All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 541 - Chapter 550

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第541話 花嫁の仕事⑤

「手厳しいなあ。朱里ちゃん、姉妹揃って僕への扱いが雑じゃない?」「征司さんは、そのくらいがちょうどいいと思います」「ひどい」 征司さんが大げさに胸を押さえる。その横で、志保さんがごく小さく息を吐いた。「朱里さん」「はい」「花は、温室の白を使うのね」 静かな問いだった。 私は頷いた。「使いたいです。でも、全部を白一色にはしません。由理子様の白、華枝様の白、志保さんが守ってきた白。……そこに、私がここへ来てから出会った人たちの色も、少しずつ混ぜたいんです」 志保さんの指先が、膝の上でかすかに動いた。 彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに目を伏せた。「では、温室の鍵はあなたに預けるわ」「え」 思わず顔を上げる。 志保さんはいつもの無表情に近い顔で、バッグから小さな古い鍵を取り出した。 真鍮の表面は長い年月で少し曇り、持ち手の部分に小さな傷がいくつもついている。「華枝様が使っていた鍵よ。由理子の頃から、ずっとあの温室を開けてきたもの」「そんな大切なもの、私が持っていていいんですか」「あなたが使わないなら、誰が使うの」 冷たい言い方だった。 けれど、その声の奥にある柔らかさを、もう私は聞き逃さない。 両手で鍵を受け取ると、金属は思っていたよりも温かかった。志保さんの手の熱が残っている。「ありがとうございます」 深く頭を下げると、志保さんは視線を少しだけ逸らした。「礼を言うのは、式が終わってからでいいわ。あなたの仕事は、まだ山ほど残っているのだから」「はい」 その通りだ。 私は鍵を資料の横に置き、赤ペンを手に取った。 花、席、料理、音楽、導線。 ひとつひとつに、誰かの顔が浮かぶ。 自分の結婚式を作ることは、自分の人生に誰を招き、どんな場所を作りたいのかを選ぶことだった。 胸が怖いほど高鳴る。 花嫁としての緊張ではない。 仕事人として、人生の
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第542話 花嫁の仕事⑥

「揉めるから先にやってるんですけど……」「理屈は聞いてないわ」 麗華さんはテーブルの上の資料を容赦なく押しのけ、一冊の厚いスケッチブックを置いた。 表紙には、薄い鉛筆の粉と、小さな白い糸が付いている。「最高の白を用意してやるわ」 その言葉に、会議室が静まった。 麗華さんは、少しだけ顎を上げた。「勘違いしないで。あなたのためだけじゃない。私のためでもあるの。……昔の私は、誰かに勝つための服しか作れなかった。家柄を見せつけて、値段で黙らせて、着る人間を飾り台にするような服」 彼女の指先が、スケッチブックの角を掴む。 爪の横に、小さな針傷があった。「でも、あなたは違うでしょう。服に負けない。服に隠れない。腹が立つくらい、どんな布を着せても中身が出てくる」「それ、褒めてます?」「褒めてるのよ。ありがたく聞きなさい」 相変わらずだ。 けれど、その相変わらずの棘が、今はひどく優しく聞こえた。 麗華さんはスケッチブックを開く。 そこには、白いドレスの線が描かれていた。 大きなプリンセスラインではない。肩から腕へ落ちる薄い袖、胸元に控えめに重なるレース、歩くたびに光を含むような柔らかなスカート。裾には、温室のマーガレットを思わせる小さな刺繍が、主張しすぎない位置に散っている。 白一色のはずなのに、鉛筆の濃淡だけで、朝靄のような奥行きが見えた。「……綺麗」 思わず漏れた言葉に、麗華さんは当然という顔をした。「当たり前でしょう。私が描いたのよ」 けれど、その耳がほんの少し赤い。「試着は明日。逃げたら許さないわ」「逃げません」「ならいいわ。……あと」 麗華さんは、少しだけ声を落とした。「これは、あなたが九龍家に飲み込まれるためのドレスじゃない。あなたが、あなたの足であの家の扉を開けるための服よ」 喉の奥が熱くなった。 昔、彼女は私
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第543話 麗華の白いドレス①

