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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 181 - Chapter 190

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4-14 ハートのクイーン

「そんな顔をしないでください」あやめはそっと手を伸ばした。冬弥の眉間に刻まれた皺を、指先で押し広げるように撫でる。優しい仕草だった。だからこそ、触れられた胸の奥が強く締めつけられる。「GPSチップのことは」あやめは静かに続けた。「私が死んだあとに、お伝えするつもりでした」冬弥の呼吸が止まる。「……なぜだ」問いながらも、答えは見えていた。それでも聞かずにはいられなかった。あやめはわずかに視線を逸らす。「冬弥さんが助けに来られないように……」そこまで言い、首を横に振った。「いいえ。違いますね」小さく息を吐く。「私が、冬弥さんの助けを期待しなくて済むように、です」訂正された言葉のほうが、はるかに残酷だった。あやめは微笑んでいる。柔らかく。穏やかに。だが、その笑みには確かな距離があった。最初から越えてはならない境界線を示されているようで、冬弥の胸に鈍い痛みが広がっていく。「私を黎沈烈へ渡しても、お父様は理解すると思います」あやめは淡々と言う。「今回に限っては、組のための判断と、日本のための判断が一致しますから」理屈としては正しい。天覇龍門との全面衝突を避ける。龍神会の組員を守る。東京の秩序を守る。一人を差し出すことで、多くを救える。否定しようのない合理だった。だからこそ、冬弥には耐え難い。「だから」声が掠れる。「俺には、助けに来るなと?」問いではなかった。懇願だった。違うと言ってほしい。自分を遠ざけないでほしい。そんな願いが、隠しようもなく滲んでいた。しかし、あやめは静かに首を横へ振る。「助けられなかったと、後悔してほしくなかったんです」望んでいた答えではない。むしろ、最も聞きたくなかった言葉だった。「あやめ、俺は……っ」溢れかけた言葉を、あやめの指が止める。柔らかな指先が唇に触れた。優しいのに、逃がさない強さがある。「過ぎたことです」「過ぎたも何も」冬弥は思わず声を荒らげた。「まだ何も起きていないだろう」自分でも驚くほど、幼い響きだった。感情を押さえきれない。いつもなら飲み込めるはずの言葉が、次々と喉へせり上がってくる。「冬弥さん」あやめは微笑む。「そんなことより」その一言が、胸へ突き刺さった。「私がGPSチップのことをお伝えした意味を、考えてください
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-15 東京へ

夜の帳が下りても、その都市が眠ることはなかった。高層ビルは無数の光を纏い、夜空を覆うように立ち並んでいる。道路には絶え間なく車が流れ、ネオンとヘッドライトが交差する。遠くを流れる大河の水面にも、街の光が揺れていた。まるで都市そのものが巨大な生き物となり、鼓動を刻んでいるかのようだった。ここは東京ではない。大陸に存在する巨大都市。その裏側には、中華系最大のマフィア――天覇龍門の影響が深く根を張っている。都市の中心に近い高層マンション。大理石の床と豪奢な調度品に囲まれた一室で、二人の女が向かい合っていた。.「東京で撮影……ですか?」瑛心が尋ねると、異母姉の麗娜は気のない様子で頷いた。瑛心を見ることはない。麗娜の視線は、自分の指先へ注がれている。つい先ほど仕上がったばかりのネイルを、角度を変えながら眺めていた。「そうよ」満足げに爪を光へ翳しながら、麗娜は告げる。「瑛心。あなたも来るのよ」「私も、ですか?」思わず聞き返した声に、わずかな拒絶が滲んだ。行きたくない。麗娜と一緒に国外へ出るなど、できる限り避けたかった。その本音を隠しきれなかったことに、瑛心はすぐ気づく。だが、遅かった。麗娜が手近にあった茶器を掴む。次の瞬間、何の躊躇もなく投げつけた。陶器が瑛心の肩に当たり、硬い音を立てて砕ける。中に残っていた湯が、衣服へ広がった。瑛心の身体が反射的に強張る。しかし、熱さはない。色もつかなかった。(……白湯でよかった)胸の内で安堵する。布地が濡れただけだ。火傷もしない。染みにもならない。瑛心は静かに息を吐き、胸元に残った水滴を指先で払った。(美容の流行が変わりやすくて、本当に助かるわ)皮肉でもあり、偽りのない本音でもあった。以前、麗娜が青汁を使った断食に凝っていた頃には、頭から緑色の液体を浴びせられた。その前には、火鍋を食べている最中に機嫌を損ね、真っ赤な具材を投げつけられたこともある。それらと比べれば、今日の白湯など可愛いものだ。乾けば元に戻る。その程度で済んだことに救いを見いだせる自分が、異常であることも分かっている。それでも、瑛心はとうに慣れてしまっていた。濡れた袖を軽く絞りながら、麗娜の横顔を見つめる。当の本人は、瑛心へ茶器を投げたことなど忘れたように、再
last updateLast Updated : 2026-04-02
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4-16 嫉妬の矛先

