All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話 姉の涙④

 昔、泣き疲れた私を寝かしつける時と同じ、少し乱暴で、照れ隠しの混じった手つきだった。「あと、湊さんに一つだけ言っておいて」「何?」「妹を泣かせたら、内容証明では済まさない」「それ、もう何回も言ってる」「何回でも言うの。法的通知は繰り返しが大事だから」 笑った拍子に、また涙が落ちそうになった。 その時、扉の向こうで、ごく控えめなノックがした。 詩織姉が反射的に私から離れ、目元を乱暴に拭う。「誰」「僕だ」 低い声。 湊だった。 心臓が、変な跳ね方をした。「入らないで!」 私と詩織姉の声が、見事に重なった。 扉の向こうで、一瞬沈黙が落ちる。「……承知した。見ていない」「見たら、眼球を法的に差し押さえるわよ」「詩織さん、眼球は差し押さえの対象として極めて不適切だ」「冗談に法律で返さないでちょうだい。腹が立つわね」 扉越しに、湊が小さく笑った気配がした。「朱里」「はい」「一つだけ、詩織さんに伝えたい」 詩織姉の表情が、少しだけ引き締まる。 湊の声は、扉を挟んでいても、まっすぐだった。「僕は、朱里をいただくつもりはありません」 息が止まった。 詩織姉も、目を見開いて扉を見つめている。「彼女をあなたから奪うのではなく、僕が、あなたたちの家族に加わらせてもらうつもりです」 静かな声だった。 飾り立てた誓いではない。けれど、その一文に、九龍湊という人の変化がすべて詰まっていた。 人を所有するように守ろうとしていた人が。 契約書で関係を縛ろうとしていた人が。 今、扉の向こうで、私の家族に頭を下げている。 詩織姉の唇が震えた。「……そう」 彼女は、いつものように眼鏡を押し上げようとして、今日はかけていないことに気づいたらしく、指を宙で止めた。「じゃあ、加わるからには
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第552話 姉の涙⑤

 蓋を開けると、少し黄みを帯びた小さな真珠が二粒、銀色のピンに留められていた。 古くて、控えめで、光も強くない。 でも、不思議と目が離せなかった。「……使っていいの?」「使うために持ってきたの。しまい込んでいても、埃をかぶるだけでしょ」 詩織姉は箱からピンを取り出し、私の髪の横へそっと当てた。 鏡の中で、白いドレスに小さな真珠が重なる。 マーガレットの刺繍、銀のチュール、温室の白。 そこへ、茅野家の小さな白が一つ、加わった。「お母さん、見てるかな」 思わず呟くと、詩織姉は少しだけ空を見上げるように目を細めた。「見てるんじゃない。あんたのドレス代を聞いたら、たぶん腰を抜かすけど」「そこ?」「そこよ。現実は大事」 言いながら、彼女はヘアピンを外し、箱へ戻した。「これは式当日の朝、私がつける」「詩織姉が?」「嫌なの?」「嫌じゃない」「なら決まり」 詩織姉は封筒を抱え直し、急にいつもの仕事顔に戻った。「それと、招待状の最終確認。席次表も明日までに確定する。感傷に浸るのは五分って麗華さんが言ったでしょ。もう七分経ってる」「急に現実に戻った」「現実を作るのが仕事なんでしょ、花嫁さん」 麗華さんと同じ言い方をされて、私は吹き出した。 詩織姉は、不機嫌そうに眉をひそめる。「何笑ってるの」「私、いい人たちに囲まれてるなって」「今頃気づいたの? 遅い」 そう言いながら、詩織姉は私の肩についた小さな糸くずを摘まみ取った。 指先が離れる時、彼女はもう一度だけ、鏡の中の私を見た。 その目元には、まだ少し赤みが残っている。「朱里」「うん」「本当に、綺麗よ」 今度は、ちゃんと笑って言ってくれた。 私は、泣かないように唇を噛んだ。 鏡の中で、白いドレスの私が少しだけ背筋を伸ばす。 嫁ぐということは、誰かを置いていくこ
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第553話 招待状の名前①