 翌朝、麗華さんのアトリエに足を踏み入れた瞬間、鼻先をくすぐったのは高級な香水ではなかった。 スチームアイロンの湿った熱。裁断された布の乾いた匂い。糸と紙と、少しだけコーヒーの苦みが混じった、徹夜明けの仕事場の匂い。 壁一面には、ドレスのスケッチがピンで留められていた。白、生成り、淡い銀、ほんのわずかなグリーン。色鉛筆で添えられたメモには、細かなレース幅や、縫い目の向き、光の当たり方まで書き込まれている。 中央のトルソーには、まだ仮縫いのドレスがかかっていた。 完成品ではない。 しつけ糸が見え、裾は仮留めのまま。背中の一部には、布が足される前の空白が残っている。 それなのに、息が止まりそうになった。 白が、そこに立っていた。 飾り立てるための白ではない。誰かを遠ざけるための、冷たい白でもない。 朝の温室に差し込む光を、そのまま布に移したような白だった。「口、開いてるわよ」 横から麗華さんの声が飛んできた。 彼女は大きなマグカップを片手に、作業台の前に立っている。目の下には薄い影があり、髪も少しだけ乱れていた。けれど、その姿勢だけは、刃物のようにまっすぐだった。「すみません。綺麗で」「謝るところじゃないわ。もっと堂々と感動しなさい。作り手が報われないでしょう」「じゃあ、堂々と感動します」「素直すぎるのも腹が立つわね」 理不尽だ。 けれど、彼女の口元がほんのわずかに緩んでいるのを見て、私も笑ってしまった。 アトリエの隅では、若いスタッフたちが布を運び、ミシンの糸を替えている。昔、綾辻家の令嬢として誰かを従えていた彼女とは違う。今の麗華さんは、職人たちの真ん中に立ち、誰よりも布に触れていた。 その指先には、絆創膏が二枚貼られている。「指、大丈夫ですか」「大丈夫に決まってるでしょう。この程度で騒ぐなら、ドレスなんて作れないわ」「でも」「あなたに言われたくないの。ワイヤーで傷だらけの指で花嫁の顔をしていたくせに」 言い返せなかった。 麗華さんは満足げに鼻を鳴らし、
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第544話 麗華の白いドレス②

「これ……」「目立たないでしょう」「はい。でも、ちゃんとあります」「そういう花だったじゃない。あなたが拾ったあれも」 胸の奥が、静かに震えた。 切られた花。 胸元に咲いた白。 奈々さんとお母様の歩いた道。 昨日の記憶が、布の上で別の形になっている。「ドレスに、昨日の式を入れてくれたんですか」「入れたというより、外せなかったのよ」 麗華さんは少しだけ視線を逸らした。「あなたはもう、ただ湊様に選ばれた女じゃない。九龍の婚礼を作る側の人間になった。だったら、その証を身につけるべきでしょう」 彼女の声は、淡々としていた。 でも、その言葉の奥にある熱が、私にはわかった。「さあ、着るわよ」「はい」「下着のライン、確認するから。恥ずかしがっても無駄よ」「突然現実に戻さないでください」「現実を作るのが仕事でしょう、花嫁さん」 その呼び方に、少しだけ胸が跳ねた。 花嫁さん。 私は、今まで何百回もその言葉を誰かに向けてきた。けれど、自分がそう呼ばれる側になると、こんなにもくすぐったく、重く、温かいものなのか。 フィッティングルームでドレスに袖を通す。 肌に触れたシルクは、思っていたよりも柔らかかった。冷たい布ではない。手の熱をすぐに受け取り、体温と一緒に落ち着いていく。 背中のファスナーが上がる音が、やけに大きく聞こえた。「肩、力を抜いて」 麗華さんが背後から言う。「抜いてます」「嘘。新婦の肩こりまで見抜けないデザイナーだと思わないで」「職業病ですね」「お互い様よ」 肩に触れる彼女の指は、思ったよりも丁寧だった。 昔、私のドレスを踏みにじるように見下していた人と、同じ人だとは思えない。けれど、完全に別人になったわけでもない。口は悪いし、プライドは高いし、こちらが感傷的になればすぐに刺してくる。 そのままの彼女が、変わったのだ。 だから、胸に
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第545話 麗華の白いドレス③

