All Chapters of 夫と愛人に地獄に突き落とされた私を救ってくれたのは「若」と呼ばれる裏の世界の人でした: Chapter 281 - Chapter 290

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281話

「恭ちゃん、今日は保育園お休みにしよっか」 朝ご飯の時。 恭の隣に座っていた音羽は、ご飯を食べる恭に優しく話しかける。 食事の手を止めた恭は、どこか緊張した面持ちでフォークを置き、音羽の言葉に答える。 「……昨日の、事。警察に、行くんです、よね……?」 恭は賢い。 昨夜、継母にされた事を警察に通報するのだろう。 これは「事件」というものに分類される、と幼い恭でも分かった。 だが、恭の言葉に音羽も、伏見もゆっくりと首を横に振る。 「……ううん、警察には行かないわ。……それよりね、私が恭ちゃんの本当のお母さんだって事、恭ちゃんは覚えてる?」 「──はい」 昨夜は恭も混乱していた。 それに、あの時は「お母さん」と呼び、縋ってくれたが一夜明けて冷静になったら、恭はどう思うだろうか。 自分を「母親」だと本当に認めてくれているだろうか。 そんな不安が、音羽にはあった。 だが、そんな音羽の不安を吹き飛ばすように恭は昨夜の事をしっかり覚えていて、そして力強く頷いてくれた。 嫌がる素振りも、気まずそうな素振りも恭には何一つとして見えない。 その事実にほっとした音羽は、恭の手を優しく握った。 恭も、音羽の柔らかくて温かい手をきゅっと握り返す。 それに勇気付けられたように、音羽はすうっと息を吸い込み、ゆっくり、だけどしっかりと話した。 「……あのね、恭ちゃん。今まで理由があって、恭ちゃんに私が本当のお母さんだよって言えなかったの……。だけどね、恭ちゃんが辛い状況の中にいるなら、お母さんは恭ちゃんが辛い思いをしないで済むようにしたい。……恭ちゃんが良ければ、恭ちゃんがいいって言ってくれるなら、お母さんと、お父さんと……飯野さんと一緒に暮らしたいな、と思っているの」 「お母さん、お父さん……それに、飯野さんと……?」 「ええ、そうよ。もし恭ちゃんが嫌じゃなかったらね?」 音羽の言葉を聞いた恭は、最初はぽかん、としていた。 だが、じわじわと言われた事を実感してきたのだろう。 頬が紅潮し、興奮しているのが分かる。 そして、期待に満ちた瞳を音羽に向けると嬉しそうに答えた。 「ぼ、僕っ、一緒に暮らしたいっ!お母さんと、お父さん、飯野さんと一緒に暮らしたいですっ!」 「──本当!?」 「はいっ!ぼ、ぼくっ、あのお家に帰るのは、もう嫌ですっ、
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282話

朝食を食べ終え、弁護士に恭の親権について相談しに行くための準備をしている時。 音羽と恭が部屋で着替えをしていると、少し前に電話がかかってきて部屋を出て行った伏見が戻ってきた。 「──音羽」 「蓮夜?電話は終わったんですか?」 障子を開け、部屋に入って来た伏見がスマホを片手頷いた。 「ああ。どうやら向こうが来てくれるらしい。着替えが済んだら母屋に行こう」 「──えっ、弁護士さんが?」 「ああ。うちとは付き合いの長い弁護士だ。多方面に強い弁護士で、今回の件もそのままそいつが引き受けてくれるようになったよ」 「良かった……。玉櫛ホールディングスお抱えの法務チームは、凄く強いんです。大丈夫そうですかね……?」 「ああ、大丈夫だろう。自信満々だったよ」 軽く肩を竦め、笑って答える伏見に音羽もほっと安堵する。 不思議と、伏見に「大丈夫だ」と言われると安心感が強い。 不安を感じる事なく、伏見の言葉にすんなりと頷く事が出来る。 音羽と伏見2人の会話を聞いていた恭は、着替え終わったのか音羽の手を握り、大きな瞳で見上げて来た。 「法律の人の所には、行かないんですか?」 恭の質問に、音羽はしゃがんで視線を合わせると、柔らかく笑った。 「うん、そうよ恭ちゃん。法律の人がこっちに来てくれるんですって。じいじとばあばの居る所でお話をする事になっているから、準備が済んだらあっちに行こうか?」 「はい!」 恭は嬉しそうにキラキラと表情を輝かせ、頷く。 昨夜、恐ろしい経験をしたというのに恭はそんな雰囲気を微塵も出さない。 きっと音羽や伏見にこれ以上心配をかけないように、と子供心ながらに考えているのだろう。 そんな恭のいじらしさに、音羽は胸がつきりと痛む。 もっと感情を顕にしてもいいのに。 (──だけど、恭ちゃんと初めて会った時に比べて、良く笑ってくれるようになったし、表情も変わったわ……。焦りは禁物ね) 恭には、今まで辛かった分これからは幸せな日々を過ごして欲しい。 音羽は、そう願わずにはいられなかった。 ◇ 数時間後。 母屋で伏見の両親、飯野、そして恭の4人が遊んでいる所を音羽と伏見は見守っていた。 恭が遊び疲れ、目を擦り始めた頃。 大広間に組員がやって来た。 「──親父に、若。お見えです」 恭が怖がらないよう、強面ではないスーツ
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283話

