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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 201 - Chapter 210

230 Chapters

4-34 母にとっての息子

黎沈烈を押しのけて、黎家の次期当主になる。その言葉が意味するものを、沈淵は理解していた。これは、ただの後継者争いではない。話し合いで決着することも、どちらかが身を引いて終わることもない。一度始めれば、どちらかが完全に潰れるまで続く。血で血を洗う抗争だ。勝てば。天覇龍門の頂点に立てば、瑛心を守れる。だが、負ければ何も残らない。自分の命だけで済むなら、まだいい。沈淵が敗れれば。彼に従った部下も、育ててくれた養父母も、すべて報復の対象になる。そして、瑛心も例外ではない。むしろ、沈淵が兄へ刃向かった理由として、最も残酷な形で見せしめにされる可能性が高い。(負けるわけにはいかない)それはもう意地でも誇りでもなかった。守ると決めた瞬間に背負った責任。絶対に果たさなければならない義務だった。沈淵は、ゆっくりと目を伏せる。瑛心が言った。あなたの兄は、そういう人間だと。その言葉によって、胸の奥に残っていたわずかな期待が崩れていく。(兄貴は、そういう人間……か)今さら知ったわけではない。本当はずっと前から分かっていた。見たくなかっただけだ。家族というものに、何も期待していなかったわけではない。離れて育てられても。冷遇されても。利用されても。どこかでは信じていた。血が繋がっている以上、最後の一線までは越えないと。(俺だって、一度は……)分家を手に入れる前のこと。沈淵は両親へ正面から話を持ち込んだ。蘇家の娘との婚姻を望んでいる、と。瑛心の名前は出さなかった。奪うのではなく、正当な権利を持って正式な手続きを踏み、家同士に認めさせる形で彼女を迎えようとした。話せば分かってもらえる。余地があると思っていた。その判断が甘かった。沈淵は蘇家を見誤っていた。瑛心ほどの価値を持つ娘を冷遇する、愚かな家だと考えていた。だから。その家の娘を自分が求めても、たいした問題にはならないと思っていた。だが愚かなのは、現在の当主個人だ。蘇家そのものではない。長い年月をかけて人脈を築き、資産を積み、影響力を広げてきた名家。当主がどれほど愚かでも、一族の持つ基盤までは消えない。その蘇家の娘を娶る。それは、ただの結婚ではなかった。力と力の結びつき。新たな後ろ盾。兄に対抗できるほどの影響力を得る可能性。沈淵にその気がな
last updateLast Updated : 2026-04-12
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4-35 選んではいけない選択

計画は、八割まで進んでいる。沈淵は、そこへ至るまで一切の妥協を許さなかった。賭けるのが自分一人の命なら、どこかで危険を冒すこともできただろう。だが、今は違う。瑛心。育ててくれた養父母。自分を信じてついてきた部下たち。そして、これから手に入れるはずの未来。そのすべてが懸かっている。失敗は許されない。起こり得る事態を洗い出し、危険を一つずつ潰し、想定外と呼ばれるものを、可能な限り削ってきた。それでも――残り二割が埋まらない。最大の問題は瑛心の安全だった。沈淵が動けば、兄は必ず瑛心を狙う。どれほど隠しても、どれほど厳重に守らせても、天覇龍門の後継者である黎沈烈から完全に逃がすことは難しかった。(だが……)皮肉にも、その問題は今、予想もしなかった形で解決している。瑛心は神崎邸にいる。あやめたちに拐われた現状を、素直に保護と呼ぶ気にはなれない。それでも、ここなら沈烈は簡単に手を出せない。完全に安全ではない。だが、沈淵が用意できる隠れ家より遥かに安全だった。(状況は悪くない)そう考えたとき、画面の向こうであやめが小さな皿を瑛心へ差し出した。《瑛心小姐、クッキーをどうぞ》《ありがとうございます》瑛心は一枚取り、口へ運ぶ。噛んだ瞬間、目が大きく見開かれた。《……すごい》もう一度、小さく噛む。《口に入れた瞬間はしっかりしているのに、噛むと、ほどけるように崩れます。軽いのに香りが残って……甘さも優しくて》瑛心の表情が、見る見る明るくなる。《何というか、とても柔らかい味です》次々に感想が出てくる。沈淵は、思わず眉を寄せた。(食レポか?)自分がどれほど評判の店を調べ、高価な料理を用意し、瑛心の好みに気を遣っても、ここまで目を輝かせながら感想を聞かせてもらった覚えはない。《どこのお店のものですか?》《店のものではないの》あやめが微笑む。《うちの組員が焼いたものよ》《組員の方が?》《ええ。気に入ったなら、あなたの部屋にも届けさせるわ》《ありがとうござい――》「ちょっと待て」沈淵は堪えきれず、会話へ割り込んだ。三人の視線が、一斉に画面へ向けられる。瑛心も、あやめも、冬弥まで、何が問題なのか分からないという顔をしていた。「おかしいだろ」《何が?》瑛心の純粋な問いに、沈淵はこめかみを押さえた。「俺が
last updateLast Updated : 2026-04-19
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4-36 黎小主