 鏡の中の女は、五万円のレンタル彼氏を待って、式場のエントランスで震えていた女と同じ顔をしている。 元彼と元親友に見返してやりたくて、嘘の恋人を探していた。 自分のプライドを守ることだけで精一杯で、誰かの人生にこんなふうに自分が立つ日が来るなんて、想像もしなかった。 あの日の私は、可哀想だった。 情けなかった。 でも、あの夜があったから、湊に出会った。 契約があったから、九龍家に入った。 傷があったから、誰かの傷を見落とさなかった。 鏡の中の自分の目から、涙がぽろりと落ちた。「ちょっと」 麗華さんの声が、背後で尖る。「泣くなら、せめて本縫いが終わってからにしてくれる? 涙染みになったら、私が倒れるわ」「すみません」「謝るくらいなら泣かない」「無理です」「でしょうね」 彼女は、諦めたように息を吐いた。 そして、鏡越しに私を見る。 その表情に、いつもの嘲りはなかった。「似合ってるわ」 たったそれだけ。 でも、その一言を言うまでに、麗華さんがどれほど自分の中の何かと戦ったのかが、わかった。 私は涙を拭こうとして、慌てて手を止めた。ファンデーションがつく。職業病で反射的にそう思ったのが、自分でも可笑しい。「ありがとうございます」「礼は式が終わってから。昨日も誰かが同じこと言ってたでしょう」「志保さんですね」「似たようなものよ。九龍家に関わる女は、どうしてこうも面倒なのかしら」「麗華さんも、その一人ですよ」 麗華さんが、露骨に嫌そうな顔をした。「巻き込まないで」「もう巻き込まれてます」「本当に腹が立つ花嫁ね」 そう言いながら、彼女は私のスカートの裾を整える。指先が、驚くほど優しくレースを撫でた。 ◇ 仮縫いが始まると、麗華さんは一気に職人の顔になった。「右肩、一ミリ落とす」「一ミリで変わるんですか」「変わるわ。湊様は間違いなく
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第546話 麗華の白いドレス④

 営業用の笑顔。 どれだけ傷ついても、壊れそうでも、口角を上げて、背筋を伸ばす。ブライダルコーディネーターとして身につけたその仮面は、何度も私を助けてくれた。 でも、湊の隣に立つ時まで、それを着続ける必要はないのかもしれない。「……脱げますかね、私」 思わず漏らすと、麗華さんの手が一瞬止まった。 鏡越しに、視線が合う。「脱げなくてもいいんじゃない」 意外な答えだった。「その鎧で戦ってきたんでしょう。だったら、捨てなくていい。ただ、式の日くらい、誰かにファスナーを下ろさせればいいのよ」「……湊に?」「そこは姉にでも頼みなさい。今、変な想像をさせないで」「してません」「嘘が下手」 頬が熱くなる。 麗華さんは呆れたように息を吐いたが、その目は少しだけ笑っていた。「朱里さん」 突然、名前で呼ばれた。 いつもより少しだけ低い声だった。「私は、あなたが嫌いだった」 針を持つ手が、布の上で止まる。「知ってます」「でしょうね。隠してなかったもの」「はい」「あなたが湊様の隣にいるのが、許せなかった。家柄も、立場も、努力の方向も、何もかも違うのに。どうしてこの人は、あんなふうに笑えるのかって」 麗華さんの声には、自嘲が混じっていた。「昔の私は、選ばれなかったことが悔しかったんじゃないの。……たぶん、自分では一度も誰かを本気で選んだことがなかったのよ。服も、人も、全部、勝つための道具だった」 鏡の中で、彼女の睫毛が少し伏せられる。「だから、あなたが腹立たしかった。人に踏まれても、馬鹿みたいに拾い上げる。捨てられたものに価値を見つける。そんなの負け惜しみだと思っていたのに」 彼女は、小さく笑った。「昨日、胸元のマーガレットを外せなかった」 胸が、きゅっと締めつけられた。「外そうと思えば、外せたのよ。私は白鳥真琴より先に、あなたを認めたく
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第547話 麗華の白いドレス⑤