「わざわざ来てもらってすまない」 伏見はやって来た成寺に手を差し出すと、成寺がしっかりと握り返す。 そして、柔らかな笑みを浮かべつつ言葉を返した。 「いえ、とんでもない。昨日、若からご連絡をいただき、経緯を聞きました。こちらでも調べた結果、恐らくご希望通りに行くかと思います」 そのお話をしましょう、そう言って微笑む成寺に、音羽は驚いたように伏見に目を向けた。 まさか、昨夜の内に既に弁護士である成寺に事情を説明してくれていたなんて──。 音羽の視線を受け、伏見は笑みを返すと成寺に座るように促した。 「──恭、眠くて辛いだろうが……成寺おじさんの質問に答えてやってくれるか?」 伏見が目を擦っている恭に優しく話しかける。 「はい」と小さく頷いた恭の頭を撫でてやった伏見は、音羽に顔を向けた。 「音羽、恭を抱っこしてやってくれ。音羽の腕に抱かれている方が恭も安心するだろう」 「ええ、分かりました。恭ちゃん、お母さんの膝においで」 伏見の隣に座った音羽が手招きをする。 恭は嬉しそうに頬を綻ばせ、音羽に駆け寄るとそのまま膝に座った。 音羽はそのまま恭の小さな体をぎゅっと後ろから抱きしめる。 音羽に抱きしめられて安心したのだろう。 恭の体から緊張からか、強ばっていた気配が消え、音羽に背中を預ける。 音羽は恭のお腹の前で交錯させた自分の手のひらで、恭のお腹を優しくぽんぽん、と叩いてやる。 どこからどう見ても、仲睦まじい母子の姿だ。 その様子を微笑ましく見つめていた成寺だったが、小さく息を吐き出すと表情を引き締めた。 「──さて。僕には辛い事を聞くかもしれないし、うろ覚えの部分もあるかもしれない。だけど、出来るだけ思い出して、おじさんに教えて欲しい」 「わ、分かりました」 成寺が真剣な表情に変わった。 その事に気がついた恭も、緊張したように表情を強ばらせる。 だが、成寺の言葉にしっかりと頷いた恭に、成寺は「賢い子だ」と笑って頷いてから、質問を始めた──。 ◇ 成寺の質問は、長かった。 恭が受け答えする様を、ボイスレコーダーでしっかりと録音していた。 恭が思い出すのに時間がかかっても、成寺は決して焦らず、また恭を急かす事なくゆっくり待ってくれた。 その甲斐があり、恭本人から聞かなければならない事柄を、成寺は全て聞けたようだ。
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284話