「なんなのよっ!」麗娜の甲高い声が、静まり返ったスイートルームへ鋭く響いた。突然の怒声に、瑛心は小さく肩を震わせる。ここへ来るまでの道中、麗娜はいつものように嫌味を口にすることはあっても、機嫌そのものは悪くなかった。むしろ、日本での撮影に胸を躍らせていたはずだ。それなのに、なぜ。瑛心は標的にならないよう口を閉ざしたまま、ここまでの出来事を思い返していた。.羽田空港へ到着した瞬間から、麗娜のための舞台は用意されていた。到着ロビーを抜けると、夕暮れの光を浴びた黒塗りの高級車が二台、まるで彼女を迎えるためだけに待機しているように並んでいた。自然と周囲の視線が集まる。車から降りてきたのは、今回の撮影責任者を名乗る男だった。柔らかな笑みを浮かべた整った顔立ち。しかし、その立ち居振る舞いには一切の隙がない。男は麗娜の前まで歩み寄ると、深く頭を下げた。「麗娜千金。ようこそ日本へお越しくださいました」その声音には、十分すぎるほどの敬意が込められていた。周囲の人々が思わず足を止める。「あの人、誰?」「芸能人?」羨望と好奇心が入り混じった視線が麗娜へ注がれる。その反応を見て、麗娜の口元がゆっくりと持ち上がった。まさに、彼女が求めていた舞台だった。.案内されたホテルもまた、麗娜の心を満たすものだった。若い富裕層を意識したラグジュアリーホテル。重厚さよりも洗練。豪華さよりも演出。磨き上げられた大理石の床。芸術作品のような照明。どこを切り取っても、美しく写真へ収まるよう計算された空間。この場所そのものが、一つのステージだった。そこへ立つ人間を、より美しく、より価値ある存在に見せるための舞台。麗娜は、そういう場所を愛していた。自分が選ばれた人間であると証明してくれるからだ。エレベーターが最上階へ到着する頃には、麗娜の機嫌は最高潮だった。「こちらが、麗娜様とお連れ様のお部屋でございます」案内係が恭しく頭を下げる。麗娜は当然のように頷き、部屋へ足を踏み入れた。広々としたリビング。床から天井まで続く大きな窓。眼下には、夜へ染まり始めた東京の街並みが広がっている。家具も調度品も、一つひとつが計算され尽くしていた。ここにいるだけで、自分は特別なのだと思わせてくれる。麗娜にとって、それは錯覚ではない。当然の権
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-17 親切な案内人

