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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 121 - Chapter 130

231 Chapters

2-46 帰ってきたい場所

あやめの泣き声を聞いた瞬間、冬弥は自分が一線を越えたことを悟った。反射的に身を引く。支えを失ったあやめの体は、その場へ力なく崩れ落ち、小さく身を丸めた。冬弥はすぐに布団を引き寄せる。身を守るように縮こまるあやめをそっと包み込み、そのまま静かに抱き上げた。腕の中にある体は温かい。それなのに、どこか遠い。触れているはずなのに、届いていない。そんな感覚が胸を締めつけた。「……悪かった」ぎこちない謝罪だった。謝ることに慣れていない男の、不器用な一言。だが、あやめは何も答えない。沈黙だけが、二人の間へ重く落ちた。「俺は……」何を伝えようとしているのか、自分でも分からなかった。言い訳なのか。願いなのか。その言葉は、あやめの静かな声に遮られる。「……戻ったら」震えている。それでも、その声の芯は揺らいでいなかった。「戻ったら、冬弥さんは安心してしまうもの」責める響きではない。ただ、事実を告げる穏やかな口調だった。冬弥は静かに問い返す。「……安心することは、悪いことか」安心。変わらない関係。帰る場所があること。それは誰もが求めるものではないのか。あやめはゆっくりと首を横へ振った。「悪くないです」その言葉に偽りはない。だからこそ冬弥は、わずかな希望を抱く。「それなら――」「でも」あやめは静かに続けた。「私だって、安心が欲しいのです」その一言に、冬弥は息を呑んだ。予想もしなかった言葉だった。あやめは、いつも与える側だった。不安を見せず、寄りかからず、冬弥を支え続けてきた。だからこそ、自分も安心したいと願っていたことが胸へ重く響く。あやめは寂しそうに微笑んだ。「安心したら……冬弥さんが来なくなってしまうのが嫌なの」「……来る」冬弥は即座に答える。迷いのない返事だった。しかし、あやめは静かに首を振る。「あやめ」呼びかけても、その意思は変わらない。「"必ず"と、言えますか?」その問いに、冬弥は言葉を失った。必ず。未来を断言する、その一言。口にした瞬間、自分を縛る言葉だと知っている。だから沈黙した。その沈黙だけで、答えは出てしまう。「……でしょう?」あやめは小さく笑った。責める笑みではない。どこか諦めを含んだ、優しい笑みだった。「だから、このままでいたい」静かな声が続く
last updateLast Updated : 2026-02-23
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【第三章】3-1 春を告げる知らせ

春の風が、庭の梅を優しく揺らしていた。冬の名残を残した冷たい風。それでも枝先には淡い緑が芽吹き始め、季節が確かに移ろっていることを告げている。あやめは縁側へ腰を下ろし、湯呑を両手で包んだ。早苗が淹れてくれた梅昆布茶。ほのかな酸味と塩味が、体の奥までゆっくりと温めてくれる。自然と肩の力が抜けた。視線の先には庭の四阿がある。冬の間は骨組みだけの寂しい姿だったそこも、絡みつく蔦が少しずつ緑を取り戻し始めていた。ほんの小さな変化。それでも、その変化は確かな時間の流れを物語っている。(いつの間にか、春になっていたのね)季節は、人が気づかないうちに歩みを進める。その穏やかな事実が、あやめの胸へ静かに染み込んでいった。「あやめ」背後から聞こえた低い声に、あやめは振り返らず微笑む。冬弥だった。足音を立てず隣へ腰を下ろすと、二人は並んで同じ庭を眺めた。「いつの間にか、春になっていたのか」あやめは小さく笑う。同じことを考えていたらしい。冬弥は何気なくスーツの上着を脱ぎ、あやめの肩へそっと掛けた。自然な気遣い。以前なら照れてしまったその仕草も、今はどこか心地よい。互いに触れることが当たり前になった。それでも、その距離にはまだ少しだけ緊張が残っている。それが今の二人らしさだった。「話とは何だ」簡潔な問いに、あやめは思い出す。今日は、そのために冬弥を呼んだのだった。隣へ視線を向ける。冬弥は静かな表情をしている。けれど、その奥にはわずかな緊張が見えた。悪い知らせではないかと構えている。そんな姿が、最近父・謙一が飼い始めた犬を思い出させた。主人の言葉を待ちながら、大人しく座る大型犬。思わず頬が緩む。「あやめ?」笑みを浮かべたまま黙っているあやめを見て、冬弥が不思議そうに首を傾げた。その仕草が可笑しくて、あやめは少しだけ笑ってしまう。そして湯呑を縁側へ置き、ゆっくりと冬弥へ向き直った。「……赤ちゃんができました」その一言で、世界が静まり返った。梅の香りを乗せた風だけが、二人の間をそっと吹き抜ける。冬弥は動かない。ただ、その瞳だけが静かに揺れていた。驚き。戸惑い。信じたいという願い。様々な感情が入り混じり、言葉にならないまま瞳へ映っている。あやめは急かさなかった。ゆっくり受け止めればいい。そう思い
last updateLast Updated : 2026-02-24
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3-2 私から言いたかった

