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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 171 - Chapter 180

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4-4 招かれた理由

「……目的は?」迅は円形テーブルへ視線を向けたまま問いかけた。呼ばれた理由が分からない以上、曖昧なまま話を進めるつもりはない。テーブル中央にはホログラムが投影され、東京を中心とした勢力図が立体的に浮かび上がっている。龍神会の縄張り。他組織との境界線。そして、各地に点在する黒い印。(……何だ?)見慣れている地図のはずなのに、違和感があった。迅はその一点を指差す。「この黒い印はなんだ?」花沢綾乃は紅茶を一口含み、穏やかに答えた。「少し気になる動きがあった場所です」「抗争か?」「その一歩手前ですね」返ってきた答えは静かだった。だが、その意味は重い。火種はすでに撒かれている。あとは誰かが火をつければ、一気に燃え広がる。そんな段階だった。「詳しい説明は」綾乃は一つの個室へ視線を向ける。「藤堂さんから聞いた方が早いと思います」「藤堂……」迅もその方向を見る。そして、数秒固まった。「……何だ、あれ」部屋いっぱいに並ぶ、あやめの等身大パネル。壁を埋め尽くす写真。整然と飾られたアクリルスタンド。あまりにも濃密な空間に、思わず一歩引いた。「藤堂さんは、あやめ先輩の大ファンなんです」「……ストーカーの間違いだろ」迅が呟いた、その直後。「失礼ね」ヒールの音とともに、藤堂結衣が姿を現した。「私がストーカー? 冗談じゃない」「そうなのか?」「ええ」結衣は胸を張る。「私はあやめちゃんに嫌がられていませんもの」「その理屈が危ないんだが」「違います」きっぱりと言い切る。「私は適切な距離を理解しています。あやめちゃんを困らせるような真似はしません。距離感を理解できない人たちと一緒にしないでください」その言葉には妙な説得力があったが、どこか同類嫌悪のようにも思えた。「距離、大事!」「……そうか」迅は苦笑する。(否定はできん)少なくとも本人なりの基準は存在しているらしい。これ以上突っ込んでも時間の無駄だと判断し、迅は本題へ戻った。「それで? 俺を呼んだ理由は?」空気が静かに切り替わる。結衣の表情から熱狂的なファンの顔が消え、仕事人の顔になる。「天覇龍門をご存じですよね?」「もちろんだ」極道の世界でその名を知らない者はいない。巨大組織。海外にも強い影響力を持つ
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-5 執着

「お疲れさまでした」低く落ち着いた声とともに後部座席のドアが開く。黎沈烈は迷いなく車へ乗り込み、黒革のシートへ深く身を預けた。ドアが閉まると同時に、外の喧騒は完全に遮断される。静寂。高級車特有の密閉された空間が、沈烈の思考をゆっくりと現実へ引き戻した。「この後はいかがいたしますか」運転席から控えめな声が届く。「屋敷へ戻る」短く答える。それだけで十分だった。車は滑るように走り出し、夜の街へ溶け込んでいく。.  ブブッ控えめな振動。沈烈は胸ポケットからスマートフォンを取り出した。日本へ残している部下からの定時報告だった。簡潔な文章。添付された数枚の写真。それだけで状況は理解できる。「……さすがだな」沈烈は小さく笑った。「そう簡単には近づかせないか」画面に映る一枚の写真。そこには柔らかな笑みを浮かべる神崎あやめが写っていた。指先で、その輪郭をなぞる。「変わらないな」静かな声が漏れる。「いや……」目を細める。「昔より、ずっと美しい」その写真へ自然に唇を寄せる。ためらいはない。それが当然であるかのような自然な仕草だった。「俺の、あやめ」誰に聞かせるでもない囁きが、静かな車内へ溶けていく。.日本留学は、自ら望んだものではなかった。黎家の命令。後継者として必要だから。それだけの理由だった。当初は退屈だと思っていた。しかし、日本へ来て間もなく、その考えは変わる。(悪くない)ここでは誰も黎家を知らない。天覇龍門の跡取り候補として扱われることもない。ただの留学生。それが妙に新鮮だった。媚びる者もいなければ、過剰に恐れる者もいない。もっとも。身につけている時計も、靴も、立ち居振る舞いも、育ちまでは隠せない。自然と人目は集まった。女たちも寄ってきた。退屈しない程度には遊んだ。だが、それだけだった。そして。春の交流会の日。大学の中庭に設けられたカフェテラスで、沈烈は彼女を見つけた。柊あやめ。胸元に名札をつけ、来客を案内している一人の女子学生。特別なことは何もしていない。笑顔で説明し、資料を配り、質問に答える。ただ、それだけだった。それなのに。なぜか目を離せなかった。彼女は誰に対しても同じだった。相手が教授でも学生でも。海外からの留学生でも。態度を変えない。
last updateLast Updated : 2026-03-25
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4-6 妻を狙う男