「黎偉……」その名を口にした瞬間、沈淵は部屋の温度が下がったように感じた。ここは自分のマンションだ。警備も、出入りする人間も、すべて沈淵の管理下にある。そのはずだった。(だが……)許可もなく。気配すら感じさせず現れた男は、扉の前に立っているだけで部屋の支配権を沈淵から奪っていた。沈淵は反射的に立ち上がる。足がソファへぶつかり、鈍い音が響いた。普段なら気にも留めない音が、今はひどく場違いに聞こえる。黎偉は動かない。声も発しない。ただ、こちらを静かに見ている。それだけで、背筋へ冷たいものが走った。次の瞬間。廊下から、揃った足音が近づいてくる。一人や二人ではない。規則正しい足音が重なり、スーツ姿の男たちが無言で室内へ入ってきた。服の色も、体格も、年齢も異なる。だが、胸元には全員、白いポケットチーフが差されていた。(白虎……)沈淵の喉が僅かに鳴る。天覇龍門を支える四つの系統。その中で、白虎だけは他の三つとまるで性質が違う。本家にも属さず、分家の指示も受けず。構成員の数も、拠点も、その行動も誰も正確に把握していない。彼らが従うのは、天覇龍門の秩序のみ。黎家の人間であろうと、組織を乱すと判断されれば例外なく排除される。それは噂ではない。これまで消されてきた家や人間の存在が事実として証明している。そして、いまその白虎を率いる男が黎偉だった。(なぜ、ここにいる)沈淵の思考が高速で回る。計画が露見した。その可能性が、真っ先に浮かんだ。天覇龍門の頂点を奪う。つい先ほど、そう決意したばかりだ。だが、黎偉がここにいる。つまり、ここに来ることは、それより前に決まっていたはず。ならば。(どこまで知られている?)誰から情報が漏れた。白虎は自分を排除しに来たのか。沈淵が答えへ辿り着くより先に。《沈淵……?》タブレットから、瑛心の声が聞こえた。沈淵は息を呑む。通話を繋いだままだった。すぐに切らなければ――そう思った。しかし、指が動かない。拘束されているわけではない。銃を向けられているわけでもない。ただ、黎偉と視線が合った。それだけだった。それだけで足先から全身が凍りついたように、動けなくなった。格が違う。そんな言葉では足りない。逆らってはいけないと、生き物としての本能
last updateLast Updated : 2026-04-20
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4-37 やめておけ