春風が庭を渡り、梅の花びらを一枚、また一枚と運んでいく。その穏やかな景色を眺めながら、冬弥はふと思い出したように口を開いた。「鷹見を連れて行けと言ったのに、頑なに嫌がったのもそういうわけか」あやめは湯呑を包んだまま、小さく笑う。「嫌だったんですもの」「あいつ、かなりへこんでいたぞ」「このことを教えればすぐに回復します」あまりにも簡潔な返事だった。冬弥は苦笑しながら肩をすくめる。「鷹見の奴、娘に『お父さん臭い』と言われたときくらい落ち込んでいたからな」「そんなことは知りません」素っ気ない返事。けれど、その横顔には笑いを堪えている気配があった。冬弥は横目であやめを見る。「『大迫は連れて行くくせに』とも言っていた」その一言で、あやめは呆れたようにため息をつく。「冬弥さんが、でしょう?」冬弥は黙る。「大迫のことで妙な勘繰りはやめてください」まるで、その場にいたかのような返しだった。「大迫は冬弥さんが連れてきた人でしょう?」「あいつが勝手についてきたんだ」「採用したのは冬弥さんです。しかも、私の【愛人】として」見事な反撃だった。冬弥は返す言葉を失い、大きく息を吐く。「……あやめのことも、大迫のことも信じている」そこで一度言葉を切る。「だが、気に食わないものは気に食わない」あまりにも身勝手な本音だった。けれど、それを隠さず口にするようになった冬弥を見て、あやめは少しだけ嬉しくなる。以前なら、胸の内へ押し込めて終わっていた言葉だ。「病院なら、早苗だけでもよかっただろう」「悪漢が出たら、早苗さんを盾にしろとでも言うのですか?」あやめは真顔で首を振る。「嫌ですよ、そんなこと。怪我したらどうするんです」「……大迫ならいいのか」「そのための大迫でしょう?」思わず二人の目が合う。そして同時に吹き出した。縁側へ、小さな笑い声が溶けていく。ひとしきり笑ったあと、あやめは静かに表情を和らげた。「自分の口で伝えたかったんです」その一言で、冬弥も笑みを収める。「この報告だけは、誰にも代わってほしくありませんでした」自分の言葉で。自分の声で。最初に伝えたかった。だから余計な人は連れて行かなかったのだ。「私が『言わないで』と言えば、大迫は拷問されても口を割りませんから」冬弥の眉がわずかに動く。「大迫に給料
last updateLast Updated : 2026-04-17
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3-3 二人で守るもの

