまった。……あの日、君がこの紙にサインをした時、君の指先が震えていたのを覚えている。僕はそれを都合よく利用したんだ」 湊の漆黒の瞳が、痛みを堪えるようにわずかに細められる。「……湊」 ローテーブルを回り込み、湊の正面に立つ。 視線を真っ直ぐに絡め合わせる。「確かに、最初はそうだったかもしれない。月額三百万円というお金が絡んでいたのも、見栄を張るためにあなたを利用したのも事実よ」 湊の大きな手が、ソファの背もたれを強く握りしめているのが見えた。指の関節が白くなっている。 その手に、自分の手をそっと重ねた。「でも、この契約書があったから、私たちは同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、互いの本当の顔を知ることができた。……あなたがどれだけ不器用で、優しい人なのかを」 重ねた手に力を込めると、強張っていた指先が、わずかに緩んだ。「この紙切れは、私にとって『鎖』じゃなかった。……足元が崩れ落ちそうになっていた私に、あなたが差し出してくれた『命綱』だったのよ」 息を呑む音が、静かな空間に落ちた。「……朱里」「記者会見でも言ったでしょう。私は、過去の愚かな自分を否定しない。……この契約書があったから、今の私たちがいる。この事実を、私は誇りに思うわ」
last updateLast Updated : 2026-06-12
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第474話 契約の傷跡④

 ボールペンを手に握らせる。「この紙は、私たちがどれだけ不器用だったかっていう『記録』よ。……破ってなかったことにするんじゃなくて、この続きに、新しい未来の約束を上書きしたいの」 握らされたボールペンと、顔が交互に見つめられる。 やがて、その喉の奥から、クックッと低い笑い声が漏れ出した。 笑い声は次第に大きくなり、肩を揺らして本気で笑い始めた。 出会ってから、こんなに声を出して笑うのを見るのは初めてだった。「……ははっ、敵わないな。法務部も真っ青の契約変更だ」 目尻にわずかに浮かんだ涙が指先で拭われ、ローテーブルに契約書が置き直された。 そして、ボールペンが握られ、指差した余白部分に、力強い文字が書き込まれ始める。 走るペン先の音が、静かな部屋に心地よく響く。『第四条 本契約は無期限とし、甲と乙は生涯にわたり互いを愛し、敬い、共に歩むことを誓う』 カチリ、とボールペンを置く音がした。「これでいいか?」 書き足されたその一行を見つめる。 インクの新しい匂いが、鼻腔をくすぐった。 いかにも彼らしい、硬い言葉選び。でも、そこに込められた熱量は、どんな甘い言葉よりも深く胸の奥へと染み込んでくる。「……ええ。完璧よ」 ペンを取り、その下に小さくイニシャルを書き加えた。 契約書が丁寧に四つ折りにされ、再びジャケットの内ポケットへと大切そうにしまわれる。「……この更新された契約書は、僕が死ぬまで持ち歩くことにする」 湊の眼差しは、真剣そのものだった。「スーツを変える時は、忘れないで移し替えてね」「ああ、約束する。生涯、肌身離さず持っていよう」 手が、頬にそっと添えられる。 少しひんやりとした指先が、肌を滑る。 視線が絡み合い、互いの呼吸が混ざり合う距離まで顔が近づく。「……朱里」「なあに?」「愛している。&
last updateLast Updated : 2026-06-13
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第475話 未来への選択①