「失礼するよ」穏やかな声が聞こえた。場の緊張を和らげるような柔らかな響き。けれど、その声の主もノックもせずにリビングへ入ってきた。すでに室内は黎偉と白虎の者たちに占拠されている。そこへ、さらに別の男が当然のような顔をして加わった。沈淵は思わずこめかみを押さえた。(ここは俺の家だったはずだが)許可もなく扉を開けられ、知らないうちに人が増え、気づけば自分だけが、この場で最も発言力を持たない人間になっている。だが。顔を上げ、入ってきた男を確認した瞬間、沈淵の苛立ちは驚きへ変わった。《お父様?》タブレットから、あやめの声が響く。その呼びかけで男の正体が確定した。柊謙一。あやめの父。そして。日本の政界で、絶大な影響力を持つ柊家の当主。本来なら、このような場所へ気軽に現れるような人物ではない。《どうして、そこにいらっしゃるのですか?》あやめが目を瞬かせる。《日本にいるはずでは?》柊謙一は穏やかに笑った。「ここへお忍びで来ることには慣れているんだ」《慣れている?》「ああ」柊謙一は肩を竦める。「彼とは飲み友達でね」その言葉とともに、彼は黎偉へ視線を向けた。「今回も朝方まで付き合わされた。少し飲み過ぎたよ」沈淵も、つられるように黎偉を見る。天覇龍門の秩序を司る男。各家から恐れられ、その動向さえ把握できない白虎の長。その男と日本の政界を動かす柊家当主が――飲み友達。(どういう繋がりだ)常識で考えること自体が無意味なのかもしれない。「安心しなさい、あやめ」柊謙一は画面へ向かって微笑む。「女性を侍らせていたわけではない。男同士で飲んでいただけだ」《そんな心配はしておりません》「私は妻一筋だからね」《それは存じております》あやめの冷静な返答にも構わず、柊謙一は黎偉へ顔を向けた。「そういえば、君は女性に興味がないのか?」あまりにも唐突な質問だった。沈淵が僅かに息を詰める。白虎の者たちも、表情こそ変えないが空気が僅かに揺れた。しかし、黎偉は眉一つ動かさなかった。「大兄」低い声で答える。「今は黙っていてくれ。私は猛烈に感動しているのだ」抑えた声音。それでも、普段ほとんど感情を見せない男の言葉にしては十分すぎるほど熱があった。柊謙一は小さく笑う。「そうだろうね。今回も随分と愚痴を聞かされた」
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-38 終わりなき約束

「誤解はしないでほしい」柊謙一は穏やかに言った。「二人の結婚そのものへ反対しているわけではない」沈淵は黙ったまま、次の言葉を待つ。先ほど、このまま結婚すればすべてを失う。そう断言された。結婚に反対していないのなら、何が問題なのか。柊謙一の視線が、沈淵へ向けられる。穏やかな目だった。だが。値踏みするような鋭さもある。「黎小主の手腕については、疑う余地がない」沈淵の眉が僅かに動く。「ほとんど何も持たない状態から八十八ある分家の一角へ食い込み、その地位を奪ったあとも慢心しなかった。今では朱雀の中でも、無視できない存在になっている」客観的な評価だった。誇張も、世辞もない。沈淵が積み上げてきたものを柊謙一は正確に把握している。「ああ。その通りだ」黎偉も頷いた。「さすが大兄だ。よく見ている」二人から評価されている。本来なら悪い気分ではないはずだった。けれど、沈淵の胸の奥では警鐘が鳴り続けている。(褒められているのに、まったく安心できない)これは前置きだ。本題は、ここから。その予感は、すぐに現実となった。「だが」柊謙一の目がタブレットへ向く。「問題は、蘇公女のほうだ」沈淵の表情が硬くなる。「瑛心の何が問題ですか」声が低くなる。柊謙一は、慌てることなく続けた。「資質を疑っているわけではない。彼女自身に問題があるとも言っていない。だが」一度、言葉を切る。「今の蘇瑛心を蘇公女として公表することには、問題がある」黎偉が僅かに眉を寄せた。「大兄。どういう意味だ」「そのままの意味だよ」柊謙一は淡々と答える。「彼女は、これまで表舞台へ出てこなかった」沈淵は何も言えない。否定できなかった。蘇家は瑛心を隠してきた。本来なら正妻の娘として、麗娜よりも前へ出るべき存在だった。それなのに社交の場へ連れ出されるのは、いつも麗娜。美しい服も、宝石も。教育も、すべて麗娜へ与えられた。瑛心は蘇家の中にいながら、蘇家の娘として扱われてこなかった。「蘇公女と聞いて」柊謙一は静かに続ける。「多くの人間が思い浮かべるのは蘇瑛心ではない。異母姉の蘇麗娜だろう」タブレットの向こうであやめが静かに頷いた。《お父様のおっしゃる通りです》瑛心は何も言わない。どんな顔をしているのか。沈淵の位置からは見えなかった。それが
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-39 三年越しの花嫁修業