「……しかし、誕生日の件をまだ引きずっていたのか」冬弥が苦笑混じりに言うと、あやめは少しだけ視線を逸らした。「まあ……あれは私も悪かったのですけれど」懐かしむような笑みが浮かぶ。あの誕生日は、あやめにとって忘れられない出来事だった。何でも持っている冬弥に、何を贈れば喜んでもらえるのか。必要なものは自分で手に入れられる人だからこそ、あやめにとって冬弥が特別という気持ちを形にしたかった。悩み続けて辿り着いた答えが、手作りのネクタイだった。誕生日の一か月前。紳士服の外商・西野へ相談し、生地選びから始めた。色も柄も織り方も、一つひとつ悩み抜いた。サンプルを何度も取り寄せ、鏡の前で冬弥に似合う姿を想像する。ようやく一本に決めた頃には、すでに二週間が過ぎていた。残された時間はあと半月。間に合うはずだった。だが、そのタイミングで仕事が立て込む。組同士の小競り合いの調整。冬弥へ近づこうとする女たちへの対処。情報整理と指示出し。昼も夜も予定が埋まり、針を持つ時間さえ思うように取れなくなった。気づけば誕生日まで五日。完成させるには、夜の時間を確保するしかなかった。だから、冬弥の訪問を断った。一日目は何も言われなかった。二日目も、まだ誤魔化せた。しかし三日目。冬弥は明らかに焦り始めた。自分は部屋へ入れないのに、大迫だけは出入りしている。その事実が、さらに冬弥を苛立たせた。問い詰めても返ってくるのは、「仕事です」「忙しいので」その繰り返し。大迫は巧みにかわし、早苗も知らないふりを貫く。ついには冬弥が組員へ八つ当たりを始め、見かねた鷹見が一言だけ告げた。――もう少しですから、我慢してください。その「もう少し」が妙に引っ掛かった。あと少しで何があるのか。そこから自分の予定を思い返し、普段は意識もしない誕生日へようやく辿り着く。さらに西野が何度も屋敷へ出入りしていた記録まで繋がり、ようやく冬弥は真相へ気づいたのだった。.「さすがに、ネクタイを手作りしているところまでは分からなかった」冬弥が肩をすくめる。あやめは小さく笑った。「でも、今回は違います」そう言って冬弥を見る。「産婦人科へ行ったと分かれば、冬弥さんならすぐ気づいてしまいますもの」その言葉に、冬弥は少しだけ唇を尖らせた。「……俺より先に、大迫が
last updateLast Updated : 2026-02-24
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3-4 産声

雨が静かに病院の窓を叩いていた。規則正しく響く雨音を聞きながら、冬弥は窓ガラスを伝う雫をじっと見つめていた。流れ落ちる水滴が、外の景色を歪ませていく。そのぼやけた景色は、今の自分の心によく似ていた。(あやめに初めて会った日も……こんな天気だっただろうか)記憶をたぐり寄せる。だが途中でやめた。入籍日は記録に残っている。初めて顔を合わせた日も調べれば分かる。それでも、その日の空の色や風の匂いまでは記録されていない。思い出そうとしても、もう曖昧だった。あやめとの結婚は政略結婚だった。互いが望んだわけではない。そうすることが最善だと判断され、結ばれた関係。だから結婚記念日も、六月の終わり頃、都合の合う日に形式的に祝うだけになるはずだった。(それが……)冬弥は小さく笑う。あの日のあやめの表情すら思い出せない。それなのに今では、その存在は誰よりも重く、確かに自分の心の中へ根を下ろしていた。(組にとって重要な女になるとは思っていた)(だが、俺にとってここまで大きな存在になるとは思わなかった)窓の外は雨雲に覆われ、昼なのか夜なのかさえ曖昧だった。病院特有の白い照明だけが、静かな廊下を照らしている。腕時計へ視線を落としかけて、やめた。時間を知っても意味はない。待つしかできないのだから。「若」鷹見の声で我に返る。目の前にはペットボトルが差し出されていた。「姐さんが心配なのは分かりますけど、水くらい飲んでください」「ああ……」受け取ると、冷えた感触が掌へ伝わる。結露した水滴がじわりと滲んだ。冬弥がキャップを見つめていると、隣で勢いよく蓋を開ける音がした。鷹見は一気に水を飲み干し、大きく息を吐く。「ったく……暦の上じゃ秋なのに、この暑さは何なんですかね」「そうだな」上の空で返す。そんな冬弥を見て、鷹見は呆れたように言う。「若も倒れたら笑えませんからね」そう言いながら落ち着きなく廊下を歩き回る。苛立っているようにも見える。だが実際は違う。待つことしかできない不安が、体を動かさずにはいられなくしていた。その姿を見ながら、冬弥は別の男を思い浮かべる。義父・柊謙一。大臣という立場上、病院へ来ることは控えている。それでも、じっと待っていられる男ではない。きっと今頃、家で何度も時計を見ながら連絡を待っている
last updateLast Updated : 2026-02-25
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3-5 父親になった日