 朝の光が、本邸のダイニングの大きな窓から差し込んでいる。 テーブルに置かれた真っ白な磁器のカップから、淹れたてのコーヒーの香ばしい湯気が立ち昇っていた。 カリッ、とトーストを囓る小さな音が響く。 テーブルの向かい側では、湊がタブレットに視線を落としながら、静かにブラックコーヒーを口に運んでいた。 シャツの袖が軽く捲り上げられ、日差しに照らされた前腕の筋肉の筋が浮かび上がっている。「……今日のスケジュールは、午後に一件、リモートでの役員会議があるだけだ」 タブレットをスクロールする指を止め、湊が顔を上げる。「朱里の方は? サロンに出るんだったな」「ええ。午後から新規のお客様の打ち合わせが入っているの。……久しぶりの現場だから、少し緊張するわ」 マグカップを両手で包み込みながら答える。陶器の温もりが、手のひらからじんわりと伝わってくる。「君なら問題ないだろう。あの記者会見で堂々と立ち回ったんだ、どんなクレーム客よりも余裕で捌けるはずだ」 湊の口角がわずかに上がり、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。「もう、からかわないでよ。あの時は無我夢中だったんだから」「からかってなどいないさ。事実を言ったまでだ」 穏やかな朝の空気が、部屋を満たしている。 そこへ、廊下からカツン、カツンという規則正しいヒールの音が近づいてきた。 ダイニングのアーチをくぐり抜けて現れたのは、タイトなネイビースーツに身を包んだ詩織だった。 手には、お馴染みの分厚いレザーのバインダーが抱えられている。「おはよう、二人とも。……朝食の邪魔をして悪いわね」 詩織は中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、テーブルの空いている席へと歩み寄った。「構わない。何か急ぎの報告か」 湊がタブレットをスリープ状態にし、姿勢を正す。「ええ。……というより、これで最後の一区切りね」 詩織はバインダーを開き、数枚の書類をテーブルの上に並べた。
last updateLast Updated : 2026-06-13
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第476話 未来への選択②

「……そう」 短く相槌を打つ。「で、あの二人は今どうしているの?」「泥沼よ」 詩織は冷ややかに言い捨てた。「美咲氏の勤務先には、匿名のSNSアカウントでの暴言や、機密情報に近い社内ゴシップを書き込んでいた事実が通報されたわ。……もちろん、うちの法務部が手を回したわけじゃない。記者会見の様子を見たネットユーザーたちが、あっという間に彼女の裏アカウントを特定したのよ」 詩織の指先が、書類の端をトントンと叩く。「結果として、彼女は会社に居づらくなり、事実上の自主退職に追い込まれた。……拓也氏の方も似たようなものね。顔と名前がネット上に晒されたことで、取引先からの信用は失墜。会社側からも、コンプライアンス上の問題として厳しい処分が下されているわ」「……」 窓の外を見る。 庭の木々はすっかり葉を落とし、冬の冷たい風に枝を揺らしている。「現在、二人は互いを訴え合う準備をしているそうよ。美咲氏は『拓也に無理やり週刊誌に売らされた』と主張し、拓也氏は『美咲の暴走に巻き込まれた』と主張している。……キャンセルになった結婚式場の違約金と、週刊誌からの返還請求、そして九龍からの莫大な損害賠償請求。これらをどちらが被るかで、醜い責任の押し付け合いをしているわ」 詩織はバインダーをパタンと閉じ、眼鏡の奥の瞳でこちらを真っ直ぐに見つめた。「九龍の法務部としては、彼らから一円も回収できるとは思っていないわ。ただ、社会的に完全に息の根を止めるための手続きは、粛々と進めさせてもらう。……報告は以上よ」 ダイニングに、静かな時間が流れる。 かつて親友と呼び、婚約者と呼んでいた二人の、完全な破滅。 それを聞いても、胸の奥には驚くほど何も湧き上がってこない。「ざまあみろ」という優越感もなければ、「かわいそう」という同情もない。 ただ、遠い世界で起きた、自分とはまったく関係のないニュースを聞いているような、不思議な無関心だけ
last updateLast Updated : 2026-06-14
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第477話 未来への選択③