 ◇ 仮縫いが終わった頃には、外の光が少し傾いていた。 ドレスを着たまま、最終のシルエット確認をするため、アトリエ奥の大きな鏡の前に立つ。 麗華さんが後ろで裾を広げ、スタッフが照明の角度を調整する。 柔らかな光が、レースの上を滑った。 小さなマーガレットの刺繍が、直接見るとほとんどわからないほど控えめに、けれど確かに浮かび上がる。 歩いてみて、と言われ、一歩踏み出した。 スカートの内側で銀のチュールが揺れた。足元に、朝靄のような光が流れる。 まるで、温室のガラス越しに見た夜明けを歩いているみたいだった。 その時、アトリエの扉がノックもなく開いた。「あんた、仮縫い終わった? 書類の確認が……」 詩織姉の声が、途中で途切れた。 彼女は入口に立ったまま、動かなかった。 手には、クリアファイルと分厚い封筒。いつものように現実的な用件を抱えて、いつものように文句を言う顔で入ってきたはずの姉が、私を見るなり、瞬きも忘れたように固まっている。「詩織姉?」 呼ぶと、彼女の喉が小さく動いた。「……なに、その顔」 やっと出た声は、なぜか怒っているように聞こえた。「え、変?」「変じゃないわよ」 詩織姉は、乱暴に言った。 けれど、次の瞬間、彼女の目元が一気に赤くなった。「変じゃないから、困ってるの」 封筒を持つ手が震えている。 いつも強くて、現実的で、私より先に泣くことなんて絶対にしないと思っていた姉が、唇を噛みしめていた。 その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。 ああ。 私は花嫁になるのだ。 湊の隣に立つだけではなく、この人に送り出される日が、もうすぐ来るのだ。 麗華さんが、空気を読んだのか読んでいないのか、作業台の方へ静かに移動した。「泣くなら、今のうちよ。式当日に泣き崩れられたら、メイク担当が迷惑するわ」「うるさいわね」 詩織姉が即座に返
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第548話 姉の涙①

 鏡の中で、白いドレスを着た私と、詩織姉が並んでいた。 正確には、並んでいると言えるほど、詩織姉は近くにいない。アトリエの入口に立ったまま、片手で目元を覆い、もう片方の手でクリアファイルと分厚い封筒を握りしめている。いつものように背筋は伸びているのに、その肩だけがほんの少し、頼りなく震えていた。 麗華さんが、作業台の上のピンクッションを静かに持ち上げた。「仮縫いの確認は終わり。スタッフ、奥で糸番を確認して。ここは五分だけ空けるわ」「え、麗華さん」「邪魔なのよ、姉妹の湿っぽい空気は」 そう言いながら、麗華さんは私のスカートの裾をもう一度だけ整えた。指先がレースに触れる動きは、言葉とは反対にひどく丁寧だった。「朱里さん、動く時は裾を持つ。踏んだら縫い直し。泣くなら、涙は下へ落とさない。横に拭きなさい」「泣き方まで指示されるんですか」「花嫁は泣き方にも責任があるの」 詩織姉が、目元を隠したまま低く言った。「そのとおりよ。あと、朱里。こっちに来ないで」「どうして」「あんたが来たら、私が泣くって言ったでしょ。ドレスも汚れる。感動的な抱擁で何十万円分のレースを台無しにしたら、請求書を切るわよ」「姉妹の感動シーンなのに、最初に出てくるのが請求書なの、詩織姉らしいね」「褒めてないでしょ、それ」 言い返す声はいつもの調子に近かった。けれど、語尾だけが少し濡れている。 麗華さんは「十万円単位では済まないわよ」と冷静に訂正し、スタッフたちを連れて奥へ消えた。アトリエの扉が静かに閉まる。ミシンの低い駆動音も、裁断ばさみが布を噛む音も遠のき、広い鏡の前に、私たち二人だけが残された。 白いドレスの裾が、私の足元でかすかに揺れた。「……詩織姉」「なによ」「泣いてる?」「泣いてない」「目元、真っ赤だよ」「アレルギーよ。高級なアトリエの空気が合わないの」「そんなアレルギーある?」「あるわよ。庶民には高級シルクに対する免疫がないの」 くだらない言い訳
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第549話 姉の涙②

