Alle Kapitel von 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Kapitel 31 – Kapitel 40

120 Kapitel

第31話 招待状は、燃やせない③

 宮野さんの声は柔らかかったが、温度は下がっていた。  若いスタッフがクリップボードを持って入ってくる。まだ二十歳そこそこに見えた。私と目が合った瞬間、頬から血の気が引く。 「あ……申し訳ございません。こちら、外部業者からの資料表記が」 「外部業者じゃなく、誰から届いたもの?」  宮野さんの問いに、スタッフは慌てて紙をめくった。 「如月グループ広報室、となっています」  広報室。  私は、上げたままだった腕をゆっくり下ろした。  未央ではないかもしれない。隆一かもしれない。ただ古い登録名を使っただけかもしれない。  でも、偶然にしては丁寧すぎる。 「修正をお願いします」  私はスタッフへ言った。  声が震えなかったことに、自分で少し驚く。 「朝霧栞です。仕事上、過去の登録名が必要なら、注記で構いません。でも、晩餐会の名簿や衣装管理表は、朝霧で統一してください」 「は、はい。すぐに」  スタッフは頭を下げた。  怒鳴る必要はなかった。泣く必要もなかった。ただ、直してもらえばいい。  三年前の私には、それができなかった。  宮野さんが静かにクリップボードを受け取る。 「修正履歴も残します」 「お願いします」  私が答えると、宮野さんは鏡越しに少しだけ笑った。 「律様が選んだ方だと、少し見えてきました。……いえ、選ばされた方、ではないという意味です」 「選ばれた、という言い方は、まだ慣れません。便利に聞こえるぶん、少し怖いです」 「では、違う言い方にしましょう」  宮野さんは青い布を私の肩へ掛けた。 「ここに立つことを、ご自分で決めた方です。少なくとも今は、そう見えます」  布の重みが、肩に落ちる。  軽いはずなのに、わずかに背筋が伸びた。◇ 採寸が終わる頃には、窓の外が薄く曇っていた。  衣装室を出ると、廊下の端に相良さんが立っていた。手にはタブレット。いつものように表情は整っているが、画面を持つ指が少し硬い。 「朝霧様。確認いただきたいものがございます」  嫌な予感は、だいたい当たる。  相良さんが画面をこちらへ向けた。  晩餐会の事前質問フォーム。招待客から、司会進行や会場スタッフ宛に寄せられる確認事項の一覧だった。  その一番上に、新着の匿名質問が表示されている。  ――三年前、如月家から追
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第32話 招待状は、燃やせない④

 なかったことにできる。表に出る前に消せる。誰も知らないまま終わらせることができる。  でも、三年前もそうだった。  私の言葉だけが、なかったことにされた。 「消さないでください」  声が先に出た。  律の視線が、こちらへ向く。 「消したら、私が隠してもらったみたいになります」 「そう見える可能性はある」 「なら、嫌です。……守ってもらった結果、私だけ小さくされるのは、もう十分なので」  短く言い切ると、声の出口が少し痛んだ。 「質問は質問として残してください。ただ、誰でも見られる場所には出さないで。事務局内の記録にして、発信経路だけ確認してもらえますか」  言いながら、これは私が口を出していい範囲なのかと、一瞬迷った。  榊家の会だ。私がまだ正式な妻でもない状態で、運営に踏み込むのはおかしいかもしれない。  けれど律は、すぐには何も言わなかった。  相良さんだけが、かすかに眉を上げる。 「犯人探しみたいに、個人を直接追うことはできません。規約上、そこは越えられない。ただ、登録時刻、招待番号、メールアドレスのドメイン、同じ端末から複数投稿があったか。そこまでは事務局で確認できます」  相良さんの説明は淡々としていた。  その淡々さに、一瞬だけ救われる。  魔法のように犯人を暴くのではなく、できる範囲を積み上げる。今の私には、その方が信じられた。 「お願いします」  私が頭を下げると、相良さんは「手配します」と答えた。  律はまだ私を見ていた。 「本当に、正面席でいいのですか」 「今さら端に移ったら、もっと騒がれます。逃げたって顔をされるのも、癪ですし」 「騒がれるのが嫌なら、出席を取りやめてもいい」 「榊さんは、そうしてほしいんですか。……それとも、私を人目に出したくないだけですか」  聞き返すと、律は少し黙った。  仮面の黒い縁に、廊下の光が薄く乗っている。 「私の希望で決めることじゃありません。……そう言うと格好よく聞こえるが、本音は、君を人目に晒したくない」 「便利ですね、そういう言葉」  つい、言葉が尖った。  すぐに後悔したが、飲み込むには遅かった。  律は怒らなかった。 「あなたの席まで、私が決めたくありません」  その短さに、息が少しだけ詰まる。  律は、そこで黙った。 「……正面
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第33話 選ばされたドレスではなく①

