تسجيل الدخول万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。
声までは聞こえない。
そもそも、聞く気もなかった。
ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。
気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。
それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。
貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。
そんなことを、また考えてしまった。
何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。
以前の私は、それが怖かった。
他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。
あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。
こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。
三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。
私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。
そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。
もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。
その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。
次はいつ、私を見てくれるのだろう。
そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。
六月。
梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。
校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。
地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。
部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。
頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。
私は少しだけ足を速めた。
部室棟の中へ入り、万物研究会の部室へ向かう。
扉を開くと、窓際で珈琲を飲んでいる小夜子先輩の姿があった。
小夜子先輩はカップを傾けたまま、無言で備品棚を指差す。
そこには、淹れたばかりと思われる珈琲のサーバが、静かに湯気を燻らせていた。
軽く頭を下げ、私は自分のカップに珈琲を注ぐ。
そこへ砂糖とミルクをたっぷり投入した。
椅子に腰掛けてから、岩倉君に頼まれていた伝言を口にする。
「岩倉君、今日は家の用事で来られないそうです」
「そうか。では、今日は二人だね」 「妃那美先輩は、バイトですか?」私の問いに、小夜子先輩は無言で頷いた。
そして、私の隣へ腰を下ろす。しばらく、静かな時間が流れた。
部屋に響くのは、お互いが珈琲を啜る音だけ。
その沈黙を破ったのは、小夜子先輩だった。
「怜奈。君は考えたことはあるかい? 観測者に観測されていない間、私たちの存在は一体どこに在るのか、と」
それについては、考えたことがある。
「小夜子先輩はいま、私がここにいることを認識しています。私も、小夜子先輩がそこに存在していることを認識しています。でも……観測者のいる世界では、きっと私たちは存在していない」
私の答えに、小夜子先輩は満足そうに頷いた。
けれど、その表情はどこか寂しげにも見えた。
「そうだろうね。観測されていないこの時間、この場所にいる私たちは、きっと存在していない」
「観測された時だけ、私たちは向こう側の世界に存在出来る……小夜子先輩の言っていた、箱の中の猫というやつですね」観測されなければ、私たちは存在しない。
その事実を想像すると、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。
「やはり、怜奈も思い至ったんだね。この世界の真相に」
この世界の真相。
それは――。
この世界が、小説の中なのではないかという可能性。
小説という媒体に触れた時、私はその考えへと辿り着いてしまった。
主人公の視点を通し、その考えや心情に触れながら文章を通して世界を観測する読者。
岩倉君の視点を通し、その顕在意識を読み取って世界を観測する観測者。私と小夜子先輩が立てた仮説が、その可能性へと至る道筋になってしまった。
「では、その考えに至った私たちにしか出来ない話をしよう。この世界が小説の中なのだとしたら、それは一体どんな物語なんだと思う?」
「これは、私の仮説です」 「聞かせてくれ」 「この物語は、小夜子先輩が世界の真理へ辿り着くまでの過程を書いた物語なのではないでしょうか」小夜子先輩は興味深そうに目を細めた。
