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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 191 - Chapter 200

230 Chapters

4-24 初恋の人

瑛心の胸が、すっと冷えた。門柱に刻まれた二文字から、目が離せない。【神崎】その名前だけで、体の内側から熱が奪われていくようだった。思考が、一拍遅れて動き出す。瑛心には、恋人がいる。その存在を家族へ隠してきたのは、恥ずかしかったからではない。知られれば、奪われる。そう確信していたからだ。瑛心の家では、それが当たり前だった。父でさえ、瑛心が大切にしているものを守ろうとはしない。「麗娜が欲しいと言ったから」その一言だけで、何もかも麗娜へ渡してしまう。服も。装飾品も。思い出も。もし、それが人だったとしても。きっと同じだ。だから瑛心は、一度も家族へ恋人の話をしなかった。.恋人の名は、黎沈淵。巨大マフィア組織《天覇龍門》を支える黎家の男だった。本家の後継ではない。だが、それでも誰も軽く扱えない存在だ。彼が率いる一派は、八十八ある系統の一つ。それも、血筋だけで与えられた地位ではない。自らの力で築き上げた勢力だった。資産も。権力も。人脈も。どれも常識では測れない。穏やかな笑顔と柔らかな物腰の裏に、巨大な力を持つ男。そんな黎沈淵を、麗娜が欲しがらないはずがなかった。だから隠した。日本へ来ることは、出発前に黎沈淵へ伝えている。麗娜のお伴で行かなければならないと。いつもならそれで終わりだった。だが、珍しく彼は反対した。『日本は危ない』そう言った。理由も教えてくれた。『天覇龍門は、日本のマフィアと敵対している』だから気をつけろ、と。瑛心は、その忠告を思い出す。目の前では重い鉄門がゆっくりと開いていく。ギィ……と鈍い音を響かせながら、左右へ動く門。その姿はまるで巨大な獣が口を開いているようだった。逃げることはできない。そう告げられているように思えた。.車は静かに敷地へ入っていく。外とは空気が違う。広い石畳。整えられた庭木。巨大な屋敷。黒を基調とした建物は光を吸い込み、静かな威圧感を放っていた。住まいというより、一つの城だった。やがて車が止まる。スライドドアが開いた。そこに、一人の女性が立っていた。白い着物。その上から羽織った黒い羽織。背筋は真っ直ぐ伸び、無駄な動きが一切ない。年齢は瑛心と同じくらいだろうか。整った顔立ち。華やかというより、静
last updateLast Updated : 2026-04-06
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4-25 知らなかった素顔

その瞬間だった。《瑛心はどこだ! てめえが誘拐したことは分かってんだぞ!》鋭い怒声が、屋敷の前へ響き渡った。鼓膜を直接殴られたような声に、瑛心の心臓が大きく跳ねる。聞き間違えるはずがない。何度も耳にしてきた声だった。瑛心は反射的に振り返る。しかし、そこに黎沈淵の姿はなかった。代わりに立っていたのは、藍色の着物をまとった背の高い男だった。男は深いため息を吐き、手にしたタブレットを見下ろしている。怒声を浴びせられているとは思えないほど、落ち着いていた。「文句なら、俺ではなくあやめに言え」男は淡々と告げると、タブレットをあやめへ差し出した。《あやめ!》(やっぱり、沈淵……)声は間違いなく、恋人のものだった。だが、瑛心の知る沈淵とはあまりにも違う。いつも穏やかで。声を荒らげることなどなく。感情を表へ出さない男。その沈淵が、怒鳴っている。「お久しぶりですね」あやめが静かに微笑んだ。《あやめ……》沈淵が、その名を呼ぶ。瑛心の胸が僅かに軋んだ。初恋の女性。彼が唯一、過去を隠さずに語った相手。その名を呼ぶ声には、自分へ向けられるものとは違う温度があるように感じられた。長い時間を共有した者だけが持つ、特別な響き。そう思った次の瞬間。《てめえ、瑛心に何をしやがる!》怒声が響いた。.瑛心は目を瞬かせる。確かに熱はこもっている。けれど、甘さではない。明確な怒りだった。「何もするわけがないでしょう」あやめは眉一つ動かさない。「相変わらず、馬鹿ですね」《誰が馬鹿だ!》「あなたです」即答だった。再会を喜ぶ気配はない。懐かしさも。未練も。瑛心が想像していた初恋の男女らしい空気は、どこにもなかった。あるのは、遠慮のない衝突だけだ。「よくそれで、分家を一つ運営できますね」あやめは呆れたように息を吐く。「部下の皆様に同情します」《お前にだけは言われたくねえよ》沈淵も負けずに言い返す。《次々に人を誑し込んで下僕にしやがって。お前の旦那にも同情するね。愛人が全員、妻の手足なんだからな》瑛心は思わず、あやめの隣にいる男へ目を向けた。男がタブレットの向きを変え、自分の顔を映す。《神崎冬弥!》沈淵が唸るように名を呼んだ。瑛心の体が強張る。この男が。日本最大の極道組織、龍神会の組長。神崎冬弥。
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-26 戻らない距離