 衣装室の空気は、少しだけ乾いていた。  衣装室の薄いカーテンが、光だけを残して揺れていた。  壁際に並ぶ布地の匂いと、磨かれた床に残るワックスの匂い。窓は大きいのに、薄いレースのカーテンが光を柔らかくしていて、昼間なのに音が遠い。  中央の採寸台には、針山とメジャーが置かれていた。  ここへ来る前に、相良さんから匿名質問の中間報告を受けていた。  同じ趣旨の投稿は、結局五件に増えていたらしい。文面は少しずつ違う。けれど、「偽令嬢」「榊家の品位」「当主の判断」という言葉の選び方が似ていた。  犯人を決めつけるには足りない。  でも、偶然で片づけるには整いすぎている。  相良さんは、発信に使われた登録番号の一部が如月家関係者の招待枠と近いことだけを告げた。そこまで言って、あとは「断定はいたしません」と口を閉じた。  私はうなずいた。  断定しないことが、わずかにありがたかった。  誰かがまた、私に「そういう女だ」という札を貼ろうとしている。  その札を剥がすために、今ここにいる。  けれど、並んだドレスを前にすると、別の札を渡されているような気もした。  榊家の婚約者。  当主に選ばれた女。  かわいそうな元令嬢。  どれも、私が選んだ名前ではない。  その隣に、細いハンガーラックが三台。  どれも、私のために用意されたものだと分かるくらい、色も形も揃いすぎていた。 「こちらが第一候補です」  宮野さんが、淡い銀色のドレスをそっと前へ出した。  光を拾うたび、布が水面みたいに揺れる。胸元は浅く、肩もほとんど隠れている。上品で、誰が見ても文句をつけにくい。  だからこそ、少し怖かった。 「……きれいですね」 「ありがとうございます。……でも、感想はそれだけで構いません。無理に選んでいただかなくて大丈夫です」  宮野さんは、そう言って少し笑った。  前回の採寸の時より、声が柔らかい。  私は手袋をしていない指先で、ドレスの裾に触れた。さらりとしているのに、布の重みは確かにある。値段を考えるのはやめた。考えた瞬間、着る前から負けそうになる。 「榊さんは」  言いかけて、私はドアの方を見た。  律は、衣装室の入口より少し手前に車椅子を止めていた。中には入ってこない。黒い仮面の奥から、こちらを静かに見ている。 「入
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第34話 選ばされたドレスではなく②

「……そうですね」  返事は短かった。  言い訳をしない分、こちらの胸に少し残る。  律が車椅子の位置を少し変え、衣装室の床がかすかに鳴った。 「だから、着ないという選択肢もあります」 「晩餐会に、普段着で出ろと? それはそれで、榊家の伝説になりませんか」 「それを選ぶなら、私は止めません」 「榊家の当主としては困るでしょう」 「困ります。かなり」  あまりに正直で、思わず顔を上げた。  律はまったく表情を変えていない。仮面のせいもあるけれど、声にも冗談の響きはなかった。 「困るんですか。そこはもう少し、格好よく隠してもいいところでは」 「困ります。相良が倒れます。私も、たぶん少し困る」  宮野さんが小さく咳をした。  笑ったのか、咳で隠したのかは分からない。  少しだけ、肩の力が抜けた。 「では、相良さんの健康のために、普段着はやめておきます」 「助かります」  律の声が、わずかに低くなる。  その変化を、聞き逃したくないと思ってしまった自分に、少し驚いた。 ◇ 銀色のドレスの横には、柔らかな白に近いベージュのものもあった。遠目には清楚に見える。けれど胸元の小さな刺繍と長い裾が、どうしても花嫁衣装に寄りすぎている。  未央がそれを見たら、きっと笑う。  身代わりのくせに、と。  そんな声が聞こえた気がして、私はすぐに視線を外した。 「こちらは?」  宮野さんが確認する。 「似合わないと思います」 「似合わない、ですか」 「たぶん、似合ってしまうから嫌です」  言ってから、自分でも妙な答えだと思った。  でも宮野さんは笑わなかった。 「では外します」  それだけ言って、ベージュのドレスをラックの後ろへ下げた。  選ばないというだけで、みぞおちのあたりの小さな結び目がほどける。  こんなことさえ、私はしばらく忘れていた。  嫌なものを、嫌だと言っていいことを。  宮野さんが二着目を出した。  濃い葡萄色のドレスだった。首元から袖まで繊細なレースが重なり、照明の下では黒にも赤にも見える。 「こちらは、会場の照明に映えます。お席が正面になるとのことでしたので、写真映えも考えると強いです」 「強い、ですか。ドレスに言う言葉としては、だいぶ物騒ですね」 「失礼しました。表現が雑でした。でも、今の
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第35話 選ばされたドレスではなく③

