All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 231 - Chapter 240

240 Chapters

第231話

瞳は今日、本来そのことを咲夜に話すつもりだったのだ。危うく忘れるところだった。それを聞いた咲夜の顔にぱっと笑みが広がる。「瞳って本当に私の福の神だね!」こちらから送った友だち追加は完全に音沙汰なしで、相手は見向きもしない状態だった。もともと咲夜は、今は詩乃もチームを率いて会社に加わったことだし、「千野千鶴」が見つからなければ、ひとまず保留にしてもいいと考えていた。以前は焦っていた。ファッションショーの開催が目前に迫っているにもかかわらず、手元にはデザイン画すらなかったのだから。特に、ショーのトリを飾る目玉作品についてはなおさらだ。詩乃の加入によって、その差し迫った問題はひとまず解決された。それでも咲夜は、もう一度「千野千鶴」を探してみたいと思っていた。もし彼が花江グループに加わってくれるなら、それに越したことはない。今の会社には新しい風が必要だった。瞳は気にした様子もなく手をひらひらと振る。「そんなに好きにならなくていいって。大したことじゃないし。じゃあ、早く休んでね」そう言って咲夜に早めの就寝を促すと、そのまま二階の部屋に戻っていった。軽やかに跳ねるような足取りで去っていく瞳の背中を見送りながら、咲夜は思わず苦笑する。本当に、あの子は感情の切り替えが早い。咲夜はスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。そこには大量の友だち追加通知が並んでいる。すべて琉安からだった。今夜の彼はどうかしてしまったかのように、執拗に瞳を探しているようだった。メッセージは送れず、電話もつながらない。その時点で、琉安は自分が瞳にブロックされたことに気づいた。仕方なく、咲夜の連絡先を探し出した。瞳と咲夜の仲が良いことは知っていたからだ。だがまさか、咲夜にも電話番号をブロックされていたとは。その時、新しい友だち追加通知が届く。【花江さん、どうか友だち追加申請を承認してください。瞳と連絡が取れなくて、本当に心配なんです。お願いです、承認してください】その内容を一瞥した咲夜は、そのまま画面を閉じた。琉安が瞳に何の用があるのか、興味はない。だが、彼のやり方には強い嫌悪感を覚えていた。両家からの圧力に耐えられず別れを切り出したのは彼の方だった。それなのに今もなお、友人と
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第232話

メッセージを見た咲夜は、スマートフォンを手にしたままウォークインクローゼットに向かった。外出に適したスポーツウェアに着替えると、そっと部屋のドアを開ける。家の中は静まり返っていた。詩乃も瞳も、すでに眠っているのだろう。咲夜は足音を忍ばせながら階段を下りた。少しでも物音を立てて、二人を起こしてしまわないように。ガレージに着くと、一台のカスタム仕様の黒いバイクの前で立ち止まる。ヘルメットを被り、乗り込もうとしたその時――「こんな時間に、どこに行くんだ?」突然聞こえた声に、咲夜の心臓が跳ねた。慌てて顔を上げると、いつの間に来たのか、そこには千暁がいた。咲夜のガレージは、ちょうど千暁の家と隣接している。よく見ると、彼の髪には数枚の落ち葉が引っかかっていた。咲夜は目を見開く。「……まさか、塀を乗り越えてきたの?」どう見ても、自宅側のフェンスを越え、こちらの敷地に入り込んだとしか思えない。天下の荻野家の御曹司が、深夜に隣家の塀をよじ登るなど。そんな話が広まれば、イメージに関わるどころの騒ぎではない。それ以上に、千暁がそんならしくない行動を取ったこと自体が信じられなかった。図星を突かれた千暁は一瞬表情を強張らせる。「ち、違う。ちゃんと正面から来たんだ」咳払いをしながら反論した。何があっても、塀を越えてきたなど認めるわけにはいかない。千暁はずっと、咲夜からの返信を待っていた。だが、いつまで経っても返事は来ない。瞳から、咲夜たちが夕食を済ませて無事帰宅したと聞き、仕事を片付けた彼も家に戻ってきた。彼の主寝室のバルコニーは、ちょうど咲夜の寝室側を向いている。二棟の屋敷の間にはそれなりの距離があるものの、その気になれば向こうの様子をある程度確認できた。咲夜は寝る直前まで厚手のカーテンを閉めない。時折、窓辺を通る彼女の影がカーテン越しに映ることもある。だから千暁は、ずっと咲夜の様子を気にかけていた。そしてガレージの灯りが点いたのを見た瞬間、こんな深夜に出かけるつもりだと察した。正面から回っていては間に合わない。そう判断した結果が、塀越えだった。咲夜が車ではなくバイクに乗ろうとしているのを見て、千暁はついに声を上げた。彼女がバイクに乗ることは知っている。だが
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第233話