《瑛心! 違うんだ。これは……とにかく違う!》タブレットから、沈淵の慌てた声が響く。画面の中では、彼がこちらへ身を乗り出していた。勢い余って、今にも画面から飛び出してきそうだ。瑛心が知る沈淵からは、想像もできない姿だった。いつも落ち着いていて、言葉を選び、何があっても余裕を崩さない。そのはずの彼が、呼吸を乱し、同じ言葉を何度も繰り返している。《違うんだ、本当に。瑛心が考えているようなことじゃない》何が違うのか。何を誤解しているのか。その説明は、一向に始まらない。ただ「違う」という否定だけが積み重なっていく。あまりにも必死な姿を画面越しに見ているせいか、瑛心には現実感がなかった。まるで、恋愛劇の一場面を眺めているような気分になる。(どうして、こういうときは皆、同じことを言うのかしら)ふと、そんな考えが浮かんだ。瑛心はすぐに内心で首を横へ振る。(いま考えることではないわ)自分は傍観者ではない。その言い訳をされている当事者だ。そう理解している。それでも。画面の向こうで必死に「違う」と繰り返す沈淵は、どこか滑稽に見えてしまった。.「詳しいお話は、中でいたしましょう」早苗に促され、瑛心は屋敷の中へ案内された。長い廊下を歩く間、早苗について簡単な説明を受ける。神崎邸に仕える女中であり、あやめの身辺を守る護衛でもあるらしい。華奢な外見からは想像できないが、先ほどの身のこなしを思い出せば納得できた。その間も冬弥が手にしたタブレットからは、沈淵の声が途切れず聞こえている。《瑛心、聞いてくれ。俺は別に隠すつもりで――いや、隠してはいたが、騙そうとしたわけじゃない》言い訳を重ねるほど、状況が悪化している。「黎沈淵の心境は理解できる」冬弥が静かに口を開いた。「だが、言い訳をする男の姿というのは、いささか滑稽だな」《神崎、てめえは黙ってろ》「見ていられませんね」あやめも、さらりと同意する。「どうして男性は、都合の悪いことが発覚すると、まず『違う』と繰り返すのでしょう」穏やかな声だった。けれど、言葉には容赦がない。「何が違うのか説明しないので、聞く側には何も伝わりません」《今から説明する!》「先ほどから、ずっとそう言っていますよ」《……》沈淵が黙る。.「浮気ではない」突然。冬弥が妻の言葉を訂正した
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-27 双子の片割れ

