身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

120 チャプター

第11話 仮面の下の契約書③

「そう言うと、たぶんあなたは嫌がる」  そこまで読まないでほしい。  しかも、だいたい当たっているのが余計に腹立たしい。  思わず律を見た。  分かっているような顔をされるのは嫌いだ。  けれど今の言葉だけは、少し違った。私が嫌がるかもしれないと考えた言い方だった。  相良さんが、机の端へ小さな箱を置いた。 「今夜だけお使いいただく携帯端末です。お持ちの携帯電話を取り上げる意図はございません。電源を切るか、番号変更を検討するかは朝霧様にお任せします」  私は箱には触れなかった。 「全部、用意がいいですね」  相良さんは、箱の角へ目を落とした。 「急な話でしたので、足りないものの方が多いかと。完璧に準備できてたら、それはそれで怖いでしょう」  淡々と返され、一瞬だけ肩の力が抜けた。  私は合意書へ視線を戻す。 「一つ、足してください」 「何でしょう」 「所有物になるつもりはありません。誰のものにも」  部屋の空気が、ほんの少し止まった。  相良さんは表情を変えなかった。けれど、ペンを持つ手だけが一拍遅れる。  律は私を見ていた。 「当然です」  やがて返ってきた声は、拍子抜けするほど短かった。 「当然なら、書く必要はないと?」 「いいえ」  律は机の上のペンを取り、合意書の余白へ一文を書き込んだ。  車椅子の肘掛けから身を乗り出す動作はゆっくりだった。けれど、ペン先は迷わない。  ――朝霧栞の意思決定、身体、財産、職業選択、交友関係を、榊律または榊家が所有・管理するものではない。  淡々とした一文だった。  それなのに、舌の付け根が詰まった。 「法務に整えさせます」 「……こんなこと、普通は書かないんじゃないですか」 「あなたが必要だと言いました」  律はそれ以上、足さなかった。  優しい言葉ではない。  でも、その一文は、さっきまでいた如月家の広間には絶対になかったものだった。 「榊さん」 「……はい。まだ今は」 「仮面は、外さないんですか」  相良さんが初めてこちらを見た。  失礼な質問だと分かっている。けれど、聞かないまま契約書を読む方が、もっと不自然だった。  律は仮面の端に触れた。 「今夜は外しません」 「理由を聞いても?」 「あなたが、疲れてるからです」 「それ、理由に
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第12話 仮面の下の契約書④

「そのつもりで渡しています」 「読みます。必要なら、外部の人にも見せます」 「そうしてください」  逃げ道を塞ぐどころか、律は選択肢を全部こちらへ返してきた。  窓の外で、庭木の影が揺れた。  相良さんが書類を透明なファイルに入れる。 「お部屋へご案内いたします。お食事は軽いものをお持ちします」 「水だけで」  反射的に言うと、律が眉を動かした。 「食べられないなら無理はさせません。少しだけ置いておきます」  相良さんが、廊下の端で控えていた使用人へ目配せした。ほどなく運ばれてきた盆には、小さなスープカップと、薄く切ったパンが一枚だけ載っている。量は、夕食というより試食に近かった。  匙は手の届く位置に置かれた。  強く勧められない方が、かえって断りにくい。  部屋の前で、相良さんが鍵を差し出した。 「内側から施錠できます。外から開ける場合は、緊急時を除き必ずお声がけいたします」  鍵は小さかった。  手のひらに乗せると、冷たい金属の重みがあった。  内側から鍵をかけられる。  それだけで、喉が熱くなった。 「ありがとうございます」  今度は、かすかな声が出た。  律は部屋の前で、こちらを見上げる。 「明日の朝、契約の続きを話しましょう。朝が無理なら、後で」 「夜まで延ばしても?」 「構いません」  拍子抜けして、少し息が漏れた。  律の目元が少し緩んだ。  見られたことが気恥ずかしく、私は鍵を握り直した。 「榊さん。どうして、そこまで待つんですか」  律の返事は、すぐには来なかった。  廊下の奥で、古い時計が小さく鳴る。 「……急かせば、あなたは断れないまま頷くと思ったからです」  鍵の角が手のひらに当たった。 「……それでも、あなたは私を探してた」 「探していました」 「それは、私を思い通りにしたかったからじゃないんですか」  言った瞬間、律の視線が止まった。  廊下の時計だけが鳴っていた。 「今は、うまく答えられません」 「明日、話します」 「また後回しですか」 「今答えると、言い訳になる」  返す言葉が見つからなかった。  去り際、律が一度だけ振り返る。 「あの雨の夜、あなたに渡せなかったものがあります」  廊下の灯りが、仮面の縁に細く落ちた。 「それも、明日お渡しし
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第13話 三年前の雨①

 朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。  廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。  目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。  天井が高い。  壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。  掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。  私はしばらく、息を殺していた。  誰かの家に泊まったのではない。  嫁いだのだ。  正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。  そのどちらも、まだ少し遠い。  ベッド脇のテーブルには、昨夜渡された鍵が置いてあった。  銀色の小さな鍵。  それだけが、この部屋に私の居場所を作ったような顔をしている。  私は指先で鍵に触れ、すぐに手を離した。  鍵一つで人は安心できない。  それくらいは、もう知っている。  身支度を整えて部屋を出ると、廊下には相良さんが立っていた。  驚かなかった。  この屋敷では、誰かがどこかに立っていても不思議ではなかった。 「おはようございます、朝霧様」 「……おはようございます」  呼び名に、ほんの少しだけ喉が引っかかる。  朝霧様。  如月でも、栞お嬢様でもない。  その響きはまだ借り物のようで、けれど昨日までよりは、わずかに息がしやすかった。 「朝食をご用意しております」 「榊さんは」 「先に書斎へ。お食事は、朝霧様がお召し上がりになった後で構わないと」 「それ、私は一人で食べればいいってことですか」  口にしてから、少しだけ言い方が硬かったと思った。  相良さんは表情を変えなかった。 「無理にご同席なさらなくても構いません、という意味でございます」 「……そうですか」  まだ、この家の言葉の温度が分からない。  突き放されているのか、気を遣われているのか。  どちらにも取れる言い方は、少し苦手だった。  案内された小さな食堂には、一人分の朝食が用意されていた。  白い皿。薄く焼かれた卵。温かいスープ。切った果物。  どれも丁寧で、よそよそしい。  私は椅子に座り、箸ではなく銀色のスプーンを手に取った。  スープの表面に、小さく湯気が立っている。  一口飲
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第14話 三年前の雨②

 廊下は昨日よりも明るい。窓から庭が見え、低く刈り込まれた植え込みの上に朝露が残っていた。  昨日は気づかなかった。外を見る余裕などなかったのだ。  書斎の扉の前で、相良さんが軽くノックする。  中から「どうぞ」と低い声がした。  律は窓際にいた。  車椅子に座ったまま、机へは向かっていない。  黒い仮面は、昨日と同じように顔の上半分を覆っている。けれど朝の光の中で見ると、その影は夜より少し薄かった。 「おはようございます」  挨拶を口にしたものの、声は少し硬かった。 「おはようございます」  挨拶だけで、距離が測られる。  昨日まで知らなかった男と、これから契約上の婚約者になる男。  どちらの距離で立てばいいのか、まだ分からない。  私は封筒を胸の前で持った。 「これは」 「あの夜、渡せなかったものです」  三年前。  その言葉を、律は口にしなかった。  それでも分かった。  封を開ける。  中には、二つ折りにされた名刺と、小さなカードが入っていた。  名刺の角は水を吸ったように少し波打っている。文字は読める。  榊律。  榊グループ。  もう一枚のカードには、宿泊支援と法律相談を行う民間窓口の連絡先が印刷されていた。  財団名のところに、榊の文字が入っている。  手の先が止まった。  雨の音が、耳の奥で蘇る。  高架下。濡れた髪。膝に貼りついたスカート。何度かけても繋がらなかった司への電話。  通り過ぎていく車の水しぶき。  その中で、視界の端に差し出された傘。  黒い傘だった。  持ち手は冷たく、少し重かった。  私は礼も言えずに受け取った。  顔を上げた時には、男はもう少し離れた場所に立っていた。  思い出した。  全部ではない。  でも、声をかけられなかったことだけは、なぜか覚えている。 「……あなた、あの時の」  言葉が途中で切れた。律は頷かず、ただ視線を落とした。 「名乗るつもりでした。これを渡して、行く場所がなければ連絡を、と」 「どうして渡さなかったんですか」  責めるつもりはなかった。  でも、声は少し尖った。  律の指が、車椅子の肘掛けに置かれている。  その手は大きく、傷跡もなく、手袋もしていない。  昨日、廊下で車椅子を動かしていた時より、指先の力が
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第15話 三年前の雨③