緊張が解かれたのだろうか。 恭は成寺との話が終わるなり、一気に力が抜けたように船を漕ぎ始める。 「──音羽、恭を親父とお袋に見てもらってくれ。成寺との話はまだ続く」 「分かりました、お父様とお母様の所へ行ってきますね」 「ああ。頼む」 こくり、と頷いた伏見に音羽も頷き返し、眠ってしまった恭をしっかり抱き直して立ち上がる。 少し離れた場所で見守ってくれていた伏見の父親と母親が音羽に歩み寄る。 そして音羽の腕の中ですやすやと眠る恭に視線を落とし、柔らかい笑みを浮かべた。 「恭ちゃんは私たちが見ているから、しっかり話をしておいで」 「──ありがとうございます、お母様」 「恭の親権は問題なく取れるよ、そう気負う事はない」 「はい、お父様」 伏見の母親、父親に順番に声をかけられ励まされる。 音羽から恭を受け取った2人は、話の邪魔をしたら悪いから、と告げて部屋を出て行った。 恐らく、眠ってしまった恭を別の部屋に寝かせてくれて、そのまま2人が恭を見てくれるのだろう。 音羽は2人の気遣いに素直に甘える事にして、振り返った。 伏見、成寺は真剣な表情で話をしている。 時折成寺が飯野に話しかけ、飯野が質問に答えている。 飯野の返答もしっかりとボイスレコーダーに録音しているらしく、ある程度飯野の話を聞き終えると成寺が「ありがとうございました」と言って微笑んだ。 「昨夜の件については、当事者2人の話を聞けました。お疲れでしょうから休んでください」 成寺の言葉に、飯野は伏見をちらりと窺う。 伏見が頷いたのを見て、飯野はその場から立ち上がった。 「ありがとうございます。どうか坊っちゃまをよろしくお願いします。……私は、坊っちゃまの様子を見て参りますね」 「ありがとうございます、飯野さん。恭ちゃんをよろしくお願いします」 「お任せください、奥様」 音羽の言葉に、飯野は笑顔で頷き、そのまま部屋から出て行った。 室内に残ったのは、音羽と伏見、そして弁護士の成寺の3人だけ。 室内にしん、と静寂が戻り、音羽は緊張がぶり返してくるのを感じた。 そんな音羽を、座っていた伏見が手招く。 自分の隣においで、と言うように手招かれた音羽は、大人しく伏見の方へ歩いて行った。 「──本題はここからだ、音羽。座ってくれ」 「……本題」 伏見の言葉をオウム返
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285話

「以前、若からご連絡をいただき、調査をしておりました」 「蓮夜から、ですか?」 「ええ、そうです。まずはこちらをご覧ください」 成寺が、取り出した書類の束を音羽に手渡す。 書類を受け取った音羽は、伏見に体を寄せて書類を2人で覗き込むようにして見た。 伏見も音羽に体を寄せていたので、2人の肩が触れ合う。 音羽と伏見、2人は近い距離で書類を見ていたが、内容を確認した伏見がぱっと顔を上げた。 そして、同じく書類の内容を確認していた音羽は、驚いたように口を開く。 「──これ、玉櫛ホールディングスの資金の流れ、ですか?」 どうして、そんな物を調べていたのか。 音羽が唖然としたまま成寺に視線を向ける。 音羽とは裏腹に、隣に座っていた伏見は口角を上げ、成寺を強い視線で射抜き、そして口を開く。 「この資料……俺が踏んだ通りか?」 伏見の低い声に、成寺は肯定も否定もせず、言葉を返す。 「この資料だけでは証拠として弱いです。刑事罰を受けさせるには至りません」 「構わない。……だが、揺さぶれるくらい強いカードだ」 「そうですね。資金の流れが怪しい。それだけで、あれくらいの企業相手にはかなり有利です。確実な証拠は掴んでいませんが、揺さぶって崩すならば有効です」 「そうだな。それに関してはこちらの得意分野だ。短い期間でここまで調べてくれた事、感謝する。あとは……こっちでやろう」 「──承知しました、若」 2人の話を隣で聞いていた音羽には、何が何だか分からなかった。 (待って……この資料……、そんなに資金の流れが不自然、なの……?) 音羽はもう一度資料に視線を落とし、内容を確認する。 だが、専門的な知識の無い音羽からしたら、どこがどう怪しいのか、全くもって分からなかった。 困ったように眉を下げつつ音羽が伏見を見上げると、視線に気がついた伏見が微笑んだ。 「……玉櫛ホールディングス、玉櫛 裕衣が新しい会社を設立した。……それが、このグラフだ。資金の流れはこれ、だな」 ここまでは分かるか? そう優しく話してくれる伏見に、音羽は頷く。 伏見の言う通り、確かに資料には裕衣が設立した会社の名称、そして資本金や初期投資など、細かい数字がつらつらと記載されていた。 伏見は、資料を指さしながら尚も続ける。 「そして、恐らくこれが隠し資金だ。……玉櫛
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286話