「そう思った根拠は?」
「観測者は、明らかにこの万物研究会を観測している頻度が高いです。そして、その中心にいるのは小夜子先輩です。だから私は、観測者のいる世界では既に世界の真理が解明されていて……その過程を、小説として記録しているのではないかと思いました」最後まで聞き終えた小夜子先輩は、ゆっくりと首を横に振る。
「違うな。その仮説は間違っている」
「なぜ、そう言い切れるんですか?」 「簡単な話さ。私は物語の中心人物ではないからだよ」小夜子先輩は静かに笑う。
「私は、どこにでもいる夢見がちな女子高生に過ぎない。妃那美も、岩倉君もそうだ。多少特殊な性質は持っているが、説明不能なものではない」
そこで、小夜子先輩の視線が私へ向けられた。
「だが、君は違う」
「……私?」 「観測者の視線を感知する能力。それだけが、明らかに異質なんだ。説明がつかない。だから、この物語の中心にいるのは君だよ、怜奈。きっと、説明の出来ない特異な能力を持つ神崎怜菜という存在を観測するための物語なんだ」言葉を返せなかった。
もしそれが本当なら。
観測者は、私を見るためにこの世界を観測していることになる。
胸の奥から、言葉に出来ない感情が込み上げてくる。
今すぐ、貴方の視線を感じたい。
この空白を埋めてほしい。
早く、私を見てほしい。
貴方の存在を、感じさせてほしい。
「それとね、この世界が小説の中なのだとしたら、私はこう考える。視点の制約なんてものは存在しない」
「え……なぜ、そう思うんですか?」 「簡単だよ。そんなものは演出だからさ」小夜子先輩はカップを揺らしながら、静かに続ける。
「そもそも視点の制約なんてものは、悪魔の裁量でどうにでもなってしまう」
悪魔。
小夜子先輩は、時折そういう言い方をする。
この世界の全てを掌握し、運命すら決定づける存在。
神ではなく、悪魔。
作者。
「でも私は普段、岩倉君からしか二重の視線を感じ取りません。あの実験でも、視点には制約がある事が証明されたはずです」
「いいや、よく考えたらね、逆なんだよ、怜奈」 「逆……?」 「あの実験が成功したからこそ、視点に制約など存在しない事が証明されたんだ」小夜子先輩は、どこか愉快そうに笑った。
「過去も現在も未来も、私たちの運命すら掌握している存在が、視点の入れ替わりなんて些細な変化に気付かないはずがないだろう?」
反論出来なかった。
もし、この世界が本当に小説なのだとしたら。
悪魔と呼ばれた作者は、小夜子先輩が岩倉君を演じていた事すら知っていたことになる。
ならば――。
視点制約というルールそのものが、最初から存在していなかったのだとしたら。
私たちに、そう思い込ませるためだけの演出だったのだとしたら……。
「視点の制約が無いと思った時に、私はふと疑問に思った事があるんだ」
「……なんですか?」小夜子先輩は、カップの中で揺れる黒い液体を見つめながら、静かに口を開いた。
「これまで私たちは、観測者は岩倉君の視点を通して世界を観測していると考えていた」
「はい」 「だからこそ、君は岩倉君を通して二重の視線を感じ取っていた。だが、視点の制約そのものが存在しないとするのなら……」小夜子先輩の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
「悪魔や観測者が、君の視点を借りた場合はどうなる?」
「……え?」その瞬間、胸の奥が嫌なほどざわついた。
「つまり……私が何を聞きたいのかというと、君は君自身の視線を通して、観測者の視線を感じ取る事は出来るのかい?」
心臓が大きく脈打つ。
呼吸が浅くなっているのが、自分でも分かった。
もし、小夜子先輩の言う通り、本当に視点の制約が存在しないのだとしたら。
もし観測者が、岩倉君ではなく私の視点から世界を観測していたのだとしたら。
私は、それを感知出来ない。
だって――。
自分自身へ視線を送ることなど、出来るはずがないのだから。
……いや、待って、違う。
その考えが脳裏を過ぎった瞬間、ある言葉が蘇る。
『つまり、
岩倉君の声。
自分自身へ、視線を向ける方法。
私は立ち上がる。
逸る呼吸を押さえ込みながら、ゆっくりと部室の窓へ近づいていく。
気が付けば外はもう暗くなり、雨粒が窓を叩いていた。
窓ガラスには、部室の景色と共に、私自身の姿がぼんやりと映り込んでいる。
ごくりと、生唾を飲み込む。
そして私は、窓越しの自分を見つめた。
――その瞬間。
背筋が震えた。
見られている。
今、この瞬間。
確かに。
ずっと感じられなかったはずの、あの視線が。
「ああ……」
思わず声が漏れた。
「そこにいたんだ」
胸の奥から、抑えきれない感情が溢れ出してくる。
小夜子先輩が何かを言っていた気もする。
でも、もう耳に入らなかった。
視線。
観測。 存在。ずっと失われていたそれを、私はいま確かに感じている。
それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥にあるのは、喜びだけではなかった。
どこか、酷く恐ろしい。
「……小夜子先輩」
「なんだい?」 「もし、観測者の視線が完全に消えてしまったら……それは、どういう意味になると思いますか」小夜子先輩は少しだけ目を細めた。
まるで、その質問を待っていたかのように。
「簡単な話かもしれないね」
静かな声。
「物語が完結したんだよ」
その言葉に、胸が強く締め付けられた。
完結。