『……何をしているんだ』冬弥はカーテンの隙間へ視線を向けた。そこには長身の身体を無理やり押し込み、気配を消そうとしている沈淵がいた。肩幅があるせいで身体の半分ほどが、完全にはみ出している。どう見ても隠れられてはいない。沈淵が険しい顔で人差し指を口元へ当てる。静かにしろと訴えているらしい。だが――遅かった。「りーしゅーしゅー、みっけ!」軽やかな足音とともに幼い声が響く。ゆっくりと振り返った。そこには息子の楓が立っていた。小さな人差し指を沈淵へ突きつけ、得意げに胸を張っている。どこで覚えたのか。まるで犯人を見つけた名探偵のようだった。沈淵が力なく肩を落とす。「ぼくの、かち!」楓は両手を上げ、満面の笑みを浮かべた。一方で沈淵は肩を落としている。世界最大級の犯罪組織を支配する男が三歳児とのかくれんぼで敗北し、本気で落ち込んでいる。冬弥は思わず口元を緩めた。「……平和だな」「とーしゃまっ!」楓が冬弥へ駆け寄る。そのまま足へ抱きつき、服を掴みながら身体を登り始めた。冬弥は慣れた手つきで腰を支える。楓は自力で登ったつもりなのだろう。満足そうな顔で、冬弥の肩へ跨った。「たかーい!」『平和だな……』沈淵も同じ言葉を呟いた。血と策謀の中心に立つ男たちが、子どもの遊び相手になっている。これまでの日々とかけ離れた光景だった。それでも決して嫌ではなかった。.あの日から三年が経った。まだ泣くことしかできなかった楓は三歳になり、今では名家の子どもたちが通う保育園へ通っている。今日はたまたま休園日。時間を持て余していたところへ、沈淵が神崎邸を訪れた。楓にとって沈淵は遊び相手。楓は大喜びしていたが、沈淵は遊びに来たわけではない。『瑛心はどこにいる』沈淵の言葉に、冬弥は肩から楓を下ろしながら答える。『女子会だ』『女子会?』『夕食までには戻るそうだ』沈淵の表情が僅かに緩んだが。『急に来られても困る、と怒っていたぞ』『……そうか』緩んだばかりの表情が分かりやすく沈んだ。三年前、瑛心を神崎家へ預ける際に決められた条件。『瑛心自身が納得するまで神崎邸にいる』その期限はいまだに終わっていない。冬弥が予想していた通りだった。(まあ、もっとも……)一年ほど前。沈淵がほとんど土下座に近い勢いで頭を下げ、なん
last updateLast Updated : 2026-04-22
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4-40 終わったあとの傷

『母親は、どうしている?』冬弥が尋ねた。声はいつも通り淡々としている。同情を押しつけることも、無理に聞き出そうとすることもない。答えたくなければ、答えなくていい。そんな距離を残した問いだった。沈淵は楓が遊んでいる姿へ視線を向けたまま、僅かに肩を竦める。『……相変わらずだ』口元に浮かんだのは苦笑だった。その一言だけで、三年という時間が何一つ解決していないことが伝わった。 ◇◇◇すべてが動いたのは、あの日の直後だった。黎偉が沈淵を「黎小主」と呼んだ日。そのあと、父である黎首領と黎偉の間で何が話されたのかを沈淵は知らない。知ろうともしていない。あれから数日後、八十八の分家当主を集めた会議が開かれた。天覇龍門の重鎮たちが揃う中で、父は何の前触れもなく告げた。次の首領を黎沈淵にする、と。その瞬間、会議室の空気が凍りついた。誰もすぐには声を出せなかった。長男の沈烈が継ぐ、それが既定路線だった。素質や能力を疑う者はいても、実際に決定が覆ると考えていた者はほとんどいなかった。誰もが黙り込む中、沈烈が立ち上がった。「なぜですか!」父へ詰め寄り、理由を求めた。「どうして、沈淵なんです!」怒鳴り声が部屋に響いたが、それでも父は理由を言わなかった。ただ、決定事項だと。何を聞かれても、同じ言葉を繰り返すだけだった。説明も慰めもない、無機質な拒絶。沈烈は、最後まで父の答えを待ったのかもしれない。だが、結局は椅子を蹴り飛ばして、そのまま部屋を出ていった。それが、沈淵が見た兄の最後の姿だった。――その夜、沈烈は死んだ。だが、見つかったのはその三日後。連絡が取れないことを不審に思った部下が沈烈の屋敷を訪れ、リビングで倒れていた沈烈を見つけた。沈烈はすでに息をしていなかった。同じ屋敷で暮らしていた四人の愛人も、それぞれの部屋で遺体で発見された。事件の全貌は今も分かっていない。分かっていることは、沈烈は長い時間をかけて殺されたこと。身体には数え切れないほどの傷があった。死因は、出血によるもの。その多くが急所を外しており、苦しみを長引かせるためだと判断できるものだった。もう一つ分かっていることは、四人の女たちはほぼ同じ時刻に大量の睡眠薬を飲んでいたこと。警察は女たちが共謀し、沈烈を殺害し、報復を恐れて自ら命を絶ったと判
last updateLast Updated : 2026-04-23
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4-41 普通ではない家族