「衣装係ですので。似合う似合わないより、立つ場所に合うかを見ます」  宮野さんは、淡々とそう言った。  その目には、同情も興味本位もない。  メジャーの金具が、採寸台の上で小さく鳴った。  それが、ありがたかった。  三着目は、深い青だった。  黒に近い。けれど完全な黒ではない。布を持ち上げると、折り目の奥に夜明け前の空みたいな青が沈んでいる。  肩から腕にかけては柔らかく隠れ、背中も開きすぎていない。裾は重すぎず、歩いた時に足元だけが少し見える。  私は、無意識にそのドレスの前で足を止めていた。 「お気に召しましたか」 「まだ、分かりません」  そう答えたのに、指は布から離れなかった。  華やかではない。  勝とうとしている服でもない。  でも、逃げてはいない。  そんなふうに見えた。 「試着されますか」  宮野さんの声に、私はうなずいた。  更衣用の衝立の向こうへ入る。淡い照明の下で、普段着を脱ぐ時、背中に妙な寒さが走った。誰かに着せ替えられるのは、昔からあまり得意ではない。  如月家にいた頃は、母が選んだ服を着た。  夜会の服。食事会の服。婚約者の家へ行く時の服。  私は、それが普通なのだと思っていた。  自分で選んだつもりの服も、本当は、選ばされていたのかもしれない。 「苦しくありませんか」  背中のファスナーを上げながら、宮野さんが聞いた。 「大丈夫、です」 「少し余裕を残しています。食事の後で息が詰まる服は、晩餐会には向きません」 「……そこまで考えるんですか」 「倒れられると困りますので」  返事が妙に現実的で、少しだけ力が抜けた。  鏡の前へ出る。  深い青のドレスを着た自分が、そこにいた。  見慣れない。  でも、知らない人間ではなかった。  鏡の中の私は、三年前に濡れた靴で家を出された女でも、如月家の代役でもない。まだ胸の下には怖さが残っている。けれど、その怖さごと、立っている。 「こちらでよろしいかと」  宮野さんが、横からそっと助け舟を出した。 「理由を聞いても? 笑わないで聞きますので」 「黒じゃないからです。……それだけでも、今日は十分な理由です」 「それは、理由になるんですか」 「なります。喪服にも、謝罪の色にも見えません。ただ、軽くも見えない」  私は鏡
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第36話 選ばされたドレスではなく④

「榊さんは、どう思いますか」  少しの間があった。 「私が答えると、選びにくくなりませんか」  返事は、すぐには来なかった。誰かが椅子を引く音だけが、間に落ちた。 「今は、あなたの答えを待っています」  自分でも意外なくらい、まっすぐ言えた。  鏡の前の空気が、少しだけ動いた。  鏡越しに、律の姿が見える。入口の外にいるせいで、顔は半分しか映っていない。黒い仮面と、白いシャツの襟。車椅子の肘掛けに置かれた指。 「似合っています」  短い言葉だった。  誉め慣れていない人の声ではなかった。けれど、簡単に甘くするつもりもない声だった。  私は視線を落とす。  胸元の布に、小さな皺ができていた。指先で直そうとして、やめた。 「社交辞令に聞こえませんね」 「社交辞令じゃありません」 「では、困ります。そういう真っすぐな言い方をされると、こちらの返事が妙に下手になります」 「なぜ」 「どう返していいか分からないので。……今、たぶん変な顔をしています」  口に出してから、わずかに恥ずかしくなった。  宮野さんが背後でピンを箱に戻す音がする。聞こえていないふりをしてくれているのが分かった。  律は、少しだけ目を伏せた。 「返さなくていい言葉もあります」  優しい、とは思わなかった。  優しいと決めるには、まだ早い。  でも、押しつけられてはいない。  それだけで、呼吸が少しだけ深くなった。 「では、これにします」  私が言うと、宮野さんが「こちらでご用意します」と答えた。  その時だった。  衣装室の奥で、棚の戸が少しだけ開いているのが目に入った。  靴の箱が並ぶ棚だ。宮野さんがさっき、サイズ確認のために開けたままにしていたのだろう。 「靴も、こちらで合わせますか」  宮野さんが気づいて尋ねる。 「お願いします」  私は衝立の横へ戻りかけて、足を止めた。  一番下の段に、ひとつだけ古い箱があった。  他の箱は白く新しいのに、その箱だけ少し黄ばんでいる。側面の紙が角で浮き、細い鉛筆書きの文字が残っていた。  宮野さんが手を伸ばしかける。 「あ、それは――」  珍しく、声が乱れた。  私は箱を見た。  文字は薄い。  けれど、読めないほどではない。  如月栞様。  二十三・五。  雨天用。  
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第37話 晩餐会の椅子①