「……あやめのストーカーである黎沈烈とは、どういう男だ?」冬弥の低い声が室内に落ちる。静かな問いだったが、その奥には警戒と苛立ちが滲んでいた。向かいに座る藤堂結衣は、その空気を感じ取ったのか、小さくグラスを置く。「迅さんから報告は受けたのよね?」「ああ」冬弥は頷く。「俺も調べてはいる。だが、天覇龍門の中枢にいる男だ。表へ出てくる情報は限られている」巨大犯罪組織の後継者候補。本当に知りたい情報ほど、外へ漏れることはない。だからこそ冬弥は、以前から黎沈烈を警戒していた藤堂結衣を呼び出した。「私も本人について詳しいわけではないわ」結衣は静かにワインを口へ運ぶ。「経歴は公開情報程度。資産も権力も……桁違い、としか言いようがないわね」そう言って、小さく肩を竦めた。冬弥は黙って続きを促す。「沈烈は、あやめちゃんと出会ってすぐに柊家へ婚約を申し込んだの」「だが、断られた」「ええ」結衣は迷いなく頷く。「あやめちゃんパパは最初から決めていたのよ。娘は日本のために嫁がせるって」淡々とした言葉。しかし、その裏にある政治的な重みは軽くない。「沈烈は諦めたのか?」「諦めたんじゃない」結衣は静かに首を振った。「諦めさせられたの」グラスの中で赤い液体が揺れる。「当時の天覇龍門のトップ――黎藍鋭。黎老大は親日家だった」冬弥は小さく目を細める。「柊家にも何か大きな恩があったそうよ。だから沈烈には何度も命じていた」結衣は沈烈の口調を真似ることもなく、事実だけを告げる。「柊家には絶対に手を出すな、と」「その黎老大が亡くなった」「ええ、三か月前にね」短い返答。冬弥は腕を組む。枷が外れた。そう考えるのが自然だった。しかし。「不可解だ」冬弥はタブレットを操作する。「お前たちは、それ以前から動いていた」画面を結衣へ向ける。「黎老大が生きていた頃から警戒していた理由は?」結衣は苦笑した。「あやめちゃんパパから警告を受けていたの」「柊謙一氏が?」「ええ」静かに頷く。「黎老大は亡くなる前、あやめちゃんパパに警告していたの。沈烈には気をつけろって」冬弥の目が細くなる。柊謙一が動いた。それは漠然とした不安ではない。何かを確信していたということだ。「理由は、これ」結衣はタブレットを引き寄せる。数回操作すると、四
last updateLast Updated : 2026-03-26
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4-7 静かな夜