「家族とは、難しいな」低く響いた声にあやめは、ゆっくりと顔を上げた。冬弥の胸へ頬を寄せていたため、言葉とともに伝わった振動が肌へ心地よく残っている。行為のあとの倦怠感はまだ身体の奥にあった。満たされた安堵と、冬弥の体温に包まれている心地よさ。眠気に負けて聞き流してしまいそうな呟き。だが、冬弥の声がどこか遠くを見ているように聞こえた。あやめは自然と耳を傾ける。「俺は自分の家を」冬弥が、天井を見つめたまま続ける。「家族と呼べるようなものではないと思っていた」神崎家という組織の中で冬弥が置かれていた立場を思えば、あやめにも理解できる。「だが、最近は」冬弥は僅かに眉を寄せた。「普通の家族など、そもそも存在しないのではないかと思う」(……沈淵のせいね)あやめは、心の中で小さく息を吐いた。沈淵が来て、瑛心が留守だからと冬弥を捕まえ、また母親や兄の話をしたのだろう。人の夫へ余計なものを背負わせないでほしい。そう思う一方で、家族について考える冬弥の横顔は少し柔らかい。珍しい姿だから、沈淵への苛立ちは少しだけ引っ込めることにした。「普通など」あやめは軽やかに言う。「目指さなくてもよろしいのでは?」冬弥が視線を下ろす。「では、何を目指す」「いいところ取り」迷いなく答えると、冬弥は僅かに目を細めた。「いいところ」少し考えて。「それならば、俺が見習うべき父親はお義父上か」あやめは、一瞬黙る。「……娘の立場から申し上げますと、お父様を理想とするのはあまりお勧めしません」冬弥が首を傾げた。「父子仲は悪くないだろう」「ええ、今は」含みを持たせて答えた拍子、髪が頬へかかった。くすぐったさに身じろぐと冬弥の手が伸びてくる。指先で髪をすくい、耳へかける。何気ない仕草だけれど、頬から耳へ指が滑った瞬間にくすぐったさとは違う熱が走った。先ほどまで激しく触れられていたというのに。こうしたささやかな触れ方のほうが恥ずかしくなる。「あやめ?」名前を呼ばれた。「顔が赤い」「気のせいです」「これも恥ずかしいのか」冬弥は口角を少し上げた。顔を冷ましたくて、あやめは話を続ける。「冬弥さんはお父様と似ています」「俺が?」「ええ」あやめは冬弥の胸元へ指先を置く。「家族以外にも、もしかしたら家族以上に守らなければ
last updateLast Updated : 2026-04-23
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4-42 最大の恋敵