 古い箱の縁に、手の先が触れた。  紙は乾いているはずなのに、そこだけ雨を吸ったみたいに柔らかかった。側面の鉛筆書きは薄く、けれど消えてはいない。  蓋の隙間から、古い薄紙が見えた。  如月栞様。  二十三・五。  雨天用。  その三行を見ていると、声が出しにくくなった。  宮野さんの手が、箱と私の間で止まっている。 「申し訳ございません。片づける棚を間違えました」  声は落ち着いていた。けれど、さっきまで寸分違わず針を動かしていた指が、かすかに強ばっている。 「……私のものですか」 「正確には、届かなかったものです」  届かなかった。 「届かなかった」という言葉が、胸に引っかかった。  廊下側で車椅子の金具が鳴る。  律が、入口からこちらを見ていた。  律は、問いを待っているように見えた。 「榊さんが用意したんですか」 「私だけじゃありません」 「では、誰が」  すぐに答えは返ってこなかった。  衣装室の奥で、壁掛け時計の針が一つ進む。宮野さんは箱から手を離し、深く頭を下げた。 「私から申し上げることではございません」 「秘密が多い家ですね」  皮肉のつもりだった。  でも、声が思ったより乾いていた。  律は否定しなかった。 「多いです」  少しくらいは否定してほしかった。 「開き直られると、少し腹が立ちます」 「その方がいい」  怒っている方がいいと言われ、返事に困った。 「何がいいんですか」 「怒っている方が、黙って飲み込まずに済む。君の場合は、とくに」 「……今、君って言いました?」 「言いました。嫌なら戻します」 「今は、そのままでいいです」  答えてから、自分の方が戸惑った。  私は箱の蓋に目を落とす。開ければ、古い靴が入っているのだろう。雨の夜に間に合わなかった靴。誰かが私の足のサイズを知っていて、けれど私の足元には届かなかったもの。  雨天用の字は、最後の払いだけが少し乱れていた。  三年前の朝、擦り切れた靴底を見ていた自分を思い出した。新しい靴を差し出されても、たぶん素直には受け取れなかった。  分からない。  たぶん、怒ったと思う。  それでも、間に合わなかった靴が残っていることは、思った以上に痛かった。  知りたい。  同時に、今は知らずにいたかった。
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第38話 晩餐会の椅子②

 私は指を離した。 「では、今日は開けません」  宮野さんが、ほんのわずかに息を吐いた。  箱の薄紙が、指を離したあとも少しだけ揺れていた。 「ただ、捨てないでください」 「……捨てません」 「それと」  私は律を見た。 「届かなかったものなら、今さら勝手に渡されたことにしないでください」  律の目が、静かに細くなる。 「渡したことにはしません」  それ以上の言葉はなかった。けれど、律が箱から手を離すまで、ほんの少し時間がかかった。  その間だけで、十分だった。  箱は棚の奥へ戻された。  蓋が閉まる音は、小さかった。けれど、その音は晩餐会へ向かう車の中まで、耳の奥に残っていた。  会場のホテルは、榊グループが保有する施設の一つだと相良さんが説明してくれた。  車寄せには、黒い車が何台も並んでいる。ドアマンが一台ごとに頭を下げ、招待客は濡れてもいない上着の襟を整えながら中へ入っていく。  私は、車内で膝の上に置いた手を一度ほどいた。  深い青のドレスは、座っていると裾の重さが分かる。胸元は苦しくない。靴も合っている。宮野さんが最後まで調整してくれた靴は、歩くたびに足裏を支えてくれた。  古い箱の中身ではない。  今日、私が選んだものだ。 「顔色が悪い」  隣から律の声がした。 「これでも、化粧でだいぶ隠していただきました」 「では、宮野に感謝します」 「そこは否定するところでは」 「無理に安心させるのは、あまり得意じゃありません。得意なら、たぶん今ごろもっと評判がいい」 「でしょうね」  言ってから、一瞬だけ口元が動いた。  笑った、というほどではない。けれど、肩の力がほんの少し抜ける。  律は車椅子に移るため、先にドアを開けた相良さんへ視線を向けた。私は反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。  手伝っていいのか。  触れない方がいいのか。  その判断すら、まだよく分からない。  律はこちらを見ずに言った。 「必要なら言います」 「……分かりやすいですね。見抜かれる側としては、少し腹が立つくらいに」 「君が迷ってたので」 「見ないでください、そういうところは。できれば、もっと鈍感な人のふりをしてください」 「難しい注文です」  難しい注文なのか。そこは、せめて努力目標にしてほしい。仮面の
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第39話 晩餐会の椅子③