麗娜が自ら扉へ向かうことはない。瑛心は裂かれた服へ視線を落とした。破れた部分を指先でそっと整え、肌が見えすぎていないことを確かめる。完全に隠すことはできない。それでも、このまま出るしかなかった。瑛心は静かに扉へ近づき、覗き窓から廊下を確認する。外に立っていたのは、空港からホテルまで案内してきた責任者の男だった。背筋を伸ばし、落ち着いた様子で待っている。急かす気配はない。それでいて、必ず扉が開くと確信しているような佇まいだった。(なぜ、彼がここに?)疑問を抱きながら、瑛心はロックを外した。扉をわずかに開くと、男はすぐに深く頭を下げる。「このたびは、大変申し訳ございません」謝罪の姿勢として、完璧な所作だった。「本来であれば、明日より撮影を開始する予定でございました。しかし、担当カメラマンが急病により離脱し、日程を延期せざるを得なくなりました」低く整えられた声が、室内へ静かに流れ込む。その説明を聞き、瑛心はようやく麗娜の機嫌が崩れた理由を理解した。予定通りに撮影が始まらない。自分のために用意された舞台が、思い通りに動かない。麗娜にとって、それだけで十分に腹立たしいことだった。男が説明を終えると、ソファへ深く腰掛けていた麗娜が露骨に舌打ちをした。「それで?」男を見ることすらせず、冷たく問いかける。「謝るためだけに来たわけ?」男は室内へ一歩入り、再び深く頭を下げた。「せめてものお詫びとして、本日は東京観光をお楽しみいただければと存じます」麗娜は答えない。ただ、視線だけを僅かに動かした。それだけでは足りない。言葉にせずとも、要求は明確だった。男も最初から予想していたのだろう。間を置かずに続ける。「予算の都合上、お土産の購入費まで負担することは難しいのですが、交通費とお食事代につきましては、すべてこちらで手配いたします」「……ふうん」麗娜が、わずかに興味を示した。その反応を逃さず、男はタブレットを取り出す。滑らかな動作で画面を開き、麗娜へ向けた。「麻布台ヒルズの展望施設、銀座にあるラグジュアリーブランドの旗艦店、それから、現在話題になっているレストランをいくつか選定しております」画面には、華やかな写真が並んでいた。「急ぎでの調査ではございますが、麗娜様のフォロワー層との親和性も考慮いたしました」提示
last updateLast Updated : 2026-04-02
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4-18 用意された装い

大迫が去ってから、一時間ほどが過ぎた頃だった。再び、来訪を告げる電子音が鳴る。静まり返ったスイートルームでは、その無機質な音がやけに大きく響いた。麗娜は鏡の前で、観光へ出かける準備に余念がない。自ら扉を開ける気など、最初からないのだろう。瑛心は小さく息を吐き、立ち上がった。扉の前まで行き、覗き窓から外を確認する。廊下には、三人の男が並んでいた。瑛心は一瞬、息を呑む。三人とも背が高い。黒いスーツに包まれた体は均整が取れ、立ち姿には一切の乱れがない。まるで、入念に配置された舞台上のモデルのようだった。表情は穏やかでも、隙はない。華やかな容姿とは不釣り合いなほどの威圧感が、静かに滲んでいる。(お姉様が喜びそうな人たち)大迫が言っていた、容姿の整った部下なのだろう。そう納得しかけたとき、瑛心は三人の後ろに控える男女へ気づいた。大きな鞄を持った女。細長いケースを抱えた男。そして、白い箱を手にしたもう一人。観光の案内役にしては、人数が多すぎる。胸の奥に、また小さな違和感が生まれた。瑛心はロックを外し、扉を開く。「彼らは……?」思わず尋ねると、先頭の男が一歩前へ出た。落ち着いた目をしている。「瑛心小姐。本日は撮影延期の件につきまして、重ねてお詫び申し上げます」男は深く頭を下げた。流暢とまではいかないが、十分に聞き取れる中国語だった。言葉遣いも丁寧だ。だが、大迫のような柔らかさはない。決められた手順を、正確に遂行している。そんな印象だった。「ほかの二名は中国語を話せませんので、本日は私が通訳を務めます」「そうですか」瑛心は答えながら、後方の男女へ視線を向ける。だが、彼らが何者なのかという問いには、まだ答えがない。代わりに、白い箱を持っていた男が前へ出た。無言のまま、瑛心へ差し出す。「こちらを」反射的に受け取る。見た目より、ずっと軽かった。長年、麗娜の衣装や荷物を持たされてきた瑛心には分かる。中身は衣類だ。「撮影延期のお詫びとして、本日の観光にふさわしい衣装とアクセサリーをご用意いたしました」先頭の男が説明する。「そちらは瑛心小姐のものです。ほんの気持ちではございますが、お受け取りください」「……私にも?」瑛心は思わず聞き返した。自分へ贈り物が用意されている。その事実が、すぐには理解で
last updateLast Updated : 2026-04-25
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4-19 完璧なもてなし