「どこへ行くんだ?」千暁は咲夜の耳元に顔を寄せ、エンジン音に負けないよう声を張り上げた。こんな深夜に、本当にただのツーリングに付き合わされているとは思えない。咲夜も負けじと大声で返す。「ストレス発散!」その答えを聞いた千暁は、それ以上何も聞かなかった。ただ咲夜に身を任せ、夜の街を駆け抜けていく。やがてバイクは一本の裏路地で停止した。咲夜はヘルメットを外し、風で乱れた長い髪をかき上げる。「着いたよ」千暁もバイクから降り、ヘルメットを後部座席に置いた。周囲を見回すが、ここがどこなのかまるで分からない。路地を照らしているのは薄暗い街灯だけ。辺りは陰気な空気に包まれ、鼻をつく生ゴミの臭いまで漂っている。遠くからは音楽も聞こえてくる。どうやらどこかのナイトクラブかバーの裏手らしい。咲夜はバイクにもたれながら、ほどけた髪を手早く高い位置でポニーテールにまとめた。そして千暁のもとに歩み寄ると、自然な仕草で彼の手を取る。「こっち」と言って、そのまま暗闇の奥へと進み始めた。千暁は繋がれた手を見下ろし、思わず口元を緩める。何も言わず、その後をついていく。二人の姿は夜の闇へと溶け込んでいった。しばらく歩いたところで、咲夜はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送信する。千暁は横目でスマートフォンの画面を覗いた。そこに表示されていたメッセージは、たった【着いた】一言だけだった。送信後、咲夜はスマホをポケットにしまう。何を企んでいるのか分からない。だが千暁は黙って彼女の隣に立っていた。しばらくすると、静寂を破るように――ガシャン!鉄扉の開く重い音が響いた。続いて、一人の男がふらふらと外に出てくる。酔っているのか、足元はおぼつかない。その姿を見た千暁は目を細めた。――おや。晴南じゃないか。反射的に咲夜に視線を向ける。まさか、彼女は晴南のためにここまで来たのか?そう思った瞬間、胸の奥に嫌な感情がむくむくと湧き上がる。晴南はかなり飲んでいるらしい。前かがみになりながら壁に手をつき、今にも吐きそうな様子でえずいている。千暁が勝手に嫉妬しているその時だった。いつの間に用意していたのか。咲夜の手には大きな麻袋が握られていた。そして彼女は晴南の
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第234話