夜の帳が降りても、その店だけは静かに息づいていた。東京の一角にある会員制クラブ。外から見れば、ごく普通のビルにしか見えない。だが、重厚な扉をくぐった瞬間、そこはまったく別の世界へと姿を変える。磨き上げられたカウンター。柔らかな間接照明。低く流れるジャズ。酒と煙草、そして香水が混ざり合った独特の空気が、店全体をゆっくりと満たしていた。ここへ集う者たちは互いに深入りしない。それでも、同じ空間を共有する者同士だけが持つ奇妙な一体感があった。この店は遊び場ではない。情報と金。欲望と駆け引き。様々な思惑が静かに交差する、大人たちの社交場だった。.店の最奥にある個室。樹はいつもの席へ腰を下ろしていた。背中には壁。正面には入口。室内全体を一目で見渡せる位置。長年の癖は、無意識のうちに体へ染みついている。室内には護衛が二人。扉の外にも一人。さらに廊下には、姿を見せない護衛が控えていた。神崎冬弥の側近である以上、この程度の警備は珍しくない。だが、普段の樹ならここまで人数を置くことはない。今は違う。龍神会全体が、水面下で警戒態勢へ移行していた。抗争の気配。それだけで十分だった。もっとも、この店だけは別世界だった。張り詰めた空気さえ、上質な酒と音楽が巧みに包み隠してくれる。樹は静かにグラスを持ち上げた。氷が小さく触れ合う音だけが耳に残る。「今のところ、お話しできるのはこのくらいでしょうか」向かいへ座るママが、ゆっくりと唇を閉じた。深い紅を引いた口元。艶やかな仕草でありながら、どこにも嫌味はない。長年この世界で生き抜いてきた女だけが持つ自然さだった。「助かった」樹は短く礼を言う。この店は、兄貴分の鷹見から受け継いだ場所だった。東京へ流れ込む人、金、情報。それらが一度ここへ集まり、必要な相手へ流れていく。決して表へ出ることはない。それでも確実に龍神会の目と耳として機能していた。「お忙しそうですね」ママの指先が、樹の腕へそっと触れる。触れたかどうか分からないほどの距離。絶妙な加減だった。彼女もまた、この店を先代から受け継いだ人間である。互いに「継ぐ者」。その共通点が、自然と二人の距離を縮めていた。必要があれば、一夜を共にすることもあった。だが、それは恋愛ではない。慰めでも、ましてや執着
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-8 制圧

扉が開いたのは、一瞬だった。外が少し騒がしくなった。その違和感を樹が拾い上げ、腰を浮かしかけた――その次の瞬間には、すべてが動いていた。空気が揺れる。黒いスーツに身を包んだ男が三人。流れ込むように個室へ侵入してくる。足音はほとんどない。怒号もない。だが、その場の空気だけが一瞬で変質した。静けさが消えたわけではない。静けさの意味が変わった。.  ドサッ重い音が遅れて響く。入口を守っていた護衛が、物のように床へ転がされた。呼吸はある。しかし完全に意識を失っている。「……っ」ママが息を呑む。樹は倒れた護衛を一瞥すると、ゆっくり侵入者へ視線を戻した。中央に立つ男が小さく顎を引く。それだけだった。左右に控えていた二人が滑るように散開し、L字型ソファの両端を塞ぐ。動きに一切の無駄がない。立ち位置。視線。重心。それだけで分かった。暴力を生業にしてきた人間。(同業者か)「外へ」樹は男たちから目を離さないまま、ママに向かって短く言う。「はい」ママは何も聞かなかった。この世界を知る女だからこそ、余計な言葉は不要だった。男の一人が道を空ける。ママは静かに立ち上がり、樹へ一礼した。「失礼いたします」侵入者へも崩れない笑みを向ける。動じたのは一瞬。いまは動揺の欠片もない。そのまま部屋を出ていく。扉が閉まる。仲間意識を感じていた女の完璧な振る舞いに樹は満足した。それと同時に、この部屋は完全に戦場へ変わった。.動いたのは樹の護衛だった。しかし。先手は、完全に奪われていた。「がっ……!」侵入者は身体をわずかに沈める。それだけで間合いを制し、護衛の顎を正確に撃ち抜いた。一撃。護衛はその場へ崩れ落ちる。反応する暇すら与えない。(速い)樹がそう認識した瞬間には、背後から腕が首へ絡みついていた。滑らかな動き。迷いのない締め技。頸動脈を正確に圧迫してくる。数秒で意識を奪える締め方だった。「――っ!」樹は身体を捻る。外そうとする。だが圧力はさらに強くなった。息が吸えない。直後。腹へ鈍い衝撃が突き刺さる。肺の空気が一気に押し出された。視界が白く弾ける。崩れ落ちそうになった身体を、後ろの男が雑に引き起こす。その瞬間。中央の男と目が合った。「……俺が狙いか」息を絞り出す
last updateLast Updated : 2026-03-27
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4-9 宣戦布告