 湊の漆黒の瞳を見つめ返す。「あなたが、ここにいてくれるから」 湊の口元が、柔らかくほころんだ。「……ああ。僕が、一生君の価値を証明し続ける。誰の目にも明らかな形にな」「ごちそうさま。朝から甘いセリフを聞かされる身にもなってちょうだい」 詩織がわざとらしくため息をつき、バインダーを脇に抱えて立ち上がる。「私はもう行くわ。本社で法務部の連中と打ち合わせがあるの。……朱里、サロンの仕事、無理はしないようにね」「うん。ありがとう、詩織さん」 ヒールの音が遠ざかり、再びダイニングには穏やかな二人だけの時間が戻ってきた。 トースターのタイマーが、チンという軽い音を立てる。 新しい一日が、また始まろうとしていた。 ◇ 都内の一等地にあるブライダルサロン『Felice Luce』。 エントランスの重厚なガラス扉を押し開けると、百合の花の甘い香りが鼻腔をくすぐった。 柔らかなダウンライトが、大理石の床と、美しくディスプレイされた純白のウェディングドレスを照らし出している。 数週間ぶりに足を踏み入れた職場。 あの騒動の後、ここに自分の居場所が残っているのか、正直不安だった。 だが、スタッフルームの扉を開けた瞬間、その不安は完全に吹き飛んだ。「チーフ! お帰りなさい!」 後輩のスタッフたちが、一斉に駆け寄ってくる。「記者会見、見ましたよ! すっごくかっこよかったです!」「あの週刊誌の記事見た時は本当に腹が立ちましたけど、チーフが堂々と言い返してくれて、スカッとしました!」 次々と掛けられる温かい言葉。 誰一人として、こちらを「金で買われた偽物の花嫁」として見る者はいなかった。「みんな……ありがとう。ご心配をおかけして、本当にごめんなさい」 深く頭を下げる。「何言ってるんですか! むしろ、チーフを指名したいっていう新規のお客様の問い合わせが殺到してるんですよ! 『あんなに自分の人生に誇
last updateLast Updated : 2026-06-14
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第478話 未来への選択④

 でも、今は違う。「クラシカルなデザインでしたら、こちらのAラインのドレスはいかがでしょうか。上質なミカドシルクを使用しているので、照明の下でとても上品な光沢が出ます。ご新婦様の、その綺麗な首元のラインにもすごくお似合いになると思いますよ」 タブレットを操作し、ドレスの画像を見せる。「わあ、素敵……! これ、試着してみたいです!」 新婦の瞳が、キラキラと輝く。「はい、もちろんです。後ほどフィッティングルームにご案内しますね」 嘘から始まった関係。 見栄を張るために、月額三百万円の契約で結んだ偽物の婚約者。 でも、その嘘の下で、もがき苦しみながら、確かな絆を手に入れた。 だからこそ、今、目の前の人たちの幸せを、心から祝福し、全力でサポートすることができる。 形は違っても、人が誰かを愛し、共に生きていこうと誓うその瞬間は、すべて尊く、美しいものだと、心の底から思えるから。 打ち合わせを終え、カップルを笑顔で見送る。 エントランスの自動ドアが閉まり、外の冷たい空気がわずかに流れ込んできた。 大きく伸びをして、凝り固まった肩を回す。 充実感に満ちた心地よい疲労感が、全身を包んでいた。「お疲れ様」 ふいに、背後から低い声が掛けられた。 振り返ると、サロンの待合スペースのソファから、濃紺のチェスターコートを着た湊が立ち上がるところだった。 手には、テイクアウト用の紙袋が二つ下げられている。「湊! ……どうしてここに?」「近くで打ち合わせが終わってな。君の仕事が終わる時間だと思って、迎えに来た。……邪魔だったか?」 湊が歩み寄り、シトラスと冷たい外気の混じった香りが鼻腔をくすぐる。「ううん、全然。……ちょうど終わったところよ」「そうか。……なら、帰ろうか」 差し出された手を、迷わず握り返す。 大きくて、岩のように硬い手のひら。 そ
last updateLast Updated : 2026-06-15
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第479話 未来への選択⑤