「この資金流用について、関わっているのは玉櫛 裕衣のみか?」 伏見が成寺に視線を向けつつ聞くと、成寺は頷いた。 「はい、恐らく単独です。夫であり、本社の代表取締役社長の玉櫛 樹は知らないかと」 「だが、妻が犯罪に手を染めているんだ。お咎めなし、とはいかないだろうな」 「ええ、若の仰る通りですね」 お咎め──。 伏見が口にした言葉に、音羽は彼を見やる。 警察には届けない、とは言っていたが法の裁きを受けさせるつもりなのだろうか。 そんな疑問が、表情に出ていたのだろう。 伏見はふっ、と笑うと音羽の頬を軽く撫でた。 「正攻法では行かない。これらは証拠として使えないからな」 「えっ、どうして──」 そこまで口にして、音羽ははっとする。 正攻法ではいかない。 証拠としては使えない。 その事から、恐らくこれらの情報は裏の仕事で手に入れたのだろう。 そうなれば、確かに伏見の言う通り、正規の手順に則って罰を受けさせるのは難しい。 ならば、一体どうやって。 音羽は伏見の手を握り、問う。 「じゃあ、どうやって罰を受けさせるんですか?」 音羽の言葉に、伏見はにんまりと笑みを浮かべ答える。 「俺たちの得意分野だ。直接お話に行くのさ」 ◇ 成寺との話が終わり、恭を迎えに行こうとしたら恭は伏見の両親と遊び疲れ、お昼寝をしているようだった。 すうすう、と安心しきった表情で眠っている恭を起こしてしまうのは可哀想。 そう判断した音羽は、伏見の両親と飯野に恭を任せ、1度離れに戻ってきた。 リビングの椅子に座り、今後の事について伏見と話していると、音羽のスマホが震えた。 「──誰だろう?」 「……宛先は?確認してみた方がいい」 音羽が出所して、律子のもとに身を寄せ、伏見の世話になって。 その間、知り合いや昔の知人、友人達からの連絡は一切無かった。 かつての知り合いとは縁を切り、連絡先も変えている。 音羽には両親もいないため、滅多にスマホに連絡が来る事は無い。 つい最近増えた知り合いと言えば、恭繋がりで出会った保育園の母親くらい。 だが、彼女らから連絡が来た事は数える程度しかなく、このタイミングで連絡が来る事は無いだろう。 じゃあ、一体誰なのか──。 不思議に思いつつ、音羽はスマホを開く。 隣に座っている伏見も音羽のスマホ画面を見
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287話