今度は千暁がバイクを走らせ、咲夜を乗せて夜の街に飛び出した。だが、そのスピードは決して速くない。後ろに座る咲夜は不満そうに彼の肩をつつく。「遅すぎない?もっとスピード出してよ。アクセル全開、ぶっ飛ばして!」状況が許すなら、今すぐ彼を後ろに追いやって自分で運転したいくらいだった。その言葉を聞いた千暁は、黙ってスロットルをひねる。次の瞬間、バイクは矢のように加速した。「きゃっ!」咲夜の体が勢いよく千暁の背中にぶつかる。反射的に両腕を伸ばし、彼の腰にしがみついた。さっきの衝撃で鼻まで痛くなり、涙が滲みそうになる。――よかった。整形してなくて。もし整形だったら、今のでシリコンが飛び出していたかもしれない。鼻先に残る痛みを誤魔化すように、咲夜はそのまま顔を彼の背中に埋めた。そして数回、こすりつけるように鼻を擦る。その瞬間、千暁の体がぴくりと強張った。咲夜が抱きついた時点で固まっていたのに、その仕草でさらに緊張が増したらしい。だが当の本人は全く気づいていない。ただ、今こうして抱きついていると、体のどこもかしこもやたらと硬いなあ、と思うだけだった。思わず片手を動かし、千暁の腹筋を軽く二度ほど押していた。だが次の瞬間、自分のしていることに気づく。「……」気まずそうに指を引っ込めた。そして先ほど二人で晴南を散々叩きのめした光景を思い出し、思わず吹き出した。「ふふっ……」そして気分が高揚したのか、両腕を大きく広げて歓声を上げた。千暁は咲夜が体を離した瞬間、すぐに速度を落とした。「どこに行く?」彼は低い声で尋ねる。「家に帰るか?」咲夜は彼の後頭部を軽く叩いた。「帰らない。せっかく『疾風』を引っ張り出してきたんだから、思う存分走らせてからじゃないともったいないでしょ」彼女の愛車の名前を聞き、千暁は小さく笑う。二人を乗せたバイクは夜風を切り裂きながら走り続ける。やがて市街地から大きく離れた海辺に辿り着いた。咲夜がバイクから降りる。手にはビールとスナック菓子が入った袋。途中で見つけた二十四時間営業のコンビニで買ったものだ。千暁はバイクを停めると、咲夜の後を追う。彼女はすでに海沿いのガードレールに腰掛けていた。目の前には広い砂浜。その先には果てしなく続く海。
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第235話

静香への嫌がらせや青音への対処はともかく、当事者である晴南だけが何事もなかったかのように済まされるなんて、咲夜には納得できなかった。正直、さっきの袋叩きだってまだ甘いくらいだと思っている。千暁は眉をわずかに上げた。「今日、何かされたのか?」そういえば瞳が、晴南と遭遇した時に咲夜が盛大に啖呵を切ったと言っていた気がする。その時はあまり気に留めていなかった。だが今の様子を見る限り、今夜は相当腹に据えかねることがあったらしい。咲夜は鼻で笑った。「まともな元カレなら、死んだみたいに存在感消しててほしいのよ。それなのにあいつ、自分に酔った後悔男の茶番を延々と演じてるんだから。本当に気持ち悪い。何度言っても聞かないし、罵っても消えないし。犬の方がよっぽど人の言葉を理解できるわよ」本音を言えば、「犬に例えること自体、犬に失礼だ」とすら思っていた。咲夜の話を聞いた千暁の目がわずかに細められる。その瞳の奥を、冷たい光がよぎった。――やはり殴り足りなかったか。もっと本気でやっておくべきだった。咲夜は苛立たしげに口を開いた。「それにね、あのクズ、本当に反省してるわけじゃないの。笑っちゃうでしょ?全部風一おじいさんへのアピールよ。おじいさんの持ってる株を手に入れたいだけ。私と付き合ったのだって、結局は株目当てだったしね。森崎家の計算高さには本当に感心するわ」そう言ってから、彼女は千暁に顔を向けた。「ねえ、どうして森崎英樹があんな回りくどいやり方で花江グループに介入してきたと思う?買収しようと思えばできたはずなのに。それは、もし森崎グループが花江グループを丸ごと飲み込めば、風一おじいさんにも知られることになるから。森崎英樹は花江グループを利用して裏でいろんな汚いことをしてたの。何か問題が起きたら花江グループに責任を押し付けて、自分だけ逃げるつもりだった」だが、その計画は失敗した。咲夜が裏で興一の足を引っ張り続けたからだ。英樹が本格的に動く前に、問題の芽を一つずつ潰していた。千暁は静かに耳を傾ける。時折横目で咲夜を見ながら、ただ彼女の言葉を受け止めていた。咲夜はさらに続ける。「森崎家の連中って、本気で私をバカだと思ってたのよ。私と晴南が結婚しさえすれば、花江グループなんて簡単に手
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第236話