「瑛心小姐は、黎沈淵の素性をどこまでご存じですか?」あやめの問いは穏やかだった。だが、単なる確認ではない。瑛心が知っている事実と、自分たちが把握している情報を照らし合わせようとしている。そう感じさせる聞き方だった。瑛心は一瞬だけ言葉を選ぶ。「沈淵の一族が、中華系マフィアの《天覇龍門》を率いていることは知っています」膝の上で手を重ねたまま、静かに続ける。「沈淵も、その一角を担う人です。それから、一族のグループ会社でCEOをしています」それ以上のことは、詳しく聞いていない。沈淵も、自分から多くを話そうとはしなかった。瑛心が知っている事実だけを並べる間、あやめは一度も口を挟まなかった。ただ静かに耳を傾けている。やがて、ふと別の問いを差し込んだ。「お二人は、どこで知り合ったのですか?」「高級中学の同級生です」「高級中学というと、日本の高校ですね」あやめは僅かに首を傾げる。「瑛心小姐は、蘇家のご令嬢ではないのですか?」指摘は的確だった。蘇家は、長い歴史を持つ豪商の家系だ。その家の子どもであれば、名門私立へ進むのが自然だろう。実際、異母姉の麗娜もそうだった。地元でも有名な私立高校へ通い、家柄の近い令嬢たちを周囲へ集め、華やかな学生生活を送っていた。.《瑛心は先妻の娘だ》タブレットから沈淵の声が響く。《父親と継母の間に、異母姉がいる。そこまで言えば、だいたい想像はつくだろう》先ほどまでの慌てた様子は薄れ、声には落ち着きが戻っていた。だが、その言葉に含まれる冷たさは隠しきれていない。あやめは瑛心へ視線を向ける。「家から遠ざけられたのですか?」瑛心は少し考え、それから頷いた。「たぶん、そういう意味もあったと思います」麗娜は、大都市にある私立高校へ進学した。一方の瑛心は、地元から離れた中規模都市の公立高校へ送られた。継母たちにとっては、体のいい追放だったのだろう。蘇家の娘でありながら公立へ通うことを、何度も笑われた。けれど、瑛心にとって、その選択は不幸ではなかった。むしろ。「あの家から離れられたので、私は嬉しかったんです」思わず、本音が漏れる。継母と麗娜の視線から解放された。父の再婚以来、初めて自分だけの時間を持てた。息を詰めて暮らさなくてもいい。それだけで、世界は驚くほど広く感じられた。世間体
last updateLast Updated : 2026-04-09
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4-28 初恋という嘘

《瑛心》沈淵が、低く名を呼ぶ。先ほどまで鋭く細められていた目が、わずかに揺れた。《……幻滅したか?》静かな問いだった。けれど、ひどく不器用だった。瑛心へ尋ねているというより、自分へ突きつけているように聞こえる。(幻滅……?)瑛心は画面の中の沈淵を見つめた。冷たい表情。感情を削ぎ落とした声。これまで自分へ見せていた、穏やかで優しい姿とは違う。それでも長く彼を見てきた瑛心には分かった。沈淵は怯えている。拒絶されることを恐れている。「確かに、こんなあなたを見るのは初めてよ」瑛心は、ゆっくりと言葉を選んだ。責めるためではない。無理に安心させるためでもない。ただ、事実を伝える。「でも、あなたはあなたでしょう?」《……》「幻滅はしないわ」沈淵の視線が、わずかに揺れる。瑛心はそこで、唇を僅かに尖らせた。隠されていたことも。自分に好かれるため、別の顔を演じていたことも。何もかも素直に許してしまうのは、少し癪だった。「そもそも、幻滅するほどあなたに夢を見ていないもの」《……瑛心》沈淵の声が低くなる。「怒った?」《少し傷ついた》「それなら、お互い様ね」瑛心はさらりと返した。「あなたが穏やかで優しい人だから、好きになったわけではないもの」《では、何がよかったんだ》「それを今ここで聞くの?」《重要な話だ》「いまは人質の身代金について話す場でしょう?」《俺にはこちらのほうが重要だ》真顔で言い切られ、瑛心は小さく息を吐いた。変わっていない。声を荒らげても。冷たい目をしても。沈淵は沈淵だ。「これまで私に見せていたあなたも、嘘ではないのでしょう?」《……》「もしかして、私が怖がると思ったの?」沈淵は少しだけ黙った。《お前は怖がりだろう》否定できなかった。瑛心は大きな声が苦手だ。突然の物音にも、体が強張る。蘇家では、罵倒も平手打ちも珍しくなかった。誰かが声を荒らげるだけで、次に痛みが来る気がしてしまう。「大きな声や暴力は怖いわ」瑛心は静かに認める。「でも、あなたは怖くない」《無理をしなくていい》「それなら、別れる?」《嫌だ》即答だった。一瞬の迷いもない。瑛心は思わず笑った。「私も嫌よ」沈淵の強張っていた表情が、僅かに緩む。「だから、私の気持ちを勝手に決めないで」《怖
last updateLast Updated : 2026-04-09
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4-29 不幸でなければならない男