 招待状の封筒は、白い紙のはずなのに、一枚ごとに重さが違うように感じた。 九龍ホテルのブライダルサロン。閉館後の打ち合わせスペースには、昼間の華やかさが嘘のような静けさが落ちている。壁際の間接照明だけが柔らかく灯り、ガラスの花器に活けられた白い花の影が、テーブルの上で薄く揺れていた。 目の前には、最終版の招待客リスト。 その隣に、手書きのメモ、席次表、返信はがき、未発送の封筒が並んでいる。 自分の結婚式のための書類なのに、私はいつもの癖で、ボールペンを持つ手に仕事用の力を込めていた。右上の日付、名前の漢字、肩書、敬称。席の位置。導線。車椅子の動線。アレルギーの有無。受付に渡すリストの差し替え箇所。 確認すべきことはいくらでもある。 けれど、目が止まるのは、どうしても名前だった。 名前は、ただの文字ではない。 その人と自分の間にあった時間が、一行の中に凝縮されている。 相沢奈々様。相沢航平様。 奈々さんのお母様の名前も、丁寧に記されている。式当日のバリアフリー導線欄には、詩織姉が赤字で「休憩スペースを二箇所確保。人目が少ない位置」と書き込んでくれていた。 大島花園 大島様。 新藤様。 佐藤工場長。 かつて私が担当した花嫁たちの名前。小さな工場で、九龍の無理難題に付き合ってくれた人。白鳥側の圧力がかかっても、最後まで残ってくれた現場の人たち。華枝様の古い縁から、今の私へ手を伸ばしてくれた人たち。 綾辻麗華様。 その名前の横には、本人の強い希望により「肩書不要」と書かれている。けれど、席次表の下書きで私は、小さく鉛筆で「ドレス制作」とだけ添えた。本人に見つかったら怒られるだろう。でも、消せなかった。 九龍征司様。 その隣に、詩織姉の名前。 この二人を同じテーブルにするか、隣同士にするか、私はこの三日間で何度悩んだかわからない。隣にすれば征司さんが調子に乗る。離せば詩織姉が余計に意識する。結局、私は二人を斜め向かいにした。目は合う。けれど、逃げ道もある。ブライダルコーディネーターとしての、ささやかな現実的配慮だ。 九龍志保様。
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第554話 招待状の名前②

「終わらないのか」「あと少しです」「その『あと少し』を、僕はこの一週間で十七回聞いた」「数えないでください」「君に関することは、嫌でも覚える」 さらりと言われて、頬が熱くなる。 湊は向かいの椅子に腰を下ろし、テーブルの上のリストを覗き込んだ。大きな手が、私のペンのすぐそばに置かれる。指先に、わずかなインクの跡があった。「湊、手」「ん?」「インクがついてます」 ハンカチを差し出すと、湊は自分の指を見て、小さく眉を上げた。「久しぶりに手書きで礼状を書いていた」「CEOが自分で?」「君が、招待状は手で出したいと言ったから」 胸が、静かに揺れた。 何気なく言ったことを、この人は拾ってくれる。重いと言えば重い。でも、その重さが、今は私を縛る鎖ではなく、足元に敷かれる柔らかな絨毯のように感じられる。「……ありがとうございます」「礼を言うのは僕の方だ」「どうして」「九龍の結婚式に、こんなに人の名前が並ぶ日が来るとは思わなかった」 湊の視線が、リストの上をゆっくり滑っていく。 古い血筋を示す名ばかりではない。 役員、親戚、政財界の名士。その横に、工場長、花屋、音響スタッフ、かつての花嫁たち、姉、従兄弟、デザイナー。肩書も立場も違う人たちが、一枚の紙の上で同じ余白を分け合っている。「華枝様が見たら、なんて言うかな」「まず、席次表の字が小さいと文句を言う」「言いそう」「その後で、たぶん笑う」 湊の声が少しだけ低くなった。 私は、リストの隅に置いていた白い花の押し花を指で撫でた。温室で育った白。奈々さんの式で胸元に咲き、麗華さんのドレスに刺繍され、今、招待状の束のそばに静かに置かれている。 白い花は、何度も姿を変えながら、私たちの前に現れる。 終わったものではなく、受け継がれるものとして。「……美咲さんと、拓也さんの名前は?」 湊が、静かに言った。
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第555話 招待状の名前③