咲夜の言葉を聞いた千暁は、思わず笑みをこぼした。そう考えると、森崎家は今まで咲夜のことを思いどおりに操れていると思い込んでいたのだろう。だが実際には、咲夜はずっと「弱いふり」をして本心を隠し続けていた。森崎家の連中がこれまで見せていたあの醜い態度を思い出した。もし今の咲夜の本音を知ったら、きっと悔しさのあまり気を失うに違いない。千暁はそんなことを考えながら、隣にいる咲夜を静かに見つめた。その瞳には、かすかな痛ましさが浮かんでいる。自分の視線に気づいたのか、彼女は俯いたまま酒を口に運んだ。どこか逃げるようなその態度を見て、千暁は胸の内を打ち明ける。「俺が好きだと言ったのは、その場の勢いなんかじゃない。咲夜、もし受け入れられないとしても、俺を避けたりしないでほしい。君を困らせるつもりはないんだ」ついに彼は、あの日の告白について本人の前で切り出した。正直なところ、今日一日ずっと咲夜からの返事を待っていた。だが彼女は何も言わないまま。そのせいで、千暁の心にも少なからず焦りが生まれていた。咲夜は小さくため息をつく。――やっぱり、この話になるよね。千暁の視線を受けながら、彼女は小声で答えた。「あなたが恋愛を軽く考える人じゃないってことは分かってる」これまで何年もの間、一度たりとも女性関係の噂が出たことがない。それだけでも、彼がいい加減な人間ではないことは十分伝わっていた。そして彼の告白が本気だったことも、咲夜は信じている。少し考えてから、彼女は続けた。「あなたに告白されて、すごく自信が持てたの。少なくとも、世間で言われているほど私はダメな人間じゃないんだなって思えた。だって、あなたみたいな素敵な人が私を好きになってくれたんだから。きっと私にも、それなりの価値があるんだろうなって」「むしろ感謝してるくらい」咲夜は笑顔のまま千暁を見つめた。「それに、別にあなたを避けるつもりなんてなかったよ」その表情は真剣だった。「告白されたってだけでしょ?別に何かひどいことをされたわけじゃないのに、なんで避けなきゃいけないの?そんな必要ないよ。本当はメッセージも返そうと思ってたの。でも仕事に追われてるうちに忘れちゃって……もしそれで変な誤解をさせたなら、ごめんなさい。本当にそんなつもりじゃなかったの」
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第237話

千暁はそこで一度言葉を切った。「ただ、自分にもひとつくらいチャンスがあっていいと思うんだ。今は新しい恋愛を始める気になれなくても構わない。でも、もしまた誰かを好きになりたいと思った時は、真っ先に俺を候補に入れてくれないか?」千暁としては、せめてその権利くらいは欲しかった。それは決して無茶な願いではないはずだ。一方の咲夜は、その言葉に胸が小さく高鳴るのを感じていた。――もう、本当にずるい。この人、どうしてこんなに言葉の選び方が上手いんだろう。もし今、自分を見つめる千暁の瞳に一片の偽りでもあったなら、きっと「駆け引きなんじゃないか」と疑っていたはずだ。だが、その眼差しにはただ真っ直ぐな誠意しかなかった。だからこそ余計に心が揺れる。咲夜は胸のざわめきを必死に押し隠しながら答えた。「その時になったら……考える」すぐに頷くことはしなかった。恋愛なんて先のことは分からない。最初から期待させて、あとで傷つけるようなことはしたくなかった。そんな彼女の考えを察したのか、千暁はふっと微笑む。「じゃあ、まずは友達からだな」そう言うと、缶ビールを持ち上げて咲夜の方に差し出した。「友情に乾杯」彼なりに、咲夜に余計なプレッシャーを与えないための気遣いだった。咲夜は何も言わず微笑み、そっと缶をぶつける。二人は夜の浜辺で、静かに酒を飲み続けた。一本、また一本と空き缶が増えていく。やがて咲夜は靴を脱ぎ捨て、裸足で砂浜を歩き始めた。少し酔いが回っているのか、その足取りはどこかふらついている。千暁は黙って後ろからついていった。視線はずっと彼女を追い続けている。咲夜は砂浜を駆けたり跳ねたりしながら、楽しそうに笑っていた。その弾むような笑い声を聞いているだけで、千暁の口元も自然と緩む。結局、その笑みが消えることはなかった。しばらくして、咲夜はとうとう疲れたらしい。何の前触れもなく両手を広げ、そのまま砂浜に大の字に倒れ込んだ。千暁は彼女の隣に腰を下ろす。横目で様子をうかがってから、自分も同じように寝転んだ。二人とも何も話さない。ただ静かに満天の星空を見上げていた。やがて咲夜は目を閉じる。そして、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。本人も気づいていないだろう。千暁のそばにいる
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第238話