(沈淵は、こんなに野心のある人だったの……?)瑛心は画面の中の恋人を見つめる。違う。すぐに、胸の内で否定した。ただの野心ではない。地位が欲しい。権力が欲しい。誰よりも上に立ちたい。そんな単純な欲望ではない気がした。沈淵に野心がないとは思っていない。むしろ、力を求める意思がなければ、今の地位には辿り着けなかったはずだ。天覇龍門には、八十八の分家がある。沈淵はその一つを率いている。だが、その立場を血筋だけで与えられたわけではない。本拠地にあった一家を潰し、その地位も、組織も、利権も――すべて奪った。誰もが躊躇するような手段を選び、結果を出した。偶然でも、幸運でもない。冷静な計画と容赦のない決断。そして、それを実行できるだけの力。沈淵は、自らの手で天覇龍門に居場所を作った。それでも彼の進撃は、そこで止まっていた。八十八分家の中では無視できない存在になった。大きな企業も率いている。十分な財産も、権力もある。だが、それ以上を望んでいるようには見えなかった。本家へ近づこうともせず。後継争いへ加わる素振りも見せず。現在の地位を守ることだけに徹していた。まるで自分の存在を一族へ認めさせられれば、それでいいと考えているようだった。瑛心も、そう思っていた。だから彼の双子の兄が天覇龍門の跡目候補で。その兄から天覇龍門の跡目を奪うつもりだという言葉が、すぐには信じられなかった。「あなた」あやめが静かに口を開く。「黎家の次期当主になることを、断ったそうですね」《……》沈淵の目が、僅かに見開かれた。瑛心も息を呑む。(次期当主……?)それは、天覇龍門の頂点に最も近い地位だ。現在、組織を支配しているのは沈淵たちの父。通称、黎首領。絶対的な権力を持つ男だ。だが、その父よりも強い影響を残した人物がいる。沈淵たちの祖父。黎老大。すでに亡くなっているが、その名はいまだに天覇龍門の中で特別な意味を持つ。《祖父さんか》沈淵が低く呟く。《あやめは、祖父さんに気に入られていたからな》「ええ」あやめは淡々と頷いた。「可愛がってくださっていたと思います」《そうだったな》「あなたも、それを知っていた」あやめの目が細められる。「黎老大が私を守ると分かっていたから、黎沈烈の執着を私へ向けさせたのでしょう?」瑛心
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-30 奪う関係、築く関係

沈淵が初めて兄と会ったのは、十八歳の春だった。それまで一度も顔を合わせたことはない。けれど、互いの存在は幼い頃から知っていた。双子を産んだことを誇りにしていた母親が、二人の存在を隠そうとしなかったからだ。ただし、語られる内容は大きく歪められていた。本家で育つ黎沈烈。地方へ預けられた黎沈淵。両親が兄へ聞かせていた弟の話は、いつも決まっていた。生まれつき体が弱い。都会では暮らせない。空気の良い地方で療養しなければならない。本家を離れて生きる可哀想な弟。もちろん、すべて嘘だった。沈淵は健康だった。療養など必要なかった。それでも両親は沈淵をを弱く、不幸な存在として語り続けた。弟が弱ければ、兄は強く見える。弟が不幸であれば、本家に残された兄は恵まれていると証明できる。沈淵は幼い頃から、その構図を理解していた。誰かに説明されたわけではない。周囲の言葉や態度から、自然と分かってしまった。自分に与えられた役割は『選ばれなかった哀れな弟』。だが、なぜ兄がそこまで沈淵の不幸を必要としているのか。その理由までは分からなかった。十八歳になるまでは。.《初めて兄貴に会ったのは、天覇龍門のパーティーだった》画面の向こうで、沈淵が静かに語る。両親に呼ばれ、初めて本家が主催する宴へ出席した。豪華な会場。高価な酒。眩しいほどの照明。天覇龍門に属する有力者たちが集い、誰もが次期当主候補である黎沈烈の周囲へ群がっていた。表向きは完璧だった。人々は笑顔で兄を持ち上げる。若くして堂々としている。将来が楽しみだ。次代を任せられるのは黎沈烈しかいない。そんな言葉が途切れることなく贈られていた。だが、兄がその場を離れれば、声はすぐに変わった。判断が甘い。感情的すぎる。周囲の言葉に流される。次期当主としては器が小さい。媚びた笑顔の裏で彼らは兄を嘲笑していた。直接すべてを聞いたわけではない。それでも悪意は分かる。隠そうとすればするほど、その輪郭ははっきりと見えるものだ。そして、やがて彼らの話題は、別の人物へ移った。本家から外された双子の弟。黎沈淵。兄に何かあった場合の予備。《あのときの兄貴の目を見て、分かった》沈淵の瞳が、僅かに細められる。《俺が予備だと言われた瞬間、あいつは俺を見た》《怒っていた》《周りの
last updateLast Updated : 2026-04-10
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4-31 選ばれた見合い相手