黒いスーツの男が、ゆっくりと樹の前へしゃがみ込む。一つひとつの動作に迷いはない。焦りも無駄もない。まるで最初から、この場のすべてを支配することが決まっていたかのようだった。整った顔立ち。均整の取れた体格。端正な容姿であるはずなのに、不思議と人間らしさを感じない。(……気味が悪い)その完成度の高さが、かえって異様だった。樹がそう感じた瞬間。男の口元がわずかに緩む。笑っている。それなのに、温度がない。まるで笑顔だけを覚えた別の生き物を見ているようだった。「挨拶は大切だろう」低く落ち着いた声。日本語は流暢だ。だが、わずかに異国の響きが残っている。「あぁ?」「礼儀正しく振る舞えと、ボスから教えられている」穏やかな口調。しかし、この場を満たす緊張は一切緩まない。「だったらノックくらい覚えろ」樹は血の混じる唾を吐き捨てた。「『どうぞ』と言われる前に入るんじゃねぇ」男は迷わず答える。「どうせ、お前は『どうぞ』と言う」「……」その意味を理解した瞬間。樹の背筋を冷たいものが走った。男は扉の話などしていない。"差し出せ"と言っているのだ。何もかも。抵抗せずに。男は樹の顎へ指を添え、ゆっくりと持ち上げる。真正面から視線がぶつかった。ぞっとするほど感情がない。「せっかちだな」樹は口角だけを上げる。「そんな性格じゃ、女にも――」最後まで言えなかった。  ヒュッ――風を裂く音。次の瞬間、男の拳が樹の右頬へめり込んだ。視界が激しく揺れる。骨へ響く鈍い衝撃。音が遠ざかる。ぼやける意識の中で、黒い何かが差し出されたのが分かった。焦点を合わせる。そこにあるのは黒い封筒だった。飾りは何もない。ただ中央に、銀色の菖蒲だけが描かれている。男はそれを樹の胸ポケットへ押し込んだ。「お渡ししてくれ」静かな声だった。「狗でもできる仕事だ」その言葉と同時に、再び拳が振り抜かれる。衝撃。身体が浮いた。ガラスのテーブルへ叩きつけられる。アイスペールが宙を舞い、氷が四方へ飛び散った。床へ落ちる。背中へ激痛が走る。意識が闇へ沈みかける。だが。落ちない。(……落とさないのか)理解した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。殺せる。それなのに殺さない。生かされているだけ。その屈辱が意識を無理やり繋ぎ止
last updateLast Updated : 2026-03-28
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4-10 揺らぐ龍神会

樹が襲撃された。その報せは、龍神会全体を激しく揺さぶった。抗争が始まれば血が流れる。そんなことは誰もが知っている。極道の世界に身を置く以上、命を失う可能性があることも覚悟しているはずだった。だが、若い組員たちは思い知らされることになる。自分たちはこれまで、抗争を本当の意味では理解していなかった。どこか遠い場所で起きる出来事として見ていたのだと。.彼らが龍神会へ入った頃には、組はすでに関東の頂点に立っていた。小さな揉め事はあった。縄張りをめぐる衝突も、末端同士の争いもなくなったわけではない。しかし、幹部が直接危険に晒されることはほとんどなかった。龍神会が日本の裏社会でも頂点へ上り詰めたのは最近のこと。関西の朱雀会との争いは記憶に新しい。しかし、戦いの場は法律や経済の世界だった。拳や刃物ではなく、情報と金が武器になっていた。血が流れたとしても、それは見えないところで管理されたものだった。だからこそ、若い者たちは勘違いしていた。抗争とは、そういうものなのだと。組が大きければ、自分たちは守られる。龍神会という名の下にいれば、簡単には傷つけられない。かつての抗争を一年もかからず勝利で終わらせたという話も、その思い込みを強くした。その油断を、樹の襲撃は容赦なく叩き潰した。最も守られているはずの場所。組長の最側近。警戒していた。護衛もつけていた。それなのに、護衛ごと一方的に叩き伏せられた。その事実は、どんな説教よりも強烈だった。龍神会は絶対ではない。敵は、自分たちの内側まで入ってくる。その現実を、誰もが突きつけられた。.襲撃を境に、東京の空気は目に見えない形で歪み始めた。六本木。銀座。赤坂。本来なら龍神会の影響が隅々まで行き届いているはずの街で、小さな変化が連鎖していく。普段なら顔を見せる店主が、突然店を閉める。長年付き合いのある取引先が、曖昧な理由をつけて面会を先延ばしにする。これまで滞りなく流れていた金が、少しずつ別の方向へ流れ始める。誰かが命じたわけではない。ただ、人々が様子を見ている。龍神会がどう動くのか。本当に以前と同じ力を持っているのか。樹を襲われても動かないのは、冷静だからなのか。それとも――恐れているからなのか。「龍神会がビビっている」誰が言い始めたのかも分からない言
last updateLast Updated : 2026-03-29
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4-11 五つの刃