写真の中で、咲夜は甘く柔らかな笑みを浮かべていた。そして、その隣には彼女を見つめる千暁の姿があった。千暁はその写真を眺め、満足そうに保存ボタンを押す。その様子に気づいた咲夜が、あっさりと言った。「だったら、もう何枚かツーショット撮る?」そう言うなり彼女は千暁のスマホを取り上げ、二人に向けて連写を始めた。ひとしきり撮り終えると、咲夜はスマホを返した。「あとで送ってね」そう言って彼女はアルバムを覗こうとしなかった。スマホの中身は個人的なものだ。どれだけ親しくても、勝手に見るべきではない。そのあたりの距離感はきちんとわきまえている。千暁は頷き、その場で撮った写真をすべて咲夜に送信した。もちろん、二人のツーショットも含めて。咲夜は送られてきた写真をタップして全画面表示にし、一枚ずつ眺めていった。正直なところ、千暁の写真の腕前はかなりのものだった。だがその時、彼女の指がぴたりと止まった。思わず表情が固まる。送られてきた写真の中に、一枚だけ違う写真が紛れ込んでいたのだ。それは大学の卒業式の日に撮られた写真だった。当時の咲夜は、大きなピンクのチューリップの花束を抱え、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。そして写真の隅には、小さくではあるが、千暁の姿も写っていた。咲夜は何かを思い出したように顔を上げた。「もしかして……」そして千暁を見つめる。「卒業式の日のあの花束って、あなたがくれたの?それに、卒業式にも来てたの?」咲夜は昔からチューリップが好きだった。品種を問わず、チューリップなら何でも好きだった。あの日も、その花束を当然のように晴南からの贈り物だと思い込んでいた。大事そうに胸に抱きしめて帰り、家に着いてからも丁寧に世話をしていた。だがずいぶん後になって、その花束は晴南から贈られたものではないと知る。その頃にはすでに、チューリップはドライフラワーに加工されていた。少しでも長くその美しさを残しておきたかったからだ。送り主が晴南ではなかったと知っても、咲夜は花束を捨てなかった。それほど大切な思い出になっていた。一方の千暁は、そこでようやく気づく。卒業式の写真まで一緒に送ってしまっていたことに。咲夜の視線を受け、彼は静かに頷いた。「……ああ、俺だ」
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第239話