「そこ、否定しないんですか」 「否定すると、余計に逃げることになる」  返事が、わずかに遅れた。  笑いそうになったわけではない。  泣きそうになったわけでもない。  ただ、あの夜の自分が、三年遅れて誰かの視界に入っていたことを、どう扱えばいいのか分からなかった。 「……三年、遅いです」 「戻せません」 「今さら渡されても、私はあの夜には戻れません」  律の目が、仮面の奥でわずかに揺れた。 「戻ってほしいとは思ってません」  それは優しさに似ていた。  でも、優しさだけではない。  自分の失敗を、自分の手元に置いている人の声だった。 「では、どうして今」 「昨日、あなたが聞いたからです」 「支配じゃないのか、と?」 「そう聞かれました」  律は、机の上に置かれた書類の束へ目を落とした。  昨夜の契約書とは違う。表紙に、如月家との絶縁合意に関する確認、と印字されている。 「私が先に全部整えて、あなたに差し出したら……また同じことになります」 「如月家と?」 「形は違っても」  爪先に、知らないうちに力が入っていた。  律は私を守ろうとしている。  それでも、守るという言葉の中に、私が選べない形が混ざることを恐れている。  この人は、強い。  けれど、強いだけではない。  強いからこそ、自分の手で壊すことを知っている。 「今日、病院へ行きたいです」  私は言った。  律が顔を上げる。 「静江さんのところへ」 「もちろんです」 「榊家の人間としてじゃなく、朝霧栞として行きます」  言ってから、指先が少し震えた。  まだ慣れない名前。  でも、今口にしなければ、また誰かに先に決められる。そう思った。  律は頷いた。 「車は出します。私も行きます。病室に入るかどうかは、あなたに任せます」 「本当は、一緒に来たいんでしょう」 「したいです」 「正直ですね」 「昨夜、言い訳はしないと決めました」  私は封筒を閉じた。  名刺とカードを戻す時、紙の角が爪に当たった。  ほんの少し痛い。  その痛みで、落ち着いた。 「それと、名前のことです」  律が続けた。 「昨日の合意書とは別に、対外的な表記を朝霧栞に統一する確認書を作ります。病院、榊家の内部、今後の発表。まずは通称として扱う形にな
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第16話 三年前の雨④

「朝霧という名前を、あなたの家の都合で使われるのは嫌です」 「分かってます」 「私が使うから、意味があるんです」 「あなたの名前です」  短い返事だった。でも、今度はそっけなさよりも、線を守るための短さに聞こえた。  説明されるより、ずっと聞きやすい。 「では、病院までは一緒に来てください。病室には、私一人で入ります」  律は一度だけ頷いた。  車椅子の向きをわずかに変え、相良さんに出発の準備を頼むだけだった。  その動作の途中で、また見えた。  床に置かれた彼の靴先が、ほんの少しだけ角度を変える。  車椅子の向きとは別に。  まるで、体の方が先に動こうとして、それを止めたように。  私は視線を逸らした。  気づかなかったふりをした。  まだ、問い詰める時ではない。  たぶん、律もそれを知っている。◇ 如月本家では、朝から未央の声が廊下まで響いていた。 「どういうことなの。どうしてあの人が、朝霧なんて名前を知ってるのよ」  昨夜のまま眠れなかったのか、未央の目元には薄く影が落ちていた。  それでも髪は丁寧に巻かれ、部屋着も淡い色で揃えられている。  鏡の前に立つ姿だけなら、いつも通りの令嬢に見えた。  ただ、スマートフォンを握る手の先だけが白い。 「調べさせております」  電話の向こうで、男の声が答えた。  父の紹介で使っている調査会社の人間だ。名前は覚えていない。覚える必要もないと思っていた。 「早くして。榊律が何を知ってるのか、全部」 「進めます。ただ、一つ気になる点が」 「何」 「榊律氏の事故記録です。公表資料と、当時の医療関係者の証言が一部合いません」  未央は眉をひそめた。 「事故で火傷して、車椅子なんでしょう」 「そう発表されています。ただ、事故直後から数か月の動きに、確認できない空白があります。治療記録も、通常より外に出ていない」 「つまり?」 「噂ほど、単純じゃないかもしれません」  未央の唇から、色が消えた。  単純ではない。  その言葉が、部屋の空気を少しだけ冷たくした。  未央は鏡の中の自分を見た。  如月家の娘。  司の婚約者。  栞からすべてを奪った勝者。  そうでなければならなかった。 「もっと調べて」  声が少し掠れた。  それが気に入らず、未央
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第17話 婚姻届の名は朝霧栞①