 痛みは、ある。 傷跡も、消えてはいない。 けれど、もうそれは私の未来の席を決めるほどの力を持っていなかった。「許したわけじゃないです」「ああ」「顔を見たら、たぶん嫌な気持ちにもなると思う。昔のことを思い出して、少しは腹も立つと思う」「それでいい」「でも、私たちの式に、二人のための席は作らない」 言いながら、私は空白の三行をそっと指でなぞった。「招待状って、未来への席を用意するものだと思うんです」 湊の目が、静かにこちらを見た。「誰を見返すかじゃなくて、誰に見ていてほしいか。誰と同じ空気の中で、誓いたいか。だから……あの二人は、ここにはいらない」 湊は、しばらく黙っていた。 そして、私の手からペンをそっと取り、空白の三行の上に小さな線を引いた。 削除線ではない。 何かを消すための線ではなく、そこから先へ進むための、静かな区切りのような線。「なら、その席は空けておこう」「空席にするんですか?」「いや」 湊は、少しだけ口角を上げた。「当日、急に誰かが泣き出した時のための予備席だ。君の周りには、涙腺の壊れた人間が多い」「詩織姉に言ったら怒られますよ」「詩織さんだけとは言っていない」「もしかして、湊も?」 からかうと、湊は視線を逸らした。 その仕草があまりにも分かりやすくて、私は思わず笑ってしまった。「……君のドレス姿をまだ見ていない」「見たら泣きます?」「わからない」 正直すぎる答えに、胸の奥が甘く痛んだ。 湊はごまかすようにリストへ目を落とし、次の封筒を手に取った。 その時だった。 サロンの扉が、控えめにノックされた。「茅野さん」 ホテルスタッフが顔を覗かせる。少し緊張した表情だった。「お忙しいところ申し訳ございません。こちら、九龍家宛に届いたものなのですが……茅野様に
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第556話 招待状の名前④

 私がしたことは、謝罪の言葉で消えるものではありません。 あなたを傷つけ、兄貴を追い詰め、九龍家の名を汚したことを、一生かけて償います。 招待状を望む資格がないことは理解しています。 ただ、あなたが作る式が、血筋ではなく、人を選び直す場になることを、心から願っています。 九龍剣吾』 読み終えても、しばらく文字から目を離せなかった。 怒りが湧くと思っていた。 嫌悪が先に来ると思っていた。 けれど、胸に残ったのは、もっと静かなものだった。 便箋の端が、少しだけ滲んでいる。書き損じを直した跡なのか、握りしめた指の汗なのかはわからない。完璧な謝罪文ではない。むしろ、不格好だった。 でも、その不格好さが、少しだけ剣吾という人間の今を示している気がした。 彼はもう、私たちの前に立つ敵ではない。 許されるために来た人でもない。 遠くで、自分の罪を抱えながら生きる人になったのだ。「……招待状は、送りません」 私は便箋を丁寧に畳んだ。「でも、捨てません」 湊は何も言わなかった。 ただ、私の手に重ねるように、自分の手を置いた。 その体温が、迷いをほどく。「許さなくてもいいんですよね」「ああ」「忘れなくても」「忘れる必要はない」「でも、憎み続けなくてもいい」 湊の指が、私の指先をそっと包み込む。「君がそう選ぶなら」 私は、小さく頷いた。 便箋を、招待状の束とは別の封筒へ入れる。 未来へ連れていく人の名簿には載せない。 でも、過去の箱の中へ乱暴に押し込めることもしない。 その中間に置く。 それが、今の私にできる区切りだった。 ◇ 夜が深くなる頃、招待状の最終確認はようやく終わった。 詩織姉からのメッセージが届く。『誤字なし。席次表の敬称も確認済み。あんたは今すぐ寝なさい。肌荒れした花嫁ほど迷惑なものはない』 その
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第557話 招待状の名前⑤