つまり観測者が、この世界をもう観測する必要が無くなったということ。
私たちの物語が、終わったということ。
「観測されなくなった私たちは、どうなるんでしょうか」
「さあね」小夜子先輩は小さく笑った。
「存在しなくなるのか。それとも、誰にも観測されないまま、この世界だけが続いていくのか」
そして、窓越しの私を見ながら続ける。
「だが少なくとも、今この瞬間。君は確かに観測されている」
窓に映る私。
その向こう側。
ガラス越しに重なった世界のどこかに、貴方がいる。
私はゆっくりと窓へ手を伸ばした。
触れられない。
届かない。 それでも。確かに、そこにいる。
「ねえ」
窓に映る自分へ語り掛ける。
その向こう側にいる貴方へ。
「私が岩倉君に言った言葉、覚えてる?」
鼓動が速い。
感情が混ざり合って、頭がうまく回らない。
「こうやって貴方の存在を認識すると、冷静ではいられなくなってしまう」
苦しい。怖い。嬉しい。切ない。楽しい。
「貴方の事を、もっと知りたい」
観測されない時間が、どれほど空虚だったのか。
今なら分かる。
「貴方の存在を認識できない間、私はずっと待ってた」
ずっと。
ずっと。
貴方を。
「男性? 女性? それとも、私たちとは全く違う存在?」
そんな事は、もうどうでも良かった。
「私は、貴方が好き」
視線を感じる。
存在を感じる。
私を見てくれている。
「私を見てくれる貴方が好き」
いつか本当に、この物語が終わってしまうのだとしても。
観測が終わり、全てが閉じてしまうのだとしても。
どうか。
「私という存在を……忘れないで」
万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。 声までは聞こえない。 そもそも、聞く気もなかった。 ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。 気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。 それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。 貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。 そんなことを、また考えてしまった。 何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。 以前の私は、それが怖かった。 他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。 あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。 こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。 三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。 私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。 そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。 もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。 その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。 次はいつ、私を見てくれるのだろう。 そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。 六月。 梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。 湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。 校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。 地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。 部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。 頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。 私
プルチックの感情の輪について知ったのは、俺が共感覚についての研究を初めてから、数か月が過ぎた頃の事だった。 俺が感じ取れる感情と色についての説明を受けた香月先輩が、思い当たる節があると調べてくれたのが、それを知れるキッカケとなった。 あの人の知識の深さには、いつも驚かされるばかりだ。 説明によると、プルチックの感情の輪というのはアメリカの心理学者であるロバート・プルチックが提唱した、感情の理論に基づく視覚的なモデルの事らしい。 八つの基本感情に基づいていて、それらの感情がそれぞれ色で示されている。 その感情モデルを図解した画像を見たとき、俺はそれを初めて見た気がしなかった。 小さい頃に、どこかで見たことがあるような。 そんな、デジャブのような感覚に陥ったのだ。 もしかしたら、その感情モデルが俺の共感覚という現象の、ルーツとなっているのかもしれない。 