 病院へ向かう車の中で、律はほとんど話さなかった。  それが気まずくないと言えば嘘になる。けれど、何かを説明され続けるよりはよかった。  膝の上には、昨夜から持ち歩いているファイルがある。契約書の草案。古い名刺。支援窓口のカード。どれも薄い紙なのに、重さだけは別々だった。  窓の外を流れる朝の街は、いつも通りだった。通勤の人が信号を待ち、コンビニの配送車が路肩に停まっている。  私だけが、昨日と違う名前の場所へ来てしまったようだった。  病院の廊下は、朝なのに夜の底みたいに静かだった。  白い床に、蛍光灯の光が薄く伸びている。看護師の靴音が遠くで止まり、また離れていった。消毒液の匂いは昨日と同じで、胃のあたりをわずかに冷たくした。  ナースステーションで面会の確認をした時、受付の職員は少し迷った。  如月家からの申請書には、まだ私の名前が如月栞と残っている。榊側から追加で入った連絡票には、朝霧栞とある。  その二つを見比べる数秒が、思ったより長かった。 「ご本人確認のため、お名前をお願いします」 「朝霧栞です」  口にしたあと、舌の上にその名前の重さが残った。  職員は身分証と連絡票を確認し、事務的に告げた。「本日は朝霧様で記録いたします」  それだけのことなのに、私はすぐには頷けなかった。  私は病室の前で足を止めた。  律は、少し離れた場所にいた。車椅子の黒い輪郭が、壁際の影に溶けている。 「ここからは、一人で入ります」 「ここで待ちます」  返事はそれだけだった。けれど、拒絶された感じはしなかった。  止めない。ついてくるとも言わない。昨夜の約束通り、私が決めた線の手前で止まっている。  そのことに、一瞬だけ息がしやすくなった。  病室に入ると、静江さんは眠っていた。  酸素マスクの下で、唇がかすかに動いている。手の甲には点滴の針。薄い布団の上に置かれた指は、昨日よりもさらに細く見えた。 「静江さん」  呼びかけても、まぶたは動かなかった。  私は椅子に座り、布団の端に触れた。白い布は乾いているのに、なぜか手の先だけが湿っている気がする。 「昨日、如月家を出ました」  声に出すと、その事実が少し遅れて胸に落ちてきた。 「榊家へ行きました。でも、まだ妻じゃありません。契約書を読んでいます。……変ですよね。
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第18話 婚姻届の名は朝霧栞②

「私は、そうしたいです」  そう言った時、静江さんの指が、ほんの少し動いた。  心電図の小さな音が、一拍分だけ長く聞こえた。  反射だったのかもしれない。私の声に反応したわけではないのかもしれない。  それでも私は、その指を両手で包んだ。 「私、如月には戻りません」  言い切ると、口の中が熱くなった。 「でも、静江さんのことは置いていきません」  昨日までなら、この二つは同じ方向を向いていないように思えた。  如月家を捨てるなら、静江さんまで捨てることになる。そんなふうに、どこかで思い込まされていた。  違う。  家と、人は同じではない。  私は、静江さんの手をもう一度だけ握り、病室を出た。  廊下へ戻ると、律はさっきと同じ場所で待っていた。相良さんは少し離れて、病院職員と何かを確認している。 「会えましたか」 「眠ってました」 「そうですか」  律はそれ以上聞かなかった。  何も聞かれないことが、今はありがたかった。  病院の家族待合室へ向かうと、先に隆一がいた。  待合室には、自動販売機の低い振動音があった。  病室の静けさとは違う、生活の中の音だった。  隆一は紙コップのコーヒーにも手をつけていない。表面に張った薄い膜が、空調の風でわずかに揺れていた。  濃紺のスーツ。整えた髪。疲れた顔。昨夜の広間で崩れかけたものを、朝までにどうにか戻してきたように見える。  テーブルの上には、数枚の書類が重ねられていた。  その一番上に、婚姻届がある。  婚姻届を見た瞬間、背中が冷えた。 「栞」  隆一はそう呼びかけ、すぐに言い直した。 「……朝霧」  慣れない呼び方を口にする時のぎこちなさに、少しだけ胸が軋んだ。 「何の書類ですか」 「手続きを急いだ方がいい。榊側の支援が正式に動けば、金融機関への説明もしやすくなる」  会社。  やはり、そこへ戻る。  私は椅子に座らず、テーブルの前に立った。 「婚姻届を、病院に持ってきたんですか」 「ここなら、お前も祖母の様子を見に来ると思った。話が早い」  その言い方が、ひどく父らしかった。  会社の手続きと同じように、私の人生も早く片づけたいのだろう。  律の車椅子が、私の斜め後ろで止まった。  近すぎない。けれど、私が振り向けば目が合う距離だった。
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第19話 婚姻届の名は朝霧栞③