「黎沈淵」冬弥が、タブレットへ視線を向ける。「あやめを『初恋の女性』に仕立てたのは、黎沈烈の目から蘇瑛心を隠すためか?」問いは簡潔だった。だが、瑛心の胸を強く打った。沈淵は一瞬だけ黙る。それから、静かに頷いた。《ああ、そうだ》否定も、言い訳もなかった。《兄貴は俺が女と目を合わせただけで、その女を暴行し、抗議した家族をまとめて町から追い出したことがある》瑛心は息を呑む。沈淵の声は、あまりにも淡々としていた。怒りも嘆きも、そこにはない。まるで、何度も繰り返された日常を語っているようだった。《俺は何もしていない》《だが、原因は俺だ》《それからは誰も、俺の近くに家族を近づけたがらなくなった》《おかげで、腫れ物扱いさ》たった一度、視線が合っただけ。それだけで、誰かの生活が壊された。本人だけではない。家族まで住み慣れた土地を追われる。そんな理不尽が、沈淵の周囲では現実として起きていた。(だから、私のことを隠していたの……?)自分に近づいた女性が狙われる。ならば、誰も愛さないふりをするしかない。本当に大切な存在を隠すために、別の女性へ執着しているように見せかける。あやめの写真。初恋という作り話。すべて、瑛心を兄の目から隠すためだった。《目くらましになればと思って、兄貴に女を送り込んだこともある》沈淵が、僅かに口元を歪める。「身体を使わせたのか?」冬弥の問いに沈淵は頷く。《だが、厄介なことに、自分から寄ってくる女には虫ほどの興味も示さない》《何度もやった》《だが、一晩どころか数時間ももたなかった》《自分から手に入るものには、価値を感じないらしい》差し出されたものには興味を示さず、誰かが大切にしているものだけを欲しがる。手に入らないものを、力ずくで奪うことに意味を見いだす。黎沈烈の欲望は、恋情とは呼べないものだった。「所有欲だけが異常に強いのね」あやめの声から、温度が消える。《そういう男だ》沈淵は短く答えた。そして、兄が日本へ来た経緯を語り始めた。黎沈烈は、中国で不祥事を起こした。詳細は伏せられたが、本家の名を使っても揉み消しきれないほどの騒動だったらしい。両親は火消しのため、彼を日本へ留学させた。表向きは勉学のため。実際は、ほとぼりが冷めるまで国外へ逃がしただけだった。そして日本で
last updateLast Updated : 2026-04-21
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4-32 耳の後ろの意味