看護師に案内され、冬弥は分娩室の隣の部屋へ足を踏み入れた。扉の向こうには、静かな時間が流れていた。ベッドには、あやめが横たわっている。顔色はまだ白く、額には汗が残っていた。それでも、その表情は穏やかだった。冬弥と目が合うと、小さく微笑み、隣へ置かれた透明な保育器へ視線を向ける。――見て。言葉はなかった。それでも、その想いは十分に伝わった。冬弥はゆっくりと歩み寄り、透明な箱の中を覗き込む。「……っ」そこには、小さな命が眠っていた。「……冬弥さん」あやめが優しく名を呼ぶ。それでも冬弥は振り返れなかった。目の奥が熱い。込み上げるものを堪えるため、赤ん坊を見つめることしかできない。そんな冬弥の様子を見て、あやめは何も言わず、小さく笑った。(……小さい)自分の掌よりも小さな顔。まだ赤く、しわだらけの肌。閉じた瞼。小さく動く口元。つい先ほどまで、あやめのお腹の中にいた命。「……これが、俺たちの子か」ようやく漏れた声に、あやめは優しく頷く。「ええ」幸せそうに微笑む。「みんな私に似ていると言うのですけれど……私は冬弥さんに似ていると思うのです」「俺に?」冬弥は思わず首を傾げた。鏡に映る自分の顔を思い浮かべる。強面で、不愛想。赤ん坊とは似ても似つかない。「いや……どう見ても、あやめだ」「そうですか?」あやめはくすりと笑う。「冬弥さんがそうおっしゃるなら、そうなのかもしれませんね」その笑顔を見て、冬弥もようやく肩の力を抜いた。その様子を見計らったように、看護師が静かに声を掛ける。「抱っこしてみますか?」冬弥は固まった。(抱く?)抱くとは。どうやって。どこへ手を添える。力はどれくらい入れればいい。頭の中が真っ白になる。何も答えられない冬弥を、「緊張しているだけ」と受け取った看護師は、慣れた手つきで赤ん坊を抱き上げた。「お父さん、大丈夫ですよ」その呼び方に、冬弥の思考が止まる。――お父さん。そう呼ばれる立場になったのだと、改めて突きつけられた。「首と頭を支えてあげてくださいね。まだ首がすわっていませんから」看護師は優しく説明しながら、赤ん坊を冬弥の腕へ預ける。「そうそう、そのままで大丈夫です」何が大丈夫なのか分からない。冬弥は全身へ力が入り、直立不動になった。そんな父親とは対
last updateLast Updated : 2026-02-25
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3-6 父親一年生

楓が生まれた日を境に、龍神会の空気は一変した。抗争の緊張は消え去り、屋敷を満たしたのは祝いの熱気だった。朝から晩まで乾杯の声が響き、盃の音と笑い声が絶えない。祝い酒は次々と空き、門前には祝いの品を抱えた客が列を作る。届けられた贈り物は一室では収まりきらず、急きょ「楓坊ちゃま専用」の保管部屋まで用意される始末だった。.「祝いの品って、置き配じゃ駄目なんすかね」運び込まれる段ボールを見ながら、大迫がぼやく。「門の前に積まれたら、ご近所の迷惑でしょう」早苗は淡々と答えた。「置き場所を決めればいいじゃないっすか」「危険物が混じっていたら困るもの」そう言いながら、早苗は慣れた手つきで段ボールを開封する。現れたのは「祝い」とは程遠い金属の塊。赤いランプが規則正しく点滅していた。部屋の空気がわずかに張り詰める。早苗は表情一つ変えず、ゴム手袋をはめた。「外部通信なし……古い起爆装置ね」配線を追いながら呟く。「大迫、どれだと思う?」「……黄色?」「残念」迷いなく赤いコードを切る。ランプは一瞬で消えた。「また外れね」「くっそ……」大迫は力なく床へ座り込み、そのまま大の字になって天井を見上げた。視線の先には、無残に壊されたぬいぐるみやベビーメリーが積まれている。すべて、一度は祝いとして届いたものだった。中身を調べるため解体され、もう原形を留めていない。「仕込まれてるの、坊ちゃん宛てばっかりっすね」「当然でしょう」早苗は淡々と言う。「正妻のあやめ姐さんが産んだ跡取りですもの。龍神会が安泰になるほど、それを嫌う人間も増えるわ」祝いの裏に潜む悪意。それもまた、この家の日常だった。「やっぱ【愛人】の誰かにも子ども産んでもらうべきだったんすかね」大迫の軽口に、早苗は苦笑する。「藤堂結衣なら『あやめちゃんの子どもの兄だと思えば想像で妊娠できます』なんて真顔で言っていたし、水無瀬澄江様からは『必要なら用意します』とも言われましたよ」大迫は肩をすくめた。「命がけの純愛っすね」「任侠映画の副題に使えそう」二人は笑いながらも手を止めない。祝いも悪意も。すべてを仕分けることが、屋敷を守る者たちの仕事だった。◇◇◇一方、その騒ぎとは無縁の病室では、冬弥が人生最大の難敵と向き合っていた。「……泣き止まない」腕の中で楓が
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-7 壊れない、壊さない