「贈り物ですって?」麗娜が、部屋の奥から現れる。先ほどまでの苛立ちは、きれいに消えていた。表情を彩っているのは、期待と優越感だけだ。後ろに控えていた男女が、すぐに動いた。一人は衣装を広げ、一人は化粧道具を取り出す。彼らは美容スタッフだったらしい。麗娜は当然のように身を預ける。髪を整えられ。化粧を直され。新しい衣装へ着替える。選ばれたのは、深紅のワンピースだった。肩を大胆に露出したデザイン。胸元には繊細な刺繍が施され、細く絞られた腰の線が華奢な体を際立たせている。歩くたびに揺れる裾は、燃え上がる炎のようだった。華やかで。強く。どこにいても視線を奪う。麗娜という女を、そのまま衣装へ仕立てたような一着だった。首元には、白金の細いチェーン。中央には、一粒のダイヤが輝いている。飾りは少ない。だが、その分だけ宝石の存在感が際立つ。主役が誰なのかを、疑いなく示すための装いだった。鏡の前で姿を確認し、麗娜は満足そうに笑う。「センス、いいじゃない」スタッフたちは揃って頭を下げた。瑛心はその様子を見ながら、自分へ渡された箱を静かに開ける。中に入っていたのは、淡い灰青色のワンピースだった。深紅の衣装とは、正反対だ。光沢を抑えた柔らかな生地。首元は詰まり、袖は七分丈。体の線を強調しない、直線的な形。露出も装飾も、ほとんどない。麗娜の隣に立てば、使用人と間違えられてもおかしくない服だった。それでも、瑛心は嫌だとは思わなかった。指先で生地へ触れる。柔らかい。軽い。肌にまとわりつかず、腕も動かしやすそうだった。粗末な服ではない。むしろ、質の良さを目立たせないために、慎重に作られている。華やかさを消し。存在感を抑え。人混みの中へ紛れるためのような服。(……着やすそう)瑛心は、ほっとした。目立たなければ、麗娜を刺激しない。動きやすければ、荷物を持つのにも困らない。役割に合った服なのだと考えれば、むしろありがたかった。「あなたも早く着替えなさいよ」麗娜に促され、瑛心は別室で服を替えた。戻ると、麗娜が瑛心の姿を上から下まで眺める。「地味ね」予想通りの感想だった。それでも、機嫌は悪くない。自分より目立たないことが、麗娜を満足させたらしい。「野暮ったすぎるから、ネックレスくらいはつけなさい」瑛
last updateLast Updated : 2026-04-03
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4-20 こぼれたシャンパン

世界的ラグジュアリーブランド《AURELIUS》の店舗は、外から見ても別世界だった。大きなガラス窓の向こうには、日常とは切り離された空間が広がっている。柔らかな照明が、計算された角度から商品を照らしていた。服も。鞄も。宝石も。一つひとつが、まるで美術品のように並べられている。麗娜が店内へ足を踏み入れた瞬間、スタッフたちが一斉に姿勢を正した。その動きは訓練されたものだと分かっている。それでも、あまりにも揃っていて、瑛心は思わず目を見張った。「蘇千金。お待ちしておりました」恭しく告げられた言葉に、麗娜の唇が満足そうに持ち上がる。鏡張りの店内は、彼女一人のために用意された舞台のようだった。そして麗娜もまた、そこに立つことを当然の権利として受け入れている。三人の随行者は自然な動きで麗娜の周囲へ散った。一人は出入口を確認し。一人は店内へ視線を巡らせ。もう一人は麗娜のすぐ後ろへ控える。外から注がれる視線を遮りながら、決して目立ちすぎない。その徹底した立ち回りに、瑛心は密かに感心していた。.「これ、着てみるわ」麗娜は店内へ入るなり、次々と商品へ手を伸ばした。「こっちのバッグも持ってきて。あ、この靴も」店員が差し出す品を受け取り、鏡の前で角度を変える。顎を上げ。腰へ手を当て。視線を流す。その姿は、まるで撮影中のモデルそのものだった。実際にはシャッター音など響いていない。それでも店内には、撮影現場のような緊張と高揚が生まれていた。瑛心は麗娜の背後で、静かに役割を果たす。試着を終えた服を受け取り。外されたアクセサリーを元のケースへ戻し。店員へ短く礼を伝える。目立たない。だが、彼女が動かなければ、麗娜の周囲はたちまち混乱する。それほど瑛心の動きは自然で、行き届いていた。その均衡が崩れたのは、突然だった。「きゃあっ」短い悲鳴が上がる。瑛心が振り向くと、女性スタッフの一人が足をもつれさせていた。手にしていたシャンパングラスが傾く。透明な液体が弧を描き、そのまま瑛心の胸元へ降りかかった。冷たさが一気に広がる。「何をしているの!」鋭い日本語が店内を裂いた。オーナーらしき女性の叱責に、グラスを落としたスタッフは青ざめた。身体を小さく縮めながら、何度も瑛心へ頭を下げる。「小姐、申し訳あ
last updateLast Updated : 2026-04-04
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4-21 逃げられない