 ◇ 式当日の朝。 まだ外の空が薄青い時間、控室にはアイロンの蒸気と、温かい紅茶の香りが満ちていた。 鏡の前に座る私の髪を、詩織姉が後ろから整えている。「動かない」「動いてない」「息で動いてる」「それは許して」 詩織姉は不満げに鼻を鳴らしながら、昨夜見せてくれた母のパールのヘアピンを、私の髪の横へ慎重に差し込んだ。 小さな真珠が、照明を受けて控えめに光る。「……はい」 鏡越しに、詩織姉の目と合った。 今日は、泣いていない。 けれど、その目元は少しだけ赤い。「似合ってる」「ありがとう」「お母さんも、まあ、文句は言わないんじゃない」「詩織姉は?」「私は文句だらけよ。ドレスが高い。新郎が重い。式場が広い。親族席の老人たちが面倒。あと、征司さんが朝から浮かれてる」「最後、私のせいじゃない」「だいたい九龍家のせいよ」 控室の端で、麗華さんが最終チェックをしながら呆れたように言った。「花嫁の支度中に現実を叩きつける姉って、なかなか希少ね」「現実を知らない花嫁よりましです」「同感だけど、今日くらいは少し黙っていて」「努力します」「今すぐして」 二人のやり取りに、メイク担当のスタッフが笑いを堪えていた。 緊張で冷たくなっていた指先に、少しだけ血が戻る。 ドレスを着る。 背中のファスナーを上げる音が、昨日よりもずっと大きく聞こえた。 麗華さんが裾を整え、詩織姉がベールを持つ。白い布がふわりと肩へ落ちた瞬間、世界の音が少し遠のいた。 私は鏡の中の自分を見る。 五万円の恋人を待っていた女。 契約書にサインした女。 九龍家で何度も泣いて、それでも立ち上がった女。 花を拾い、胸元に咲かせ、自分の式を作ると決めた女。 全部、私だった。「朱里」 詩織姉が、ベール越しに私の肩を軽く叩いた。
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第558話 CEOの花嫁①

 扉が、開いた。 細く差し込んでいた白い光が、一気に視界を満たす。 弦楽の前奏が、ほんの少しだけ揺れた。演奏者の指が緊張したのか、それとも私の耳が勝手にそう聞いたのかはわからない。ただ、そのかすかな震えまで、やけにはっきり届いた。 白い花の香りがした。 温室のマーガレットと、淡いグリーンの草花。奈々さんの式で最後まで咲いてくれた花たちの名残を、志保さんが新しく束ね直してくれたものだ。華枝様の温室で育った白は、今度は切られた痛みではなく、祝福の匂いとして私の胸元にある。 足元で、ドレスの内側の銀のチュールが、さらりと鳴った。 その音に、現実へ引き戻される。 進まなきゃ。 一歩、踏み出す。 柔らかな絨毯がヒールの音を吸い込んだ。あの日、拓也と美咲の披露宴会場へ乗り込んだ時は、石の床にヒールの音がやけに大きく響いていた。逃げられないと自分に言い聞かせるために、私はわざと強く床を踏んだ。 今日は、音がしない。 それなのに、心臓だけがうるさい。 バージンロードの両側には、たくさんの顔が並んでいた。 奈々さんと航平さんがいる。奈々さんのお母様は車椅子の上で、胸元に飾った白い花を指先で撫でながら、私のほうへ小さく頷いてくれた。佐藤工場長は不器用に背筋を伸ばし、隣の奥様に肘でつつかれて慌ててハンカチを取り出している。 麗華さんは、腕を組んでいた。 泣くつもりは一切ない、という顔をしているのに、私が歩くたびに視線がドレスの裾へ落ちる。右肩のライン、胸元のレース、内側で光る銀のチュール。自分の作ったものが、ちゃんと花嫁を支えているか。その確認を、彼女は一ミリも怠らない。 その少し後ろで、詩織姉が立っていた。 腕は組んでいない。クリアファイルも持っていない。ただ両手を前で握りしめ、唇をきつく結んでいる。今朝、私の髪に母のパールのヘアピンを挿してくれた時と同じ目をしていた。 泣かないために、全身で踏ん張っている目。 視線が合った瞬間、詩織姉の口が小さく動いた。 背筋。 声は聞こえなかった。 でも、確かにそう言われた気がして、
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第559話 CEOの花嫁②