千暁は咲夜の気持ちを察したのか、気にした様子もなく言った。「実家にはまだチューリップがたくさんあるんだ。好きなら毎日でも届けるよ」このところ咲夜のために、彼は荻野家の本邸を離れて暮らしていた。以前、本邸に住んでいた頃は、庭のチューリップはすべて自分の手で世話をしていた。水やりも剪定も、人任せにしたことはない。だが今は月見台で暮らしているため、その花々の管理は祖父母が代わりに引き受けてくれている。咲夜はくすりと笑った。「それなら今度、実際に見に行ったほうが早いんじゃない?」言い終えた瞬間、自分でも目を瞬かせる。――あれ?どうして私、こんな自然に荻野家に行きたいなんて言ったんだろう。もし向こうに歓迎されなかったらどうするのだろう。そんなことを考えている咲夜とは対照的に、千暁は内心で歓喜していた。本音を言えば、今すぐにでも咲夜を実家に連れて帰りたい。だから彼女の言葉を聞いた瞬間、迷うことなく頷いた。「もちろん。君の都合がいい時ならいつでも。家のみんなも歓迎するよ」その言葉に、今度は咲夜のほうが少し照れてしまった。「じゃあ、そのうち改めてご挨拶に伺うね」そう言いながら、ふと思い出す。以前、千暁が自分に入籍しようと持ちかけた理由。確か、家族からかなり結婚を急かされているのだった。瞳からも何度か同じ話を聞いている。そんなことを考えながら、二人は海辺を後にした。……咲夜は写真を何枚か選び、SNSに投稿した。添えた文章はシンプルだった。【海から昇る朝日。紅霞は鮮やかに空を染め、黄金の光が海と空をひとつに結ぶ。】投稿を終えると、彼女は千暁に振り返る。「帰ろうか」「うん」千暁は静かにその後を追った。月見台に戻った頃には、詩乃はすでに外出していた。瞳も出勤した後だった。その直後、千暁のスマホが鳴る。電話に出た彼は、咲夜に一声かけてから帰っていった。咲夜はソファに腰を下ろし、スマホを開く。すると投稿したばかりのSNSには、すでにコメントが並んでいた。【@シノ】【朝から姿が見えないと思ったら、日の出を見に行ってたのね。景色も綺麗だけど、咲夜さんの方がもっと綺麗よ】【@hitomi】【海行ったの!?一人で!? ……いや待って、それは絶対違うでしょ!?三枚目の写真に写ってる
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第240話

咲夜は手早くシャワーを浴びると、登山に適したスポーツウェアに着替えた。髪をお団子にまとめ、時間を確認する。階下に降りると、すでに千雪が来ていた。手には保温容器を提げている。「朝ごはんです。私が作りました」そう言って笑う千雪に、咲夜はキッチンに向かい、食器と箸を二人分用意した。千雪は保温容器の蓋を開ける。中には鶏肉の雑炊、それから肉まんが入っていた。たちまち食欲をそそる香りが広がる。咲夜は箸と器の一組を千雪に差し出した。「一緒に食べよう」急いで来たせいで、千雪もまだ朝食を済ませていなかった。「ありがとうございます」彼女は受け取ると、咲夜の向かいに腰を下ろした。温かい雑炊を口に運び、肉まんを頬張る。咲夜の顔には自然と満足そうな笑みが浮かんだ。「おいしい!やっぱり小林さんの料理、本当に上手だよね」以前にも何度か千雪の手料理を食べたことがある。そのたびに驚かされていた。思わず親指を立てて褒める。千雪は照れくさそうに笑った。もともと派手な趣味はない。外出もあまり好きではなく、家で本を読んだり料理を研究したりする時間を好んでいる。引っ越したばかりの家も、ほかの部屋は簡素な内装だったが、キッチンだけは本格的な調理器具で埋め尽くされていた。そんな千雪にとって、料理は大切な趣味のひとつだった。あまりにも褒められるものだから、千雪は少し居心地が悪そうだった。朝食を済ませると、咲夜は千雪を連れて車で白麗山に向かった。移動中、千雪が状況を報告する。「花江さん、『千野千鶴』については本当に何も情報がありません。どうやって探しましょうか?」現時点で分かっているのは、男性であることと、地元出身らしいことだけだった。それ以外はまったく不明。本気で探そうとすれば、まさに海で針を探すような話だった。白麗山は標高もそれなりに高い。さらに明覚寺は山の上に建っていた。観光用のシャトルバスも運行しているが、行けるのは中腹まで。参拝者の誠意を示すため、中腹から先は自分の足で登らなければならない。自家用車も中腹の駐車場までしか入れない。山麓から徒歩で登れば約三時間。中腹からでも二時間以上かかる。咲夜は千雪に安心させるような笑顔を向けた。「見つかっても見つからなくても気にしなく
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