あやめが、ふわりと微笑んだ。柔らかく。人を安心させる笑みだった。「大丈夫です」瑛心の手を包んだまま、穏やかに言う。「あなたのことは、黎沈淵が守ります」瑛心は思わず苦笑した。(……"私が守る"じゃないのね)自分ではなく、沈淵の名前を迷いなく口にする。その潔さが、いかにもあやめらしかった。《俺に丸投げするな》沈淵が即座に抗議する。「でも」あやめは平然としている。「私には何もできませんもの」冗談ではなかった。現実を、そのまま口にしているだけだった。「柊家という盾は、いまの黎家には通用しません」「龍神会も同じです」冬弥が静かに続ける。「天覇龍門は大きすぎる」あやめが肩を竦めた。「ですから、降伏しましょうか」「冗談になっていないぞ」眉間にしわを寄せ、冬弥が即座に返す。「半分くらいは本気です」「残り半分は?」「考え中です」あやめはそう言って小さく笑った。その笑顔には焦りがない。追い詰められているはずなのに、次の一手を考えている人間の目だった。「結局、どうするか」あやめが静かに言う。「上を挿げ替えるしかありません」その一言で、空気が張り詰めた。《……さらっと恐ろしいことを言うな》沈淵が呆れたように息を吐く。「黎沈淵」あやめは真っ直ぐ画面を見る。「あなたに、その気がないのなら私はこんな話はしません」沈淵は黙る。「黎老大から、あなたには頂点へ立つ意思がないと聞いたとき」あやめは静かに続けた。「私は諦めました」「だから――」言葉を切る。そして突然、瑛心の手を握った。「少しだけ、触っていただけますか」「え?」あやめは瑛心の手を、自分の耳の後ろへ導いた。髪の生え際。耳の付け根の少し後ろ。そこへ指先が触れる。(……何かある)皮膚の下に、小さく硬いものを感じた。骨ではない。異物だ。思わず、確かめるように指先へ力が入る。「いたっ」あやめが小さく顔をしかめた。「あっ、ご、ごめんなさい!」瑛心は慌てて手を離す。《瑛心?》沈淵の声が飛ぶ。《何をした?》瑛心は耳の後ろを見つめたまま答えた。「あやめ大姐の耳の後ろに……何か埋め込まれてる」《埋め込まれてる?》「たぶん」瑛心は深く息を吸う。「GPS」応接室が静まり返った。《……耳の後ろ?》沈淵が怪訝そうに眉を寄せる
last updateLast Updated : 2026-04-10
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4-33 奪うしかない

「なんてことだ……」沈淵の呟きが、広いリビングへ落ちた。大きな窓の向こうには、高層ビルが並んでいる。いつもなら見慣れた景色。だが今は、その輪郭さえ歪んで見えた。沈淵は、ゆっくりと天を仰ぐ。「……サロメかよ」乾いた声だった。愛されないなら、殺す。拒絶されるくらいなら、命ごと奪う。物語としてなら知っている。歪んだ愛の象徴。狂気に飲まれた女の話。けれど。それを黎沈烈へ当てはめた瞬間、不思議なほど違和感がなかった。むしろ、すべてが繋がった。自分を見ない者へ執着する。屈服させようとする。それでも手に入らなければ――殺す。殺してしまえば誰にも奪われない。永遠に自分だけのものになる。(……兄貴なら、やる)そう思えてしまった。血の繋がった兄だからこそ、認めたくなかった。あれほど異常でも、あくまでも暴力で、殺人はしない。最後の一線は越えない。どこかで、そう信じていた。だが。家族だという理由だけで、人間性まで保証されるわけではない。それを瑛心は知っていた。そして今、沈淵も認めなければならなかった。「……では」喉が僅かに掠れる。「瑛心も、捕まれば……」問いではなかった。確認するような言葉だった。画面の向こうで、瑛心が静かに首を横に振る。《私の場合は、もっと簡単に殺されると思うわ》沈淵の指先が強張った。《あやめ大姐ほど執着されていないもの》《黎沈烈にとって私は、替えのきく玩具でしかないでしょうから》「玩具……」沈淵は、低く繰り返した。胸の奥へ、熱いものが溜まっていく。怒り。焦燥。恐怖。どれとも違う。それらすべてが混ざり、形を失っていた。瑛心を玩具として見る。気に入れば奪い、飽きれば捨て、邪魔になれば壊す。兄ではなく、一人の男として黎沈烈を見れば十分に想像できてしまう。あり得る、ではない。間違いなく、そうする。.「瑛心」沈淵は画面の向こうを見つめた。「俺が、どうして分家の当主になったのか」一度、言葉を切る。「話したことはなかったな」瑛心が、小さく首を横へ振った。隣に座るあやめと比べれば、瑛心は華美ではない。服装も。化粧も。所作も。名家の娘としては、どこか素朴に見える。けれど、沈淵が欲しかったのはまさにそれだった。気を張らずにいられる場所。言葉を選ばなくてもい
last updateLast Updated : 2026-04-11
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