瑛心は花沢綾乃に導かれるまま、細い通路を歩いていた。売り場のざわめきは、扉を一枚隔てただけとは思えないほど遠い。華やかな空間から切り離され、別の建物へ迷い込んだようだった。背後の世界が少しずつ閉ざされていく。そんな錯覚に、瑛心の胸が小さくざわつく。案内されたのは、簡素な更衣室だった。「こちらでどうぞ」花沢綾乃は【花沢】と書かれたロッカーを開き、中から服を取り出した。「たぶん、私の服でもサイズは合うと思います」控えめな笑みを浮かべている。先ほどの怯えはまだ残っていた。それでも、失敗を埋め合わせようとする真面目さが伝わってくる。「ありがとうございます」瑛心が服を受け取ると、花沢綾乃はすぐに部屋を出ていった。扉が静かに閉まる。一人になった瑛心は、濡れた灰青色のワンピースを脱いだ。借りた服へ袖を通す。柔らかな生地が肌へ触れ、ふわりと広がった。鏡の中に映る姿は、先ほどまでとはまるで違っていた。「……少し、可愛すぎるかも」思わず、独り言が漏れる。明るく柔らかな雰囲気の服だった。自分には似合わない気がする。それとも。可愛らしい服を着た自分に、ただ慣れていないだけなのかもしれない。借り物へ文句を言える立場ではない。瑛心は小さく息を吸い、胸の奥に残る違和感を押し込めた。そして、扉へ手を伸ばす。その瞬間だった。扉の向こうに、人の気配がある。音はしない。声も聞こえない。それでも、確かに誰かが立っている。まるで、扉へ張りついているような近さだった。(……誰?)指先が僅かに強張る。瑛心は慎重に扉を開けた。その途端。外から強い力で扉を引かれた。「……っ」一気に視界が開く。そこに立っていたのは、花沢綾乃と、もう一人。先ほど売り場でスタッフを叱責していた女性だった。黒髪を隙なくまとめ、ブランドのロゴが入った黒いスーツを着ている。姿は何も変わらない。しかし。表情だけが、まるで別人だった。口元には微笑みがある。けれど、目は笑っていない。冷たい光を宿した瞳が、瑛心を静かに観察している。品物の価値を確かめるような、容赦のない視線だった。「初めまして、瑛心小姐」女性は柔らかく微笑んだ。「私は早苗と申します」耳に心地よい、穏やかな声。それなのに。その一言だけで、空気が張り詰めた。逃げ道を塞がれたよ
last updateLast Updated : 2026-04-05
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4-22 歓迎の理由