 いつもの余裕のある笑みも、皮肉も、完璧な表情管理もない。黒い瞳がわずかに見開かれ、唇がほんの少しだけ開いている。まるで、言葉を出す前に息の仕方を忘れてしまったみたいだった。 その顔を見た瞬間、喉の奥が熱くなる。 泣かない。 まだ、泣かない。 ここで泣いたら、詩織姉に「メイク担当に謝りなさい」と叱られる。麗華さんには「だから泣き方にも責任があると言ったでしょう」と冷たく言われる。 そう思ったら、少し笑えた。 笑った私を見て、湊の目がさらに揺れた。 ああ、だめだ。 あの人のほうが先に泣きそうだ。 一歩、また一歩。 私は誰かの腕に縋って歩いているわけではない。 父も母も、もういない。両親の代わりに私の背中を押してくれた姉は、いま後ろにいる。ベールの向こうで、小さく鼻をすすっている音がした気もするけれど、それを確かめるために振り返ることはしなかった。 自分の足で歩く。 この道の先にいる人を、自分で選んだのだから。 ドレスの裾が、ほんの少し絨毯に引っかかった。 反射的に手を伸ばし、裾を持ち上げる。スタッフが慌てて動こうとした気配がしたが、それより早く、私は自分で布を逃がした。 会場のどこかで、小さな笑いが起きる。 完璧な花嫁ではない。 でも、それでいい。 私はずっと、そうやってやってきた。転びそうになったら、自分で布を持つ。足元を見すぎたら、また前を見る。 湊まで、あと三歩。 二歩。 一歩。 最後の距離で、彼がようやく動いた。 差し出された手は、少し震えていた。 私はその震えを見て、胸が詰まった。いつも私を引き寄せ、守り、時には閉じ込めようとした大きな手。その手が、今日は私を待っている。 掴むのではなく、選ばれるのを待っている。 私は、右手を差し出した。 湊の指が、私の指先を包む。 体温が重なった瞬間、バージンロードの長さも、会場の広さも、周囲の視線も、全部が一度遠くなった。「……来てく
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第560話 CEOの花嫁③

「だから、僕は今ここに立っていられる」 司式者が、やわらかく咳払いをした。 湊は、名残惜しそうに私の手を離す。私も、離したくないと思ってしまい、慌てて指先を整えた。ベール越しに見えた詩織姉が、目だけで「式を進めなさい」と言っている。 はい。 心の中で返事をして、私は祭壇の前に立った。 式は、驚くほど静かに進んだ。 豪華な演出も、過剰な照明もない。白い花、木目の椅子、淡い光。九龍の名を掲げるには控えめすぎる、と昔の誰かなら言ったかもしれない。 けれど、そこにいる人たちは皆、息を潜めるようにこちらを見つめていた。 誓いの言葉の時間になる。 司式者が合図をし、湊が一歩、私のほうへ向き直った。 その瞬間、彼の顔からCEOの仮面が完全に消えた。 残ったのは、不器用で、誠実で、少し怖がりな、一人の男だった。「朱里」 低い声が、会場に落ちる。「僕は、君との始まりを美しい物語として語ることはできない」 会場の空気が、わずかに揺れた。 私の心臓も、同じように揺れる。 けれど湊は、逃げなかった。「誤解があった。契約があった。僕の都合も、君の意地もあった。人に誇れるような、清らかな始まりではなかったと思う」 彼の親指が、自分の指輪を持つ手の上で一度だけ動く。 緊張している。 そう気づいた瞬間、不思議と私のほうが落ち着いた。「それでも、君はその不完全な始まりから、僕にたくさんのものを見せてくれた。壊れた家族を結び直す力。誰かの願いを最後まで拾う強さ。泣きながらでも現場に立つ覚悟。……それと、愛されることから逃げていた僕を、何度も引き戻す手」 湊の目が、私だけを見る。「僕は今日、君を妻として選ぶ。九龍の花嫁として飾るためではない。僕の人生の隣に立つ人として。僕が迷った時に叱ってくれる人として。そして、守るだけではなく、共に守り合う人として」 息が、うまく吸えない。 会場のどこかで、誰かが小さく鼻をすすった。詩織姉か、志保さんか、征司さんが泣いているふり
last updateLast Updated : 2026-07-22
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