「──はっ、こんな連絡をしてくるなんていい度胸だ」 伏見の低く、重い声が落ちる。 その声音には怒りが滲んでおり、伏見が怒るのも尤もだ。 樹からのメッセージは、簡潔。 【恭を返せ。誘拐されたと通報するぞ】 そう、命令口調で書かれていた。 返信した方がいいのか、返信にはどんな文章を?と音羽が伏見を見上げると、隣に座っていた伏見は深く腰掛け直し、さらりと答えた。 「無視しておけば良い。警察に通報されたら困るのはあっちだ」 「た、確かに……そうですね」 「ああ。ただの脅しだ。放っておいていい」 伏見がそう言うなら放っておこう。 分かりました、と答えた音羽がスマホを再びテーブルに置く。 暫く2人でまったりと過ごしていると、再び音羽のスマホが震えた。 今度は2度、3度と震えた事から、メッセージが連続で送られて来たのだと分かる。 「……蓮夜、確認しますね」 「ああ」 アイスコーヒーのグラスに口を付けた伏見が、頷く。 音羽は再びスマホを手に取り、メッセージを確認した。 思っていた通りメッセージは樹からで、音羽が無視した事に腹を立てたのだろう。 先程よりも乱暴な口調で文章が送られている。 1通目は先程と同じようなメッセージ。 そして、2通目は少し口調を和らげ、会う事を提案された。 「──へえ」 先程と同じように音羽のスマホを覗き込んでいた伏見が感心したように呟く。 「どうしたんですか?」 それに不思議そうに音羽が問いかけると、伏見はなんて事ないように答えた。 「いや、流石に大企業の社長だけあって、上手いな、と思っただけだ。最初は強い口調でメッセージを送っておきつつ、2通目にはその事を恥じるような文言と、軽い謝罪。相手に誠意を見せているように見せる手口だ」 「──そうなんですね!」 「ああ。それで、柔らかい口調で提案しているだろう。しかも、子供である恭のこれからを憂うような文章だ。音羽の性格を分かりきっているからこそ、こんな文章でメッセージを送ったんだろうな」 「なるほど……」 「まあ、だが今の音羽はもう昔の音羽じゃない。そこを見誤っている時点でこいつは駄目だな」 ふん、と小馬鹿にするように鼻で笑う伏見。 そんな伏見を横目で見ていた音羽は、改めて樹から送られてきた文章に目を通す。 伏見が言う通り、確かに昔の自分だった
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288話

◇ スマホが通知を知らせ、震える。 送り主の名前を見た瞬間、その男──玉櫛 樹は口端をにぃっと釣り上げた。 「──音羽が来る、そうだ」 樹は話しかけると同時、後方に視線を向ける。 すると、視線を向けた先にいた裕衣は気まずそうにちらり、と樹に目を向けた。 だが、一瞬で顔を逸らすと「そう」と答える。 「やって来るのは音羽と……もしかしたら伏見も来るかもしれないな」 スマホを片手で遊んでいた樹は、興味無さそうに続けた。 「もし伏見が音羽と一緒に着いて来たら、伏見はお前に任せる。得意の誘惑で伏見を音羽から離せ」 「ゆ、誘惑ですって!?」 「ああ。お前は男を誑かすのが得意だろう?俺を誑かしたように伏見も誑かせ」 「た、樹……っ!」 裕衣は、まさか自分の夫から他の男を誑かせなんて言われるとは思わなかった。 しかも、誑かすのが得意だろう、なんて言葉は完全な侮辱だ。 裕衣は怒りで顔を真っ赤にしながら樹に言い返す。 「わ、私が樹以外を誑かすなんて……!それに男性を誑かせるのが得意だなんて、そんな酷い事を言わないでよ!」 「……本当の事だろう。お前、何度かパーティーで伏見を見た時に釘付けになっていた。伏見の顔、お前の好みだろう。余計な事ばかりして俺に迷惑をかけているんだ。たまには俺の役に立て」 「ひ、酷い事を言わないで樹──」 「あの時お前に誑かされ、お前を選んでしまった事を最近は後悔しているよ。……もし、音羽を裏切らずに俺の隣にいたら……。そうしたら、恭はお前に殺されかけず、音羽も俺の隣にいた」 「な、何を今更……!音羽を捨てて私を取ったのは樹じゃない!」 「ああ。だから、今は後悔していると言っているんだよ」 何度も言わせるな。 そう、吐き捨てるように告げる樹に、裕衣は悔しさで唇を噛み締めた。 樹は元々女癖が悪い。 あの頃は確かに音羽より自分を選んでくれていた。 秘書としてやって来た時。 樹の目には、社会人として初めて働く裕衣がとても初々しく映ったのだろう。 社長秘書として重宝してくれたし、目をかけてくれていた。 だからこそ、当時は裕衣のお願いを樹は最優先で聞いてくれたし、裕衣が窮地に陥った時に真っ先に助けてくれた。 例え、自分の妻にその罪を着せようとも、当時は裕衣が樹の「1番のお気に入り」だからだ。 だが、音羽が捕ま
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289話