「……差し出せば、済むんじゃないのか」その一言で、部屋の空気が凍りついた。全員の視線が、声の主へ向けられる。口にしたのは若い組員だった。自分が何を言ったのか、今になって理解したのだろう。顔から血の気が引いていく。だが、誰もすぐには怒鳴らなかった。殴りかかる者もいない。その沈黙こそが、何より残酷だった。全員が理解してしまったからだ。それが、最も合理的な選択肢であることを。東京の秩序が戻る方法。天覇龍門との全面抗争を避けられる方法。「……何をだ」誰かが絞り出すように尋ねた。意味のない問いだった。聞いたところで、答えが変わるわけではない。それでも口にせずにはいられなかった。「……姐さんだよ」返ってきた声は淡々としていた。確認するまでもない現実を、わざわざ言葉にしただけだった。再び沈黙が落ちる。誰もが次の言葉を選びあぐねる。「それ以上、口にするな」低く鋭い声が割り込んだ。だが、一度生まれた流れは止まらなかった。「でも現実だろ!」若い組員が声を荒らげる。「向こうは姐さんを寄越せって言ってきてるんだぞ! それで全部済むなら――」「済むわけねぇだろうが!」怒号が叩きつけられた。机を殴る音が響き、部屋の空気が震える。「ここで渡したら終わりだ! 龍神会は完全に舐められる! 次は何を要求されるか分からねぇ!」「それでも俺は……!」「やめろ!」言葉は途中で途切れた。だが、その続きは全員に伝わっていた。死にたくない。自分の家族を巻き込みたくない。「じゃあ、どうするんだよ!」恐怖が剥き出しになる。「樹さんですら、あんな目に遭ったんだぞ!」「だからって姐さんを差し出せるか!」怒りが恐怖を押し返す。声がぶつかる。怒鳴り声が重なる。互いに睨み合い、誰も引こうとしない。これまでの龍神会では、あり得ない光景だった。組そのものが揺らいでいる。絶対であるはずの中心が軋み、根元から崩れかけていた。.「おい」決して大きな声ではなかった。それでも、室内にいた全員の動きが止まる。「外まで聞こえているぞ」押しかかるような重みを持った声だった。誰もが息を呑み、入口へ振り返る。「……迅さん」迅が姿を見せた瞬間、部屋にこもっていた熱が一気に冷えた。「まったく」迅は呆れたように肩を竦める。「揃いも揃って
last updateLast Updated : 2026-03-30
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4-12 決断の顔