なぜなら、俺が共感覚で感じ取る目の色と、プルチックが提唱した感情モデルが指し示している感情の色は、その全てが一致していたからだ。 それは、もし俺が万物研究会に入っていなかったら、絶対に知りえなかった事だろう。 こんな感じで、俺の研究に対する進捗については周りの助けもあり、悪くはないと言った所だった。 俺以外のメンバーが進めている研究についても、俺が分かっている範囲で少し触れて置こうと思う。 朝山先輩は、幽体離脱に対しての理解をもっと深めていこうと思っているらしい。 この前聞いた話では、変性意識と呼ばれる状態について調べているということだった。 変性意識は通常の意識状態とは異なる、意識の変化した状態を言うらしい。 なんでも、幽体離脱中はこの変性意識の状態にあるという事が分かったので、変性意識についての知識を足がかりに、幽体離脱への理解を深めていくと話していた。 いつか、彼女が宇宙の果てへと辿り着ける日は来るのだろうか。 それは、正直分からない。 だが、彼女が幽体離脱を用いて宇宙の果てへの到達を望み続ける限り、俺はこれ
「つまり、小夜子先輩は、観測者をラプラスの悪魔みたいな万能の存在だと思ってるってこと?」「多分な。少なくとも、俺にはそう聞こえた」 中間考査を終えた週の日曜日。 俺は神崎に誘われ、以前にも立ち寄った駅前のファーストフード店へ来ていた。 本を買いに行きたいから付き合ってほしい。 理由はそれだけだった。 呼び出されたのが十一時過ぎだったこともあり、先に昼食を済ませてから本屋へ向かう流れになっている。 窓際のカウンター席。 前と同じように、神崎は両手でハンバーガーを持ちながら、小動物みたいに少しずつ食べ進めている。 その様子を眺めていた俺の視線に気づいたのか、神崎がこちらを見た。 そして、 静かに二度、瞬きをする。 観測者がいる。 最近では、その合図にも随分慣れてしまった。 その瞬間だけはいつも、神崎の瞳がほんの少しだけ遠くを見る。 俺ではない何かを。「小夜子先輩は私なんかより、全然思考が深い人だから」 神崎が紙コップを指先で回しながら言う。「だから、そう思ったってことは、きっと私達が気づけてない何かに辿り着いたんだと思う」「かもな。でも、俺にはさっぱり分からん」 俺は自分の目元を軽く指差した。「神崎の仮説だと、観測者って俺の顕在意識を通して世界を見てるだけなんだろ?」「うん」「だったら、なんで全知全能みたいな話になるんだよ。考えれば考えるほど意味分からん」 神崎は少しだけ考え込むように視線を落とした。「……小夜子先輩、他にも何か言ってなかった?」「他?」 香月先輩とのやり取りを思い返す。そういえば、妙に引っかかる言葉が他にもあった。「確か、箱の中がどうとか言ってたな」「箱?」「ああ。箱の中の猫であり続けるつもりはないとか」 神崎の表情が僅かに変わる。「…&hel
今日はバイトがあるから研究会には顔を出せない。小夜子のこと、よろしくね。 そんな言葉を最後に、朝山先輩とは別れた。 あそこまで言われてしまえば、流石に無視はできない。 放課後、俺はそのまま部室棟へ向かっていた。 途中、神崎からメッセージが届く。【今日は中間考査の勉強するから研究会へは行けない】 流石は優等生だ。俺なんて、勉強しないとなと思っているだけで一日が終わるタイプだというのに。 そんな現実逃避じみたことを考えているうちに、万物研究会の部室前へ辿り着く。 扉を開けると、室内には既に香月先輩の姿があった。 香月先輩は窓際に立ち、ぼんやり外を眺めていた。 夕暮れ前の曇り空。ガラスには室内が薄く反射している。 その姿が妙に静かで、一瞬声を掛けるのを躊躇った。 俺に気付いた香月先輩が振り返る。「やあ、岩倉君。お疲れ様」 笑っている。けれど、どこか無理に口角を上げているようにも見えた。「お疲れ様です」 香月先輩の瞳を見る。紺色。沈んだ色だった。 悲嘆。 疲労。 諦念。 そんな感情が薄く混ざっている。「珈琲を淹れよう」 そう言って立ち上がろうとした香月先輩を、俺は軽く手で制した。「今日は俺がやりますよ。先輩、座っててください」「おや、気を遣わせてしまったかな」「そういうわけじゃないです」「ふふ。では、お言葉に甘えよう」 香月先輩は再び椅子へ腰を下ろす。 俺は棚から器具を取り出し、珈琲を淹れ始めた。 豆を挽く音が、静かな部室へ広がる。その間も香月先輩は窓の外を見ていた。 いや、 正確には窓に映るこちら側を見ているようにも思えた。 朝山先輩の言っていた通りだ。どう見ても様子がおかしい。 二人分の珈琲を淹れ終え、紙コップを差し出す。 香月先輩は「ありがとう」と小さく呟いた。
全くもって非日常的な存在である観測者の存在に一歩近づけたとはいえ、日常に何かしら劇的な変化が起きるわけでもなく、日々は淡々と過ぎていった。 気がつけば、あっという間に四月も終わり、五月になっていた。 体力テストや開校記念日といった学校行事を終え、中間考査を翌週に控えた日の昼休み。 俺は購買でパンを買い、教室に戻って昼食を摂ろうと、校舎内を歩いていた。 一年の教室がある三階への階段を登ろうとしていた矢先、ばったりと朝山先輩と遭遇する。「あれー、岩倉君だー。やほー。これからお昼かな?」 声を掛けて来た朝山先輩の手には、同じ購買で買ったと思われるパン数個と飲み物があった。 俺は先輩に一度頭を下げた後、言葉を返す。「はい、これから教室に戻って、お昼にしようかと」「そっかそっかー。