 立ち止まり、湊の方を向く。 湊も足を止め、真っ直ぐにこちらを見下ろした。 その漆黒の瞳に、イルミネーションの光がキラキラと反射している。「あのね、湊」 繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。「私、もう過去の自分を惨めだなんて思わない。見栄を張って嘘をついたことも……全部、今ここにある幸せに繋がっていたんだって、そう思えるの」 言葉が、白い息となって空中に消えていく。「復讐なんて、もうとっくに終わってた。……私が本当に欲しかったのは、誰かを蹴落とすことじゃなくて、誰かに心から愛されることだったんだって、ようやく分かったわ」 湊の大きな手が、頬をそっと包み込む。 ひんやりとした指先が、火照った肌に心地いい。「……朱里」 低い声が、鼓膜を優しく震わせる。「君の過去がどうであれ、僕が愛しているのは、今目の前にいる君だ。……不器用で、意地っ張りで、でも誰よりも真っ直ぐで優しい、君という人間そのものだ」 親指の腹が、頬をゆっくりと撫でる。 その愛おしむような仕草に、心臓がトクンと大きく跳ねた。「これから先、どんな困難があっても……僕が君を守る。誰にも、君の誇りを傷つけさせはしない。……だから、僕の隣で、ずっと笑っていてほしい」 真っ直ぐな言葉の刃が、胸の一番柔らかい部分に突き刺さる。 それは、月額三百万円の契約書よりも、どんな高価な宝石よりも、重く、確かな誓いだった。「……ええ。約束するわ」 頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。「あなたの隣は、もう誰にも譲らないから」 湊の顔がゆっくりと近づき、唇が重なり合う。 冷たい冬の空気の中で、そこだけが火が灯ったように熱かった。 コートのウールの感触と、シトラスの香り。 行き交う人々の喧騒も、街の音も、すべてが遠ざかっていく。 過去の残骸は、もう
last updateLast Updated : 2026-06-15
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第480話 華枝の遺した企画書①

 淹れたてのコーヒーから立ち上る、深く香ばしい湯気が鼻先をくすぐる。 タワーマンションの最上階。全面ガラス張りの窓の向こうには、朝の光を浴びて白く霞む東京のビル群がどこまでも広がっている。 ダイニングテーブルの向かい側では、九龍湊がタブレット端末の画面に視線を落としながら、静かにマグカップを傾けていた。 完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。濃紺の生地が、鍛え抜かれた肩のラインに吸い付くように馴染んでいる。普段ならこのまま颯爽と玄関へ向かうはずの男が、今日はなぜかネクタイを緩めたまま、手元の画面をスクロールする指先を不規則に止めていた。「……どうかした?」 尋ねると、タブレットを伏せて視線がこちらへ向く。 射抜くような鋭さはなく、どこか考え込むような、落ち着かない色が黒い瞳の奥に揺れていた。「いや」 短く返し、湊は緩んでいたネクタイに指をかける。だが、結び目を作る手つきが珍しく覚束ない。滑りの良いシルクの生地が、指先からするりと抜け落ちた。 見かねて席を立ち、椅子の傍らへ歩み寄る。「貸して。……相変わらず、変なところで不器用なんだから」 手を伸ばしてネクタイの端を掴むと、湊は大人しく顎を上げた。 少しだけ荒い息遣いが、前髪を揺らす。シトラスと微かなムスクが混じった、体温を含んだ匂いがふわりと漂ってきた。 結び目を整えながら、首元に触れるか触れないかの距離で指先を動かす。スーツ越しでも伝わってくる高い体温に、こちらの指先までじわりと熱を帯びていくようだ。 ふと、視線を感じた。 顔を上げると、湊の目が手元――正確には、左手の薬指のあたりをじっと見つめていることに気づく。 その熱を帯びた眼差しに、心臓がトクン、と大きく跳ねた。 過去の契約の傷跡を乗り越え、共に未来を歩むと決めたばかりだ。言葉にしなくても、隣に並ぶ男が何を考え、何を準備しようとしているのか、その微かな焦燥感から痛いほど伝わってくる。「……きつく締めすぎた?」 わざとらしく首を傾げてみせると、湊は
last updateLast Updated : 2026-06-16
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