 その呼び方に、わずかに助けられた。  会場の空調が、首元に薄く触れた。  婚約者でも、商品でも、代役でもない。少なくともこの場では、律の隣に座る一人の招待客として扱われている。 「栞」  背後から声がした。  振り返らなくても、分かった。  未央の声は、甘さを足すほど棘が分かりやすくなる。  私はゆっくり振り返った。  未央は淡いピンクのドレスを着ていた。細い肩に柔らかなショール。隣には司がいる。彼の顔は、思っていたより疲れて見えた。 「素敵な席ね。よかったじゃない。榊様に大切にしていただいてるみたいで」 「ありがとうございます」  未央の目が一瞬だけ固まった。  たぶん、嫌味を受け取ってもらえなかったのが不満だったのだろう。 「でも、緊張しない? あの席、皆さん見てるわよ」 「見られることには、少し慣れました」 「そう。三年前も、ずいぶん見られてたものね」  司が小さく息を呑んだ。 「未央」 「何? 心配してるだけよ。お姉ちゃん、こういう場は久しぶりでしょう」  お姉ちゃん。  その呼び方に、息が少しだけ冷えた。  けれど、膝は揺れなかった。 「その呼び方は、もう必要ないです。便利な時だけ姉妹に戻されると、こちらの感情の置き場がなくなるので」 「冷たいのね」 「便利な時だけ家族に戻される方が、少し困ります。……少し、じゃないですね。かなり」  未央の笑みが薄くなった。  司は何か言いたげにこちらを見たが、結局、目を逸らした。  選ばない男は、こういう時も選ばない。  昔ほど痛くはなかった。  痛みより先に、妙に静かな納得が来た。  会場の扉が開く。  司会者の声が奥から漏れ、弦楽器の柔らかな音が流れ出した。  律の車椅子が、私の横で止まる。  黒い仮面の奥の目が、少しだけ私を見る。  座っていい。  そう言われたようで、返す言葉が一瞬遅れた。  命令ではない。庇護でもない。  私が、自分の足で
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第40話 晩餐会の椅子④

 座るだけのことなのに、やけに時間がかかる。 律の車椅子が、私の椅子から少し離れた場所で止まった。 如月家では、いつも座る席が決まっていた。未央が来てからは、その席が少しずつ端へ寄っていった。誰もはっきり言わないまま、空気だけで場所を奪われていく。 今、目の前にある椅子は、端ではなかった。「朝霧様」 係員が、控えめに声をかける。 私は息を吸い、椅子に腰を下ろした。 背もたれに触れた背中が、わずかに硬くなる。 隣に律がつく。車椅子のまま、テーブルの高さに合わせて位置を整える。その動きに慣れた係員が、自然に場所を空けた。 近くの席にいた年配の女性が、私に向かって軽く会釈した。胸元の名札には、榊財団理事とある。「朝霧様、本日はお越しいただきありがとうございます」 返事をするまで、ほんの一拍遅れた。「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」 膝の上で手を重ね、頭を下げる。声が硬くなりすぎないように、息を少しだけ逃がした。 女性は私のドレスを見て、穏やかに目を細める。「よいお色ですね。主催者席はどうしても視線が集まりますから、落ち着いた色を選ばれたのは正解です」「……宮野さんのおかげです」「選ばれたのは、朝霧様でしょう」 何気ない返答だった。 でも、その一言で、未央のいる円卓の方から小さな笑い声が途切れた。 私は振り向かなかった。 勝った、とは思わない。 ただ、奪われた椅子が戻ってきたわけでもない。別の場所に、自分で座っただけだ。 見世物ではなく、主催者として扱われている。 それを見て、会場の空気がわずかに変わった。 未央の席は、少し離れた円卓だった。 彼女は笑っていた。けれど、手元のナプキンを整える指が忙しい。 司はその隣で、席札を見つめている。 桐生司。 如月未央。 二人の名前は、確かに並んでいた。 でも、もう私の前にはない。 前菜が運ばれる前、司会者が
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