もし他に約束がなければ、一緒に食べない? ちょーっと、話したい事もあるし」 先輩の誘いを、無下に断ることもできない。 それに、朝山先輩が話したい事というのが何なのかも気になった。 俺は朝山先輩の誘いに頷いて答えると、その後に付いていく事にした。 辿り着いた先は、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、その横に位置する屋外ベンチだった。 朝山先輩はベンチに腰かけ、その隣に腰かけるよう、ポンポンとベンチを叩いて俺に促してくる。 誘われるがまま、俺は朝山先輩の隣に腰かけた。「えっとね、実はお昼一緒に食べようって言うのは口実なんだ。私ね、ずっと前から岩倉君のこと……」「え?」「なーんて、冗談! ここを進んだ先の校舎裏ってねー、人が来ないからたまに告白する場所とかになってたりするんだよねー」 悪戯な笑みでニコニコしたまま、朝山先輩は手に持ったメロンパンの袋を開け始める。 最初こそかなりドギマギとさせられたが、朝山先輩とのこういったやり取りにも、少しずつ耐性がついてきたように思う。 俺は「そうなんですね」と返事をしながら、購入したコロッケパンの袋を開けて、それに噛り付い
観測者について話している内に、気付けば辺りは夕暮れに染まっていた。 研究会で過ごす時間は、妙に短く感じられてしまう。 香月先輩と朝山先輩は隣町から通学しているため、活動後はバス停方面へ向かう。 一方で、俺と神崎は徒歩圏内だ。 だから自然と、帰り道は二人になることが多かった。 校門を出ると、夕日が街全体を橙色へ染めていた。「皆には感謝してる。あの実験のおかげで、観測者の正体を解明するという私の目的に、かなり近づけたんじゃないかなって思うから」 確かに、観測者について判明した事実は多いだろう。 今回の実験結果は、その正体を解明するための足がかりとするには、及第点といった所ではないだろうか。 とりあえずは、一歩前進したと言える。 神崎もそう思っているから、満足そうにしているのだろう。 俺は今回の結果を受け研究会のメンバーで考察を重ねていけば、やがて観測者の正体を解明出来る日が本当にくるのではないかと、そんな気持ちにさえなっていた。 しかし、現時点においては、その存在の正体は未だ分からぬままだ。「考えれば考える程に、訳の分からない存在だよな。この観測者ってやつは」 隣を歩きながら、俺の言葉にコクリと頷く神崎。 俺の言葉には全くもって同意だと、その目が告げていた。「見ているのに、視覚から情報を得ていないっていうのが、一番意味が分からん。じゃあ、何で見ているんだよって話だろ」「岩倉君の顕在意識を読み取れるのであれば、そもそも見る必要はない。視覚から得た情報の処理については、岩倉君に任せれば良い。だというのに、観測者はこちらを見ている」「……観測者は、窓越しに香月先輩の姿を見たんだよな?」「うん。あの日は外が暗かったから、反射した姿は私達にもハッキリと視認できた」「うーん……そもそも、人間とは構造が違うって可能性はないか?」「というと?」「つまり、《《人間の目は窓に反射した姿を視認で
水曜日の放課後になった。 俺は緊張に弾む心臓の音を少しでも落ち着かせようと、一度だけ深呼吸をしてから、万物研究会への扉を開く。 部屋には既に、香月先輩の姿があった。 今日は俺が研究テーマを発表する日なのだが、彼女は機材の準備だけ既に進めてくれているようだった。「やあ、岩倉君。発表用のデータは持ってきてくれたかな?」「あ、はい。これです」 俺は学生鞄の中から、予め香月先輩から預かっていたSDカードを取り出し、それを彼女に渡す。 SDカードの中には発表用に使うスライドデータのテンプレ
日曜日の午後、俺は学校からタブレットPCを家に持ち帰り、そのキーボードを叩いては、頭を捻るという行動をひたすらに繰り返していた。 香月先輩と朝山先輩、万物研究会の既存メンバーである二人の発表が終わった。 そのため、次は新メンバーである俺と神崎が研究テーマについて発表する運びとなったのがその原因だ。 香月先輩からは、今週どこかのタイミングで、簡単に研究テーマについての発表をしてほしいと頼まれている。 しかし、その研究テーマというものが、中々決まらない。 研究対象は何でも良いとは言われているものの、そこまで自由
朝山先輩の発表が終わり、機材の片づけを皆で協力して完了させた後、俺たち万物研究会のメンバー四人は中央のテーブルに集まって一息ついていた。 発表を終えた朝山先輩は何だかんだ緊張していたようで、その糸がほぐれたかのように脱力している。 香月先輩は優雅に珈琲の入ったカップを啜っており、その視線はテーブルに突っ伏している朝山先輩へと向いている。 神崎はというと、前回と同様にスマートフォンで何かを調べているようだった。「妃那美、発表について質疑応答の時間を取りたいんだが、いけるかな?」 香月先輩の言葉に勢いよく体を起
そんなこんなで火曜、水曜、木曜日と日々は過ぎていき、あっという間に朝山先輩が発表する日である金曜日になった。 放課後に研究会へとやってきた俺は、既に三人揃っていた面々への挨拶を済ませた後、いつもの定位置へと腰かける。 今日の主役とも言える朝山先輩は「配線間違えたー」とか「あれー? スライドどこに格納したっけー」等と独り言を言いながら、準備を進めている途中だった。 そこから発表までの流れは、香月先輩の時とほとんど同じだった。 朝山先輩の「準備かんりょー」という言葉を合図に、香月先輩が室内灯のスイッチをオフにする。