楓が生まれてからというもの、龍神会では若頭・神崎冬弥に関する妙な噂が広がっていた。表立って話されることはない。それでも酒の席や廊下の片隅では、自然とその話題になる。「若、今日も病院に行ってるらしいぞ」「仕事の合間に顔だけ見に行くんだと。五分しか時間がなくてもな」「……あの若が?」「赤ん坊抱いてる姿なんて想像できねぇよ」「『よしよし』とか言ってたら笑うぞ」「やめろ。腹が痛ぇ」小さな笑いが広がる。組員たちが知る冬弥は、冷酷で近寄りがたい存在だ。その男が仕事を抜けて病院へ通い、赤ん坊の寝顔を見つめている。その意外さが、皆の頬を緩ませていた。だが、その笑いには別の意味もあった。跡取りが生まれた。龍神会の未来が繋がった。その安心感が、組全体を穏やかにしていた。◇◇◇夜の病室は静かだった。昼間の慌ただしさが嘘のように消えている。聞こえるのは機械の小さな作動音と、規則正しい寝息だけ。ソファへ腰掛けていた冬弥は、ゆっくりと目を開けた。視線の先には眠るあやめ。その隣では、楓が小さな胸を上下させながら眠っている。(……気が抜ける)初めて知る感覚だった。胸へ広がる安堵。その心地よさを、冬弥は本能的に危険だと感じる。気を緩めれば、大切なものを守れなくなる。そう思い、静かに立ち上がった。足音を殺してベビーベッドへ近づく。眠る楓を見下ろし、小さく呟いた。「……お前は不思議だな」指先をベッドへ添える。「俺に、知らない感情ばかり教える」その声へ応えるように、楓が小さなくしゃみをした。ぴくりと体を震わせる。冬弥は思わず身を乗り出した。眉間へ皺が寄る。「……風邪か?」真剣そのものの声だった。「違いますよ」背後から優しい声が返る。振り向くと、あやめが微笑んでいた。「赤ちゃんも、普通にくしゃみはするそうです」「そうか……」気まずそうに咳払いをする冬弥を見て、あやめは笑みを深めた。ベッドから降り、そのまま自然に冬弥の隣へ並ぶ。母親の顔ではなく、一人の妻として。冬弥はその肩を静かに抱き寄せた。あやめも抵抗せず身を預ける。その温もりを感じながら、冬弥はぽつりと呟いた。「……俺は、父親に見えるか」あやめは少しだけ考えたあと、優しく笑う。「もちろん、見えますよ」冬弥を見る。「真面目で、不器用で……少し怖が
last updateLast Updated : 2026-02-26
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3-8 龍神会の夜