『沈淵』朝の静かな廊下で、あやめの声が響いた。『あなた、いつまでいるの?』朝の挨拶より先だった。沈淵は、露骨に顔をしかめる。『……おはようより先にそれか?』『忘れないうちに聞いただけよ』あやめは悪びれない。『それで? いつ帰るの?』沈淵は小さく息を吐いた。『何もなければ三日後だ』『そう』あやめは頷く。『何かあって早く帰ることを祈っているわ』『普通は逆だろう』沈淵は呆れたように笑う。『何もないことを祈るものじゃないのか』『あなたが長居すると、瑛心小姐の勉強が進まないもの』『俺は邪魔者扱いか』『今さら?』即答だった。沈淵は肩を落とす。『ずいぶん機嫌が悪いな』『……眠いのよ』それだけだった。あやめは、もともと朝が得意ではない。普段なら眠くても表情へ出さない程度の余裕はある。だが、昨夜は寝たのが遅かった。その結果、最低限の取り繕いすら面倒になっている。その状況で、最初に顔を合わせた相手が沈淵だった。遠慮する理由が一つもない。『お熱いことで』沈淵が含みを持たせて笑う。普段ならあやめは顔を赤くして抗議しただろう。けれど今日は違う。眠気のほうが勝っていた。『あなたも』あやめは眠そうな目で見返す。『機嫌が悪いわね』少しだけ考え、眠気のまま口が動く。『欲求不満?』言った瞬間、あやめは後悔した。昨夜、沈淵と瑛心は久しぶりに二人だけの時間を過ごしている。楓が嬉しそうに「りーしゅーしゅーに、インシンかえすの」と報告していたから。(てっきり二人は……)成立しない冗談だった。しかし、沈淵はぷいと顔を背けた。『……』返事がない。(しまった)あやめは目を瞬かせる。思っていた以上に沈淵へ刺さってしまったらしい。『ごめんなさい』素直に謝る。沈淵は視線を逸らしたまま、小さく呟いた。『……謝るなよ。余計に虚しくなる』沈黙が落ちる。二人とも何を言えばいいのか分からない。妙な空気だけが流れた。そのときだった。「かーしゃま、おはよー!」元気いっぱいの声が廊下へ響く。救世主だった。あやめも沈淵も同時にそちらを見る。楓が両手を振りながら走ってくる。その隣には小さな足で一生懸命ついてくる雪兎の姿もあった。張り詰めていた空気が一瞬でほどける。「楓」あやめは自然と笑みを浮かべた。「おは
last updateLast Updated : 2026-04-24
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4-43 慌ただしい朝

『冬弥!』沈淵の声が朝のダイニングへ響いた。窓から差し込む柔らかな光。整然と並べられた朝食。静かに働く使用人たち。穏やかだった空気を沈淵は勢いよく壊した。室内の中央。上座の椅子に、すでに冬弥が座っていた。隙なく着こなされた服。真っ直ぐに伸びた背筋。僅かに湿った髪。朝の稽古を終えて、シャワーを浴びてきたばかりなのだと分かる。『なんだ?』騒がしい侵入者とは対照的に、神崎家の主らしい落ち着きを保っていた。その姿に沈淵も落ち着き始める。『とりあえず、子どもたちを降ろせ』沈淵は素直に、両脇へ抱えていた楓と雪兎を床へ下ろす。ここまでかなりの速さで歩いてきたらしい。楓は遊びだと思ったのか、満面の笑みを浮かべていた。雪兎も珍しく頬を緩めている。冬弥は二人の楽しそうな顔を見て、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。それから沈淵へ視線を戻す。『それで?』『どういうつもりだ?』質問に質問で返した沈淵に、冬弥は僅かに眉を寄せた。『きちんと話せ』『楓に』沈淵は楓を指差した。『瑛心と結婚してもいいと言ったそうだな』冬弥は軽く首を傾げた。『似たようなことを言ったな』『……どういうことだ?』『少し違う』『どこが違う』冬弥は、当時のことを思い出すように答える。『あのとき、楓はあやめと結婚したいと言った』息子が母親と結婚するという。よくある話だ。『だが、あやめは俺と結婚している』『……そうだな』『だから無理だと説明したのだが』『“だが”?』『それなら、瑛心小姐となら結婚できるかと聞かれた』嫌な予感がした。『できると言った』『なんで!』沈淵の眉間へ皺が寄る。『瑛心小姐は独身だからな』『確かに法律上は結婚できる』『そうだろう』冬弥は満足そうな顔をしている。(確かに……)理屈としては、間違っていない。だが、配慮が完全に欠けていた。『年齢差を考えろ』沈淵が低く言う。『年齢差は法律にない』『常識は?』『常識なんて、そんな曖昧で根拠のない説明では』冬弥は即座に返す。『楓は納得しない。年齢の離れた夫婦はいくらでもいる』『だからといって、三歳児と成人女性の結婚を肯定するな』『今すぐ結婚できるとは言っていない』『そういう問題ではない』沈淵は額を押さえた。求めている答えは難しいものではない。瑛心は沈淵
last updateLast Updated : 2026-04-24
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