屋敷の奥。重厚な扉に閉ざされた部屋の中で、冬弥は腕を組んだまま動かなかった。室内には、息をする音さえ憚られるほどの緊張が満ちている。誰もが冬弥の言葉を待っていた。「……どう、なさいますか」耐えきれなくなった一人が、絞り出すように尋ねる。同じ問いは、すでに何度も投げかけられていた。そのたびに冬弥は答えず、沈黙だけが積み重なっていく。樹が襲われた。天覇龍門は、神崎あやめを差し出せと要求している。拒めば、次はさらに深く龍神会の内側へ踏み込むと通告してきた。戦うのか。要求を呑むのか。あるいは、別の道を探すのか。判断を下せるのは、組長である冬弥ただ一人だった。だからこそ、その沈黙は重い。誰もが答えを欲している。しかし、冬弥が口を開くまで、誰一人として勝手に動くことは許されない。そんな膠着が部屋を支配していた。そのとき。  コツ乾いた音が、廊下から響いた。一歩。少し間を置いて、もう一歩。ゆっくりとした歩調だった。だが、迷いはない。音は確実にこちらへ近づいてくる。室内にいた者たちが、一斉に扉へ視線を向けた。この部屋まで、誰にも止められずに近づける人間は限られている。しかも女性。そうなると――一人しかいない。  コツン扉の前で、足音が止まる。一拍。妙に長い間があった。そして。扉が静かに開いた。.現れたのは迅だった。その姿を認めた瞬間、冬弥以外の者たちがわずかに息を吐く。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。「趣味が悪いぞ」冬弥が低く言った。視線は迅の顔ではなく、足元へ向けられている。迅は細身のスーツに、十センチ近いヒールの靴を合わせていた。「海外ブランドでは、男のモデルがこれくらいのヒールを履くことも珍しくない」迅は悪びれもせず答える。「ジェンダーレスファッションというやつだ」「二メートルの大男になって、どうする」「脚が長く、美しく見える」「元から長いだろう」「長いものは、より長く見せたほうがいい」この状況に似つかわしくない会話だった。だが、誰も止めなかった。迅が意図的に場の空気を緩めようとしていることが分かっていたからだ。冬弥は小さく息を吐き、改めて迅の靴を見る。確かに洗練されたデザインではある。しかし、どう考えても荒事には向かない。「冬弥も履くか?」迅が楽
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-13 覚悟の証

「皆さん、お帰りになったようですね」穏やかな声が部屋へ響いた。決して大きな声ではない。それでも、その一言だけで空気が静まり返る。扉の前に立っていたのは、あやめだった。髪はきちんとまとめられ、装いもいつも通り控えめだ。華やかさを競うような美しさではない。無駄を削ぎ落とした静けさ。それなのに、彼女が部屋へ入った瞬間、場の重心が自然とあやめへ移った。その存在に目を奪われたと言ってもいい。冬弥は腕を組んだまま、その姿を見つめる。そして、小さく息を吐いた。「……黎沈烈が、お前を欲しがる理由が分かる」ぽつりと漏れた言葉だった。そこには皮肉もあった。苛立ちもあった。そして、どうしようもない独占欲も滲んでいる。あやめは露骨に眉をひそめた。嫌悪を隠そうともしない。「その言い方は好きではありません」短く返す声は冷たい。冬弥はその反応に苦笑しながら立ち上がり、ゆっくりとあやめの前へ歩み寄った。そのときだった。「……ん?」違和感があった。目線の高さが、いつもと違う。冬弥は無言であやめの足元を見る。マキシ丈のスカートが靴を隠している。だが、その位置から十センチほどの高さがあることは分かった。「まさか……迅とお揃いか?」冗談交じりに尋ねる。あやめは小さく首を傾げた。「冬弥さんの愛人とですか?」少し考えて笑う。「私があんな靴を履いたら、一歩も歩けません」そして迷うことなく屈み込み、スカートの裾を持ち上げる。現れたのは、無骨な厚底ブーツだった。華奢な装いとはまるで噛み合わない。軍用靴を思わせる重厚な造り。「……似合わないな」冬弥が率直に言う。あやめは少しだけ笑った。「実用性を優先した結果ですから」何の未練もない口調だった。そのまま裾を戻す。「柔らかい素材と硬い素材を交互に重ねています」あやめは説明を続ける。「足音がほとんど出ません」その言葉で冬弥は理解した。先ほど、あやめが部屋へ入ってくる気配を察知できなかった。自宅にいて警戒が鈍っていただけではなかったようだ。靴そのものが、音を消していたのだ。「濡れた路地でも歩けます」あやめは淡々と言う。「瓦礫の多い廃工場でも問題ありません」その説明を聞きながら、冬弥は別のことを考えていた。それほどの靴が必要になる状況を、彼女はいつ想定したのか。「い
last updateLast Updated : 2026-04-01
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