「あんた、昔からそういうところがあるのよ。言うことを聞いているふりをして、結局、自分の行きたいところへ行く」「詩織姉に似たんだと思う」「私のせいにしない」 あと二歩。 近づくほど、詩織姉の顔がよく見えた。いつもきっちり引かれているアイラインの端が、ほんの少しだけ滲んでいる。唇は固く引き結ばれていて、泣かないために全身で踏ん張っているのがわかった。 私の知っている姉は、強い。 内容証明を送りつける時も、役所の窓口で理不尽な相手に対応する時も、私が泣きながら電話をかけた夜も、詩織姉はまず水を飲めと言い、それから事実を時系列に並べろと言った。 でも、その強さは、最初から彼女の中にあったものではない。 両親を失った日、まだ大人になりきれていない姉が、私の前で泣かなかっただけだ。 泣く場所を、私に譲ってくれただけだ。「詩織姉」「だから、来るなって」「ありがとう」 詩織姉の息が止まった。 私は足を止めた。抱きつける距離ではない。手を伸ばしても、届くか届かないか。そのくらいの距離で、私は頭を下げた。 ドレスのレースが、膝のあたりで静かに波打つ。「今まで、ずっと守ってくれてありがとう」 言った瞬間、詩織姉の顔が歪んだ。「……やめなさい」「やめない」「そういうの、本当に苦手なの。感謝は現金振込でお願い」「金額いくら?」「一生分だから、分割不可」「じゃあ、払えないね」「最初から期待してないわよ」 詩織姉はそう言って笑おうとした。 けれど、失敗した。 目尻から、ぽろりと涙が落ちる。 白い床に落ちた一滴は、小さすぎて音もしなかった。それでも、私にはその音が聞こえた気がした。ずっと硬く閉ざされていた箱の鍵が、ようやく外れたような音。「……なんで、あんたが先にお嫁に行くのよ」 低く、悔しそうな声だった。「普通、こういうのって、姉が先じゃないの」「詩織姉、そ
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第550話 姉の涙③

「馬鹿みたいだけど。わかってるけど。あんたの制服にアイロンをかけて、寝坊したあんたの髪を結んで、弁当箱に冷凍食品を詰めて、先生からのプリントをなくしたあんたを怒って」 一つひとつ、彼女の声に昔の生活音が戻ってくる。 朝の狭い台所。焦げた卵焼き。片方だけ見つからない靴下。雨の日に乾かなかった体操服。夜中、こっそり泣いていた私の布団を、何も言わずに直してくれた姉の手。「そうやって、気づいたら、あんたを送り出す側になってた」 詩織姉は、クリアファイルを胸に抱え直した。「私、あんたの親じゃないのにね」 胸が、ぎゅっと縮んだ。「親じゃないよ」 詩織姉が顔を上げる。 その目が少しだけ傷ついたように見えて、私は慌てて首を振った。「違うの。詩織姉は、お姉ちゃんだよ。親の代わりじゃなくて、私の、たった一人のお姉ちゃん」 詩織姉の指先が、封筒の角を強く掴んだ。「両親がいなくなって、寂しくなかったわけじゃない。でも、私はずっと一人じゃなかった。詩織姉がいた。うるさくて、怖くて、すぐ証拠を出せって言う姉がいた」「最後の評価、悪口じゃない?」「褒めてる」「嘘が下手」 同じ言葉を返されて、今度は私が泣き笑いになった。 詩織姉はしばらく黙っていた。 そして、諦めたように息を吐くと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。「裾、持ちなさい。踏む」「はい」「あと、涙。下向かない。レースに落ちる」「はい」「返事だけは昔からいいのよね、あんた」「実行力もあるよ」「復讐にレンタル彼氏を雇おうとした実行力は、履歴書に書かないで」「書かないよ」 ようやく、詩織姉が私の正面に立った。 ドレスを挟んで、ぎこちない距離。 彼女は私の肩に手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。「……触っていいの、これ」「麗華さんに怒られるかな」「怒られるわね」「でも、触って」 詩織姉は、眉間に皺を寄せた。
last updateLast Updated : 2026-07-18
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