夜の病院の屋上は静まり返っていた。昼間の喧騒は消え、聞こえるのは遠くを走る車の音だけ。冬弥はフェンスへ背を預け、一本の煙草を指先で弄んでいた。火はつけていない。吸うつもりもない。それでも取り出してしまったのは、落ち着かなかったからだ。煙草を回しながら、冬弥は小さく息を吐く。普段なら煙を肺へ流し込み、頭を切り替える。だが今日は、その気になれなかった。理由は分かっている。下の病室にいる大切な妻子。幸せな光景。それらが頭の切り替えを躊躇させていた。(……生温いな)そのとき、屋上の扉が開く。樹が静かに扉を押さえ、鷹見が姿を現した。乾いた足音がコンクリートへ響く。「若」鷹見は冬弥の前で足を止めた。「祝いの品の送り主ですが……一部判明しました」短く息を吸う。「関西ではありません。関東です」その一言で空気が変わった。「……そうか」冬弥は静かに頷く。祝いの品に偽装された爆発物。狙われたのは、生まれたばかりの楓だった。最近まで敵対していた関西の者なら、まだ割り切れた。だが関東。つまり、自分たちに近い場所から放たれた悪意。その事実は、敵意以上に裏切りの重さを突きつけてくる。「やるか……」小さく呟く。警察へ任せることもできる。柊謙一が動けば、表の力だけで徹底的に潰すことも可能だ。(関西だったなら、それで終わらせた)見せしめも兼ねて。徹底的に。だが今回は違う。冬弥は夜空を見上げる。冷たい空気が肺を満たした。(俺に足りなかったものがあるのか)組長としての威厳。部下との信頼。安心感。どこかで育て方を間違えたのではないか。そんな思いが胸をよぎる。「自分を責める必要はありませんよ」聞き慣れた声だった。「……大迫か」振り返ると、大迫がいつもの調子で肩をすくめている。「組長さんの器に、姐さんの頭脳。いまの龍神会に足りないものなんてありません」少し笑う。「昼寝して欠伸してるときだって竜は竜です」軽口のようでいて、不思議と真っすぐな言葉だった。大迫はスマートフォンを差し出す。画面にはグループチャットが表示されていた。【組長の愛人】冬弥は思わず苦笑する。「……仲がいいな」「情報が命の人たちですから」大迫も笑った。「右手と右足が同時に出たら格好悪いって。ちゃんと役割分担してるそうです」
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-9 敵地へ

港から離れた廃倉庫。錆びた鉄骨と剥き出しのコンクリートだけが残るその場所は、長い年月、人の手が入っていないことを物語っていた。崩れた壁から潮風が吹き込み、湿った海の匂いが鼻を刺す。半開きになったシャッターの隙間からは、わずかな明かりが漏れていた。完全な闇ではない。だが、安心できる明るさでもない。その向こうには、人の気配がある。一人や二人ではない。複数の息遣いが重なり合う濁った空気を、冬弥は静かに感じ取っていた。「あそこか」短く呟き、海へ一瞬だけ視線を向ける。「ゴミ捨て場が近くて助かるな」ポケットから煙草を一本取り出して口へくわえる。自分では火をつけない。隣に立つ鷹見が、何も言わずライターを差し出した。小さな炎が夜風に揺れ、冬弥の横顔を一瞬だけ照らす。それを合図にしたように、後方で待機していた組員たちも一斉に煙草へ火をつけた。静かな夜へ、紫煙が溶けていく。「大迫」煙を吐きながら声を掛ける。「どうした」隣を見ると、大迫だけが煙草を持たず、ぼんやり立っていた。「禁煙中なんです」「……あやめに言われたのか?」半ば冗談で尋ねる。その瞬間、冬弥は自分の煙草へ目を落とした。細く立ち上る煙。生まれたばかりの楓の顔が頭をよぎる。(……少し控えるか)自然とそんな考えが浮かび、自分でも少し驚く。「違います」大迫は苦笑した。「三枝真琴が、かなりの嫌煙家なんです」「そうか」あやめではないと分かった途端、冬弥の興味は一気に薄れた。「自分の【愛人】なのに、知らなかったんですか?」大迫がぼやく。冬弥は煙をゆっくり吐き出した。「【道具】の管理を任されているのはお前だろうが」そして、わざと煙を大迫の顔へ吹きかける。「うわっ!」「これでシャワーを浴びるしかないな」冬弥はまた煙草を吸って、深く吐く。「俺が払っている給料分は働け」「こっちでやって、あっちでもやれと」大迫のぼやきに冬弥は口元だけ笑った。「しっかり奉仕して、磨いてこい」「彼女、結構激しいのが好みなんですよ……体力温存したかったのに」ぼやく大迫を置いて、冬弥は煙草を地面へ落とした。靴で火を踏み消す。赤い火種が完全に消えたことを確認すると、そのまま車のドアを開けた。夜気が肌を刺す。冷たい空気が頭を冴えさせる。「いい夜だな」誰へ向けたわけでもな
last updateLast Updated : 2026-02-27
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