金曜日の朝。洗面所の鏡の前に立って、私はいつもより少しだけ長く自分の顔を見ていた。といっても、ほんの数分だ。肌を整えて、眉を描いて、リップを塗る。髪の毛先を軽く巻いて、手ぐしで崩す。それだけのことなのに、鏡の中の自分が少しだけ見慣れた顔に戻っていく気がした。——別に、誰のためでもない。心の中でそう呟いて、リップの蓋を閉める。本当に、誰かのためではなかった。拓也と別れた直後は、鏡を見ることさえしんどかった。自分の顔を見るたびに、三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女、という現実を確認させられる気がしたからだ。何を着ても、何を塗っても、どこか空回りしていた。頑張っている自分も、疲れている自分も、まだ傷ついている自分も、全部そこに映ってしまう気がした。でも、最近は少し違う。朝、ちゃんと起きる。簡単でも朝ごはんを食べる。仕事へ行く。昼に何かしら口に入れる。夜、余力があればジムへ行く。帰ってきて、シャワーを浴びて、眠る。たったそれだけの普通が、少しずつ戻ってきた。仕事しかない毎日でもない。恋人がいなくなった穴を、無理に誰かで埋めようとしているわけでもない。ちゃんと、自分の生活の形が戻ってきている。それが少しだけ嬉しかった。拓也のことを思い出しても、もう胸の奥が崩れる感じはしない。好きだった。一緒に暮らした時間もあった。未来を考えたこともあった。でも、もうそこには戻らない。戻りたいとも思わない。その事実が、ようやく身体の中に落ち着いた気がした。今日は金曜日。ちゃんと働いて、できればジムにも行って、週末は少しだけ自分を甘やかそう。そう思いながら、私は玄関の鍵を閉めた。***午後。定例会議の前、私はPCと資料を抱えて会議室へ向かっていた。金曜の午後のオフィスには、週末前の軽さと、今日中に片付けなければいけない仕事の重さが同時に混ざっている。コピー機の音。誰かの電話の声。会議室へ向かう人たちの足音。その中を歩いていると、横から声がした。「重そう」振り向くと、正人だった。ネイビーのジャケットに、少しだけ緩めたネクタイ。相変わらず、忙しい日でも乱れた感じがしない。正人は私の返事を待たずに、自然な動きでPCと資料の半分を受け取った。「え」「持つ」当たり前みたいな顔だった。私は少し眉を上
最後更新 : 2026-07-04 閱讀更多