「困る」 「でしょうね」  短く返した自分の声に、少しだけ驚いた。  困ると言われるたび、私はこれまで自分の都合を引っ込めてきた。家が困る。会社が困る。未央が困る。母が泣く。父の立場がなくなる。  そう言われるたび、私の名前は後回しになった。  もう、同じ場所へは戻らない。 「隆一さん。手続きに戸籍上の名が必要なことは分かっています。だからこそ、私が納得できる形になるまで出しません。榊家にも、そう伝えています」  隆一は律を見た。 「榊様。それでは話が違います。縁談は、如月家との――」 「違いません」  律の声が、静かに落ちた。 「朝霧栞さんと婚姻する意思はあります。ただ、如月家の都合で用意された署名欄に、彼女を押し込めるつもりはありません。そこは違います」 「しかし、支援の条件が」 「支援条件の確認は、榊側の法務を通してください」  隆一の唇が強張る。  律はそこで口を閉じ、私が返すのを待った。  代わりに言い切られなかったことで、自分の答えを考えられた。  足袋ではなく、榊邸で用意された低い靴。昨日より歩きやすいはずなのに、紙一枚を前にすると膝の奥が少し重かった。  律は一拍置いた。 「今後、妻を取引材料にするな」  その一言にほっとしかけ、私はすぐ姿勢を正した。自分で決めるために、ここへ来たのだ。  低い声だった。  怒鳴ってはいない。けれど待合室の空気が、一瞬で冷える。  隆一の顔から、社長の表情がわずかに剥がれた。  妻。  その言葉に、私の胸も小さく跳ねた。  まだ書類上は妻ではない。  けれど、そこに含まれた意味は「所有物」ではなかった。少なくとも今は、そう聞こえた。 「まだ、妻じゃありません」  私は小さく言った。  律がこちらを見る。 「……そうでした」  あっさり訂正されると、少しだけ調子が狂う。 「では、訂正します。朝霧さんを、取引材料にするな」  隆一が何か言いかけた。  その前に、私はテーブルの上の婚姻届を手に取った。  正式な書類だ。役所に出すなら、勝手な訂正はできない。そんなことは分かっている。  私は提出用の欄には触れず、端に置かれていた下書き用の控えを引き寄せた。  そこに書かれた「如月栞」の文字へ、細い二重線を引く。  紙の上で、ペン先が少し引っかかった
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第20話 婚姻届の名は朝霧栞④

 待合室の隅で、紙コップ式の給茶機が低く唸った。 場違いなほど日常の音だった。 その音が、かえって呼吸を戻してくれる。 隆一は深く息を吐いた。「お前は、そこまで如月を嫌うのか」 責める声だった。 けれど、少しだけ違った。 昨日までのような命令ではない。何かを失った人の声に聞こえた。「嫌いだけで、三年も名乗れません」 私は答えた。「ただ、戻りたくないだけです」 隆一の目が揺れた。 琴美なら、ここで泣いただろう。未央なら、私をひどいと言っただろう。 でも隆一は、黙って婚姻届の端を見ていた。「静江さんには、今後も会いに来ます」「……好きにしろ」「好きにします」 その返事に、隆一がほんの少し顔を上げた。 私は下書き用の控えだけをファイルに入れ、提出用の婚姻届はテーブルに戻した。「正式な書類は、私が納得してからです」 律が相良さんへ目を向ける。「提出用の書類は、こちらでは預からない。如月側で保管を。今後は、本人に直接持ち込まないでください」「承知しました」 相良さんが静かに頷く。 その時、看護師が待合室の入口に顔を出した。「朝霧様。ご面会の件で、主治医から少しお話があるそうです」 朝霧様。 病院の人にそう呼ばれたのは、初めてだった。 まだ通称に過ぎない。書類のどこかでは如月のままかもしれない。 それでも、今この廊下では、その名前で私に声がかかった。「はい」 私は返事をした。 廊下へ出る前、もう一度だけ控えのファイルを見下ろす。 白い紙の上に、朝霧栞の文字がある。 まだ頼りない。 けれど、誰かに書かされたものではなかった。 主治医からの話は、短かった。 容体は楽観できない。けれど、今日明日に急変する可能性だけを告げて脅す段階でもない。面会は、本人の体力を見ながら続けて構わない。 医師の言葉は淡々と
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