《隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる》全部章節:第 41 章 - 第 43 章

43 章節

第41話:少しずつ落ち着く

金曜日の朝。洗面所の鏡の前に立って、私はいつもより少しだけ長く自分の顔を見ていた。といっても、ほんの数分だ。肌を整えて、眉を描いて、リップを塗る。髪の毛先を軽く巻いて、手ぐしで崩す。それだけのことなのに、鏡の中の自分が少しだけ見慣れた顔に戻っていく気がした。——別に、誰のためでもない。心の中でそう呟いて、リップの蓋を閉める。本当に、誰かのためではなかった。拓也と別れた直後は、鏡を見ることさえしんどかった。自分の顔を見るたびに、三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女、という現実を確認させられる気がしたからだ。何を着ても、何を塗っても、どこか空回りしていた。頑張っている自分も、疲れている自分も、まだ傷ついている自分も、全部そこに映ってしまう気がした。でも、最近は少し違う。朝、ちゃんと起きる。簡単でも朝ごはんを食べる。仕事へ行く。昼に何かしら口に入れる。夜、余力があればジムへ行く。帰ってきて、シャワーを浴びて、眠る。たったそれだけの普通が、少しずつ戻ってきた。仕事しかない毎日でもない。恋人がいなくなった穴を、無理に誰かで埋めようとしているわけでもない。ちゃんと、自分の生活の形が戻ってきている。それが少しだけ嬉しかった。拓也のことを思い出しても、もう胸の奥が崩れる感じはしない。好きだった。一緒に暮らした時間もあった。未来を考えたこともあった。でも、もうそこには戻らない。戻りたいとも思わない。その事実が、ようやく身体の中に落ち着いた気がした。今日は金曜日。ちゃんと働いて、できればジムにも行って、週末は少しだけ自分を甘やかそう。そう思いながら、私は玄関の鍵を閉めた。***午後。定例会議の前、私はPCと資料を抱えて会議室へ向かっていた。金曜の午後のオフィスには、週末前の軽さと、今日中に片付けなければいけない仕事の重さが同時に混ざっている。コピー機の音。誰かの電話の声。会議室へ向かう人たちの足音。その中を歩いていると、横から声がした。「重そう」振り向くと、正人だった。ネイビーのジャケットに、少しだけ緩めたネクタイ。相変わらず、忙しい日でも乱れた感じがしない。正人は私の返事を待たずに、自然な動きでPCと資料の半分を受け取った。「え」「持つ」当たり前みたいな顔だった。私は少し眉を上
last update最後更新 : 2026-07-04
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第42話:スープとプロテインバー

気まずくはなかった。無理に話さなくてもいい。でも、話せば普通に続く。そのくらいの距離。私はペットボトルを額に当てながら、小さく息を吐いた。「今日、疲れた」ぽろっと出た。相談ではない。愚痴というほどでもない。ただ、今日の天気を言うみたいに、口から落ちた言葉だった。翔太が少しだけ私を見る。疲れている時の顔。口数が減る時。肩が落ちる時。何かを我慢している時。翔太は昔から、そういうところに気づくのが早かった。それも変わっていないのかもしれない。「何か食べました?」「まだ」「それダメです」即答だった。「気力がない」「じゃあ、気力いらないやつにしてください」エレベーターが来る。二人で乗り込むと、扉が静かに閉まった。鏡面に、ジム帰りの私と、コンビニ帰りの翔太が並んで映る。それがあまりにも普通で、少し不思議だった。五年前、私たちは恋人だった。でも今は、隣人としてエレベーターに乗っている。そこに気まずさよりも、生活の匂いの方が濃くなっている。時間というものは、残酷だけれど、時々便利だ。翔太がコンビニ袋を少し見下ろしてから、軽く持ち上げた。「これ、持っていきます?」「え?」「スープとプロテインバー」「何でそんな健康的な組み合わせなの」「俺も一応、気にしてるんで」「意外」「失礼ですね」袋の中を覗くと、温めるタイプのスープと、見覚えのあるプロテインバーが入っていた。「多めに買ったので」翔太はさらっと言った。多めに、という言い方が便利すぎる。本当に多めだったのか、それとも私が食べていないと言ったから渡そうとしているのかは分からない。でも、聞くほどのことでもなかった。「え、いいの?」「食べるなら」私は少し考えた。正直、今の自分が家に帰ってから何かを作るとは思えなかった。でも、食べるかと言われると、そこまで自信もない。「……食べないかも」「じゃあ、なおさら」「なんで」「手元にあった方が、食べる確率上がるでしょ」あまりにも淡々と言うから、少し笑ってしまった。押しつけがましくない。大げさでもない。心配しすぎでもない。でも、ちゃんと見ている。その感じが、最近の翔太にはあった。昔とは少し違う。昔の翔太はもっと真っ直ぐだった。心配なら心配だと顔に出したし、寂しいなら寂しいと言った。
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第43話:知らない関係性

土曜日の夜。エレベーターを降りた瞬間、いつもより少し賑やかな声が聞こえた。廊下の奥。翔太の部屋の方だった。男の人の笑い声。グラスが触れる音。それから、女の子の少し高い声。私は鍵を取り出しながら、ふと視線を向けた。珍しい。そう思ってから、少しだけ笑う。いや、別に珍しくないのかもしれない。私が知らなかっただけだ。翔太にも仕事があって、友達がいて、こういう夜がある。当たり前のことなのに、少しだけ不思議だった。ちょうどその時、翔太の部屋のドアが開いた。「あ」先に気づいたのは翔太だった。手にはコンビニの袋。たぶん、追加の飲み物か何かを取りに出るところだったのだろう。「おかえりなさい」「ただいま」自然に返してから、私は少し笑った。「楽しそうだね」翔太は一度、部屋の奥を振り返った。中から、誰かが「翔太、氷ある?」と声をかけている。「同期です」「へえ」私は軽く頷く。「ちゃんと人呼ぶんだ」「どういう意味ですか」「いや、なんか最近は落ち着いてるから」少し考えてから続ける。「一人で静かに暮らしてそうだった」翔太が小さく笑った。「そこまで枯れてないです」その言い方が少し面白くて、私も笑った。会話は軽い。最初の頃みたいな変な緊張は、もうない。深夜に騒音の文句を言いに行った時のあの動揺は、いつの間にかかなり薄れていた。今は、隣に住んでいる人。昔を少し知っている人。会えば挨拶して、時々くだらない話をする人。そのくらいの場所に、翔太は少しずつ落ち着き始めている。でも、ドアの向こうにある賑やかさだけは、少しだけ知らない世界みたいだった。翔太の部屋に人がいる。私の知らない時間の中でできた関係が。そこにある。ただ、不思議だった。その時、部屋の中から一人の女の子が顔を出した。「翔太くん、これどこ置けば——」言いかけて、私に気づく。ふわっとした髪。小さな顔。白いニットが似合う、柔らかい雰囲気の子だった。目が合うと、少しだけ驚いたように瞬きをして、それから丁寧に会釈する。私も軽く頭を下げた。それだけ。本当に、それだけだった。でも、自然に思った。あ、可愛い子。しかも、翔太を見る目が少しだけ柔らかい。気のせいかもしれない。でも、女同士だとなんとなく分かる空気がある。好意、というほどはっき
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