会場の扉の前で、私は両手を一度だけ握りしめた。 指先には、まだワイヤーを捻り続けた感触が残っている。親指の腹には細い赤い跡がいくつも走り、爪の間には、どれだけ洗っても落ちきらない薄い緑が残っていた。 徹夜明けの身体は、正直に言えば鉛のように重い。 けれど、扉の向こうから漏れてくるざわめきと、柔らかな音響チェックの旋律を聞いた瞬間、その重さが、ゆっくりと別のものへ変わっていく。 緊張。 期待。 そして、覚悟。「茅野さん、ゲスト入場、あと三分です」 インカム越しに、若いスタッフの声がした。「了解。受付のコサージュ配布は?」『全員に説明済みです。お母様の車椅子周辺も、航平様側のご親族がサポートに入っています』「ありがとう。無理に急がせないで。今日は、早く歩くことより、ちゃんと一緒に歩くことが大事だから」『はい』 返事の向こうで、小さく息を吸う音がした。 昨日まで不安で青ざめていたスタッフたちの声に、今は少しだけ芯がある。 それだけで、胸が熱くなった。 肩にかけたジャケットの襟元を直していると、背後から静かな足音が近づいてくる。 振り返る前に、シトラスと微かなムスクの香りがした。「朱里」 湊だった。 完璧に仕立てられた濃紺のスーツ。乱れた髪も、土で汚れていた袖口も、今はきちんと整えられている。けれど、近くで見れば、その目の下にはわずかな疲労の影が残っていた。 あの冷たい温室で、彼は最後までコサージュ作りに付き合った。 最初はワイヤーを捻る力が強すぎて、花首を何度か潰しかけ、大島さんに「社長さん、花は買収するものじゃなくて持ち上げるものだよ」と叱られていた。その時の、珍しく本気で困った顔を思い出し、こんな場面なのに口元が緩みそうになる。「何を笑っている」「いえ。湊にも、不得意な仕事があるんだなと思って」「……あの作業は、合理的ではない」「合理的です。力を入れすぎる人には、花を扱わせるのが一番です」 軽く言うと、湊は不満げに
Last Updated : 2026-07-10 Read more