恨みの籠った目を樹に向けると、ちょうど裕衣を見た樹とバチッと視線が合った。 その瞬間、樹の眉間に不快感を顕にした皺がくっきりと深く刻まれる。 「……何だ、その目は。俺は俺の子供を産んだ音羽を捨てて、お前の言う通り離婚してやっただろう。その俺に感謝せず、息子である恭に危害を加え、俺にそんな目を向けるとは、お前はいったい何様のつもりだ?」 「……わ、私が何をしたって言うのよ!音羽との離婚だって、私は助言しただけじゃない!お願いなんてしていないわ!助言したのは確かに私だけど、離婚を決断したのは樹じゃないのよ!」 「音羽の人生はもう終わりだ、とお前が俺を唆したからだろう!それに、お前が勝手に恭に本当の母親は死んだと嘘を教えた!お前がそんな事をしなければ──」 「しなければ何だって言うのよ!?本当の母親が生きていると知ったらどうだって言うの!?樹、まさかあんたほとぼりが冷めるたら、音羽を自分の手元に置くつもりだったなんて言わないでしょうね!?」 「──っ、お前には関係ない事だ!俺と音羽の子供の事に、無関係のお前が口を挟むな!」 「た、樹あんた──!」 樹と裕衣、2人の口論はどんどん激しさを増して行く。 リビングでそんな話をしているからか、使用人の耳にもしっかりと入ってしまっているのだ。 使用人達は、こそこそと小声で言葉を交わし合う。 ──旦那様、ここ最近は心ここに在らず、といった様子だったわよね。 ──ええ。何でも、パーティーで元奥様と再会してから、自分の側近に元奥様の事を調べさせていたとか。 ──いまさら捨てた元奥様の事が惜しくなったのかしら? ──そうじゃない?元奥様、すっごく綺麗だもの。今の奥様は、以前は若々しくてお綺麗だったけど……やっぱり年々美しさが劣化していない? ──お化粧でどんなに綺麗に整えても、元々の素材が良くないとねぇ…… ──その点、元奥様は元々お美しい方だもの。若い時は可愛らしい雰囲気だったけど、お子様を産んで、女性の色気?って言うの? ──そうそう!美しさも年々上がっているものねぇ ──そんな元奥様を捨ててしまって、旦那様が後悔するのも分かるわよね 使用人の女性達は、そんな話をヒソヒソ、クスクスと笑いながら話している。 実の所、使用人達は裕衣の事が嫌いなのだ。 使用人、と彼女、彼らを見下し、不遜な態度を取
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290話

ピンポン、と軽快な音が響く。 だが、口論をしている樹と裕衣の耳には来客のチャイムなど届いておらず、使用人の1人が慌てて対応した。 ◇ 「それに、お前は──!」 「何よ、樹あんたこそ──!」 樹と裕衣が口論しているリビング。 そこに、躊躇いつつやってきた使用人が樹に声をかけた。 「だ、旦那様。ご来客です」 使用人の声が聞こえた瞬間、樹と裕衣の口論がぴたり、と止む。 樹は使用人に顔を向け「誰だ」と聞き、裕衣は「追い返して!」と声を荒らげる。 困ったように眉を下げつつ、使用人は樹に向かって答える。 「そ、その……伏見、と名乗るご夫婦がいらっしゃっています……」 「──夫婦」 はっ、と鼻で笑い、不快感を顕にした樹は、裕衣には一瞥もくれずに「分かった」と答え、リビングを出て行こうと歩き出す。 「来客用の応接室に通せ。先に向かう」 「かしこまりました」 「ちょ、ちょっと樹!」 樹は使用人にそれだけを告げると、すたすたと歩いて行ってしまう。 裕衣は憤慨した様子で、その背を追う。 使用人は小さく溜息を吐き出してから、客を案内するために玄関に向かった。 ◇ 「……凄い言い合いだったな。外まで響いていた」 「ええ。あの声は玉櫛 樹と裕衣でしたね」 その時。 外で待っていた音羽と伏見は、外まで丸聞こえになっていた夫婦喧嘩を揶揄っていた。 「俺たちが喧嘩をしたとしても、声を荒げずに落ち着いて話し合おうな」 「ふふっ、喧嘩になんてなるでしょうか?蓮夜はいつも優しいから……」 「それは分か
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