搬入口の外へ出た瞬間。冷たい外気が、火照った頬を撫でた。ようやく外へ出られた。誰かに助けを求められる。そう思った瑛心の期待は、目の前の光景によって打ち砕かれた。そこには、黒いワンボックスカーが停まっていた。エンジン音すら、ほとんど聞こえない。まるで最初からそこに存在していたかのように、静かに佇んでいる。逃げ道へ続くはずだった出口が、別の檻へ直結していた。瑛心は、その事実を一瞬で理解した。背後には早苗。正面には車。逃げられない。そう悟った直後、ワンボックスカーのスライドドアが滑るように開いた。.車内は暗い。外の光が差し込んでも、奥まで見通すことはできなかった。誰もいない。そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。最後列のシートに、誰かが座っている。足を組み、ゆったりと背もたれへ身を預けた男。大迫武流だった。「やぁ、瑛心小姐」柔らかな声が響く。ホテルで会ったときと同じ、気さくな口調。けれど、その雰囲気はまるで違っていた。大迫は、ゆっくりと口角を上げる。整った笑み。その奥にあるのは、親しみではない。こちらを観察し、反応を計算し、すべてを楽しんでいる者の目だった。瑛心はようやく理解した。ホテルで見せていた軽やかさも、冗談めいた態度も、すべて相手を油断させるための仮面だったのだ。いま目の前にいる男の方が、ずっと自然に見える。無理がなく。歪みもない。だからこそ、恐ろしかった。.「お待ちしておりました」大迫は、まるで招待客を迎えるように片手を差し出した。「どうぞ、中へ」言葉遣いは丁寧だ。だが、そこに選択肢はなかった。断ればどうなるのか。考えることさえ許さない圧がある。しかも。大迫の笑みは、瑛心が怯えている姿すら楽しんでいるように見えた。背筋を冷たいものが走る。(全部、計画だったの?)ホテルへ迎えに来たことも。衣装を用意したことも。店でシャンパンをかけられたことも。そして――自分が一人でバックヤードへ入ることも。(どこから……どこまで、決められていたの?)思考が恐怖へ呑み込まれる。瑛心は無意識に両腕で自分の体を抱きしめた。その瞬間。何かが、すぐ横を通り抜けた。頬を風が掠める。.「え……?」振り向くより先に、背後にいた早苗が瑛心の横を通過し、車内へ滑り込んでいた。次の
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-23 神崎の屋敷

スライドドアが閉まる。外界との接点が断たれた瞬間、車内へ短い静寂が落ちた。続いて、低いエンジン音が響く。黒いワンボックスカーは、何事もなかったかのように静かに動き出した。搬入口の薄暗さを抜ける。その先に広がっていたのは、いつもと変わらない東京の風景だった。行き交う人々。規則正しく変わる信号。陽光を反射する高層ビル。街は何一つ乱れることなく、日常を続けている。先ほどまで必死に逃げていたことも。こうして無理やり車へ乗せられたことも。すべてが瑛心の見た幻だったかのようだ。そのあまりに自然な光景が、かえって現実感を奪っていく。瑛心は窓際に体を寄せ、流れていく街並みを見つめた。「右手に見えるのが六本木ヒルズ」不意に、大迫が口を開く。「あそこは夜景が綺麗でね。観光客にも人気がある」口調は軽い。まるで、約束通り東京を案内している観光ガイドのようだった。説明の仕方も慣れている。押しつけがましくなく、聞きやすい。だからこそ、異様だった。(……誘拐した相手に、観光案内をするの?)瑛心は眉を寄せる。窓の外へ目を向ければ、確かに大迫の言う建物が見えた。本来なら、麗娜と一緒に立ち寄っていた場所かもしれない。けれど今は、景色を楽しむ余裕などない。前方には運転手。隣には早苗。最後列には大迫。どこにも逃げ場はなかった。車はそのまま走り続ける。やがて高層ビルの数が減り、重厚な建物が並ぶ地域へ入った。整然とした道路。警備の厳しそうな門。張り詰めた空気。「この辺りは官庁街だ」大迫は窓の外を眺めながら言った。「政府の中枢が集まっている。まあ、普通に生活していれば縁のない場所だけどね」最後に、小さく笑う。その声には、皮肉とも自嘲とも取れる響きが混じっていた。瑛心は大迫の横顔を盗み見る。恐ろしい男なのか。気さくな男なのか。どちらが本当なのか、分からない。おそらく、どちらも本当なのだろう。そのことが、ますます不安を大きくした。(普通すぎる……)脅されるわけでもない。拘束されてもいない。大声で怒鳴られることもない。ただ、車に乗せられ。穏やかに観光案内をされている。それなのに、降りる自由はない。行き先も教えられない。この状況の方が、力ずくで押さえつけられるよりも恐ろしく感じられた。車はさらに進む。街並
last updateLast Updated : 2026-04-21
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